歴史と社会 下吉田地区レポート

調査日:平成19113

調査者:長佐江子 津田悠美子

 

●一日の行動記録

115日午前835分、バスで九州大学六本松キャンパスを出発する。

午前1050分頃、調査地域である下吉田地区に到着する。

約束していた時間より少し早かったので、町を予め見て回る。

午前1140分頃に宮崎さん宅を訪問し、まずあざなを教えていただき、その後休憩をはさんで、昔の町の様子や、習慣についてのお話を伺った。

午後3時に聞き取り調査を終了。

バスが迎えに来る午後4時すぎまで、教えていただいた井出、記念碑等を見に行く。

その後、バスに乗り、午後630分に学校に到着する。

 

●教えていただいたあざな一覧

ミヤジ(宮地)、カイカセキ(貝化石)、ヒラキ、フルツツミ(古堤)、マツオ(松尾)、カキノキダ(柿の木田)、コウシン(庚申)、ガンドー(岸道)、アンノシタ(庵の下)、テージンモイ、マルイシ、スキザキ、ヒロタニ(広谷)、インタロウ、チャーバイ(茶原)、ズーメキ、ナガイシカキ、ヌゲウエ(ヌゲ上)、ウーヌゲ(大崩)、ウーノ(大野)、ガンノシタ(岸の下)カンノンダン(観音壇)、ツバキダ(椿田)、マツントウ、シイジュウ(四位十)、ニュウドウノツツミ(入道堤)、ケイノゴエ、マツントウ、キド(木戸)、タナバタ、スケウエ(スケ上)、ツジ(辻)、ノバヤシ(野林)

*野林では、石器や鏃がでたらしい。

 

●教えていただいた山・谷の名前一覧

 マルオヤマ(丸尾山)、ナガオダニ(永尾谷)、ジュウタニ(十谷)カナヤマダニ(金山谷)、カナヤマ(金山)、ヤナギダニ(柳谷)、オオタニ(大谷)、イチバヤマダニ(一場山谷)、イチバヤマ(一場山)、イシキリヤマ(石切山)、イチョウダニ、ヒョウタンダニ、タローボーダニー、オチョウズノタニ(御手洗水谷)マツヤマタニ(松山谷)、オクンタニ、ヤマカミタニ(山神谷)、シモヤマカミタニ(下山神谷)

 

●あざなの由来

ヒラキ・・・・・・・開墾したことから。

 カイカセキ・・・・・化石がでてきたことから。

 ドウノシタ・・・・・堂があったことから。

 アンノシタ・・・・・庵があったことから。

 マルイシ・・・・・・石垣を丸く積んでいたことから。

 スキザキ・・・・・・鋤のような尖ったたんなかの形から。

 ナガイシカキ・・・・長い堤防、石垣があったから。

 ヌゲウエ・・・・・・崖崩れのことをヌゲといっていて、崖崩れが多発していたから。

 イシキリヤ・・・・・石切場であったことから。

 

●教えていただいた井出の名前一覧

ウーイデ、コウライデ(川原井出)、アンズウデ

 

●その他に教えていただいた名前一覧(道など)

オニキゴエ(鬼木越)、ジュウゴエ、チョウブンシュウリン(町分収林)

 

●屋号

ローソクヤ、クウヤ、コウジヤ、デグチミセ、チョウチンヤ

 

●古賀の名前

 七ツ川内古賀(39戸)、松尾古賀(26戸)、長尾古賀(23戸)、広瀬古賀(10戸)

 

●以前の調査で間違っていると思われるところ

チャーバイとズウメキの位置が違っていた。

ナガオダニの漢字が「長尾谷」ではなく「永尾谷」である。

「カンノンダ」は「カンノンダン」といっていた。

シジュウ(四十)ではなくて、シイジュウ(四位十)である。

カキノタ(柿の田)ではなくて、カキノキダ(柿の木田)である。

広谷(コウヤ)ではなくて、広谷(ヒロタニ)である。

 

 

聞いたお話

川について

下吉田には川が通っていて水が豊富なほうだったらしい。昭和52年に水害があったらしいのでそのことについても地図を見ながら話していただいた。

 

――水争いをするようなことはありましたか?

