あるき・み・きく歴史学 レポート

安河内 冴

塚田 大昂

 今回、長崎県松浦市鷹島へと訪問し、そこで衣食住の歴史について学んだ。訪問先は海に面していて、港があるところだった。かなり海がきれいで、透き通っていて、魚やたくさんの生き物が生息していて、そこに住んでいる人々はとても親切にしてくださり、様々なものを教えてもらい、よい経験ができた。以下、訪問を通して、学んだことを述べる。

 漁業について

 鷹島には白貝や神崎、こうら、うじぇ、高岩、ぼしなどの磯に囲まれている。磯では季節によってさまざまな魚介類がとれる。私たちが訪問した日比では12月から3月はアワビやサザエなどの貝やひじき、わかめ、かじめなどの海藻、さらにナマコなどがとれる。このことから磯では魚釣りではなく、貝や海藻をとることが主であることがわかる。また鷹島には磯のほかにわんじぇやつづらという名前の瀬(暗礁)もある。(瀬は深さが7〜8メートルしかない浅いところを言う)では今では魚群探知機やGPSといった高性能な機械があるが、瀬にいくにはどのようにしていたのだろうか。それには先人たちから言い伝えられてきた山見という方法が使われてきた。山見とは釣り場の位置を山の位置と角度から見当つけるという方法だ。鷹島ではこの方法は今でも伝えれている。なぜなら魚群探知機やGPSは人間がつくったもので、いずれは必ず壊れるはずで、完全にそのような機械を信頼せず、まさかの自体に備えるべきだと考えているからだ。これからも山見という伝統的方法を伝承していってほしい。その一方、連絡手段には今は先人たちが用いていたのろしや旗ではなく、無線を利用している。その理由は仲間内以外にも釣り場を知られるを防ぐためである。

 

次に漁について述べる。鷹島では潮の流れや海の深さ、魚の習性を利用して、前もって網をしかけておく定置網(上左図)は用いられていない。その理由はこの方法は緻密な計算をして魚を捕まえるが、その計算に当てはまってとれる魚が少ないからである。そのため鷹島では刺し網(上右図)という方法をもちいている。刺し網漁法とは魚が遊泳する場所を完全に遮断し、取り囲む方法である。この方法は魚の群れがいるところで行えばたくさんの魚を捕まえることができ、効率が良い。魚の群れを見つけることは魚の種類によっては簡単にできる。イワシなどは海の表面近くを泳いでいるため海鳥が集まっているところに魚の群れがあると肉眼で確認できる。海深くにいる魚は先ほど述べた機械を今は用いている。鷹島での漁はこのように行われている。

次にかつて使われていた和船について述べる。和船とは下の図のような全て木でできた船である。

 和船は櫓もしくは櫂と帆を張り風と潮の流れを利用する昔ながらの船であり、ほとんど今は使われていないが、鷹島では今でも作っている人がいる。和船は大体1か月くらいでつくれ、一隻で100万くらいする。今は和船は陸から漕いでいってもいい限界の距離が法律で指定されている。その理由は沖まで行くと海水が入ってくる可能性が高くなり、水難事故が起こりかねないからである。このため和船で宿泊したり遠くの沖まで行くことを禁止している。

 

 

 

次に船を進めるための道具である櫓(下図左)と櫂(下図右)の使用法について述べる。

(上図左)と櫂(上図右)の違いについてまず述べる。櫓は水からだすことはせず、一回水を押して、前に進んだあと櫓の向きを変えて水を切るように戻し、そのため水の抵抗を少なくしてあまり力をかけずに船をすすめることができる。その一方、櫂は櫓に比べてかなり重く、一漕ぎで櫓に比べて進む距離は長いが、いちいち戻すために海中から櫂をださなければならないため、非常に労力がかかる。櫓でさえも漕ぎ続ける時間は1.5時間が精一杯だろうと言われているので櫂を使ってしまえばすぐに疲れてしまうだろう。だから、先人たちは櫂よりも櫓を使う頻度の方が多かった。

