大島の歴史とその暮らし 1LT12074■ 竹元 優介 1SC12046■ 鳩山 慎太郎
辻 国光 昭和16年生まれ 町内会副会長 辻 由紀夫 昭和23年生まれ 町内会会計 辻 益男 昭和5年生まれ 辻 忠男 昭和6年生まれ 吉田 喜美夫 昭和2年生まれ 神生 義弘 昭和9年生まれ 志摩 美智子 昭和7年生まれ 老人会女性部長 辻 友嗣 昭和13年生まれ 老人会会長 辻 節男 大正12年生まれ 辻 ミチコ 昭和3年生まれ 辻 百合子 昭和24年生まれ 社協部長
地図を見れば分かることだが、大島の形状について簡単に説明すると、島それ自体がひとつの山となっており、南西部に位置する平坦な住宅街のほかは、土地の多くが斜面をなしている。また斜面にも住宅や墓、寺、段々畑などがあり、村の機能の多くはその南西部の平坦地と斜面の低部に集合している。 現在大島に住んでいる人々の先祖は、かつては唐津の方に住んでいたという。しかし新しく唐津城を造るために、そこに住んでいた人々は強制的に大島に移転させられた。そのとき「辻」という所に移転させられた人が、そのまま辻姓を名乗るようになった。その他にも、ヨシダ、オノ、ドガシという姓の人が大島に逃れつき、そこで暮らすようになったということだ。なお、このとき取り決められた石高は70石であった。 さらに古い歴史については、大島周辺からは縄文時代のものとみられる石斧(せきふ)、石包丁が見つかっており、また付近に海底古墳なども存在するらしい。 「大島には海底古墳があるとよ。で、大島の山から石斧とか石包丁、これがね、いくつか出とるったい。大島のどの辺に古墳があったかわからんけど、住んどったのは間違いない」 「土器の破片、あれもたいそう出とる。弥生時代のも、縄文時代のも出とる」 「大島はもともと湧水が多いっちゃね。そういうことで、生活はできとったんじゃないかな。離島であっても」 佐賀県、特に唐津からはさまざまな貴重な歴史的資料や遺跡が見つかっており、大島からもそのような資料が発掘されるのもうなずける。 〔5〕大島の農業について 「大体7:3くらいやろうか」 「そりゃ家庭によって違うよ」 「7:3は上等なほうやね」 「一番うまか」 家庭によっても違うため、真っ白なご飯を持ってくる人もいれば、自分は麦 100%の弁当で恥ずかしい思いをした、というエピソードも聞かせていた だいた。 「おれ中学の時麦飯は弁当で持ってきたのは俺一人やったばい。クラスん中 で。真ん中、梅干しがいつもドーン乗ってて、あとは漬物じゃあさ、もう恥 ずかしかったよ」 海外輸出もあり。 ・アワ (サツマイモ) を交代で栽培すること)を行っていたが、ここ10年ばか りはサツマイモのみを連作するようになったため、サツマ イモの質が格段に落ちているということだった(その原因 について九大生が来たら尋ねたい、ともおっしゃっていた) 海外輸出あり。 唐津でも養蚕業が盛んであったために大島の桑は重宝された。養蚕が行われな くなった後も、桑の実が子供たちの口を潤していたという。 「蚕飼うとった時代のものがそのまま残ってね、大木になって、実のなる木が 何本かあった。小さいころはクワの実ば取って食べるのが一番楽しみやった。 口が真っ青になって帰ったら『なんば食べてきたか』と言われた(笑)」 ・
ツバキ … ツバキを使って作られる椿油はカタイシ油とも言い、業者が買い付けに来るほどであった。 ・
主に大谷(地図上1番)の北側で栽培。 「マテとシイの実があって、そういうのを食べる。甘味は少ないけどもさ」 昔は何もなかったからそういうものを食べていたが、 あまりおいしいものではないため今ではとても食べられないという。 ともに商品にはならなかった。 という大変おもしろいお話を聞かせていただいた。
り果肉の白いスイカである。比較的皮が薄く、甘みも強いらしい。白 スイカにまつわる興味深いエピソードを古老からお聞きした。スイカ を盗みに来た男が、中を割ってみてみると真っ白だった。これはまだ 熟れていないのだと勘違いし、次々にスイカを割っていったのだがど れもこれも真っ白で、諦めて帰っていったという。翌朝破壊された白 スイカの散乱する畑を見て、畑の持ち主が青ざめたのは言うまでもな い。
いてキナウリ。穏やかな甘さのある作物らしい。
とのこと。 使っていたらしい。バクリョウに肉牛として売り払う場合も。 ・
農業において有利な土地、不利な土地があったかどうかをお尋ねしたが、 そういった有利不利はあまりないし、意識もしていなかったということだった。 「あえて言うなら、水の冷たい場所は稲が育ちにくく、そういった場所もあるにはあったともおっしゃっていた。 ・
加勢(農業において他から手伝いに行くこと)については、島外から来ることはあまりなかったが、 こちらが島外に出かけていくことはあった。 ・「肥料には何を使っていたのですか」という問いには、 笑いながら「自家製造や。人糞、人糞」と教えてくださった。 「木の桶にさ、入れて運びよらした。ドーツボ(?)っていうのを畑の横に作って、 その壺の中に溜めよらした。肩で担いで持ってあがって」 運んでいるときにひっくり返したときは「海さ泳ぎいったばい(笑)」ということだ。 ・
