大島の歴史とその暮らし
1LA12011■
 井上 聡

1LT12074■ 竹元 優介

1SC12046■ 鳩山 慎太郎

 


〔1〕はじめに

 佐賀県の北西、唐津市の玄界灘に面し、大島という小さな半島がある。私たちは今回この大島とその近隣の島について調査を行った。バスを降り、徒歩にてこの半島へと向かう途中、まず目に付くのは火力発電所に付属する巨大な2本の鉄塔である。さらに進むと大島の南西部にブリヂストンの製造所がうかがえる。古老の方々の話から推測するに、大島はたしかに佐賀県の小さな島ではあるが、歴史的に見ても、産業的、あるいは工業的に重要な役割を担ってきた土地だと言える。玄界灘の端に遠慮がちに位置する大島を地図上で眺めれば、それに対して我々が抱くイメージは「漁業をなりわいとした伝統的な、あるいは閉鎖的な地域といったところだろう。しかし今回の島の古老への聞き取り調査を通して、大島という村の成り立ちや生活が、必ずしも我々のイメージに合致するものではなかったことを認識した。



〔2〕今回聞き取り調査を行った方々について

 聞き取り調査を依頼した○○さんのご厚意により、村の歴史に詳しい古老の方々○○人に集っていただき、お話をうかがうことができた。方々のお名前と生年を、調査の具体性を高めるために付記しておく。


安岡 一徳  昭和16年生まれ  町内会会長

辻 国光   昭和16年生まれ  町内会副会長

辻 由紀夫  昭和23年生まれ  町内会会計

辻 益男   昭和5年生まれ

辻 忠男   昭和6年生まれ

吉田 喜美夫 昭和2年生まれ

神生 義弘  昭和9年生まれ

志摩 美智子 昭和7年生まれ   老人会女性部長

辻 友嗣   昭和13年生まれ 老人会会長

辻 節男   大正12年生まれ

辻 ミチコ  昭和3年生まれ

辻 百合子  昭和24年生まれ  社協部長


〔3〕地名、小字、土地について

 まず、地名、小字について言及したい。大島には他の多くの村落と同様、地図上では確認できない地名がいくつもある。多くの方の協力があり、また村の地名のほとんどを記憶している方がおられたため、小字謄本に載っている地名のほか、謄本には載っていない地名の場所もおおよそ特定することができた。また、瀬についてもいくつか名前の付いているところがあった。それらについては付属の地図を参照されたい。

 地図を見れば分かることだが、大島の形状について簡単に説明すると、島それ自体がひとつの山となっており、南西部に位置する平坦な住宅街のほかは、土地の多くが斜面をなしている。また斜面にも住宅や墓、寺、段々畑などがあり、村の機能の多くはその南西部の平坦地と斜面の低部に集合している。


〔4〕大島の成り立ちについて

 私たちが大島に入ったときまず気づいたのは、やたらに「辻」という表札が多いことであった。そうありふれた苗字でもないのになぜ辻という方がこんなにいらっしゃるのかと疑問に思ったが、その疑問は古老のお話を聞くうちに明らかになった。

 現在大島に住んでいる人々の先祖は、かつては唐津の方に住んでいたという。しかし新しく唐津城を造るために、そこに住んでいた人々は強制的に大島に移転させられた。そのとき「辻」という所に移転させられた人が、そのまま辻姓を名乗るようになった。その他にも、ヨシダ、オノ、ドガシという姓の人が大島に逃れつき、そこで暮らすようになったということだ。なお、このとき取り決められた石高は70石であった。

 さらに古い歴史については、大島周辺からは縄文時代のものとみられる石斧(せきふ)、石包丁が見つかっており、また付近に海底古墳なども存在するらしい。

 「大島には海底古墳があるとよ。で、大島の山から石斧とか石包丁、これがね、いくつか出とるったい。大島のどの辺に古墳があったかわからんけど、住んどったのは間違いない」

 「土器の破片、あれもたいそう出とる。弥生時代のも、縄文時代のも出とる」

 「大島はもともと湧水が多いっちゃね。そういうことで、生活はできとったんじゃないかな。離島であっても」

 佐賀県、特に唐津からはさまざまな貴重な歴史的資料や遺跡が見つかっており、大島からもそのような資料が発掘されるのもうなずける。



〔5〕大島の農業について

 「大島は漁業が盛んなのでしょうね」という私たちの半ば確信的な問いに対して、古老たちの応答は「漁業よりも農業が盛ん」という意外なものだった。聞くところによると、大島の農業の旺盛ぶりはかなりのもので、食糧については島内でほぼ自給でき、国内外への輸出さえ行われていたというから驚きである。

