長崎県松浦市鷹島町へ 石川地区
1LA13059 近藤暢哉 1TE13813 外薗健正
1一日の行動 松浦市役所鷹島支所でバスを降り、中通をお通って石川地区へと歩いて向かった。時間があったので、辺りを見て回り、鷹島スポーツ文化交流センター(鷹島総合運動公園運動場)などに立寄った。昼は石川の近くにある「食事処 海道」というお店で地元の食材を使った、料理を食べた後、石川の石橋孝之さんのお宅へと向かった。 その後石橋さんに、地元のことについて詳しい、松崎英雄さんを紹介してもらい、松崎さんに鷹島のことについてインタビューすることとなった。
2松崎英雄さんへのインタビュー 七月十五日に松崎英雄さん宅で行ったインタビューの様子を改変し逐語記録て紹介することにする。
松崎英雄さん 昭和十三年生まれ
――石川の周りの土地の名前、その土地で行われていたことなどが分かれば教えてください 「えーっと、時頭ね。ここはね、あの小学校のできた当時ね、小学校には運動場がなかったわけね、それで運動会の時にはここまで来よった。くさっぱらがあったわけよ。んで、小学校は役場のとこでしょ。」 ――そうですね、結構遠いですね。ここまで歩いて行ってたのですか 「そう、行ってたらしいよ。俺たちは全然記憶はなかけど。時頭って、あのー、うちのお袋の生まれで、この辺に池とか田んぼとかあったもんね。それからね、石川の中心部、ここら辺にね、昔は、桜屋っていう商人宿があったよ、商人宿。それからね、今、浄水場ってなっとるでしょ、ここはね、鷹島でも高いとこじゃんね。ほで、戦時中は、防空監視省てね、うちのおやじが監視省長てね、行きよったよ。ここに、飛行機が来た時にね、直通電話で、唐津のどっかと繋がっとった。」 ――石川のところは坂になってましたよね。それで高いからそのように利用してたんですか 「そうそう。そこ護国神社があって、以前は、防空監視省。兵隊に行く前の人たちが、集まるけ、行かな怒られよった。んーとね、深田ってあるやろ。俺、ここに田んぼ持っとる(笑)。」 ――家が役所の南にあるので、結構遠いですね(笑)。 「遠かよ。あの、中学校に行く前はね、朝はよーに起きてね、稲刈って束ねたやつを、一回家まで運んでから飯食うて学校いきよっった。もう田んぼから帰って来るころは、みーんな同級生が学校に来よるっちゃんね(笑)。」 ――田んぼに一回行ってから、また学校に行ったってことですか 「うん、飯食うてね。ほたら、すぐ行きよった。」 「(松崎さんの奥さん)貧乏床屋じゃもん。みんなで頑張らんと(笑)。人口は減ってね、減ってしもた。」 「(松崎さん)えっーと、石川。炭鉱があったんは日比じゃんね。ここら辺、炭鉱があったとよ。日露戦争当時、カナダとオーストラリアだったかな。合弁でね、豆炭工場をつくっとる。豆炭てのは、粉炭を型に押して。福岡の方でもいっぱい焚きよったよ。で豆炭をね、どうしたかっていうと軍艦でね、使いよったらしい。それを売るためにね、学国が入って来とるとけんね。スパイみたいなやつよな。ほて、ここの石炭はものすごい良質やったって。無煙炭、高カロリーでもう軍艦に使うには最適やとね。」 ――では、昔はその石炭とかでも生計を立てていた人もいたのですか 「いや、全部島の外の資本よ。俺はどうしてこの島の炭鉱で金儲けせんかって言うたった。するとね、島野は炭層がものすごい薄いって。もっと、こういっぱい炭の層が厚うないと勘定に合わんわけよ。ほて、潰れとるとね。俺たちの中学生の頃、戦後、また少し炭鉱を使用をやったとよ。炭鉱再開して。そして、これも長続きせんだった。鷹島って石炭いっぱいあるとって。昭和の初め、ちいちゃい炭鉱があっちこっちあったとね。ほて、どうして潰れたとねて言うたら、石炭満載船に乗せて行く途中に、台風が、それこそ元寇じゃないけど、来たとね。それで、石炭積んだまま、そのまま沈没したとよ。それで、もう倒産したとかそういう話が残っとるとよ。」 ――では、今はもう、炭鉱しようとかそういうのは 「全然ない。ここはね、炭鉱が南西に、ずーっと入っとるわけよ。ほで、すこし入ったら、下向いて入るっちゃんね、あれ。