Windows ユーザー 服部英雄 2 9 2009-10-07T08:43:00Z 2009-10-07T08:43:00Z 1 259 1478 12 3 1734 10.6845

浜玉町山瀬調査のレポート

 

1LT12091■ 土屋萌子

1LT12135■ 本田恵理

 

 

聞き取りをした相手:蓮池さん(大正8年生まれ)

 

 

1 山瀬に存在した地名

 

 

山ノ上(ヤマノウエ)

立石(タテイシ)

荒川(アラカワ)

道ノ下(ミチノシタ)

マリ石(マリイシ)

浦ノ迫(ウラノサコ)

山田坂(ヤマダザカ)

油メ谷(アブラメタニ)

川口(カワグチ)

畦ノハシ(アゼノハシ)

祈祷(キトウ)

寺屋敷(テラヤシキ)※

松野(マツノ)

木屋ノ谷(コヤノタニ)

高木屋(タカコヤ)

 

※明治の小字の書き上げでは、「敷」が「舗」となっていた。蓮池さんは「敷」が正しいと教えてくださった。

 

以上が聞き取りによって分かった地名であるが、蓮池さんは「自分はよく知らない」とおっしゃっていたので、詳しいことは分からない。かつて、地名に詳しい方はいたそうだ。

 

 

 

2 蓮池さんについて

 

今回、山瀬の地名調査にあたって、浜崎小学校の近くの蓮池さんのお宅に伺った。蓮池さんは奥さんとの二人暮らしで、我々を快くもてなしてくださった。蓮池さんのこれまでの人生について紹介しようと思う。

蓮池さんは大正8年、山瀬の川口に生まれた。父親が小学校の教員だったため、跡を継ぐよう言われていたが、「学校の先生なんていうのが好かんかった」。また、炭焼きが挫折したのもあり、家を飛び出した。当時、福岡の小倉に軍需工場(陸軍造営所)がつくられ、蓮池さんはそれに憧れて昭和11年12月2日に入所。兵器のつくり方を学んでいたが、そこは学識が問われる世界だったので、「上級に上がるためには学識をとらにゃいかんばい」と思い、小倉工業高校に入学した。その後、昭和18年に召集を受けて3ヶ月間の兵役に就いた。造営所に復帰後、再度召集を受けて昭和20年の終戦まで続けた。終戦後は木炭取扱者として農協に就職し、炭焼きなどを担当した。ここには、まる8年勤めた。昭和32年からは営林の仕事に携わった。これは、国有林関係の仕事で、部落の経済に大きく関わるものだった。この間、山瀬で炭焼きが行き詰まり、松を売って杉を植える造園を始めた。平成3年、山瀬の過疎化と家庭の事情により、移転することになった。そして、現在に至る。

 戦争のさなかに生まれ、激動の時代を生きた人である。我々は戦争について教科書の紙上でしか知らないが、実際に話を伺ってみると、現実味を帯びたリアルな問題として感じられた。

 

 

 

 

3 炭焼きについて

 

 炭焼きとは、木材を蒸し焼きにして、木炭を作る仕事のことを言う。

山瀬には他に仕事がなく、20ほどの家全てが炭焼きをし、それを売って得られるお金で生活していた。農業もしていたが、自分たちが食べる分だけを生産していたので、炭焼きの仕事をせずに生計を立てていくことはできなかった。「炭を焼いてそれを販売して、ある程度お金に買えてそれで生活する。それで他になかった。仕事はもう全然ないです。農業と言っても食べるだけしかないですもんね」と蓮池さんは話してくださった。ただその収入は、人件費を考えると決して大きな額とは言えなかった。しかし一時期、自動車の燃料に木炭が使われていた頃は、いい仕事になっていた。木炭の原料は、松や広葉樹であった。炭焼きは骨の折れる仕事であり、予想していた量ほど作れないという失敗もある。蓮池さん自身、奥さんとお母さんと暮らしていくために、30年間佐賀の山を歩き回って炭焼きをしていたが、重労働でなかなか簡単にはいかないこともあったそうだ。昭和62年までに炭焼きはやめてしまい、その後、それまで木炭の原料だった木を切って業者に売るなどした。木を切った後にはスギヒを植えていた。

 炭焼きに使った道具は、木馬(きんま)である。これは、山のなかの牛が使えない場所で、背中に背負って木炭や材料を引っ張ったりするのに使っていたそうだ。また、牛で引っ張る路引きも行っていた。木材を川の流れで運ぶ、川流しという方法もあるが、山瀬の川は岩が多く、不可能であった。

 炭焼きは主に男の仕事であったが、戦時中は男が戦に行くため、残された女も重労働である炭焼きの仕事を行っていた。

 飽食の時代に生まれた我々には今まで想像したことがなかったが、食糧を得るために並々ならぬ苦労をされてきたことを知った。

 

 

 

 

 

 

4 農業について

 