 大島で栽培されていた農作物/自生していた作物は以下の通り。

・米 … 昔は米はそれほど栽培されていなかった。
・麦 … 米と混ぜ麦ごはんにすることも多かった。米と麦の割合はおおよそ7:3。

     「大体7:3くらいやろうか」

     「そりゃ家庭によって違うよ」

     「7:3は上等なほうやね」

     「一番うまか」

     家庭によっても違うため、真っ白なご飯を持ってくる人もいれば、自分は麦

     100%の弁当で恥ずかしい思いをした、というエピソードも聞かせていた

     だいた。

     「おれ中学の時麦飯は弁当で持ってきたのは俺一人やったばい。クラスん中

     で。真ん中、梅干しがいつもドーン乗ってて、あとは漬物じゃあさ、もう恥

     ずかしかったよ」

     海外輸出もあり。

・アワ
・イモ   … サツマイモは基本的に麦との輪作(同じ畑で、二つの作物

(サツマイモ) を交代で栽培すること)を行っていたが、ここ10年ばか

        りはサツマイモのみを連作するようになったため、サツマ

        イモの質が格段に落ちているということだった(その原因

        について九大生が来たら尋ねたい、ともおっしゃっていた)

海外輸出あり。
・トウモロコシ
・コウリャン
・桑 … 桑は養蚕業にとって最重要の植物である。大島内でも養蚕は行われていたが、

    唐津でも養蚕業が盛んであったために大島の桑は重宝された。養蚕が行われな

    くなった後も、桑の実が子供たちの口を潤していたという。

    「蚕飼うとった時代のものがそのまま残ってね、大木になって、実のなる木が

    何本かあった。小さいころはクワの実ば取って食べるのが一番楽しみやった。

    口が真っ青になって帰ったら『なんば食べてきたか』と言われた(笑)」

    ツバキ … ツバキを使って作られる椿油はカタイシ油とも言い、業者が買い付けに来るほどであった。

          主に大谷(地図上1番)の北側で栽培。
・グミ … 主に大谷の南側に生っていた。
・シイ … あまり数は多くない。

      「マテとシイの実があって、そういうのを食べる。甘味は少ないけどもさ」

      昔は何もなかったからそういうものを食べていたが、

      あまりおいしいものではないため今ではとても食べられないという。
・キイチゴ
・みかん …みかん、桃、イチジクは何軒かしか作っていなかった。

      ともに商品にはならなかった。
・桃
・イチジク
・ハッサク
・サトウキビ
・ユリの根 … 海外輸出されていた重要な作物。
・スイカ … 栽培されている畑のスイカをこっそり食べに行くと空気銃で撃退された、

      という大変おもしろいお話を聞かせていただいた。


・白スイカ … 白スイカというと我々にはあまりなじみのない作物だが、その名の通

        り果肉の白いスイカである。比較的皮が薄く、甘みも強いらしい。白

        スイカにまつわる興味深いエピソードを古老からお聞きした。スイカ

        を盗みに来た男が、中を割ってみてみると真っ白だった。これはまだ

        熟れていないのだと勘違いし、次々にスイカを割っていったのだがど

        れもこれも真っ白で、諦めて帰っていったという。翌朝破壊された白

        スイカの散乱する畑を見て、畑の持ち主が青ざめたのは言うまでもな

        い。


・ウリ … 「スイカは何軒かつくりよらしたけど、うりもつくりよらしたですかね?」
     「つくりよった
     「結構盗られよったよ(笑)」
     まるまる盗むとばれるので、中だけくりぬいていく人もいたという。


・キナウリ … キナウリというのもまたあまりなじみのない作物だが、黄色の瓜と書

        いてキナウリ。穏やかな甘さのある作物らしい。


・あずき … 「大島はあずきもようとれたよね」

とのこと。
その他子細な事項について述べる。

・農業においては牛を使うこともあった。オスは言うことを聞かないのでメスばかりを

 使っていたらしい。バクリョウに肉牛として売り払う場合も。

 