このへんじゃ水争いせんばならんことはなかったねぇ。でも水害はありました。この上流によこだけダムがあるもんですね。それができてからは水害ってことはないですけどね。ただ、この唐泉山の上流から崩れて、流木でやられたことはある。まつんとうの辺りがひどかった。鉄砲水がきて、家が一件流れてみたり。

圃場整備が始まって土地改良が完成してからは水害はあってないです。

 

―――川で泳ぐことはありましたか?

川で泳いだ場所は、板井手(いだいで)ですね。あと、川原井手(こうらいで)ですね。橋の上から元気か人は飛び込みよったですもんね。深くはなかったですよ。川のくぼんだとこ目掛けて飛び込みよったです。部落ごとに泳いだりしよりました。昔は鮎もおりました。最近は魚道ができましたよ。あんずうではもう実際にはなかばってんが、このその辺りに魚の道ができました。

 

―――用水路の中、川の中に生物はいましたか?

生き物はですね、フナ、ナマズ、それから鯉ですね。鯉は今もいます。めったに川の中には最近は生き物はいませんね。

でも、たまに「みぞや(しじみ)」がいます。それから蛍がいます。今でも蛍は毎年います。「きしのした」の辺りかな。それから昔は、うなぎがいましたね。用水路にもうなぎがいました。

 

―――淵や瀬や滝に特別な名前はありますか?

柿木田、庚申溝。このへんを「ぬすどぶち」と言いよったですね。盗人の淵、ということです。まつんとうの辺りには水害の後、砂防ができましたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田川

 
 

 


  山について

―――山、谷での作業はどのようなものがありましたか?

専ら冬中、下刈り、薪拾いでしたね。谷は特になかったです。

 

―――木を切ったあとに山を焼いたことは?

杉を切った跡に焼くことは・・・山全部じゃなくて、一部を焼くことはありました。次の職人のため枝を片付けるためにですね。焼畑系はないですね。人によってはですね、切ったあと、地面のよかところは一度サトイモやカンショをつくるところもありました。一度に一反に二反も拓くことはなかったです。山切ったあとは痩せ地ですので、イモくらいしか作れないですけどね。草山を焼くことはありませんでした。

 

―――かごは作ったことはありますか?

こっちではないです。一山向こうの鳥越ではあったと思いますがね。

 

―――山の木の実はありますか?

ヤマモモですね。カンネを掘ったことはないですが、たまには聞くですね。どんぐりの木はあんまりないです。干し柿はどこでも干しよったですね。干し柿の作り方は、鉄の包丁で渋柿の皮ば、はぎよったんです。だから、昔は鉄分で干し柿が黒くなっとったです。皮むいて紐に通してから、消毒するんですね。私の場合は、硫黄の燻蒸をしてました。お湯に通してもいいそうですが。あと、ヤマイモくらいですね。あとは、ウドとか。

 

―――食べられる野草はどんなものですか?

よもぎ、それから…はぎな。はぎなのことはなんていうかねぇ。あと、わらび、ぜんまい。たけのこ。たまには、せりなとか。つくしもあるばってんが、滅多に食べんですねぇ。あと、昔は松山がありました。赤松ですね。それで、マツタケが生えとったですね。平野堤の辺りです。ここに下吉田区の松山がありました。ここにマツタケの生えよったですよね。老人会の人たちが秋になればそれを・・・全部よってマツタケご飯ってなりよったですね。私がまだ若いころは。今はもうないですけどねぇ。今はもう全部檜山になって。

 

―――入会山はありましたか?

区有林は、マツタケが取れよったところとかがそうですね。今はそれくらいで、以前は平野堤のあたりに区有林がありました。ここには、平野堤の完成記念碑がありますね。それから、今は払い下げてしまったけど、ひょうたん谷とかその辺も区有林でした。

 

 

  農業について

下吉田の辺りは、田んぼや、畑がたくさんあった。茶葉も栽培しているところが多かった。

農業について、いろいろと質問してみた。

―――麦や、そばは作っていましたか?

