歴史と社会レポート
1MD06228P 加治木 靖子
1MD06229S 甲木 宏美
1MD06242M 冨山 ひろみ
聞き取りした方の名前:福田 徹;昭和12年生まれ
調査した地区:佐賀県嬉野市大字岩屋川内甲(下岩屋三区)
調査実施日:平成19年1月13日(土)
<一日の行動記録>
10時40分 大田さんの家に到着
調査
12時10分 休憩
12時50分 調査
14時30分 大田さんの家を出発し、福田さんに下岩屋を案内してもらう
16時40分 バスに乗る
<調査内容>F:福田さん S:生徒
※始めから土地説明までは省略しています。
F:嬉野温泉の歴史的なとことか(話そうか)。
F:神宮皇后が朝鮮征伐にいってね、嬉野温泉に来られて、それからあの白鳥。
鳥がとにかく怪我しとるわけ。白鳥が。そして鳥が温泉に浸ってよくなって飛び立ったわけ。
そして神宮皇后があなうれしな〜ちゅって言われたけん、うれしのっちなったわけ。
S:あぁ〜!!すごい。
F:神宮皇后って女の人よ。
S:女の人なんですか。
F:総大将でこられて、朝鮮征伐をして、そして嬉野の地に来られたわけ。神宮皇后がうれしやっていわしゃった。とにかく鳥がもう1時間もせんでぱっと飛び立った。
S:すごい。
F:昔はだぁーっと温泉が噴出しよった。
S:どこでもですか?
F:うん、どこでも。うん、旅館街たいね。そこのお風呂に入りよったと。川を。
S:川から温泉が出るんですか!?
F:そう。昭和35年くらいまで。
だけん今でもうちが温泉ひいとるのだって93度ある。
S:93度ですか!?
F:熱くてさ。だから西九州一の大温泉街なんよ。
S:有名ですよね。
F:今はもう温泉の湯壷はどこでも掘ることはだめばってん、戦前の6つか7つある、それをずっと配湯しよる。
S:牛で田んぼを耕してたんですか。
そのときの掛け声とかあったんですか。
F:それはね、右が『けし』、左が『わ』。止まるときは『とうとう』。
行くときはなんて言いよったかな…。ただ鞭をたたいて、そうして耕しよった。
だから中学校くらい、昭和27、8年まで耕しよった。
S:耕す時は牛の上に乗ってたんですか。
F:いや乗らん。鍬を持って、引っ張って耕しよったんよ。牛にひっぱられて。
もう69(歳)だから、だいたい55(歳)くらいまで、俺たちの年代くらいまでは知っとる。
S:牛のえさとかは何を?
F:雑草とか。
S:雑草でいいんですか。
F:そう。昔は雑草が豊富だから、今はないけど道沿いにもたくさんあったから。
S:それを食べさせてたんですか。
F:そうそう。そして糞とかは『ダンコン』って言いよったんよ。
それを畑に撒いてね。今は肥料がいっぱいあるけど。昔はそれで。
昔は有機肥料とかないけど、昔は無肥料。だから野菜のおいしくてね
お米でもおいしかったんよ。有機肥料使わないからね。
S:野菜とかも作ってたんですか。
F:そう、自給自足ね
S:害虫とかつかなかったんですか
F:うーん、あんまり聞かんかったね。
S:今は(害虫が)すごいですよね。
F:あのころはね、魚がすごいすごい、川でいっぱい、えびとか蟹とかいっぱい。
S:それを食べてたんですか。
F:そうよ。自分がとってうなぎとかもね。轟の滝とか(うなぎが)登りよった。
すごいって。滝登りとか何百匹。
S:じゃあごはんを炊いたりとかは釜で。お風呂ももちろん釜で。
F:もちろん。お風呂はね女性も男性も一緒に入りよった。ただ女性はちょっと遅く入りよった。一緒に入りたいときは待っとって一緒に入ったりしよった。(笑い)
全部共同のお風呂やったんよ。だけん5人くらい一緒に、釜風呂の。
S:(釜風呂は)でかいんですか
F:そうやけんね、70杯くらいバケツでいれるんよ。70杯は大変よ。
やけん、5件から7件くらいで「おたくが今日は水入れる」って決めとった。
7件から10件くらい。あのころはどこでもみんなそうやった。
S:じゃあ薪は山から取ってきたんですか