    農業において有利な土地、不利な土地があったかどうかをお尋ねしたが、

そういった有利不利はあまりないし、意識もしていなかったということだった。

「あえて言うなら、水の冷たい場所は稲が育ちにくく、そういった場所もあるにはあったともおっしゃっていた。

 

    加勢(農業において他から手伝いに行くこと)については、島外から来ることはあまりなかったが、

こちらが島外に出かけていくことはあった。

 

・「肥料には何を使っていたのですか」という問いには、

笑いながら「自家製造や。人糞、人糞」と教えてくださった。

 「木の桶にさ、入れて運びよらした。ドーツボ(?)っていうのを畑の横に作って、

  その壺の中に溜めよらした。肩で担いで持ってあがって」

  運んでいるときにひっくり返したときは「海さ泳ぎいったばい(笑)」ということだ。

 

    農薬には石灰を使っていた。

昔はホリドールという毒性の強い農薬があり、死亡事故も時折起きていたという。

(「ホリドールで死んだ人が多かった」「(ホリドールで)自殺しよらした人も多かったね」)



 最後に、「農業において楽しみや苦労などはありましたかとお尋ねすると、

「大島は山がちで坂が多く、畑に行くにも一苦労だし、楽しみはあまりなかった。農業に比べれば漁業の方が楽しみはあったのではないか」

とおっしゃっていた。

漁業は規模は小さいが生産が多いため、比較的暮らしに余裕があったことも理由の一つとして挙げられていた。



〔6〕大島の漁業について

 前述のとおり、大島の主産業は農業であり、漁業はそれに比べれば小規模であった。


 大島の漁業の手法についてだが、船を出して漁をするほかにも、昭和5年くらいまでは定置網漁が行われていた(場所は沖ノ平瀬(地図上2番)と大谷付近(地図上1番)の2か所)。

 船漁は帆船を使って行われることも多かった。朝と夕で風向きが逆転するため、その風の流れに乗って船を出し、行き帰りすることができる(「風向きが変わらない日は冷や汗をかいたとおっしゃっていた」。

 魚のほかにも、ひじき、岩のり、わかめ、ウニ、サザエ、アワビなどの生産があり、三ッ瀬(地図上4番)ではもずくがよく獲れたとのこと。
 また、大島では行われていなかったが、毒を流して魚を捕獲する「毒流し」という漁の手法が昔は存在したそうだ。

毒流しは目的とする魚以外の生物に も影響を及ぼすため、一般的に禁止されていたのだが、

町の方では毒流しの毒となる「ゲランが普通に販売されるという矛盾が起きていた。



〔7〕積出港としての大島

 狭義では産業とは呼べないかもしれないが、大島はその立地を生かした輸送業も盛んであった。国内、国外への積出港として機能し、大きな利益を生み出すことができたという。中でも石炭の積み出しは大島のみならず、唐津一帯の活性化に大きく貢献した。


 昭和31年には内陸で採れた石炭を大島まで運ぶための路線が完成し、大島に富をもたらした。戦時中でさえ、石炭輸送に関わる家の子は弁当に白米が入っていたほどで、先生たちのひんしゅくを買って叱られた、というお話もうかがえた。



〔8〕大島のインフラ事情について

 豊かな農業と漁業、さらに石炭の積出港などを担っていたこともあり、大島は離島でありながら、インフラ整備については比較的先進していた。
 電気が来たのは昭和5,6年、場所によっては大正の初めあたりで利用できたところもあったというから、当時としてはかなり整備の進んだところであったと推測できる。ただし停電が多かったので、石油ランプを備えている家も多くあったらしい。
 「節男さんが物心ついたときには電気はあったですか?」

 「あったあった」
 「ほんだらやっぱ大正の初めだろうね」

 「子供のころは石油ランプは皆もっとったよ」

 「停電多かったからね昔はね

 水道も子供の時からあり、また大島には湧水がたくさんあったために、水で困ったり水争いが起こったりということもなかった(第一、前述の通り大島の住民はもとはひとつの氏から繁栄した、いわば親類のようなものであるため、争いごとのようなことはあまり起こらず、話し合いで解決するということが多かったそうだ)。
 病院もだいぶ昔から備わっていたため、インフラという点で困ることはあまりなかったようである。