今、鷹島で行われている漁業とその歴史について述べた。現代は最先端技術が出回っているにもかかわらず未だ先人たちが言い伝えてきてことを利用して生活している姿にかなりの感銘を受けた。しかし、いくら漁業が活発であったとしてもそれだけで生活することなどできるはずがない。ここで次のページから農業や家畜などについて述べる。今は交通手段が整っているが、歩きや馬にのることが交通手段だった昔は自給自足だったのだろうか。

 

 

山の役割は、日比地区が漁業中心の地方であるために山では稲を刈ることなどを

中心としている。山で農薬などを使い野菜を育てると、最終的に人体に影響を及ぼすため、この地方では農薬を使うことはない。馬は、鷹島ではメスが多く200300頭ほどいて、オスは一頭しかいなかった。昔(話を聞いた山本さんのおじいさんの世代)はメスが盛りの時期に、オスが少ないためにオスの精子をもらい受けて子供を産ませていたようである。しかし、その後は人工授精が流行ったために、人工授精が主体となった。一頭のオスから得た精子を何十頭ものメスに人工授精させる効率のいいものとなった。なぜメスが多かったかというと、オスは気性が荒かったために育てるのが難しかったためである。馬を洗う川はこの地方にはなかった。馬の使い方は、終戦後に馬車をひかせたりするものであった。

 テレビがつき始めたのは、プロレスの力道山のいた時代、つまり5758年ほど前で、白黒テレビが役所に一台だけ設置されていたものを町のみんなで見に行ったということである。ラジオの大本は蓄音機であり、それが1015年ほど使われた。ラジオも初めは町役場におかれ、テレビ同様に、「わー、よかねー」などと言いながら見ていた。

 日比地区にガスや電気が来たのは昭和5年くらいであり、ちょうど山本さんが生まれるかという時だったようである。ガスがない時は、ろうそくのようなものを使用していた。マッチのない時代はあったのか、と聞くと、「生まれてからマッチの無か時代は聞いたことないな」ということである。マッチのない時代は明治ほどまで遡るらしい。その時代の火は火打石を利用しておこしていたようだ。昔の暖房は、薪で湯を沸かして湯たんぽを使用していた。

 集落ごとに名前があり、自分たちが訪れた地区は日比であり、他に「あお」「いしごう」「さと」「こうざき」「なかどおり」「とののうら」など集落名が地区名になっており、12か所あったようだ。また、家ごとに屋号があるようだ。

 車社会になる前の道は「ばらす」と呼ばれており、道という道はなく、裸足での移動であった。学校も山本さんたちの時は男6563くらいであったのが、今は数えるほどしかいない。席の座り方は、耳の聞こえるものが後ろ、聞こえん者が前で、慣れているものも慣れていないものもみっちり勉強し、慣れない者は、昔は馬鹿と言われていたが、今は慣れない者に先生がペースを合わせるようになった。

 島では基本的には自給自足で、島の外からは、魚を買いに来たり、米や芋、大豆を買ったりするために人が来た。行商人の人たちは、島に何かを売りに来たというわけではなく、島から先に挙げたような品を買いにくるだけだったようだ。

ただし、行商人の人たちは、島で安く仕入れた品物を町に売ることでお金儲けをしていたようだ。

カマドの経を上げる目の見えないお坊さん(ザトウさん)が来たことはあるようで、目の見えないというのは、今でいうものもらい(日比地区では「ぜんもう」)が原因である。ザトウさんは家々を転々とし、ある家ではお米を、またある家では梅干しをもらったりしていたようだ。そして、娯楽のお宮に泊まったり、お地蔵さんが備えてあるようなところに泊まったりしていたようである。ザトウさんは、国が法律を制定したことによりいなくなってしまったようだ。

やんぶしや薬売りが来たこともあり、今も薬やとして富士薬局などが残っている。薬は飲んだ分だけ払うようだ。昔は、病気になった時は鷹島に医者が一人しかいなかったために、病気になった時は困難だったようである。なので、病気になった時は佐賀県に渡り病気を診てもらうこともあった。医学もそれほど発達していなかったために病気の診断が正確にできなかった。