麦は、昔は作りよったですがね、ここ何年かはもう全く作りませんねえ。昔はそばもね、自家用にできよったとこもあったばってんが、今はないですね。

 

―――昔、使っていた肥料は?

肥やしはね、昔はやっぱ下肥、だんこえ(牛のふん)。あと、たいひ。草を腐らせたりしたやつね。自家製はこれくらいかな。店から買わないかんのは、しかしま肥料くらい。自家配合してやりよったですね。それから油粕とか。昔は菜種ば作りよったですもんね。菜種は油屋さんに頼んで、絞ってもらって、粕はとって、それを肥料にしよった。それは、わずかばってんね。菜種油も自家用程度で栽培しよったですね。

 

―――稲の病気はありましたか?

稲の病気はですね。昔は、稲熱病(いもちびょう)。あれが一番多かったですね。稲熱病は、7月やろうね、葉の先がこもーなって(細かくなって)、とにかく葉の先の枯れていくんですね。天候にもよるし、肥料が窒素分に偏りすぎたときとかですね。今の化成肥料は、調合してあるけんよかばってんが、昔は予防薬もなかったし。それと、虫は二化螟虫(にかめいちゅう)。芯食い虫、幼虫ですね。これが害虫ですね。この害虫は、予防でけんわけで、苗床の時分に見つけて、とって裂かないかんわけ。本田に植えてからは、枯れたとば焼き捨てるしかなかね。

そうそう、昔は白葉枯れがあったですね。白葉枯れは、充実が遅れるんですよ。芯だけ残して金縁みたいになって、枯れてしまう。

 

―――共同作業はしていましたか?

共同作業は、稲の防除があったですね。共同作業は、結っていってましたかねぇ。それから、もみすり作業。あと、昔は麦も共同で脱穀しよったですね。鎌で刈って、千歯でこいでですね、それを干して、そいで、臼ではたいて、あとからは脱穀機のでけて、ある家にもっていって脱穀しよったですね。裸麦。小麦は必要なかったが、裸麦は作りよったです。

 

―――早乙女さんはいましたか?

田植えさんは、よそから、というより上流のほうから(上流のほうが田植えが早いから)、加勢に雇いよったです。

 

―――さなぶりはありましたか?

さなぶりはあったです。ここでは、田祈祷というですもんね。集まってやっていましたよ。

 

―――米はどういう風に保存しましたか?

昔は、保存は、俵、というか、かますに入れてですね。中に「どじゃぶくろ(鳥越峠のほうで作られる)」というのが入っていて、それに米を入れて二階や、納屋にいれよった。そのあとブリキの缶に入れて保存しとったです。

種籾は自家製でした。今は、毎年全部買いよりますが。

 

―――ねずみ対策はどうしていましたか?

罠をかけるくらいで、対策は特になかったですね。米を缶につめてからは、ねずみが食うこともなかったから。ただ、穀蔵虫にはときどきやられてましたね。

 

―――農業の楽しみや苦しみを教えてください。

楽しみを感じるのは「田植えが終わった、やれやれ・・・いっぱいやろうか?」という時ですね。逆に、仕事が始まるときは苦になることもある。毎年の繰り返しですが。

 

 

  牛について

 

下吉田の辺りでは、馬は飼っていなかったが牛は飼っていたらしい。各農家一頭は飼っていたという。

 

―――牛を洗う場所は決まっていましたか。川入れの時間帯は?

昔は堤防がなかったじゃけんが、どっからでも(川に)入れよったからですけんねぇ。板井手とか、あんずうで…とかですかね。寒か時期は、あんま入れんばってんが、5月使ったあととか。うちも牛がおったばってんが、めったに川まで連れて行かんかったですねぇ。その場でバケツで洗ったりとか。

 

―――えさは?