F:そうよ。薪は山にいっぱいあるったい。それを燃やして。大変だったよ。
F:それからね、方言が、嬉野の言葉がいっぱいあるったい。
しかし今の時代は標準語しか使わんもんね。やけ衰退するんよ。
嬉野のいい言葉がいっぱいあるわけなんよ。
S:例えばどんなものがあるんですか。
F:そう、10何年前から野球のコーチしよるんよ。もう16年か18年経つかな。
そこで方言を子供たちが全然知らんのよ。例えば「おまえらはどがんしよっとね。こたわからん。」こたわからんってわからんでしょ。
S:わかりません。
F:「何もわかってない」ってこと。「こたわからんでこのくそたれがっ」とか。くそたれはわかるでしょ。
S:なんとなくわかります。
F:それとか、「わいしゅ」とか。あなたってこと。それに「わいどま」。
「わいどま」はちょっと汚い。君たちって。「わいどま」とか「わいしゅ」とかいっぱいね、あなたという言葉が5つくらいある。
S:そういうのが子供たちに通じないんですね。
F:広報誌にね、小学校とか中学校の広報誌に(方言を)書いてくれって言われて。
そして(挨拶のときとか)ああやっぱり会長さんの言うことには方言を使ったほうがいいですねって言われる。ああ嬉野の言葉にはいっぱいいい言葉があるけん使いなさいって。今40代、50(歳)以下の人たちが案外使わんのよ。使うのは60代で俺たちくらい。標準語を使うなって。嬉野の言葉はいっぱいあるけん。それが風潮してしまって。市長も一緒に(使う)。市長が55歳くらいやけ。
やけ私は挨拶するときたまに方言をいれて挨拶するんよ。「そぎゃんなった。」そうですねって、嬉野の言葉をまるだしにして。そしたら年寄りの人がああよかったあって、
会長さんの言われた昔の言葉をたまには入れてくれって。老人会とかあるでしょ。
だから私は老人会の半分くらいは方言をいれて、下岩屋の言葉もいれて。
S:『けし』とか『わ』も方言ですか。
F:それは方言…方言といえば方言でしょうね。昔はだいぶ(その言葉を)使うたよ。
S:昔はお祭りとかいっぱいあったんですか。
F:うん、昔はね、例えばここの熊野神社が下にあるけど、そこで相撲大会がありよったんよ。昔は3人の餅のがん大きいとがもろて、抱えきらんけリアカーひっぱってとりよった。おじいさん強かったから。(笑い)
S:今はないんですか
F:今はうちだけ。今は佐賀県で2箇所だけ熊野神社で、轟小からとかくるよ。轟小主催、青年相撲協会主催とかあるよ。年に2回、相撲大会してます。県下いっぱいから。佐賀県というのは案外相撲の強いと。だけんねどっかかな伊万里かな…佐賀農業高校とか全国の高校総体でも優勝するよ。やけ相撲の強いとこ。昔は横綱、佐賀の花とか佐賀ひかりとか、今は魁鴎とかさ。
S:野球とかは昔からからずっとしてたんですか。
F:そうよ。終戦後やから昭和22年くらいから。あのころはね、石を括ってさ、そして布で括って、グローブは布でお袋が作って、バットは木のバット自分たちで作って。
あの頃はね、裸足で学校行きよったんよ。藁ぞうりで。冬は冷たかったね。
しかしあのころは雪が多くてね。今は暖冬で。昔は嬉野も雪がとても積もりよった。それを裸足で学校行きよったんよ。
S:寒そうですね。
S:道路はいつごろ舗装されたんですか。
F:これは昭和35年以降。国道34号線、鳥栖から長崎までが34号線。肥前から佐世保まで通っとるのが35号線というけど、34号線が昭和33年から35年に舗装された。
(私は)国鉄出だから、そのころ私はバスの車掌してたから、だけん例えば石がごろごろしとったんよ。国道も。それをよけにいけち先輩にいわれて、その間にバスがいっとるんよ。(笑い)またバックして。あの頃はのん気なもん。あの頃はね、ワンマンカーになったのが(昭和)45年頃やもんね。だからね、前は車掌さんがしよったんよ。今はワンマンカーでね、定期バスも少なくてね、どこでも廃車になってね、もう貸切はせんようになってね、地域で今もっとるごとある。第3、第4セクターちゅってね。それで嬉野はJRバスが走りよる。少ない。前はね。おれも車掌さんしよったよ。だけん、車掌席っちあるもんね。そこで発車!っちいうて、そこに女学生を5,6人一緒に乗って、窓は開けっ放しでいきよったんよ。やけ男は乗せんのよ。若い子しか。(笑い)でも超満員だった。
