1. 今回の現地調査で分かった地名について 堀井雄真 川浪侑華


今回の調査と通して新たに分かったことは位置未詳とされていた、・タタミイシ(畳石) ・カクシバタケ ・オオチリタメ ・ムックリダシ ・アナカンノンサマ ・フルタ ・オニガジョウアト(鬼が城跡)の場所が新たに分かった。


また、小字一覧表には載っていたが地図には載っていなかった、・カミグミ(上組) ・イシノマチ(石ノ町)の場所が分かった。


ただ、これらの地名は現在、小字として用いられてはいないが、昔はこのように呼ばれていたということであり、現在も使われているものは少ないことが分かった。カミグミ(上組)は、班の名前として使われていたように、普段の会話などで呼んでいて実際の小字ではないといったところがほとんどだった。


また、小字一覧表に書かれていた・サシ(砂走)・イマカワ(今川)・カワサキ(川崎)・シンテン(新田)は岡口に地名ではなく、隣の谷口の地名であったことが分かった。


今回の調査通して新たに・サジ(砂地) ・ドンドンバシ ・タテイシ(立石)と呼ばれている場所があることが分かった。また、小字一覧表にはマツノキ(松ノ木)と書かれているところはマツモト(松本)である可能性が高いそうだ。








地名の由来や詳しい場所

オオチリダメ・・・通学路上で家と学校とウマアライとのT字路を指した。

ムックリバシ・・・川と川の交差するところにあった。

タテイシ(立石)・・・5〜6mほどの石が立っていた。

サジ(砂地)・・・洪水で水が溜まったところに砂が溜まったから

マツモト(松本)・・・昔の畑があった。












2、昔の生活や遊びなどの文化について


【遊び】

 私たちがお話を伺ったおじいさん方が子どもの時は当然今のように室内で遊ぶということはほとんどなく、基本的には外で遊ぶことがメインとなっていた。特にしていた遊びとしては、・ぺちゃ(めんこのこと)・こま・たこあげ・くぎたおし・缶けり・紙や模型飛行機・竹とんぼ・水鉄砲(竹で作製)・Y字型のぱちんこ遊び(セミなどを狙っておとしていた。)・坂の上からの草スキー・けんけんぱ(特に女の子)などさまざまである。そのほかにも、夏には川に行って魚やカエルを捕まえるといったことをし、山ではトリモチの木からトリモチを作って、メジロといった鳥を捕まえるようなこともしていた。


【生活】

・食べ物

 岡口は昔から農村であったということもあり、食料に困ったという思い出はどの人も、持っていなかった。終戦後も食べ物に困ったということはなかったという。また、戦後には食べ物があったということから、ものごいがきていた。しかし、ずっと昔には飢饉になったことがありそのときに小さい川のフナを丸ごと食べるということが、あったそうだ。その飢饉が起きたきっかけとされているのは、岡口に大蛇が現れたときにその大蛇と斬り殺したことによって飢饉が起きたといわれている。そのことがきっかけで、生きたままのフナを頭から食べるというお祭りが始まり今でも続いているということだ。したがって、岡神社では大蛇が神として祀られている。

 

主食は、お米と麦を混ぜた麦ご飯が主流であった。なにか、学校とかで特別なことがあるときは白米の弁当だった。今で言うお赤飯のような感覚だったと思われる。

 ねずみ対策としては、米をもみつきの状態で保存しておいた。そのほうが、ねずみも食べることは少なくまた、虫も寄ってきにくかったそうだ。そのうえ、もみつきで保存したお米方が高い品質を保ったそうだ。そのこともあってか、近所には精米所が多くあった。そのほかの対策としては、米びつは1m×1m×1mのものを使っておりそれは木製であるのだが、(図1)のように内部に金属板を付けることによって、ねずみが内部に入らないように工夫をしていた。



・農業

 炭については、自給自足を行っていた。基本的には自分の家の前に穴を掘ってその中に木を入れて、上に籾殻をかぶせてそれに火をつける。その後、籾殻がほとんど炭になったところで大体炭ができるという感じで作ったようだ。(図2)ただ、山にはきちんとした炭窯がたくさんあったそうだ。10年ほど前まではまだあったがだんだん壊されていっている。

 