 「大島の病院は古いよ。昔からある。」

(カミチカ先生という医師を最後に、平成8年ごろから大島に病院はもうない、とおっしゃっていた。)

 電気のない時代、風呂などはどうやって沸かしていたのですか、と言う質問に対しては、
 「全部薪やな
 「石炭が来るまでは薪。来てからは全部石炭。石炭はね、豊富に手に入った。

盗んできよらしたか何か知らんばってん(笑)、各家庭にほとんど石炭はあった」とのこと。

 テレビも順当に普及しており、ラジオに至っては中二の時に自作したという方もいらっしゃった。

 「ラジオは早かった。中学二年生のころには学校でラジオば組み立てさせられた。」



〔9〕大島の風俗について

 夜這いはありましたか、とお尋ねすると、「それは夜遊びばってん、知らん(笑)」

とおっしゃってはいたが、いろいろと興味深いお話を聞くことができた。大島は親類の集まりのようなものなので、夜這いのようなことはあまり行われなかったらしいが、島外の夜這いなどでは、たとえば障子に尿をかける、という所作が行われることがあったらしい。障子を湿らせることで、穴をあけて中を覗くときに音がしないから、ということだった。また「下駄持ち」が存在したのも、下駄を履いていては足音が響いてしまうから、という理由らしい。

 西唐津の方には遊郭がたくさんあった、というお話も聞かせていただいた。東の方にも遊郭はあったが、そちらは高級な遊郭なので、もっぱら立ち寄った船員などを客層としていたという。

 大島には農民が多いため、祭りなどもよく行われていたようだ。八坂神社の祭りをはじめ、春祭りや秋祭りがあった。春祭りは厄除けの祭りで、茅(ちがや)で輪っかを作り、それをくぐる安全祈願の風習があった。相撲を取る祭りもあったらしい。秋祭りは主に豊穣や収穫を祝う祭りであった。
 「お祭りはね、八坂神社の祭りがある
 「相撲祭りがあったね」
 「春祭りと秋祭りの2回ある」
 「収穫祭の意味で秋祭りがある」
 「昔は相撲が盛んで、春祭りは土俵を作って相撲祭りがあった」
 「昔から残っとるのは盆踊りと八坂神社のハナキ()の祭り。今でも残っとる」

 また、大島独特の盆踊りというものも存在したらしい。
 「初盆の家には必ず踊り手と口説きが家の前に行って、」
 「そこで踊りよった。私は知らんですけど、夜通し踊りよったらしいかね。131415の3日間はね
 「今は2日間しかせんけどね」

 青年宿については、「青年宿はね、28歳の独身までが入らないかん。結婚した人はもう来んでいい」とのこと。



〔10〕高島、鳥島について

 大島の付近には、高島、鳥島という、大島より一回り小さな島があり、そちらについてもお話を聞くことができた。
 高島には現在400人ほどの住民がおり、昔から大島とは交流があったらしい。電話や電気も大島を通して供給されていた。ちなみに大島から高島への電線は目瀬(地図上3番)から接続されていた。ただし冗談交じりにおっしゃってはいたが、あまり仲が良くはなかったらしく、「喧嘩したらさ、電話も電気も切る(笑)」とのこと。

 

 大島では牛のエサには芋ヅルなどを与えていたが、高島で草を刈って牛に与えることもあったという。

 

 また、高島は塩の生産があり、一般的な釜ゆでの手法ではなく、塩田を作って塩を取る伝統的な手法が行われていた。

 「潮ばぶっかけて、潮と砂の混じったものを今度は煮詰める」

 鳥島は高島よりさらに小さな無人島だが、一時期人が住んでいた、という話もあった。ただし伺ったのはヒトよりももっぱらサルの話である。
 「弁当ば盗られてねー(笑)」
 「唐津城の横に檻があって、そこにサルば飼うとった。

あそこがサルを飼われんようになって、今のシーサイドホテルの前に持って行って、

そこでも飼われんなって、鳥島に持って行った」


 (そこにずっと住みついているんですか、の問いに対して)

「サルはね、自給自足しよるもんね、死なんさ」(曰く、カニなどを食べて暮らしているらしい)
 「山でサルと会ったら絶対目と目を合わせたらいかん」(目を合わせると襲ってくる)
 