えさは、専らわら。それから、山草。草切り場は特別にはなかったですねぇ。たまに材木を切ったあと、23年ぐらいは萱(かや)が生えよったけん、その時は行きよったですね。専らあぜ草でしたかね。春先になれば、蓮華草とかね。畑を持っている人には、れんぱくを作る人もおったですがね。そしてふすま、小麦粕ですね。あと米ぬかとか。たまには麦を入れてやったりね。

 

―――牛を歩かせたり、鋤を引かせるときは?

左さ行く時は、「とう」といった。そして、右さ行く時は手綱を引いて「けし」といいよったですね。とまれと言うのは、「わー」と言いよったです。簡単な掛け声で。

手綱は一本で操作しよったです。

 

ごって牛を大人しくするには去勢をしていた。また、牛の病気はめったになかったらしい。

 

 

炭焼きについて

―――炭焼きについて聞かせてください。

私もやったことあります。自家用でした。一冬くらいやりましたね。炭俵にして14,5くらいですかね。失敗は…途中で立ち消えすることもなかったから、滅多にないけど、一度油断して焼きすぎたことがありましたねぇ。途中で立ち消えが一番困るもんですけんねぇ。

 

 

・生活について

―――昔の暖房はどういうものを使っていましたか?

暖房は、きりごたつ、なんというかこのくらいのこたつですね。今もそこに名残があるばってんが。掘りごたつですね。コタツになる前は、そこに木炭で、炭火で温まって、後から自在鈎で鉄瓶を下げてですね、上から下げながら沸かしながら。そんなとこですね。

 

―――車社会になる前の道はどんな道でしたか?

 そうですね、砂利道の、狭か道の馬車道やったですね。ここもあっちも馬車の形の、わだちの、馬車の車のあとがあったとですよ。だんだん、少しずつ広がって、現在の道幅に広がりました。ここからかしまの中学校でしてね、何人かでよったらしいが、吉田からも、ほとんど歩いてかしままで通いよったとですよね。かしままで歩いていきよったとですよ。(何キロくらいあるんですか?)10キロくらい。10キロ以上はあったやろうね。今はトンネルもできて、近くなったとですね。

 

―――村の外からどんな人がきていましたか?

 魚屋さん、くじら屋さんを見よったですね。魚屋さん、行商人さん。行商人さんはどこからやろうね、私が知っとるには、ちわたからですね。その昔は米と魚と交換がありよったとですね。魚屋さんは米でもよかよって、米で交換してみたりですね。くじらもこんくらい重か塊のくじらを。たまには、反物っちゅうか、服とかの行商人さんもたまにはみえよったですね。今は物干し竿とかばってんが。それから、ボロきゃ(ボロ着屋)さんも。

 

―――カマドのお経を上げる目のみえないお坊さんは来ていましたか?

 ほうじんさん?ザトウさんね、ザトウイチは来んやったばってんが、それに似たようなのは来とったですね。虚無僧とかね。それから、山伏姿をした、ほら貝を吹いた人とかですね。

 

―――薬売りは?

 薬屋さんは、ずっと以前は富山から来とったとですね。それから、基山とかね。越中からも来よったんでしょう、昔は。

 

―――昔は病気になったときはどこでみてもらっていましたか?

 病気のときはですね、昔は来てもらいよったとですね。いでがしまで行きよったとですよ。あの、歩いてですね。峠越えて、3キロ、4キロ、行きよったですね。その前は分からんです。

 

―――箕をなおしたり、箕を売りにくる人はいましたか?

 箕の修繕とかですね。うちも箕の修繕に来てもらったことがあります。どこから来んしゃったやろうね。箕の修理屋さんは、はるた、こぎですかね、そこが多かった。

 

―――米と麦を混ぜることはありましたか?

 麦飯?麦ご飯、昔はそれが普通やったですね。何対何やろうかね、そんときそんときの、家によっても違う。さらに芋ば入れてみたりして、芋ご飯とか麦ご飯。家庭によっても違うとたいね。麦を入れると増えるとよ、量の。半分くらいやろうか。麦ば3や。そのくらいやろうね。もっと昔は、麦ば湯でよったとですよ。湯で麦。今は、おし麦っちゅうて、ぺっしゃってしとるやろうが。おし麦する前は丸かったたいね、米の粒ごと丸かった。そのまま湯でてからね、白米に混ぜてさ、炊きよったとよ。色は黒かったと、ご飯の色は。

 

―――自給できるおかずは?