稲作については、昔から岡口地区では活発的に行われていた。昭和40年頃の土地改良が行われる前までは、段々畑のようになっており川から直接水を引いていたので上流にある田んぼから順番に田植えを行っていった。

 稲を植えていないときには、菜種を育てて菜種油を作ったり、麦を栽培したりしていたようで二毛作を行っていた。

田植えの際には、さおとめさんを雇うこともあったようだが、ほとんどは親戚同士でゆいを行っていた。さおとめさんは現在の玄海原発のある近くから多くの方が来ていた。さおとめさんの年収は7〜8万と、決して高くはなかった。そのまま、さおとめさんと結婚された方もいる。


岡口は現在でも用水路が多くしかも水がきれいだったが、昔も同様に水は十分豊富であったので水争いは起きなかったそうだ。それどころか岡口を流れている玉島川には玉島井堰と大江井堰があり(後の地図に場所を記載)、周りの地区に水を提供しており利水権を持っていた。


また、一家に一匹ほど馬や牛を飼っていた。昭和28年〜30年ぐらいまでは、学校で馬や牛で田を耕すことを競う競技大会が行われていた。ちなみにこの大会は県大会や九州大会まであった。また、牛についてはある程度5歳ぐらいになるとばくろさんに売っており、そのお金で新しい若いやせた牛を買っていた。そして、その牛を農作業に使いながら肥やしていきまた、数年後ばくろさんに売るということをくりかえしていた。

牛や馬のえさは裏の山を焼いてそこにはえた新芽を刈ることで餌を作っていた。(その野焼きをおこなっていた場所は後の地図に記載)その場所はクサキリバと呼ばれていた。クサキリバでは、野焼きが行われていた。野焼きの役割は、害虫駆除、炭が肥料になる、新芽を育てて牛や馬のえさにする、といったものである。また、馬や牛は川で洗っていた。(場所は地図に記載)そこは、ウマアライ(馬洗い)と呼ばれていた。現在、岡口はハウスみかんの生産が日本一とみかん農業が多いが、馬や牛はみかん農業が増えだしたときにみかん生産のためにつかわれていた農薬(フッソレ、ニッソル、青酸カリなど)と非常に相性が悪くどんどん死んでいってしまい農業では使われなくなった。


また、昭和40年ごろの土地改良が行われる以前には田んぼには多くの魚が入ってきていた。例えばナマズ(とって食べていた)、フナ、アユ(今でも玉島川では放流されている)、ハゼ、ドンボ(ハゼに似ていて黒く大きなムツゴロウのようなもの)、シラウオなどいろんな魚がきていた。


さきほど、現在岡口はハウスみかんの生産が盛んであることに触れたが岡口では、昭和30年ごろからみかんの生産を始めるようになりみかんブームが起こり始めた。でもこのころは、まだ山での栽培がメインだった。現在の山はところどころにみかんの木があることが確認できたが、昔は一面みかん畑だったそうだ。その後、土地改良が行われてからは平地でもみかんの栽培が始まった。

みかんと稲作では水の使い方などが大きく違っているので、(図3)のように少し高いところではみかん、間の低いところで稲作といったように分かれていた。しかし、次第にみかん畑が多くなり現在ではほとんどがみかん畑になってしまっており、そのほとんどがハウスみかんであった。

ハウスみかんということもあり、現在の原油の高騰や電気代の値上げは農家にとっては頭の痛い問題になってきているそうだ。これからは、インターネットなどを通じた販売などを行っていくことなどを考えており、現在はみかん産業の転機を向かえている。