単層に沿うて掘っていくけん。そしたら薄いけんもう海底になるわけよ。炭層が、七キロくらい入っとる。鷹島を出るか出んかの距離ですよ。結局、炭鉱の穴を掘って水がたまっとるわけでしょ。これをポンプアップして、浄水場に持ってきて、飲み水にしとるんよ。それで、足らんで、鷹島ダムを作って、ダムは予備よ。ダムのメインの使用目的は、田畑の灌漑用水ってことになっとるけど、炭鉱の穴に溜まった水がなくなったら、ダムのを飲み水に持ってくるんよ。俺の中学時代おったとよ、十人くらい、炭鉱の近くから学校にきよったのが。」 ――炭鉱の辺りは、道が開けていたのですか 「ここは、車の行く道はなかった。炭層行くのに、今のダムのところまで船が入るっちゃんね、ここ海の続きやったとよ。ここから石川に歩いてくる道があったとやけど、のうなっとるもん。あった道も車の行ける道じゃなかった。俺の中学生の頃はね、学校がね、ストーブの燃料に、炭鉱から石炭をもらいよったっちゃん。そしたらね、先生が明日は石炭運びだから籠をもって来いって言うっちゃん。」 ――みんなで学校まで運んだのですか 「そうよ、だって船でも運ばれんわけでしょ。だから、こう籠もってこう運びよったてよ。お前たちゃ、体が大きかけん、もう一回行って来いって言われたっちゃん(笑)。そしてね、橘ってとこがあるはずよ。ここね、おもしろいっちゃん。関心なかかもしれんけど、神官があげる祝詞、祭りのときとかにあげるやつよ。あのね、あの文句の中にね、『ちくしのひむかのたちばなの・・・』ってところがあ るとよ。で、その『たちばなのおとのあわじのあしはらに』八百万の神が集まったという祝詞を必ずあげるわけよ。」 ――その橘がここですか 「その橘が、ここよ、言うた人がおるわけよ。小学校の教員だった人、モリタユキシロウ、昭和の初め戦時中くらいに鷹島におった人。この人なんかきちがいでね、鷹島のちょっと頭がおかしい人で、そのイスラエルかに歎きの壁ってあるでしょ。あそこでね、キリストが処刑になったわけでしょ。ほて、処刑を逃れてね、シルクロードを通って、朝鮮半島に来て、鷹島に来て、ネニギのみことになったっていうわけよ。ほてね、『ちくしのひむかのたちばなの・・・』ってのを解析したらね、チクシってのは九州の北部地方の地名にあてはまるって言うわけよ。福岡の筑紫壕じゃないって。ほて、ヒムカっていうのは、日に向かうところ、大分の日向(ひゅうが)じゃない、日向(ひゅうが)なら祝詞の文句も日向(ひゅうが)と言うとるはず。だが、もう何百年も何千年も前からそれが、ヒムカってなっとるわけよ。ほて、日に向かうところ、ここは東の方向いとるわけよ、そこの橘があるわけよ。その日に向かうところが橘だって言うわけよ(笑)。俺、本もっとるよ。面白い(笑)。ほんで、せめてね、キリストが巡ってきて、鷹島に降臨したってなっとんなら、もうちょっと、うけたんじゃなかと思ってね。ほて、なんかもう、異端視されてね。鷹島古代研究書って俺が中学校の頃に出しとるよ。これは面白かろ。やけん、俺、その分だけ祝詞覚えたもん(笑)。それからね、日比はね、戦国時代よ、候軍での歴史があってね、これはすごいよ。この本はね、師匠から特別に貰った。こういう文章はなかなかないよ。」 ――ありがとうございます、ダムなど水の話があったのですが、この辺りにある池は田んぼの灌漑用ですか 「田んぼ、田んぼ、飲料水とかではない。」 ――用水路の生き物は今と昔で変わったりしましたか 「生き物ね、全然違う。前はね、ここも田エビっていう魚のえさにするやつもいっぱいおったしね。それは、湿田だったの、来年作る田んぼのために一年中水がたまっとったわけよ。それで、エビもおったし、フナもおったし、ドジョウもおおったし、ウナギもいっぱいおったとよ。今は、ほとんどおらんでしょ。」 橘の候軍の資料
