九州大学 法学部1年 幸野和之

〃      古賀大貴

〃      吉野 泰


2012年度 少人数セミナー 服部英雄教授

佐賀県唐津市浜玉町谷口における調査


【はじめに】

 私たち三人のなかで二人が佐賀県出身、加えてその中の一人が唐津市出身であったため、

浜玉町というと海に面したイメージがあったが、地図を配られ調べてみると近くに海はあるものの山の麓に位置した農村であることが分かった。

区長さんである江里さんに協力をお願いする手紙をお出しすると快く承諾していただいた。更に地元に詳しい方々も数人お呼びいただいた。

 平成24年7月8日の午後に谷口公民館に待ち合わせ、お話を伺うことになった。


 【ご協力していただいた方々】

江里繁紀さん 昭和20年生まれ

草場甫紀さん 昭和15年生まれ

草場隆さん  昭和15年生まれ

横山恒雄さん 昭和10年生まれ


 【今回判明した地名】

 今回の調査、地図の確認で久保田、石本、片碇、古城、松尾、立中、八幡、上黒田、仁田、深坂、石川内、本城、持貫、仙香、奥ノ口、板尾、石倉、上一ツ石、後古場、重石、清水、一ツ石などの地名が現在も残っており、認知されていることが分かった。、

 また、地名の由来についてもいくつか教えていただいた。

・砂走:大水害の際に堤防が決壊しその地域に砂が流れたことから。

・平石:確実な由来かどうかは不明だが、平たい石があるという。

・本城:オニガジョウという城が存在していた。これは秀吉の朝鮮出兵の時代の城。

※確実な由来かは分からないが、谷口は谷の入り口であるからという話を伺った。

 【調査当日の流れ】

 1120分   現地浜玉町谷口に到着。

 〜13時    町内を散策・調査しつつ公民館へ移動。

 〜1620分 江里さんたちとお会いし、お話を伺う。

 1620分  インタビューを終了し、お話で伺った公民館そばにある谷口古墳へと向か            

        う。

 1640分  調査を終了し、集合場所へと戻る。

 

 まず、谷口の山のことについて尋ねてみた。すると最初に興味深いことを教えてもらった。谷口には大阪城建設に使われた石材の石切り場が3か所もあったというのだ。切り取られた石はいかだで川を下り、海に運ばれ船で大阪まで運ばれたという。また、公民館のすぐ側には谷口古墳と呼ばれるものもあるそうだが、それはまた後に記述することとする。

山の利用法をお訊ねすると昔はほぼすべてを果樹園として利用、中でも蜜柑畑として活用、一部ではビワも栽培していたという。昭和2728年頃は手で開墾していたそうだ。しかし集落に降りてくるほど大量に繁殖したイノシシや猿、またカラスなどが果実を食い荒らす被害によって収穫がなくなり現在は誰も育てる者がいなくなったという。「動物も旨いもんが分かるっちゃろうねぇ。デコポン、キヨミ、イヨカンの順に食われていきよったばい。甘夏、ハッサクはすっぱかったり苦いやつはほとんど食われんやった。」と笑いながら話してくれた。

山や谷で採れる野草や価値のある特別な草や木についてお訊ねすると、こうぞやオニユリを採っていたと教えてくれた。ユリの根からはカタクリを作っていたそうだ。他にも、薬となるヨモギ、胃薬となるグミ、食料となるタラの芽やフキ、ツワ、ワラビ、ゼンマイ、ウドなどを採っていたそうだ。

また、昔は野焼きも行っていたそうで昭和35年くらいまで続いていたという。昭和30年頃に一度野焼きが原因でヒラコバで山火事が発生したそうだ。人に影響を与えることはなかったという。野焼きは家畜や田圃のために行われていて、この山にある田圃では麦は作られておらず、稲だけが作られていた。

薪は近くの山から切ってきて、炭焼きも行っていたがそれを売り物とするようなことはなく、自給自足的なものだった。また、ソリという意味の木馬(キンマ)や川流しは行われていなかったという。谷口の山の枯れ松は炭鉱の枠組みとしても利用されていたそうだ。


続いて、谷口の川、用水路についてお訊ねした。まず、水場に住んでいた生き物だが、ドジョウ、ナマズ、ウナギ、フナ、タニシ、ツガニや毛ガニ(モズクガニ)、サワガニといった生き物が昔は多く生息していたという。しかし今ではその数が極端に減っているそうだ。馬川という馬を洗う川もあって、「おいたちも馬が恐かけんゆっくり進みよったら馬のほうがどんどん進んでいくっちゃんねぇ。それがまた恐かった〜。馬が川に入ると水をばしゃばしゃやりよったばい。」と懐かしそうに語ってくれました。