・青年クラブ

 岡口にも青年クラブが存在しており、青年クラブのあった場所は今回聞き取り調査を行った地区の公民館のところであった。青年クラブには16歳〜30歳ほどの独身の男子が20人ほど集まっていた。青年クラブの役割は我々が思っていたものとは違い、意外にも地域に密着した自治活動の援助を行っていた。たとえば、消防活動、これは岡口地区のどこかが火災が起きたときには真っ先に駆けつけて消火活動を起こっていた。また、夜には「火の用心」と拍子木をならしながら地区を練り歩いたりしていた。このことを「夜回り」とよんでいた。当時は、家でかまどなどに火をたいていたので火事が多かった。また、消防団とは別のものであるのだが人力のリアカーにホンプを積んだのを引っ張っていっていた。そのほかには、玉島川には沈み橋(後の地図記載)があり、コンクリートで作り変えられるまえは木製の板を橋に上に並べているような作りになっていた。それが、川が増水をしはじめて板が流されそうになれば急いでその板をはずしに行って流されないように板を回収するといったことも行っていた。当然また、川の増水がおさまったらまたその板を橋にはめにいっていた。また、岡口地区は歴史とも縁のある場所であり、玉島川は万葉集で「まつら川」と言う名で詠まれていたり、三重古墳や太刀古墳、岡ノ前古墳、梅崎古墳、筒井古墳、谷口古墳といった多くの古墳が存在しており筑山古墳(下記の地図に場所記載)からは勾玉などが土出していたり、大阪城の石垣に使われて石の石きり場があったりする(下記の地図に場所を記載)。そんな歴史とのかかわりが豊かな岡口にある「セキノセイジのお墓」を移動させることがあったがそんなことも行った。セキノセイジとは藤原道真と同じ時代の人物だそうだ。


 青年クラブでは、上下関係は厳しかった。1年生は、夜には先輩方のために布団を敷いて帰りを待ったりしていた。また、夜這いに行った方もいた。夜這いでは先輩が女性の方の家に忍び込んだときに、その家の家主に見つかったときにすぐに逃げることができるようにするために、後輩は先輩の下駄を持って塀の外に待機しており先輩が逃げやすい環境を整えるようなことも行っていた。そのような役目のことは「下駄番もち」と呼ばれていて、これをした経験のある方もいた。ただ、今回取材した一番年上の世代ぐらいのときに夜這いはなくなってきたようで、夜這いの経験のないかたのほうが多かった。

 

青年クラブでは食料は基本的には盗みで畑に忍び込んでスイカなどをとって食べていた。柿にいたっては、地域を一周するだけで抱え切れないほどの柿を手に入れることができていた。盗まれる側も、取るのは青年クラブだということが分かっている上に、青年クラブは地域の自治活動の支援を行っているので持ちつ持たれつの関係で文句を言うことは特になく、また盗まれる家庭の方も元々は青年クラブ出身の方が多く、昔していたことがあったせいでもあるしgive and take という言い方は変かもしれないが文句は言ってこなかったそうだ。また、お寺の田植えを手伝ったりしていたのでそんなところからも食料をもらっていたのであろう。

 









・学生時代

 中学校では、今日のようにほとんどの人が高等学校に進学をするのではなく、進学をするのは全体の3分の1程度の人しかいなかった。他の人は、実家の農業を継いでいったり、都会へ集団就職に行ったりした。

 

昭和30年ごろから、お寺(下記の地図に記載)の隣に納骨堂ができた。それまでは、亡くなった方は釜に入れて土葬を行っていた。それが、納骨堂ができたことによって火葬が行われるようになった。そのために、今まで土葬さていた方の遺体を掘り起こすことが行われた。そのやり方は、すべての釜を掘り起こすのではなく一つ飛ばしに掘っていき、内側から隣の釜を割って隣の遺体も同じ穴から取り出すということが行われていた。そうすることで、一回掘るだけで一度に多くの遺体を掘り起こすことができたという。この作業を行ったことある方もいた。また、掘り起こされたあとはどこの釜が掘り起こされたかが分かるように首が並べられていたという。このとき掘り起こされた遺体は火葬されて今も納骨堂に収められている。ただし、一気に火葬して骨を入れているので誰のかはわからずひっちゃかめっちゃかにはいっているという。

土葬された遺体は、そのときの気候やその方がなくなったときの状態の違いや土葬されていた期間の違いによってなのかさまざまで、きれいにミイラ化されているものがあったり、着ている服はまるで新品のようにきれいなのに触った瞬間にボロボロにくずれていたり、体液が釜の中に溜まっていたりなどさまざまであったそうだ。遺体を掘り起こす作業をしていた方のなかには、遺体の金歯をとったり、釜の中に納められていたお酒を飲んだりしていたらしい。中でも印象的であったのは、釜の中に納められていたおにぎりが体液や血液によって半分だけ漬かってしまい、本来は白いおにぎりがきれいな赤のコントラストの模様になっていたのがあったことだという。

 