――やっぱり、ウナギとかは今は全然いませんか 「全然じゃないけど、数がもう少ない少ない。もう何もかも少ない。マムシも少なくなったとよ。マムシのえさになるカエルがほとんどおらんことになってしまったけんね。農薬のせいだ。オタマジャクシで死なせてしまうけん。」 ――田んぼとかでもほとんど同じですか 「ほとんど同じ。それから、佐賀とかでごちそうになる、ツガニ。あんなのいっぱいおったとばってね。ツガニ食うたらなんかあれ、虫がおって体に入るから、俺は食いよらんかったとよ。湯がいて食えばよかったとやけど、あれうまいっちゃんね。うまかとよ。もう、メダカもあんまりおらんようになってしもた。」 ――稲の病気とか、その害虫駆除とかはどうしていましたか 「もとはね、油じゃんね。油をね、稲がこうたっとるじゃんね、で、水がたまっとるでしょ、脇の方にね、こう油をポテポテッと垂らすわけよ。ほたら、ぱぁーっと広がるでしょ。それで、これをしゃくりかけるわけよ、稲の葉っぱに。ほたら、病気のところを被膜作って殺すとかな、俺たちもさせられよった。なんていう病気か知らんけど、しょっちゅうやらされよったね。」 ――ここで飼っていたのは牛ですか 「馬は全然おらん。結局ね、ここは道が急でしょ、石ころでしょ。だから、馬は合わんとよ、蹄が滑るから。」 ――牛は食用にもなったのですか 「農作業用。農作業でね、子供産ませてそれを売るわけよ。やけん、雌ばっかり。」 ――牛を歩かせたりするときの掛け声ってありますか 「うん、それ友達のとこに確認に行ってきた。 あの、前に進めるときはね、『はい、はいはい』って、ケツを鞭で叩いたりするわけよ。ほて、止めるときは『わ、わ』。それから、左に曲げるときは『と、と』。ほて、右は『こしぇ、こしぇ』。今日確認行ってきたとよ、今朝(笑)。」 ――その時の手綱とかの操作は 「手綱はね、一本。あと、牛のえさは草。ここではね、牛の味噌って言ってね、味噌みたいなの作っとったよ。それは結局、牛の塩分補給と、豆みたいな栄養補給もあったんだろうね。牛の味噌って特別に壺があったとよ。あと、ぞうずっていう米のとぎ汁に藁とか生草を揉んだやつ。もっとちゃんと揉めって言われて(笑)」 ――田植えはいつあったのですか。 「田植えはね、私の子供のころは七月上旬。今はね、早期作っていって五月の初めには植えるけど。」 ――田植え歌はありましたか 「田植え歌はなかったろぅ。ゆいとかは、いいって言ってな、いいもどしには、絶対そこに返さないかんかった。」 ――では、村の生活について質問したいと思います。ガスがない時代、ご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりはどうしたのでしょうか 「全部、そこらの山からとってきた。もうあの頃からするブルドーザーが入ってホントなくなっとるからね、山は、鷹島は。道は広くなるしね。山は個人の所有地で、それでできん人は海岸から寄ってきた木の枝とか拾ってきた。あれはね、海に浸かっとったものはね、塩分があってね、んで釜を傷めるらしい。」 ――では、入り会い山(村の共有の山)はあったのでしょうか 「べんやまってあったとはあったんよ。俺はよく知らんけど。べんやまってのはね、結局あれよー、ここで農作業に使う牛がいっぱいおったわけでしょう、それが病気で死んだり、事故で死んだりすることがあるよな、そういう時にうめよったなぁ。個人の山に勝手に埋められんけんねぇ。」 ――山や谷ではどんな作業をしていましたか 「山から取ってきたものといえばマテかな、マテってわかる、樫野みたいなやつ。ゆがかないかんと、でもあんまうんまくなかとよ。今、鷹島にあるけど、焼酎の仕込みにね、芋を使うでしょ、あれにね混ぜるとよ。そうすると味がいいって。人気あっとよ。」 ――草山を焼くことはありましたか、また、わちぎり(防火線作り)はしたのでしょうか 「前はよう野焼きしよって山火事おこしとったもんな。もう消えたちゅってかえって後にまた燃えだしたもんな。私も魚釣り帰りみつけたことあったけん。ちっちゃい丘やけん大した山火事にならんからね。そういう時にわちぎりって言葉を知らんけんね。」 ――山で取れて商品価値があるものにはどのようなものがありましたか 「なんじゃろ、竹の子くらいか。この山は大したもんはなかもんね。最近までは、ツワブキはわかるでしょ。あれは鷹島おおかったよ。