 山瀬での農業は、販売用ではなく自分たちの食べる分しか作れなかった。山の斜面に沿って小さな田んぼがいくつもあり、だんだん畑のようになっていた。平地と違って、あまり収穫量は多くなかった。また、一毛作だけで麦作は行っていなかった。田んぼへの水は、山の谷間から出ている水から引いていた。場所によっては水の出が悪いところもあったが、旱魃や水不足などの記憶はないと言う。水泥棒や水争いなどはなく、お互いに心がけていたからだ、と蓮池さんは語る。また、これと言った田植え歌はなかったらしい。田んぼの作業には牛だけを使っており、馬は使っていなかった。牛の飼料として、米ぬかや田んぼの草穂を刈って干したものを与えていた。牛を慣れない人が扱ったりすると、突き飛ばされたりすることもあった。特に牛を定期的に洗うことはなかった。

 また、田んぼや谷に出現する動物についてもお話を伺うことができた。以下がそれらの動物についての紹介である。

 

・イノシシ

田んぼを荒らし回り人々を困らせる、手に負えない動物だった。山瀬では、触れると電気が流れるという鉄線を張り巡らせて、イノシシを撃退しようとしていた。しかし、イノシシは子連れで現れ、親イノシシが鉄線を突っ切って田んぼに侵入していた。山瀬の人々の苦労が目に浮かぶ。

 

・ヘビ

 アオダイショウやシマヘビ、マムシなどである。7〜8月頃に現れ、実際に噛まれた人も少なくなかった。この場合、すぐに医者に行かねばならなかった。

 

この他にも、イモリや山ガニなど様々な動物がいた。

 

 

 

 

5 山瀬の生活について

 

 1 食生活

  自分たちで作った農作物を主に食べていた。他にも、山瀬川ではハエ(オイカワの別称)やアブラメという魚が釣れていた。蓮池さんいわく、これらの魚は美味しいらしい。子供が川で魚を釣ってくると、それは父親の晩酌の肴にされることが多かった。山の木の実に、食べられるものはあまりなかった。西唐津から行商人が泊まりがけでやって来て、干し魚や雑貨などを売っていた。値段は高めだったが、人々はそれらをよく購入していたと言う。

 

 2 山瀬の祭事

  年に2回、春と秋に氏神様(藤原神社)の祭が催されていた。集落の人々は皆で集まり、盃を酌み交わしたそうだ。この祭では、「ふりゅう」という演奏を行っていた。「ふりゅう」とは笛や太鼓のお囃子だそうだ。他に娯楽がなかったため、蓮池さんは氏神様の祭を毎年心待ちにしていた。また、山瀬には寺がなく、神社しかなかったため、お盆の行事もなかったそうだ。蓮池さんは「自分は神道だ」と言っていた。

 

 3 子供や若者の様子

  「子供の頃、川などで遊んでいましたか?」と訊ねると、「遊ばんでかせしろ、と言われよった」と蓮池さんは昔を回想する。ちなみに「かせ」とは手伝いを意味する。まさに現代の子供たちに見せてやりたい姿である。

一方で、若者たちは青年クラブというコミュニティを形成し、男だけで集まってはいろいろな話をしていたそうだ。「あすこには、よか娘がおるばい」など。特に規律などはなかったらしく、厳しい印象は受けない。若者が他の村に遊びに行く時などは、青年クラブの団長さん同士の同意を得なければならなかった。

 

 

 

4 戦争がもたらしたもの

戦争によって集落の男性は召集を受けて去り、女性や子供や老人が残された。これらの人々で男性がやっていた仕事を分担するため、作業が滞り、皆苦労したと言う。戦地に赴いた若者は南方のマレーシアで戦死したり、台湾で戦った後、復員した人もいた。さらに戦後も食糧難によって、集落の人々は苦しい生活を余儀なくされた。食糧は配給制となり、主にばれいしょや粟、コウリャンなどを食べていた。そして、食糧を隠し持っていたりすると、大問題となった。「自分たちの村は正直者が多かったので、自分たちで作った米だから黙って隠しときゃいいのに、配給用に差し出していた」と蓮池さんは語る。山瀬には心根の優しい人たちが住んでいたのだ。

 

 5 生活必需品

  電気・ガスのなかった時代、ご飯を炊いたり風呂を沸かしたりする際に薪を使っていた。薪は山から採ってきた。また、村の入会地はなかったと言う。山瀬に電気が来たのは昭和32年のことで、それ以前は照明としてマッチ、油、ランプ等を用いていた。

 

 

 

6 余談

 

 蓮池さんの住所を訊くために、まず我々は浜玉町横田下の区長である宮崎さんのお宅に伺った。その際に、宮崎さんから郷土の歴史について少しお話を聞く機会を得た。その中で、印象に残った言葉がある。「自分たちが子供のとき、地図の勉強では、まず自分たちの住んでいる郷土のことについて教わったものだ。今の子供たちはそういうことをしないから、故郷について何も知らん」と宮崎さんは嘆かれていた。故に、自分が語り継いでいかねばならない、と強く言っておられた。こちらが圧倒されるほどで、郷土を大切にする方の思いの深さを感じた。

 

 

 

7 まとめ

 

 今回の地名調査を経て、机上で学ぶこととは違った学びの大切さを感じた。教室の中での学問は、その場所やその時代における「当たり前のこと」を見落としてしまいがちである。そこでしか学べないことがある。今回は、学問に対する考え方を改めることができ、たいへん貴重な経験となった。

 

 最後に、今回の調査に協力してくださった蓮池さん、宮崎さん、そして不慣れな土地に来た我々に親切に接してくださった浜玉町の皆さん、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

 


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