まだ、土葬が行われている時期には青年クラブの活動で夜回りを行っているときに遺体から出たリンによって火の玉を見たこともあるそうだ。火の玉は意外にも多く発生していたらしく、5回も見たことがあるとおっしゃられる方もいた。また、火の玉はあい色であって、すーっとすばやく移動することもあればゆっくりと移動することもあったという。

 

戦争には軍人としていってはいないがお父さんなどが戦争にいったそうだ。先ほども書いたが、戦争中は食料には困らなかったそうだ。また、靖国の母についてはまたすぐに再婚などを行っていたという。岡口には、男性を婿として受け入れて結婚したが1ヵ月後には戦争に徴集され、その一ヵ月後には戦死してしまい2ヶ月間しか結婚生活をおくることができなかった方もいるという。また、遺族年金は婿入りした家庭に入っていたため、婿に出した側に仕送りを毎回していたという家庭もあったという。

・近代化

 昭和3540年ぐらいまでは、数件の家出持ち回りで管理をする共同風呂があった。共同風呂は五右衛門風呂であったので、子どもだけで入るのはできなかったらしく、お風呂に入るときは家族みんなで入っていたという。しかし、何件かの家が自分の家に風呂を持つようになると共同風呂の管理をする頻度がましていったため、「うちも、うちも」と、自分の家にお風呂を持つ家庭が多くなりそれが原因で共同風呂がなくなっていたそうだ。

 

電気については、80年ほど前から(昭和25年ごろ)きていたという。ただ、今の家庭のエアコンみたいにすべての部屋に電気がきていたのではなかったそうだ。電気がないところはろうそくを使っていた。

 

ガスがきた正確な時期は覚えていらっしゃらないらしく電気に比べるとわりと最近で昭和40年以降であるという。それまでは、お米をたいたりご飯を作ったりするのは基本的にかまどを使っていた。かまどは、もともと家にあったそうで、かまどができたときのエピソードをしっていらっしゃる方はいなかった。ただ、驚くことにかまどといえば土で作られたものを思い、もともと家の土間に土で作ったものを想像するのだが、タイルでできたかまどを買ってきて家においていたという家庭のほうが多かった。

 

上水道は今でも岡口にはきていなくて、地面をボーリングして井戸水をホンプで吸い上げて使っている。地下水のほうが水温が1年中15度ぐらいで安定しているので、夏は冷たく冬は冷たくなくとてもいいそうだ。また、上水場で処理されていないので水がきれいであることからむしろ井戸水のほうがいいそうで上水道がきていないことにはまったく不便していないそうだ。

 

下水道は本線は一応どの家庭の前まできているがやっている家庭は3分の1程度さそうだ。その他の家庭は、合併処理浄化槽を持っているのである程度きれいにして流しているという。下水道につないでくださいという催促は多少あるそうだが、工事をするのに高額な費用がかかってしまうということがありなかなかできることではないそうだ。

 

テレビは昭和34、35年ごろにから普及し始めた。東京オリンピックが始まるころにどんどん普及していった。また、昭和39年ごろからテレビのカラー放送が始まった。テレビ欄にはカラー放送のもには「C」のマークがついていたという。テレビが自分の家のないときにはあるところに見に行ったりもしたことがあるそうだ。また、竹下登内閣の時のふるさと創生事業のときに配られた1億円を使って岡口ではテレビの受信が良くなるような設備を作った。テレビははじめは長崎放送のしか受信することができず、福岡の放送を受信できるようになったのは3040年前のことである。

 

ちなみに岡口では太陽光発電パネルをつける家庭が最近出てきだした。


・水害

 岡口地区では過去に大きな水害が2回起きている。一つは昭和28年に起きた洪水で「28水(ニジュウハッスイ)」と呼ばれている。このときは、玉島井堰が決壊を起こしてなかなか水がひかなった地域があった。その地域はこのことがきっかで字のところに載せているサジ(砂地)と呼ばれる所になった。その後、井堰の決壊での洪水を防ぐために大江井堰も取り壊された。このときは、青年クラブも解体に協力していた。






3、今回協力してくださった方々


・石本 雅産さん   昭和12年生まれ

・石本 幸男さん   昭和12年生まれ

・重  伝平さん   昭和12年生まれ

・橋本 勝為さん   昭和16年生まれ

・北平  洋さん   昭和21年生まれ

・石崎 照敏さん   昭和25年生まれ(区長さん)

 

貴重なお話をありかとうございました。



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