佐賀県唐津市佐志浜町           

 

調査者  笠作好平 田村黎衣

聞き取り者 宮崎常義さん 宮崎憲道さん  

 

1日の行動記録

1030 九大伊都キャンパス出発

1215 佐志浜町到着・昼食

1240 宮崎常義さん宅にて聞き取り調査開始

1640 聞き取り調査終了・佐志浜町出発

1830 九大伊都キャンパス到着

私たちは地名や昔のことを調査するため、佐賀県唐津市佐志浜町を訪れた。当日はとても良い天気で、いい調査ができそうな日和だった。海を見ながら昼食をとり、宮崎さんの家に向かおうとしたが持っていた地図が、実際の地形と違うことに気が付いた。海が広い範囲で埋め立てられていたのだ。私たちが持っていた地図は少し古く、海が埋め立てられたことは記されていなかった。

宮崎さんの家へと向かおうとしたとき、「あなたたちが九州大学の方々ですか?」と声をかけられた。宮崎さんがわざわざ自転車で迎えに来てくれたのだ。私たちは宮崎さんのお宅におじゃまし、さっそく調査を開始した。

 

私たちは佐志浜町周辺の昔の地名について宮崎さんたちに伺った。

以下がその地名の一覧である。

 

駄地・コメダ・上水洗・衣干・フタタ・下水洗・鴻ノ巣・藤ノ谷・汐入・栗林・橋掛田・

山口・丸尾・佐志山田・牧谷・石ヶ丸・ナキリ・二本松・萬石田・下り道・善ネエ・折口田・ヨシ田・鈴ヶ山・日焼・笹ノ尾・石龍・八幡・一丁田・中山・橋ノ元・上新田・荒平・馬場・城山・井尻・ザメキ・松尾・壹里塚・武蔵・善田・徳蔵谷・中里・龍体・カン道・桜木場・古木葉・風早・ヨジャク・サガリ・中ノ瀬・中通・神田

 

ナキリは山、萬石田は田、下り道は両脇が山だったらしい。また、折口田では旱魃のときに水不足が発生していた。鈴ヶ山は下のほうが田圃であったが、上のほうが荒れていた。中ノ瀬は昔、潮が引けば歩けたらしく、干潟ではウニやナマコが取れたと語っておられた。

 

 

・海について

佐志浜町は漁業中心の町で、主に地引網漁が行われた。昼引き・夜引きのように昼夜で分けて網を引いていた。地引網は集団ではなく、個人的に行っていたそうだが、近所の人々が加勢にやってきてくれた。イカ漁も行われて、とにかく魚がたくさん取れたそうだ。今でも宮崎さんはレジャー目的で船をもち、魚を取りに出かけておられるという。

町には魚見といって、魚が近海に来ると大声で町の人々に伝える役があった。彼らは山の上にある物見櫓のようなところで海の様子を観察する。魚がたくさんいるところは鳥の様子や、海面の動きで分かるようだ。魚の群れがいると、それよりも大きな魚がそれらを追う。大きな魚に追われた小魚は海面で跳ねる。跳ねた魚を狙って鳥が集まる。こうしたことから魚見は魚の居場所を把握していった。しかし、近海とはいっても山の上から海面を見るのは相当目が良くなくてはいけない。また、町中に伝えなければならなかったので、声がよく通る人が魚見として選ばれたという。魚が近海にやってくると、「いま、いわしん()きたぞー」という魚見の声が聞こえてきたと懐かしそうに宮崎さんは語っておられた。

 この櫓は魚の到来を告げるためだけでなく、笠を振ったり、旗を立てたりすることで情報の伝達する手段とされていた。例えば、船を出すときは光で合図をし、海が荒れていて漁に出るべきではないときは旗を立てて注意を喚起させていたという。

 また、漁礁も作っていて、廃船や廃バス、テトラポットを沈めたそうだ。そこは魚がたくさんきて、アジがよく取れたという。

 こうご瀬、中瀬は現在埋立地になってしまっているが、以前は干潟で、ウニやナマコが取れたようだ。

 

 

・田圃について

宮崎憲道さんは上水洗・総原・沖ノ田・馬場の辺りで農業をやっておられるそうだ。この地域は干魃のとき以外に水が不足することはなく、昔からあまり水争いは起こらなかった。「水が上に溜まったら、下におろす。順々に。今はそがんことはない。」つまり、水を流す順番が決まっていて、皆が守っていたのだ。しかし、他の田から水を盗むこともあったという。上にあった天水田(雨水だけに依存する田)の水口石(田に水を引き入れたり、出したりする口)を勝手に動かしたり、穴を掘ったりして、「もぐらぁが穴を掘ったことにする。」と、笑いながらおっしゃっていた。水口石を勝手に動かされないように、釘を上向きしたものをつけている石もあったそうだと教えてもらった。

