現地調査レポート

横田下

 



佐賀県唐津市浜玉町

横田下

九州大学

法学部       1年 1LA12101■ 田島 尚樹

工学部機械航空工学科1年 1TE12712■ 神崎 信之介

 

 

,今回の現地調査で分かった地名について

 

今回の調査を通して地名に関して新たに分かったことは、

・ピイバル、ヒスハリはなく、その地域の地名はヒツバル(干居)であり、砂が「イスワル」→「ヒスハル」→「ヒツバル」という変遷を経て生まれたこと。

・ニシタミヤはなく、ニシタジマ(西田島)であること。

・横田下地区ではないが、シロイシ(白石)とカラド(唐戸)の間に、フナダ(船田)という地名があったこと。

 

以上である。

なお、それ以外の、今までの調査で分かっている地名については、大きな地図に記載されていたのでそれを参照のこと。

 

,今回の現地調査に協力してくださった方々

 

宮崎 辰生さん(区長さん)

宮崎 和美さん

宮崎さんの奥さん

宮崎 義則さん

吉岡 照晃さん

横田下の班長の方々

 

ありがとうございました。

 

,今回の現地調査の行動記録

 最初に、バスを降りた場所は、干居交差点付近のJAのガソリンスタンド前だった。そこから、西に800メートルくらいのところにある「マリンセンターおさかな村」で昼食をとった。昼食後、横田下地区区長の宮崎辰生さんのお宅へと向かうが、12時10分についてしまい、予定時間の13時よりも50分早くついてしまったので、付近を散策した。12時30分ごろ、宮崎さんの奥さんに出会い、家にあがり、宮崎和美さんから話を聞く。13時ごろに宮崎辰生さんが帰宅し、その後、横田下地区の鏡山の草刈後の宴会に参加することになり、車で、宴会場に送ってもらった。そこで、横田下地区の班長さんたちからお話しを聞いた。そして、16時45分ごろに宴会場の店主にバスを降りたところまで車で送ってもらった。そして、帰路に着いた。

 

,主な会話内容

 

<宮崎和美さんに聞いた事>

 

宮崎和美さん「いや、私は、はっきり鏡山のほうに「クサバです」と書いてあった。そういうこともあった。私のときは。そういうことで、ここはヒネモリ、そのさきここに隠れとる先がクサバ、ほれからイケバ、ほれからそこ一帯がムタ。そういうことになっちょっと。ほんで、ここかでバスでん通って、こけ交差点もあんだなバイパスの。ここはヒツバル交差点ちゅっちね、観光ガイドもここはちょっとねいですかて、浮かばんだんでヒツバルてよんじゅん。ホシイイとか何とか言って、あれはですね、ここで潟でね、水が減って船がすわったか、干上がり居座ると書いてホシイイて書いたあヒツバルてゆうとる。伝術はいろいろ聞いてるばってんが、スナゴばんとかヨコタカミ組、タマシマ組は私には分からんわて。」

 

田島君「このあたり、いま、少し東のほうから歩いてきたんですけど、大きなバイパスがあって、いろいろ商業施設もあってって感じだったんですけど、昔、お二人が若かったころはどんな感じでしたか?」

 

宮崎和美さん「バイパスがなかときゃ?スナゴさいりけあったんいきおったよ、マツバラを通っていきおったよ。たんなかはそこにバイパスはなかったよ。その分そけヒツバルという村があろうが、ヒツバルさまんば道あったけん。バスも何も来おらんじゃったけん。バイパスがでけえち、バス道路がでけえち、何せね、もうかわってしもた。ひれ振り山に昇る月は昔も今もかわらぬど、変わり行くは自らの里。時の流れじゃ。どんどんどんどん変わっていくよ。まだ変わるよ。うちの親父が区長就いてた時分は、80戸ばっかのこれが、700だよ。700。横田下で。村の役員会いったらどういうことね。5人どら酒飲むことはね相当飲むだて。もう50人ばい。いっぺん。」

 

田島「まだ変わりますか。このへん。」

 

宮崎さんの奥さん「さあ、もう、バイパスはどうかな。」

 

宮崎和美さん「変わるよ。まだ家建てちょらんよ。田ン中ものうなってん、畑ものうなってん。」

 

<ピイバルの訂正>

 

宮崎辰生さん「これね、これなんて書いとる?ピイバルとかかいとる?」

 

田島「ピイバルって書いてますね。」

 

宮崎辰生さん「ピイバル。これヒツバルやね。これ違うね。えっとね、干拓の、ほら、『干す』で、居座るの『居』じゃね。」

 

田島「ああこの字ですか。」

 

宮崎辰生さん「うん。干すの字に居座るの居じゃね。そいで、ヒツバル(干居)というたがう

とごって」

 

<班、生産組合について>

(注意:ここでは私たちが調査に使用した地図を見ながら話を進めている。) 

 