農薬には石灰を使っていた。 昔はホリドールという毒性の強い農薬があり、死亡事故も時折起きていたという。 (「ホリドールで死んだ人が多かった」「(ホリドールで)自殺しよらした人も多かったね」)
「大島は山がちで坂が多く、畑に行くにも一苦労だし、楽しみはあまりなかった。農業に比べれば漁業の方が楽しみはあったのではないか」 とおっしゃっていた。 漁業は規模は小さいが生産が多いため、比較的暮らしに余裕があったことも理由の一つとして挙げられていた。
船漁は帆船を使って行われることも多かった。朝と夕で風向きが逆転するため、その風の流れに乗って船を出し、行き帰りすることができる(「風向きが変わらない日は冷や汗をかいたとおっしゃっていた」。 魚のほかにも、ひじき、岩のり、わかめ、ウニ、サザエ、アワビなどの生産があり、三ッ瀬(地図上4番)ではもずくがよく獲れたとのこと。 毒流しは目的とする魚以外の生物に
も影響を及ぼすため、一般的に禁止されていたのだが、 町の方では毒流しの毒となる「ゲラン」が普通に販売されるという矛盾が起きていた。
「あったあった」 「子供のころは石油ランプは皆もっとったよ」 「停電多かったからね昔はね」 水道も子供の時からあり、また大島には湧水がたくさんあったために、水で困ったり水争いが起こったりということもなかった(第一、前述の通り大島の住民はもとはひとつの氏から繁栄した、いわば親類のようなものであるため、争いごとのようなことはあまり起こらず、話し合いで解決するということが多かったそうだ)。 「大島の病院は古いよ。昔からある。」 (カミチカ先生という医師を最後に、平成8年ごろから大島に病院はもうない、とおっしゃっていた。) 盗んできよらしたか何か知らんばってん(笑)、各家庭にほとんど石炭はあった」とのこと。 「ラジオは早かった。中学二年生のころには学校でラジオば組み立てさせられた。」 とおっしゃってはいたが、いろいろと興味深いお話を聞くことができた。大島は親類の集まりのようなものなので、夜這いのようなことはあまり行われなかったらしいが、島外の夜這いなどでは、たとえば障子に尿をかける、という所作が行われることがあったらしい。障子を湿らせることで、穴をあけて中を覗くときに音がしないから、ということだった。また「下駄持ち」が存在したのも、下駄を履いていては足音が響いてしまうから、という理由らしい。 また、大島独特の盆踊りというものも存在したらしい。 大島では牛のエサには芋ヅルなどを与えていたが、高島で草を刈って牛に与えることもあったという。 また、高島は塩の生産があり、一般的な釜ゆでの手法ではなく、塩田を作って塩を取る伝統的な手法が行われていた。 「潮ばぶっかけて、潮と砂の混じったものを今度は煮詰める」 あそこがサルを飼われんようになって、今のシーサイドホテルの前に持って行って、 そこでも飼われんなって、鳥島に持って行った」
「サルはね、自給自足しよるもんね、死なんさ」(曰く、カニなどを食べて暮らしているらしい) 鳥島のサルは泳ぐことができるらしく、船員たちは船に乗り込んできたサルを見てびっくりしたという。 家にさ、男だけ一人残して、家族全部逃げていくわけ。そいでわれわれ家族はナナヤマに」
(飛行機から火が見え、標的にされてしまう) カンゴロというのはイモを干して粉にしたやつのこと。真っ黒したやつ。 石垣だごっていうのは普通の小麦粉にサイコロ状に切ったサツマイモをいれたものがイシガキダゴ(蒸しパンのようなもの)」 「昔はね、大島やったら、イモハンが出てきたら「なんだイモハンか」言ったけど、今はイモハン、高級品やからね(笑)」
とおっしゃっていた。ただ、駅で犬が殺され、その肉を持ってきて嫁さんの姉に食べさせた人の話をお聞きした。何人か食べた人はいるかもしれないが、そういう風習はなかったという。また、「鳥、ウサギとかヤギなんかを食うとらした」とのこと。味噌を入れたすき焼きのようにして食べたという。 「大島は、大体こういうの自分でつくりよらしたのが多いもんね」 「大島は自給自足(笑)」 また、その他にも大島では自作していたものが多く、 「精霊(しょうろう)流しの船、あれはね、麦わらで作ってました」 「浮力が結構あったですもんね」 「昔は草履もつくっとった」 などと話してくださった。 大島で作る草履は目が締まっており、今売られているものよりも丈夫だったようだ。
・田植えは親類だけで行い、手伝いの人がくるところはあまりなかった。
ただしかまどを作ったり壊したりするときには、お祓いを必ずしていた。 ・屋号には「いづ屋というのが1軒だけある」、とのこと。 ・大島にはもやい風呂などはなかったが、お風呂屋が2軒あった。
調査に協力してくださった方々に深謝申し上げます。 |