次にこの地域で行われていた農業について尋ねた。水田については麦や菜種、ビール麦(大麦)を育てていたそうだ。田圃に水を入れるときは上から順に水を入れていて、水は豊富にあったため争いなどは起こらなかった。また、田圃が干上がるということもなかったそうだ。やわい田は裏作が出来ず悪い田とされていた。しかし米の収穫量に差はなかった。一等田でおよそ8俵ほどの収穫量であったらしい。麦は4,5表ほどだそうだ。また、ヒエや粟は作っていなかったそうである。ヒエは10年近く種が残ってしまうためもし生えていたらとっていたそうだ。しかしヒエと米を見分けるのが難しく、これを見分けることが出来るようになって一人前と呼ばれるようになったらしい。また、イモチビョウという稲の病気や、フ(カメムシ)が稲につくことが多々あったらしい。そのためアブラハワキ(油掃き)といって麦のわらを箒のように束ねたものに油をつけて稲の隙間を縫って、油を塗っていたらしい。そうして稲や水面に油が張り、それが虫の羽につくと飛べなくなるということだった。テマガエ(ユイ)という、明日あなたを手伝いに行くから今日うちの田植えを手伝ってというようなことも行われていた。皆の田圃の作業が終わればサナブリといって打ち上げのようなものを温泉にいってしていたらしい。収穫した米は籾がついたまま保存し、鼠対策としてはどの家庭も猫を飼っていたそうだ。


牧業についても尋ねた。今回お話を伺った方は皆、牛や馬を飼われていたということだ。牛を動かすときの掛け声は主に、「ハイ」、右に動かすときは「サシ」左に動かすときは「キセ」止めるときは「ドー」であった。ふつう手綱は一本で暴れてしょうがないときには二本使っていた。また、暴れるゴッテ牛(雄牛)は去勢すればおとなしくなったそうだ。


 この地域にも青年クラブはあったそうだ。場所は公民館であったが、特別に厳しいということはなかったらしい。朝に家に帰ったときなどは青年クラブに行っていたと言い訳をしていたようだ。夜這いもいくらかあっていたという。よその村からやってくる者もいたそうだ。下駄持ちといって家の中に入るときは後輩が履物を持っていたらしい。加えて雨戸に小便をして戸を、音をたてずに開いていたということである。ちなみに結婚前の女性を「じょうもんさん」と呼ぶそうだ。よくいろいろなところに盆踊りや夏祭りに行くこともあった。そこでは出会いもあったようだ。


 昔行っていた遊びについても教えてもらった。魚を取るための方法の一つである毒流しについて尋ねると「毒流し?ああ、知っとるよ。俺たちはやっちょらんかったけどね」と話していた。しかし、ラムネ瓶に火薬やガスを入れて水中で爆発させ、水圧で魚を気絶させ捕まえるという遊びはやっていたそうだ。また、自分で銛を作って魚を捕るということもやっていたそうだ。これは捕まえること目的ではなくただ単に遊びでやっていたらしい。山の中では蔓を使ってターザン遊びをしたり、罠を仕掛けたり鳥もちを使いメジロを捕まえていた。捕まえた鳥はもちろん美味しくいただいたらしい。力自慢をするために相撲や何十キロもある石を持ち上げていたという。中には240キロも持ち上げる人がいたらしい。

 

戦後のときは食糧難というものはそんなになかったようである。ほとんどが農家であったため自給自足が可能であったからだ。ただ、引き上げてきた人たちが昼ごろにイモといったおやつをもらいに遊びに来ることもあったようだ。また戦争から帰ってきた人の話もしてくれた。「6月に呼ばれて9月に帰って来た人もおったねえ。タバコの味だけ覚えて帰って来よんしゃった。」と笑いながら教えてくれた。

 

昔の食事についてにもお訊ねした。主食は麦飯で、米と麦の割合は大体82だったという。おかずは基本的に自給自足だが、魚介類だけは購入していたそうだ。食べる魚は鰯と鯨が多く、肉を食べることはめったになく、年に34回自分の家で飼っている鶏を絞め殺し、その肉を食べていたそうだ。どんなお菓子を食べていたかという質問には干し柿や甘い味がするという草の根やサトウキビをかじったりしていたそうだ。

 集落に訪れてくる人々についてお聞きした。ものもらいといって玄関の前で歌を歌ったりしゃべれるのにしゃべれないふりをして米をもらったり、基山から薬屋が訪れたりしていたと教えてもらった。


【おわりに】

 江里さんたちとお会いする前、きちんとうまくいくのかどうか不安で緊張したが、みなさん全員が親しげにお話してくださったおかげでこちらも緊張がとけ、楽しくお話しすることができた。

 地名、昔の谷口の様子などを調査することができて大変貴重な体験になった。お話いただいた昔の生活はとても興味深いものであり、また参考になるものであった。同時に昔の地域文化を受け継ぐことの大事さを感じた。地名の由来などを聞いてもさすがに分からないだろうと思っていたが、皆さん大抵の由来はご存じではっきりと語ってくれ、またその由来も聞くと納得するものばかりだった。いかに地名というものが代々受け継がれてきたかということを伺うことができ感心した。

 最後に、今回の調査にご協力いただいた4人の方々にはこころから感謝したいと思う。本当にありがとうございました。



(谷口古墳)

全長77メートルの前方後円墳。4世紀末頃建造され、竪穴系横口式石室を持つ古墳のなかで最古のものである。出土品には銅鏡7面、石釧11個、鉄器類、玉類等がある。

(浜玉町谷口の風景)




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