 たくあん、漬物ですね。うなぎぐらいのもんやろうね。昔はうなぎがおったですわ。おかずって言われるか分からが、がねとかね。カニ。漬物が主でしょうね。それから、味噌、醤油は自家製やったですね。

 

―――農地改革前の小作制度はどのようなものですか?

 ありました。小作制度、小作人さんはわりとよかった方じゃなかろうかね。その前はきつかったかな。

 

―――格差はありましたか?

 昔の肥料のなかときの、石灰とかの肥料で作る米やけん、七俵くらいできよったやろうか、そのときの小作量ってどれくらいやったろうね、ちょっと分からんですね。

 

―――この地区にガスと電気が来たのはいつですか?

 電気はいつくらいかね、ちょっと分からんね。ガスはプロパンですもんね、都市ガスやないです。電気は・・・・、何年くらいに来たろうか。この辺は都会に比べて遅かったと思います。

 

 

・町の行事について

―――盆踊りや祭りは楽しみでしたか?

 そうですね、8月16日に下吉田祇園って言ってですね、祇園祭があります。その祇園祭の始まりがですね、昭和24年やったかね。水害で大被害があったわけですが、水害が8月16日やったんでしょうかね、それで、この記念碑があんずうに建ちました。それからずっと祇園祭が、その8月16日を災害復旧の記念に祇園祭をやろうというようなことになってですね、毎年8月16日には、祇園祭ということで、盆踊りかねぶりゅう、それから、余興に踊りとか、今はカラオケとかやっとります。その当時はこの現地で(あんずうの記念碑のところで)やっとたですよね。ここは狭いとなって、この昔の旧公民館でやってみたり、それからその後は農村広場でやっとります。

 

―――むかし神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?

 そうですね、だいたい平等でしょうね。区の全体の責任ということで、だいたいそうだったろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水害の記念碑

 
 


・青年クラブについて

―――結婚前の若者たちの集まる宿はありましたか?

 青年クラブがありました。昔はそこでさ、男たちは泊まりに行きよったとよ。家で寝らんでね。もう、学校卒業したらすぐここに入って、それと同時に消防団にも入ったんですよね。青年クラブっていって、そこでばっか寝てね、朝帰ってくる。昔はそがんやったとよ。布団もあったですもんね。その布団ば、夏に女青年っちゅうて、女性の青年が布団洗濯っちゅうてさ。家で布団洗濯して持って行くわけですよね。それから、洗濯が終わった時分には、女子部の加勢をうけて、そこであの、布団を、なっていうかね、ひっこむわけ。それから先輩からその布団の作り方も習ってきたわけね。そけ、昔の人はね、布団の作り方とか上手よ。昔の人はたんぜんとかで自分で作んしゃる。そがんして、習ってね。

 

 奥さんの話によると、青年クラブの布団の洗い方などは、所々によって違うらしい。奥さんのところでは、広い川に持って行って、丸洗いして、大きな石の上に干していたらしい。

 

―――青年クラブには規律はありましたか?

 はい。規律っていうか、とにかく先輩からはいろいろ、厳しく礼儀作法とかしこまれました。畳に両手ついて、こんばんは、とかね。

 

―――上級生から罰はありましたか?

 そうですね、昔はあったそうですね。私が入った時分にはそげんまでなかったです。なんか、薪の上に正座させて、重たい重石ば乗せられよったばってん。そういった話も聞きました。

 

―――干し柿どろぼうは聞いたことがありますか?

 昔はすいかどろぼうとかあったとよ。夜にね、とるっていうことはあったとよ。干し柿どろぼうより、すいかどろぼうの方がひどかった。今の産地のごと、メロンば持って行くことはなかって。そんな大どろぼうはなかったばってんね。

 

―――その青年クラブは何をするところだったのですか?