この海岸、びっしり。これは十年以上前やけど、みくりやって町があるんやけど、そこに魚市場があるんよ。おばちゃんたちがツワブキを剥いて市場に出しとったんよ。もうその市場も魚がやすうなってもうつぶれた。」 ――牛は飼っていましたか 「うちは牛はおらん。今もね牛神さまってあるよ。牛はね農家の大事な労働限だからね。ここの牛は雌ばかり。農耕に使うために子牛を生ませて、そのために、雌ばっかりや。最近でしょ、肉取るために雄がね、大事がられるのは。雄の方が早く肉が取れる。、」 ――牛を洗うための特別な川はありましたか 「特別なとこはなかったんですよ。牛も結局、ダニみたいなもんが居るけんね、海岸で仕事した時はね、海に立たせよって洗いよった。塩水であろたほうがいい。」 ――米はどのように保存していたのでしょうか 「ブリキで作った大きいドラム缶みたいなね、そうしないとネズミが入るからね。その前はたぶん竹の籠よ。おおーきい籠作る人が居ったもん。」 ――米は自給していましたか 「ほとんどね、交換もあったでしょう。全部自分の家庭に田んぼがあったわけじゃないしね。どうにかこうにか家族養うだけの田んぼ作りよったけんね。」 ――麦と混ぜて食べたりはしましたか 「それは、当然食うよ。何対何じゃったろかい、七・三くらいかい。麦とか芋とかね。」 ――昔の暖房はどのようなものでしたか 「囲炉裏。全家庭にあった。囲炉裏はね、鍋がね、取っ手があって、かけられるようになってて、味噌汁なんか当たりながらできるわけね。そけん、あれ必需品。餅を焼いくわないけんし、」 ――ガス・電気が来たのはいつごろでしょうか 「はっきりわからんけどねぇ、オレの生まれたころ電気が来てるとよ。昭和十三年頃。そう聞いたばってんねぇ。」 ――古賀(子集落、しゅうじ)の名前はありましたか 「この辺では古賀はありません。」 ――家に屋号はついていましたか 「漁師ンとこはねぇ、ようついとるとよ。アオウの方。この辺ではねぇ、ここら辺はね、三方栄っていってね、三方栄ってどういうことかっていうとね、坂じゃないの、三方に栄えるって意味で三方栄って言うとったよ。そういとはあるけど、家にはきかんなぁ。ここらへんでそういうこと聞いたらねぇ、もうちょっと先に三本松ってあったちゃね。殿ノ浦から上りあがったとこにある。ここは道路の名前。それからそこの農協のところが供養の元っていうけどね。あとは商店の屋号くらいやね。農家で屋号のことについては特にしらんの。」 ――大木や岩についた名前はありますか 「ほげいしっていうのがあるよ。これは地名の元にもなっとるよ。ほげっていうのは穴があいとるって意味なわけよ。今も大きな石があるよ。なんか夜中になったらその穴の中から化物が出てくるとか言われとったんよね。他には今そこに住宅になっとるんやけど、げんべい石っていうとこがあったとね。げんべいっとがね博打っていう意味よ。げんべいはるというとね、博打をはる。」 ――外から商人等は来たのでしょうか、またどのようなものを売っていましたか 「いっぱいきよったよ。服、それから薬。今でもいっぱい来よる。薬屋はエッチュウトヤマっていうとったな。服とかはほとんど佐賀県、伊万里とか。交通便のよかとこよ。」 ――カマドのお経をあげるザトウさんはいましたか 「ここはザトウって呼ばんでゼンモンさんってよんどったけんね。子供のころはオドウっていう地区にあったよ。何かおばちゃんたちが集まってお経上げたりするちっちゃい家が。今もあるよ。ほいでそういうとこは無人でね、メクラのゼンモンさんが来てさ、泊まりよったよ。ゼンモンが何喰いよるか見に行こうっていうてね。目の見える人はね、杖でカエルを叩いてね、とってた。喰いよったよ。焼いて食いよった。」 ――では、やんぶしはいましたか 「言葉は知らんけどね、お城にね、神様の飾り立てをしよった。あれがやんぶしなんやと思う。それは相当金になりよったんやね。祈祷なんかしたらね。そんでオレ、全然わからんやったけどね、そこの小学校の先にね、墓地の中にね、オコクラってわかるでしょ、オコクラってのは神様を祀ってるとこやね。 これどうした神様ねって聞きに行ったとよ。