 また、佐志川では引き潮の時には、はめ込み板をおろして水をせき止め、大雨の時は上げていたそうだ。大潮のときにはヒド(樋門のことをそう呼んだ)まで潮がはいってきた。

 水口石の話が出たついでに境石についてのお話もきくことができた。境石とは行政や民の用地の境界を明示するための石である。境石は一見して他の石と区別がつかなかったが、大人はきちんと境石を把握していたそうだ。しかし、宮崎さんのお父さんは宮崎さんが中学生の時に亡くなられていたため、それを伝え聞くことができなかった。知らずに境石を動かしてしまい、怒られそうになったことがあるという。

 また今回、ヨジャクという地名が存在したのだが、これは服部英雄先生著「地名のたのしみ」(1)によると、領地の直営田に由来する用作田からきているという。すべての用作田が良田であったわけではないそうだが、佐志浜市のヨジャクは乾燥もよく、裏作もできて、良い田だったそうだ。

ちなみに、佐志浜の中では沖ノ田の地域が1番良かったとおっしゃっていた。

 

 

・下肥について

畑作をする上で重要だったのは肥料である。下肥(人糞尿を肥料としたもの)は大切な資源であり、唐津の辺りまでわざわざもらいに行っていた。下肥は米と交換するほど重宝されていたそうだ。下肥がまんたんに入った桶は牛に担がせ、人は7分ほど入った桶を担いで帰った。牛が歩き、桶が揺れる度に肥が体にかかり、とても、嫌だった、臭いが強烈で、持って帰るときに知り合いに会うととても恥ずかしかったと宮崎さんは笑いながら話してくれた。

 

 

・トイレについて

 昔は今と違って水洗トイレなどなかった。昔の人々のトイレはどのようなものであったかについても質問してみた。まず、衝撃的だったのは、昔の人はトイレットペーパーや、紙などを使わずに用を足すことがあったということだ。宮崎さんの話によれば、新聞紙が使われることはあったそうだが、トイレットペーパーなどはなかったという。そして、新聞紙もつかわず、竹べらやロープを使って拭いていたこともあったらしい。今の時代では全く考えられないその手段に私はとても驚いた。昔の山の中の公衆便所の話にも驚いた。小さな個室に穴が掘ってあり、その穴に板が橋のように渡されている。その板の上に乗って用を足すのだ。その板は今にも折れそうなほど弛んでいて、しかも掘ってある穴がとても深かったらしく、宮崎さんは「怖い思いをして用を足していたよ」と笑いながら話してくれた。

 

 

・川の利用

 部落に流れる川が、佐志川に流れ込む前のあたりのことをサガリという。このあたりでは、おむつを洗ったり、洗濯物などしたりしたそうだ。しかし、さすがに肥桶などは大きな川で洗っていた。

 また、梅雨の時期は、ポンプで松浦川から引いてきた水をダムに溜めておき、そこから水を町におろしてきたそうだ。

 

 

・遊郭と青年宿について

 遊郭は、遊女屋を集めた建物のことである。今回の調査で宮崎さんたちは遊郭についても話してくださった。昔、佐志浜町には各地に遊郭があったらしい。遊郭は立っている場所によって、料金が違ったという。桜町には遊郭が56件あったらしく、遊女が1012人いた。その遊郭を利用するには、1時間につき1200円払う必要があったため、裕福な人しかいけなかったらしい。その分桜町の女性は着ている物が豪華であったり、芸ができたりと、もてなしが豪華であった。また松原には遊郭が5~6件あり、遊女が34人いた。一時間あたり、500円払う必要があった。こういった遊郭は、その頃の仕事で中国のジャンク船の解体があったのだが、日当が300円であったことから高いということが察せられるだろう。

宮崎さんにある面白い話を聞かせていただいた。遊郭の近くに住んでいたAさんのところに、ある日遠くから友達がやってきた。Aさんはせっかくだから楽しんでもらおうと思い、その友達を遊郭に連れて行き、もてなすように頼んだ。すると、最終的にその友達は、そのとき相手をした遊女と結婚することになったという。この話を宮崎さんが話してくれたとき、私たちは作り話のようなその話に驚いた。また、地元の人の中には遊郭の女性を好きになり、その人に弁当を作ってもらっていた人もいたという。