 基本的には、昔は、何でしょう・・・・・板張りやったですもんね、やけん、そこには剣道の道場みたいなところでした。剣道道具もあそこにあったですもんね。面とか胴とか。自分が入った時分にはあんまそんなことははやりよらんやったばってん。それから、共同芸能の風流がね、風流の稽古とかですね。この吉田あたりでは毎年秋のくんちには、葦筒神社で奉納するわけですよね。風流鐘があるとこをは風流鐘を奉納する。踊りの入った風流をやるわけ。風流がなかところは劇団でしてみたり、地元の手踊りとか。それがずっと回ってきて、春日、もろいわ、東吉田、下吉田、それからずっと回って、西吉田とかね、それが八年に一ぺん回ってくるわけで、部落を回して、八年ぶりに回ってくるとですね。それで、風流をやるわけです。そこで、風流を奉納するためにも、練習するわけ。夏中。子ども風流やけ、34歳〜青年団くらいまで。

 

―――青年クラブは何歳くらいまでの人がいましたか?

27までくらいかな。嫁さんもらうわけではない。結婚したらでてく。

 

奥さんの話によると、結婚するまでということはなかったらしい。

 

―――「よばい」のことを聞いたことがありますか?

 はい。昔はありよったそうですね。まぁ、何年ぐらいやろうかね、普通ありよった模様です。私が青年団に入った時分まではありよったやろうかね。

 

 宮崎さんによると、デグミミセに夜に泥棒が入って、それから夜によその家に行くことはなくなったらしい。

 

―――恋愛はふつうにありましたか?

 そうですね、あったろうと思います。

 

 

・戦争について

―――戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?

 戦死者は大分あったろうと思います。直接、爆弾、焼夷弾が落ちてみたりということはなかったですね。井出川地区には、一つ焼夷弾が落ちたですね。

宮崎さんの話しによると、はっきり分からないが、3分の1くらいの人は戦争に行っていたらしい。

 

―――村は変わってきていますか?

 はい、昔と大分変わってきとるですね。第一に、一番変わってきたのは道路、車でしょうね。一番目に見えて変わったところは。それから、家。昔はほとんどが、茅葺屋根やったですね。今はほとんど瓦になって。家の数は、戸数は減りました。

宮嵜さんによると、この地区でも過疎が進み、子供の数が減っている。この地区の子供は、小学校、中学校で17人で4キロ離れた学校までバスで通っているらしい。

 

 

●感想

 今回、嬉野の下吉田へ現地調査に行ったことは、とても勉強になったと思います。知らない人の家を訪問し、お話を伺うということに最初は緊張や心配もありました。

しかし、実際に宮嵜さんのお話を伺っているうちにそのような緊張や心配もなくなり、集中して聞くことができました。地名が周辺の環境を表しているものだったり、私たちの知らない習慣がたくさんあったりと、お聞きしていたこと全てが、とても興味深いものでした。今回の調査を通して学ぶことの楽しさを感じることができました。この調査の記録が歴史を後世へ伝えていくことに役立てれば幸いです。最後になりましたが、私たちを温かく迎えてくださり、貴重なお話を聞かせていただいた宮嵜さんご夫妻には、大変感謝しています。ありがとうございました。(長佐江子)

 

調査に行くまでは、全く知らないお宅に訪問するのでとても心配でしたが、宮崎さんご夫妻がとても親切にしてくださったので、とても安心してお話を伺うことができました。実際に足を運ばなければ聞くことができない話を聞いたりして、貴重な体験ができ、とても有意義な調査になったと思います。昔の習慣についての話は、とても興味深かったです。今回の調査を通して知った、今はもう失われてしまった地名や生活習慣を残していきたいと思いました。最後になりましたが、調査に協力していただいた宮嵜さんご夫妻、本当にありがとうございました。(津田悠美子)

 

 

●調査に協力してくださった方

宮嵜清之さん(昭和9年生まれ)

宮嵜タキヨさん(昭和14年生まれ)