箕は誰かから売ってもらうのではなく親から作り方を教わり昔から見て学んだ作り方で、自分たちで作っていたようだ。蓑は竹の皮で作り、傘も竹を水に浸すことで伸ばしてしなやかにし、それを日に干すことで硬くして作ることができるようだ。

島の外から鷹島に漁業に来ることは禁止されているため、外の人が魚を取る時は釣りに限られていたようだ。

米や麦は自給自足できたため、両方を混ぜて食べていた。割合は麦の方が多く、これは水が足りなかったため麦の方が作りやすい分値段が安くなったためである。米がとれないときには米:麦が15ほどの割合にまで上ることもあったようだ。今は小麦からパンを作り食べるようになった。また、おかずについては、以前は作ることができた麦や大豆がなかなか作ることができなくなった。若い人が農業をしなくなってしまい、お年寄りでは作り切れないためである。

結婚前の若者が集まる青年宿はあり、公民館のようなもので、そこには男だけではなく女も集まった。今のように外食に行くということがなかったので、集まった者同士で食べ物を持ち寄っていた。昔から上級生優先という風潮があり、先輩に良くすればいじめられることはなかった。しかし、上下関係が厳しかったからといってどうこうということもなく、先輩から料理がもらえたりもしたようだ。

結婚前の女性は、夜は織物をしていた。毛糸を織って肌着を作るなど、そうした仕事をしていた。もやい風呂はあり、家の風呂場が五右衛門風呂であるために川から水を汲んでこなければならず、隣の人の家の風呂場に入ることはあったようだ。みんなで、共同で使うことで手間が省けるという考えのもとであった。

祭りは楽しみな行事であったが、今は人口が少なくなったためにほとんど無くなり、夏祭りと言えばモンゴル祭りだけとなってしまった。

この地区の恋愛は、自由なものと親が決めたものとが半々ほどであり、親の決定に反対して駆け落ちしたことが一度だけ起こったようだ。男と女の格差というのは仕事上ではあり、男が10働いたら女は7という様なものだった。

むかし神社の祭りの参加・運営は基本的には平等であったが、町ごとに運営に携わる人数は決まっていた。

戦後の食糧難の時は、食べるものがほとんど無かったために、犬やうさぎなどを捕まえて食べることがあった。戦争はこの村に影響を与えたどころではない。戦争に徴兵されて亡くなった人もやはりおり、未亡人も出てきた。

 モンゴル船の発見は、山本さんの場合漁業に出た時網に壺が引っ掛かり、何の壺だろうと保管して10年くらいたつと、モンゴルの印鑑が見つかり、モンゴル船の発見へと至った。モンゴル船は台風によって沈んだものだと思われた。モンゴルはアジアでは最も強いと伝わっており、モンゴルとはどこだろう?船でどうやってきたのだろう?という夢や不安を抱いたようだ。

 

〜最後に山本さんから若い世代へのメッセージ〜

 今の若い人は確かに都会に行かなければいけなくなることもあるが、鷹島に残り、鷹島で食べていけるようにものを考え、農業や漁業をやっていこうという考え方を持つ好青年が現れてくれればと思っている。野暮な言い方かもしれないが、勉強のできる者は都会へ行き、そうでない者は鷹島で漁業などを学び体・態度でやっていくという風にすれば鷹島もまた人が集まるようになると思う。また、外国との交流は大切だが、外国にばかり頼らずに、足元、つまり国内のことを考え、日本国内で食料や工業なども支えられるようになってほしい。

 

 

【感想】鷹島で貴重なお話を聞くことが出来た。鷹島は過疎化が進んでおり、自分たちも公民館の周りを歩きながら若者があまりいないことを実感した。鷹島の自然は非常に豊かで、漁業や農業を真剣に行えばにぎやかな街になると思う。山本さんのお話にあったように、鷹島を復興できるのは若者の力なので、今後少しでも力になれればと思う。

 


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