 昔は青年宿もあったらしい。青年宿とは、中学校を卒業した男子が入るものであり、宿の主が親の代わりにしつけをおこなった。また、青年宿では後輩は先輩に従わなければならなかったため、先輩の命令は聞く必要があった。例えば、後輩は先輩が夜這いに入っている間、先輩の下駄持ちをさせられていた。昔は、夜這いは習慣のようなことだったらしく、終戦直後では集団で夜這いに行ったこともあったという。しかし、青年宿に預けられている青年たちは、宿主に迷惑がからないようにするため、隠れて夜這いに行っていたらしい。青年宿は実の親にかわって子をしつける場であったため、夜這いが発覚すると、宿主の責任となってしまうからだ。また、佐志浜町に住む人々は比較的、裕福な人が多かったため、その人々が夜這いのために家に訪れると、喜んで迎えてくれる家もあったという。

夜這いのために山を50分近くかけて越えて女性の家まで赴いていたり、全く知らない人の家に入ったりと、いろいろなお話を聞き、夜這いがその当時どれだけ習慣的であったか、よく分かった。

 

 

・朝市について

 佐志浜町は漁業中心の町で、畑があまりなく、野菜などが不足していたため、近くの村の人々が野菜を売りに、山を越えてきたという。その際には担い棒を使って野菜を運び、朝市で販売した

 

 

・豊臣秀吉について

 このあたりは豊臣秀吉が朝鮮征伐をした際に通った地域だそうだ。例えば、太閤道と呼ばれる地名が存在する。これは名前のとおり、太閤秀吉が朝鮮征伐の際に通った道という。また、町の人々が城山と呼ぶ山は、かつて浜田城というお城があった。この城は朝鮮出兵の際に秀吉に攻められ、城主は立てこもったが、ついには滅ぼされてしまったという。佐志浜には徳昌寺というお寺があるが、これはこういった朝鮮出兵の際に亡くなった人々の霊を慰めるために建てられたそうだ。

 ついでに、秀吉とは関係ないが、佐志浜には徳昌寺の近くにコウキュウ寺があり、周辺を寺田と呼んだ。

 

 

・イノシシについて

佐志浜町には昔からイノシシが出る地域らしく、それを食べる機会も多いという。イノシシを解体するための解体所があるのがその証拠だ。イノシシにも個体ごとに味の違いがあるらしく、基本的にはオスのイノシシよりもメスのイノシシの方がおいしいという。オスのイノシシは15sくらいの重さの頃が一番おいしい時期であり、その時期を過ぎてしまうと、おいしくなくなってしまう。「イノシシはゆずコショウとからしにつけて食べるのが一番おいしい」と宮崎さんは笑っておっしゃっていた。イノシシはごみ捨ての日の前に食べるのが普通だという。なぜかというと、イノシシを食べた後に出たごみはひどいにおいがするらしく、そのまま放置していると、異臭を放つようになる。それを防ぐために、ごみ捨ての日の前に食べてしまい、次の日には残ったごみを捨てられるようにしておくのだ。イノシシを食べるのも大変だと思った。

 

 

・イルカ漁について

 佐志浜町ではイルカが大量に取れたそうだ。近海には60頭近くのイルカが回遊し、そのうちの30頭ほどを追い込み漁で捕獲していたという。これらはトラックで市場に運ばれて売られていった。「美味しいんですか?」という質問には「いや〜、とにかくにおいがきつい。」とおっしゃっていた。食べる際には味噌だきをして臭いを消していたそうだ。

 

 

 

・戦争について

 佐志浜町では直接戦争に巻き込まれたわけではないらしいが、福岡大空襲の頃はよく覚えていると宮崎さんは語ってくれた。1945619日、福岡市はアメリカ軍の大空襲を受けた。佐志浜は攻撃対象にはならなかったが、避難勧告が出たため、宮崎さんは芋を貯蔵するための芋釜にもぐったという。芋釜にもぐる前に、遠くが空襲による火災で真っ赤になっているのが見えた。その時宮崎さんは、生涯のうちで一番怖い思いをした、と悲しそうに語ってくれた。「戦争に行くことを志願した人たちは、死んでしまったよ」と、今回インタビューをさせてもらった宮崎さんたちは悲しそうに話してくれた。戦争がどれだけ悲惨で、悲しいことなのかを、改めて認識させられた。

 

 

・テレビについて

 このあたりのテレビの普及はもっぱら1964(S39)頃、ちょうど東京オリンピックが開催されたころだそうだ。本当に一気にみんなが持つようになったという。

 

 

・最後に

 今回の調査にご協力くださった、宮崎常義さん、宮崎憲道さん、また資料を提供してくださった地元の皆様、大変貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございました。地名の調査を足がかりに、現地の歴史を、実際に生きて体験してきた人々にお話を聞くことで、生き生きとした歴史が私たちの心の中で蘇っていった。歴史を国家などの大きな枠組みで解釈していくだけではなく、地域・民間レベルで捉えていくことで、よりリアリティのある昔の人の営みを知ることができるのだと思った。

 

 

参考文献

(1)   服部英雄著「地名のたのしみ―歩き、み、ふれる歴史学」角川ソフィア文庫



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