佐賀県唐津市上神田
調査員:後藤健一郎 阪田健太郎
(先方)江川雅博さん
地元の商店にて道を確認、先方へのお土産にスイカを購入(400円)。
江川さんに様々なお話をしていただいた。
マムシの話になると、江川さんは冷蔵庫からマムシ酒を持ってきた。
TAの堤さんが飲んだところ次の日かなり元気がでたと言っていました。
(地名)
江川さんに地名について尋ねたところ、地図上の地名の漢字表記と現地での地名の漢字表記が一致していないものがいくつかありました。
・「風車」→「風早」
・「源太」→「源田」
・「中嶋」→「中島」
・「鴻龍」→「鳴滝」
鳴滝という地名は地元の酒造会社の名前にもなっているそうです(鳴滝酒造)。 農地には「三反田」といった小字がついています。 神田にある「町田川」は地元では町田川と呼ばれずに「大川」と呼ばれているそうです。 「江川」という苗字は昔から、「堤」という地名はよそからきました。
(農業)
神田の百姓は主に米とみかんを作り、豚を飼っていました。
米は1丁程度しか作りませんでした。米を作りすぎて余ってしまうのを避けるためです。 水争いはありませんでした。平木場ダムが完成し、貯水することが出来るようになったので、水不足になる恐れがなかったからです。同様にダムとして町田ダムが付近にありますが、これは昭和50年代に完成したそうです。また、稲に十分な栄養を与えるために、田んぼの下に排水管を通し、水の流れを良くしていました。みかんについては、減反政策以来、徐々に収穫量が減少していきました。竹や薪は多く利用されていましたが、炭は作っていませんでした。現在では、田んぼがビニールハウスに変わりました。そのビニールハウスの中では、いちごを栽培しています。江川さんのお宅では、余った田んぼは小作人に貸していたそうです。
(家畜)
家畜として、主に豚を飼っていました。およそ、1世帯に10頭ほど飼っていました。豚のエサは主に残飯で、家畜としての豚はほとんどが去勢されていました。家畜としての豚は食肉用なので、オスの豚でも肉質をやわくするためです。また、豚は牙も切り暴れても怪我しないようにしていました。牛は必需品でありました。牛は主に荷車として利用されました。裕福であった家庭には、牛が2頭いました。ちなみに、江川さんの家庭には2頭の牛が飼われていました。オスの牛は「こってうし」と呼ばれていました。また、牛も豚と同様に去勢されていました。しかし、その目的は豚の場合とは異なり、牛をおとなしくさせるためです。去勢された牛は「金取り牛」と呼ばれていました。最後に、馬はほとんど飼われていませんでした。
(生き物について)
山にはアナグマやイノシシ、マムシが生息していました。他の村から追い出されたイノシシが上神田にたくさんやって来るため、上神田の人々は村全体に罠を仕掛けていました。マムシは湿気の多いところに生息していました。かつてはタヌキも生息していましたが、タヌキの間で皮膚病が感染し、タヌキはほぼ全滅しました。川ではハヤやドンポ(ドンコ)、シジミが生息していました。また、ツガニ(モクズガに)やテナガエビなどを捕らえることも出来ました。ちなみに、川で捕まえたモクズガニは唐津くんちで食べられました。田んぼにはタニシやドジョウが生息していました。近年になって、ジャンボタニシが増加しました。小屋の屋根裏にはネズミがたくさん生息していました。ネズミは家の屋根裏にもたくさんいたそうですが、ネズミ対策はとくにはしていませんでした。
(祭り)
上神田には女性を中心とした「観音講」という祭りがあります。昔、金の観音様が「スガムタ」という地名の場所から流れてきました。その観音様に白い晒を巻き、その後、その白い晒を妊婦に巻いてやるとその妊婦が男の子を授かったという言い伝えがありました。それ以来、男の子がほしいならば白い帯を、女の子がほしいならば赤い帯を妊婦に巻くようになりました。ちなみに、その観音様は飯田観音堂に奉られています。現在、「観音講」は上神田では1月14日、「スガムタ」では1月15日に行われています。そのような言い伝えから、飯田観音堂は安産祈願で有名になりました。また、唐津といえば、「唐津くんち」でも有名です。唐津神社の神様は神田宗次という名前の人で、彼は神田地域の人でありました。そのため、唐津くんちの神輿を引くのは神田の人々の特権でした。茶髪やピアス、いれずみをしている人は神輿をひくことは許されないそうです。獅子舞については、神聖なものであったため、普段は目にすることが出来ず、飯田観音堂に納められています。唐津くんちの際でも、独身の若者だけが使用することを許可されていました。
(生活・暮らしについて)
「江川」という苗字の一族が上神田の地主でした。今回うかがった江川雅博さん宅には、松があったことから、江川雅博さん宅の屋号は「一本松」でした。上神田には「江川」という苗字以外に、「馬場」や「青木」という苗字が多くありました。上神田に住む人々にとって「下神田」という地名はあまり馴染みがありませんでした。そもそも、上神田の人々は、「下神田」と呼ばれている土地を「菜畑」という地名で認識していました。かつて町田1丁目から西浦までは海でした。夏には川で泳ぐことが出来ました。近年になって川の護岸を整備したり、川底を平らにしたりしたので、魚などの川に生息する生き物の数が減っていきました。近くの川は「せき」が高く、水深が深かったので江川さんが子どものときはみんなで泳いでいたそうです。江川さんが子供だったころは、上神田の子供たちは他の地域の子供たちと一緒に運動会を開いていました。メスのイノシシを鍋にしたり、スズメやヒヨドリを焼いたりして食べていました。また、ニッキという植物の根の表皮をかじって食べることもしました。ちなみに、その根の味はハッカのようだったそうです。ドングリやマテの実、クリなどの木の実が山で採れました。マテの実は笛を作るために採集されました。上神田には青年団(農村経営者で組織された団体)があり多くの若者が所属し、ここがきっかけで結ばれる夫婦の多かったということでした。共同風呂がありました。風呂の順番は、年寄り、大人、子供、女の順番でした。
(感想)
今までに地名調査というものをしたことがなかったのでとても新鮮だった。現地に行き、現地の人の話を直接聞くことは、単に教科書を読んで学ぶこととは大きく異なっており、身体で感じるようなものであった。このような調査をすることで、歴史を学び、文書として保存し、今後に歴史を伝えていきたいと思う。最後に江川さんと一緒に4人で記念撮影しました。今回は様々なお話をしていただき、ありがとうございました。
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