んーたら、これはねオレのバーさんなんかが隠れキリシタンの神様って言いよった。人に見えんように奥でおがんどった。」 ――昔病気になったときはどこで診てもらっていましたか 「代診さん。お医者さんにすぐ指示を仰いで、そしてその人の指示に従う。医者の免許もたんから。それが代診さん。最後まで医者の免許は取れんかった。医者が一人では回りきらんから、往診とか、やけん何人かもっとる人もおったんじゃないの、代診さん。まじない師みたいなのがいっぱい居った。カンゲヤっつうの。何て言うと、千里眼みたいな。病気とか治らんと、神様に尋ねに行って、ちょっとめんしんばってさ。」 ――箕を直したり、売りに来る人はいましたか、また、呼び名はどのような感じでしょうか 「こっちで作りよったよ。自分で自分のを作りよったから特に名前はなか。うちの親父も箕作ってくれよった。梅雨時に魚釣り行くときに笠かぶって。綺麗なの作ってくれよったよ。農家の人は大概作りよったよ。百姓の人は。」 ――自給できるおかずとできないおかずはありましたか 「魚。魚は売りにもきよったよ。おばちゃんが担いで。鞄に入れて。定置網で取れた魚を。リアカーで氷を入れて売りに来る人もおった。肉はあんまり食いよらんかった。三時間も定期船に乗って仕入れて来んといかんかった。」 ――犬肉を食べたりしたことはありますか 「よう喰いよったらしいよ。食糧難じゃないの、この間までくいよった。消防団で飲んだりするときはねぇ、どっかの犬がいつの間にかおらんようになってる。他にもウサギ肉とかも喰いよる。」 ――結婚前の若者たちが集まる宿はあったのでしょうか、あれば、そこで何をしていたのでしょうか 「あったねぇ、青年宿ちゅって。晩になったら寝に来るわけよ。それでね、そろばんとか習字をやりよると。私はね、中学校上がったら床屋の弟子でここ離れていくけん。そういう出ていく人も一応青年団に入れって言ってね、ほいで呼び出されて、酒飲まされた記憶はあるけど、そこに泊まりに行ったりなんかはしてません。そろばんとか習字とか、先生はおらんでもやりおったらしいよ。上級生の人から教えてもらっとった。上下関係は厳しいっとー、そういうとこは。消防団でもな。」 ――「よばい」のことを聞いたことがありますか 「よばいにいったら一番若いやつが草履もって待っとかないかんわけよ。その間につるし柿をとったことがあるって話を聞いたことがあるよ。そういう話は聞いたことがあ る。」 ――もやい風呂(共同風呂)はありましたか 「もやいぶろって、自分の風呂がないときに、隣に入り行く、それやろ。水道がないから風呂沸かすって大変だよー。それで親戚の家にもらい風呂いくったい。桶だったもんね、うちらのころは、バケツじゃなくて。それでねー、中学生ぐらいのころ、三荷入れにゃいかんったい。風呂釜に。そうせんと上まで来んわけよ。そうすると3・4人入ったら外でかぶったりするとぐーっと減るわけよ。もらいをしたら自分で汲んでいれてまた沸かさんといかん。水汲みが大変だったみたい。どこもあったんよ、この集落には水の出るとこが。」 ――盆踊りや祭りありましたか 「盆踊りってあんまりここじゃ盛大にやらんかったけど。有名な祭りは祗園祭よ。祗園祭は福岡もあるでしょ、あれは商店街の行事になってるけど、本当は農家のお祭りなんよ。俺たちも神官呼んでちゃんとしてきた。祗園っていうたらねぇ、今鷹島は田んぼは早期作って言うて五月の初めには終わってしまうけどね、昔は七月上旬よぉ、田植え。それを終わって祇園祭が来るとよ。今も丘の方は普通作で最近植えとるでしょ。」 ――結婚前の女性の仕事にはどのようなものがありましたか 「農家の手伝いよ。みかんちぎりや縫い物とか。それとね、夜には米をつかんといかんとよ。籾がはまっとるでしょ、それとるために。カラオシつってね、馬みたいになっとるのを足で踏んでね、持ち上げてトンてする。あれが仕事よ。子供なんかも盛んに使われとった。」 ――農地改革前の小作制度はありましたか 「そりゃぁねぇ、完全にあってるとばってん、ここには大地主とかはおらんな。」 ――では、格差はあったのでしょうか 「格差はあったろな、コメの時代、百姓はよかったけんねぇ。」 ――むかしの神社の祭りの参加・運営は平等だったのでしょうか 「そうよ、ここ中通り地区っていうもんね、それで予算金っていうて各家庭から取りよるわけよ。それは地区の運営費であり、積み立てて神社なんかの修理とか、屋根瓦を変えるとかそういうとにもつかうわけよ。平等ですよ。」 ――戦争でこの村にはどのような影響がでましたか 「爆撃とかそういうのはないわけでね、戦争に行きよる人を親戚中で見送りに行くでしょ、汽車に乗るときに日の丸を振って送ったわけよね。それに行きよってね、海が荒れよってね、船が遭難したとよ、それで百何十人一気に死んだとよ。それが大きな影響ですね。戦死もいっぱい出たけどね。村長から遭難したからな。村長も兵隊さん見送っていきよったわけよ、ほいで遭難して死んでしもた。船が沈んだら散らばるでしょ、ほんでなかなか見つからん人がおったわけよね、何日か。見つかった人だけ今は公民館になっとるけどソン葬つって葬式があったったい。覚えとるよ、いっぱい棺桶並べて、お経上げて。俺が小学校入る前の話。」 ――戦争未亡人や靖国の母はいたのでしょうか 「それはいっぱいおるよ。兵隊にとられて一番の働き手がなかったわけね。そうすると爺さん婆さんの残った畑を芋植えたり、それからそういう収穫とかに学校の高学年の人は行って加勢しよったね。ここも終戦間際は兵隊さんが来たとよ。学校をオレたち追い出されて。津島海峡でね、最後のころは兵隊さんを連れて南方に行くときに、もしくは下関から出ていくでしょ、そこ辺だったら、潜水艦でやられるわけよ。そしたらねぇ、船の破片とか、兵隊さんの死骸とかよってきよったとよ。そしたら地元がいって、集めて、引き取りに来るまで保管しよって、そんなことがあったとよ。それから米軍が落とした機雷とか拾ってきて、海岸で。小っちゃい手りゅう弾みたいなのを拾っていじったら爆発するようにしてあるやつがあるのよ。ほいで、海に浮かんでくるのよね、どういうわけか。いじって爆発して指吹っ飛ばされた人もおるよ。」 ――村はむかしからどのように変わってきましたか 「結局生活の基盤が島の外に移ったってことでしょ。そうせんと収入がないもんね。むかしは向うにわたるだけで一時間半かかりよったからもん。フェリーができてものすごっくかわったとよ。道もよくなったし、車も多くなったし。それはおおきな変化ですよ。」 ――これからどうなっていくと思いますか 「さびれていくじゃろな。親も子供もここにいても暮らしていけん、そう頭に思っております。」 ――元寇の船の発見にどんな感想を持っているのでしょうか 「あれは事件としてはしっとったけど、まさか船が出てくるとは思っとらんだったもんな。でも電波のやつで船があるらしいことをいうとったね。引きあがるということには相当経費も掛かるので、何年かかかったもんね。船の木材が出てくるだけだと思っとったけど、くみ上げたら船の形なりよるみたいなこといいよるもんな。」
3まとめと感想 今回、歴史ある島、鷹島で貴重な体験をすることができた。大変ご多忙の中、時間を割いて、私たちにご丁寧に対応してくださった、石橋さん、そして松崎さん夫妻には感謝の意を申し上げたい。 松崎さんとの話を通して、昔の島での生活は、今の私たちの生活とは違うことを知り、驚くばかりであった一方で、島の自然が無くなったことや、興味本位で遺跡を発掘し、そのまま帰ってしまう研究者もいることに大変残念に感じた。 様々な面で生活様式が発展していく中で、失われつつある、歴史や、昔の生活を語り継いでいくことはとても大切なことであると私は思う。そこから今の生活に役立つ価値を見出し、後世へ繋いでいくことが、これからの時代を生きる私たちのすべきことであるだろう。 最後に、この鷹島での経験をこれからの生活に生かせるよう日々努力したいと思う。そして、機会があれば、温かな心をもった島民が住み、歴史のある、鷹島を再び訪れたいと思う。
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