鳥島のサルは泳ぐことができるらしく、船員たちは船に乗り込んできたサルを見てびっくりしたという。



〔11〕大島と戦争について

 戦争についてもお話をうかがった。まず食糧難についてだが、大島は農業漁業がさかんであり、また石炭の輸送などにも関わっていたため、ほかの地域に比べれば比較的安定した食糧を確保できていたそうだ。「〔7〕積出港としての大島」で記したとおり、ときには白米を食べることもあった。

 しかし戦時中が苦難であったのはたしかであり、疎開された方々も多くいらっしゃったとの話を聞いた。
 「私はオオチに疎開したね
 「俺はナナヤマ(七山)にいったね
 「疎開は馬車でね。当時は車とかなかったけん。進駐軍(米軍)が攻めてくるっていうことで、

家にさ、男だけ一人残して、家族全部逃げていくわけ。そいでわれわれ家族はナナヤマに」


 大砲の弾が60キロとぶ時代に、疎開したことは今では笑い話だという。
 「その当時は必至だったね。もうそりゃあわてて行ったよ、疎開せにゃいかんときにはね。防空壕には2回くらい入ったことある」(大島の中にも防空壕があった。)

 空にはグラマンという米軍の戦闘機が飛んでいた、とのお話もうかがった。
 「夜は電気は使われんだけど、タバコをね、絶対吸うたらいかんていうお達しがまわってたって」

(飛行機から火が見え、標的にされてしまう)
 「焼夷弾でみんな燃えてしまうけん、道は広くした」
 「大島はね、戦死された方は多いです」
 (それは戦地に赴いて、ということでしょうか?)
 「そうそうそう。戦争未亡人さんも結構多いし



〔12〕その他、大島の方々のお話

・大島で食べられていた菓子などについて。
 「大島はね、分かるかな、カンゴロだご、石垣だご……饅頭のことを「だご」といった。

カンゴロというのはイモを干して粉にしたやつのこと。真っ黒したやつ。

石垣だごっていうのは普通の小麦粉にサイコロ状に切ったサツマイモをいれたものがイシガキダゴ(蒸しパンのようなもの)」

 「昔はね、大島やったら、イモハンが出てきたら「なんだイモハンか」言ったけど、今はイモハン、高級品やからね(笑)」


・食犬の風習などについては、「犬を食べらした時代は、大島には無かですよ」

とおっしゃっていた。ただ、駅で犬が殺され、その肉を持ってきて嫁さんの姉に食べさせた人の話をお聞きした。何人か食べた人はいるかもしれないが、そういう風習はなかったという。また、「鳥、ウサギとかヤギなんかを食うとらした」とのこと。味噌を入れたすき焼きのようにして食べたという。

・蓑を大島まで売りに来る人はいましたか、との質問に対しては、

「大島は、大体こういうの自分でつくりよらしたのが多いもんね」

「大島は自給自足(笑)

また、その他にも大島では自作していたものが多く、

 「精霊(しょうろう)流しの船、あれはね、麦わらで作ってました

 「浮力が結構あったですもんね」

 「昔は草履もつくっとった」

などと話してくださった。

 大島で作る草履は目が締まっており、今売られているものよりも丈夫だったようだ。

・田植えなどをしているとき、昔はヒルにかまれたが今はいなくなってしまったという。農薬のせいだろうと村の人々は推測しておられた。また農薬が 原因でタガメやカエル、ホタルなども激減してしまったらしい。また、昔から大島の西部がマムシの生息地となっていたようだが、最近ではあまり見かけなくなった、とのお話を聞いた。


さらに細かなことについて。

・田植えは親類だけで行い、手伝いの人がくるところはあまりなかった。


・大島はかまどを作るところは多かったが、お経をあげる方はあまり見なかったという。

 ただしかまどを作ったり壊したりするときには、お祓いを必ずしていた。

・屋号には「いづ屋というのが1軒だけある」、とのこと。

・大島にはもやい風呂などはなかったが、お風呂屋が2軒あった。



〔13〕おわりに

 当初はお一人を訪ねてお話を伺う予定でしたが、村民の方々のご厚意により、多くの記憶深い古老に集っていただき、お話を伺うことができました。肉声で語られる悲喜こもごものエピソードはどれも感慨深く、学問的にも、またわたしたち自身の経験としてもたいへん実のある調査となりました。

 

 調査に協力してくださった方々に深謝申し上げます。

 

 



戻る