宮崎辰生さん「ここ(横田下地区)班が40班ぐらいあるから。じゃけん、1から1番、2番、3番、4番、…といくように、40番まで、こう、番号つけちょくばってんが、書いてもらったばっかりやけんきれいにまとめとらんさね。」

 

田島「その、班というのは、どういった集まりなんですか?」

 

宮崎辰生さん「たとえば横田下に、あのう、昔は生産面でね、ここは草場生産組合、ヤマツキ(山月)のほうは山月生産組合、ヒツバルは干居生産組合、3つに昔は分かれちょった。そいが合体して、もう横田下になっちょっとね、生産組合も。そいで、そこにヒツバルとか、クサバとか、まあおおやけにあったとばってん、どんどん、前はなんちゅん、60戸か70戸の部落に、今640戸ぐらいになってきちょんけん、どんどん、とにかもう田ん中やったと、全部住宅になってしもうてかりさ。地域分けで班名が、ええと、こいじゃ分からんね。」

 

 

<生産組合、みかんについて>

 

田島「生産組合って、その、その組合の中で協力して農作業したりだとかそういう組合?」

 

宮崎さんの奥さん「そう。そうよ。生産組合はね。」

 

神崎「ほかの地域からお手伝いとかは?」

 

宮崎さんの奥さん「ううん。そういうことはしないの。この部落が、その生産組合というね、百姓、みかんとかいろいろつくってるでしょうね。それを生産組合と言うとですね。」

 

神崎「このあたりってどんな果物をつくってますか?」

 

宮崎さんの奥さん「うちゃあねえ、みかんだけ。」

 

田島・神崎「みかん?」

 

宮崎さんの奥さん「ハウスみかんね。ハウスみかんをつくっとる。あ、田ん中も少しばってんね。」

 

<佐用姫伝説について>

 

宮崎義則さん「(佐用姫は)いわゆる簡単な字。味気ない字じゃ。佐用姫じゃ。」

 

宮崎辰生さん「(佐用姫は)鏡山からどっかに飛んだって言ったろが。」

 

宮崎義則さん「(佐用姫の)好きな人が、狭手彦(さでひこ)やったかな。(狭手彦を)朝鮮征伐かなんかにいかさないかん時、(佐用姫は)鏡山からひれを降って、で飛び降りて、唐津のこっちらへん(松浦川河口付近)に飛び降りた石がある。

 

宮崎辰生さん「ああ、そうなん、そやけんあんていした。」

 

宮崎義則さん「そいが、佐用姫と、なんちゅうん?狭手彦?佐用姫伝説は唐津では有名じゃけんね。」

宮崎辰生さん「もう唐津では有名かてね、おいどなんか中途半端にしか覚えとらんけん、んまあ、下手にはいえん。じゃけん、極端に俺なんかしっちょんとは、もう鏡山から飛んで、彼氏に会いに行くに飛んだというとはきいちょる。」

 

<岸嶽の祟りについて>

(注意:ここでは私たちが調査に使用した地図を見ながら話を進めている。)

 

宮崎義則さん「岸嶽城ってあってね、秀吉軍から殺された人たちが、みんな逃げ惑ってずうっとそこで殺された。畑とかちょっと石とかあったら、その死なせたあとにすうっとば置いて、みんながまだしっちょる。それが未だかつて祟りになる。」

 

宮崎辰生さん「あん末孫。岸嶽末孫のうえのほうどやっさね。やけん、ここで、道はずうっとこうヤマツキ(山附)までつながっちょてん。」

 

田島「ヤマツキってどのあたりになりますか?」

 

宮崎辰生さん「ヤマツキやけんが、えっと、ここらへんがヤマツキ。」

 

田島「ヤマツキって、字、どう書きますか?」

 

宮崎辰生さん「『山』にね、附属の『附』。」

 

田島「その、死んだ人の塚っていうか石があって、いっぱいある?」

 

宮崎義則さん「それが、簡単に動かしたったら、病気になったりなんかする。」

 

宮崎辰生さん「工事でね、ここに道ができたばってん、ここがアスファルトに何もせんこつあのかちゅて、機械つこうたり、牛やったかな、馬やったかな、馬も死んだし、運転士もここで重機乗った人が、『ああん、そがんことはなか。』ちゅて、その人はもう死んじょるね。」

 

宮崎義則さん「もう、ほげん、今でん祟りにあう。」

 

宮崎辰生さん「やけんあんまりうかつには。ははは。」

 

田島「字どうやって書くんですか?そのキシダケは。」

 

宮崎義則さん「地獄の『獄』に『山』書いて。」

 

※この後の宴会場における取材の録音データに関しては、極めて雑音が多く打出しが困難なため、整理した文章でのまとめに代えさせていただきます。

 

 

,まとめ

<昔の船着場について>

 かなり昔の話ではあるが、鏡山の麓まで海岸線が上がっていたらしく現在の宮崎さんの家の下などにも船着場があったという。

 

<ムタ(牟田)について>

深田であり、足を入れるとひざの上まで泥につかってしまう。そのため二毛作はできなかった。今は改善され、稲作が行われている。

 

<水争いについて>

昔はあった。決まりでは、上の田から順に水を入れていくのだが、中には夜中に水門を操作し、自分の田に水を引こうとする人もいたという。今は、農業組合によって統括され、そのような争いはない。

 

<まむしについて>

水争いにおいて、マムシに噛まれる人もいたらしい。用水路で水をせき止めているところにはマムシがたまり、春先に水門を開くと、たくさんのマムシが流されてきたらしい。マムシに噛まれた際の対処は、毒を吸出し、血清を打つなどがあったそうだ。その後の処置としてマムシ温泉に通う人もいたという。この温泉に、マムシの毒の浄化などといった特別な作用はないが、治療後の養生として用いられていたらしい。マムシ温泉は、佐賀と福岡の県境付近(糸島市二丈吉井)にある。マムシのことは「平口」と呼んでいた。横田下公民館となりの諏訪神社では、マムシ除けとしてご利益のある砂が配られているそうだ。

 

<ゆい・早乙女について>

ゆいや早乙女とは違うが、にいちゃん・ねいちゃん奉公というものがあったらしい。これは出稼ぎのことであり、給料などはなかったが、食事や寝床を確保し、農作業を手伝ってもらうというものだった。

<牛洗いについて>

横田川の唐人川橋付近に牛を下ろし、洗うのに適した浅い場所があったらしい。その下流でも水を飲んでいたことがあり、水飲みの最中に牛の糞が上流から流れてくるという笑い話もあった。

 

<山、平野の利用について>

このあたりは、写真のように急な斜面の丘と平野がある。丘では、ハウスみかんの生産が盛んである。平野は、バイパスより海側はかなり深い湿田だったため、二毛作は行われなかったが、バイパスより山側では二毛作が可能だったみたいだ。

 

<ヒツバル(干居)について>

ヒツバルは、横田下地区の中心を通るバイパス付近にある地名で、海が近かった。そのため、砂が押し寄せていた。砂が「イスワル→ヒスハル→ヒツバル」という変化をたどったらしい。昔は住所にのせていたが、今は使われなくなったという。

 

<夜這いについて>

 行われていたようである。子分を従え、好きな人のお父さんに見つからないよう見張らせたり、庭の木から二階の部屋に入ったりなど、いろいろな話が聞けた。

 

<犬肉について>

 食べたことがあるという人が多かった。必ずしも犬の肉として売られてはおらず、何か他の肉に偽装して売られていたようだが、食べると体が温まることから、犬の肉と分かったらしい。

 

<もやい風呂について>

 各自の家に風呂がなかったころは、共同風呂というものを地区ごとに、皆で協力して、運営していたらしい。リヤカーなどで、薪や水を運び、直径2,3メートルの五右衛門風呂を沸かし、男女混浴でつかっていたそうだ。共同風呂を沸かすのは子どもちに任せられていたため、水をくみ上げる際に使う手押しポンプが重労働だったそうだ。五右衛門風呂のため、底が鉄板であり、すのこ板に乗り、板を沈め、底にひかなければならないが、乗る場所を間違え転覆し、とても熱い思いをしたなどの笑い話もあった。この共同風呂は、地区の人々がお金を出し合い作ったものであり、村の憩いの場であると同時に村人たちの良心を具現化した場所でもあった。

 

<ガス・電気について>

 ガスは、昭和40年ごろに、電気はそれ以前にきていた。

<佐用姫(さよひめ)伝説について>

 佐用姫伝説は唐津地方では有名で、恋人の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が朝鮮出兵する際、鏡山の頂上から、ひれ(領巾)を振って見送った。そのため、鏡山には領巾振山という別名がある。しかし、佐用姫は別れに耐えられなくなり、船を追いかけようと、鏡山の頂上から、松浦川河口付近まで飛んだらしい。また、この姫が、平原のザス(座主)というところから、鏡山までに通った道沿いにはヒメコウジ(姫小路)と地名がつけられたという。

 

<岸嶽の祟りについて>

 豊臣秀吉が波多親(はたちかし)の無礼に怒り、領地を没収し、親の逃げる部下を切り捨てていったため、岸嶽には多くの石碑がある。にその石碑を動かすとたたられ、動物が死に、道路を作っていた重機作業員も死んだという。

 

<草切り場について>

 鏡山の中腹にあり、牛や馬の飼い葉として草を切って持ってきていたという。現在でも中腹には「草場」という地名が残っている。

 

<石切り場について>

 草切り場と同じく鏡山の中腹に位置していた。「大岩」という地名がその名残である。

 

<土地総合整備事業について>

 区画整備が行われた後、水田の用水路の管理のために、土地総合整備事業が行われた。すべてを行政に頼らず、地区の人々で話し合って、道路の整備をしたらしい。

 

 

 

 

 

,写真

1.鏡山(東から)



 

2.ヒツバル(干居)交差点




3.横田下地区(鏡山から)





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