S:汽車ですか
F:国鉄バスよ。うちは汽車はなかった。だから嬉野温泉から武雄温泉まで、バスで運びよった。私も(昭和)28年ごろ武雄高校だけん、そのバスに乗ってがたがた揺れていきよった。(昭和)28年はまだがたがた道やった。そしてその前は木炭バスいうて、火をくべてエンジンをおこしよった。それが(昭和)22年ごろまで。石炭バスとね。それからガソリンで。戦後(昭和)25年頃からようやくガソリンになった。今はディーゼルだけどね。前はガソリンだった。ガソリンからディーゼルになった。燃料が高いけね。ディーゼルが安いけね。
S:ここらへんは戦争とかで変わったこととかあるんですか。
F:戦争?戦争でね、この辺はなにーもない。
S:何もないんですか。
F:ただね、空襲警報とか発令とかB29って言ってね。
S:聞いたことあります。
F:それがキラーキラって。長崎、原爆の落ちたでしょう。その原爆の雲をここから見えた。
S:へえー。すごい。
F:小学校2年生のとき。
S:えっ。見たんですか。
F:見た。
S:ええ。
F:今も目に浮かぶ。原子雲が。
S:すごい!
F:(昭和)20年の8月の9日ですから、それ見えた。そして、嬉野の今は医療センターって国立病院のあるから、3時間、4時間その何十台もう焼け爛れた人国立病院に。
S:運んだんですか。
F:そう。そんで見る度に真っ黒で水が欲しいって。ね。何十台ってトラックで運びよった。
S:患者さんを?
F:真っ黒。爛れて。
S:あ、見たんですか。
F:見た、見たんよ。見たにも降ろされた。だめっちって言って。そいがほら、そのどういうあれで原子爆弾の光でやられたかも分からんから、もう爛れて、顔はひどい色でさぁ。今でもちょっと思うとわぁっち思うこともある。
S:ですよね。じゃあ、戦争中とかは、食事とかはどんなものを?
F:うん、うちはね、この辺はね裕福な家庭だから、いっぱい自分たちで自給自足しよったから、もう、例えば都会はね、うちの家内でも佐世保だけど。もうお米も何粒かいっぱい芋とか大根とかでたく。うちはもう、銀飯。銀飯てね、いまもう白いご飯しか食べんやろ?
S:あ、はい。
F:普通やろ?
S:はい。
F:昔はあのぉ、貧困だから、ご飯のないけんね。うちも少しはいもとか大根をいれて食べようかとお袋が言われとるから、そじゃけん、あんた、出しよったよ。ポンポン。
S;すごい!
F:こっちはね全部田舎の百姓さんはね、やはりもうたいていっぱい食べよった。しかし、嬉野町もね、終戦後はあのよそから疎開してきたとか、疎開ってしっとるでしょう?
S:あ、はい。
F:戦争でね、焼け出されて疎開してくるんよ。嬉野町に。田舎に。その人たちはやっぱ、お金はもっとるけど、田んぼとかなんとかも耕しもきらんやろ?
S:はい、ですよね。
F:そういって洋服とかと変えて、交換して、お米と。
S:ああー。なるほど。
F:うん、そいでも、着物とか洋服とかなくなると食べれんでしょ?そいやけん、学校の弁当はね、お芋いっちょとか持って来よった。その子供たちは。そいやけん、かわいそうやからやりよった。ほして、あの頃はね、弁当温めるっちてあの、スチームでなか、石炭でね。あの全部弁当持ってきたもの全部そこに運んで。
S:運んで、あとバァーって(弁当を周りにおいた)?
F:ほかほかでね。そいで、昔はね、塩鯨と、今は鯨は高いけどあの頃鯨は安かったんよ。鯨と梅干と2つで。そいで、梅を入れたらねあの、弁当汁ってあの、梅はアクが強いけんほげるんよね。弁当が、箱が。うん、まるーってほげて。そっからまた火が入ってね。いろいろ工夫したことがある。
S:すごい。で、なんか犬の肉とかは食べてたんですか。
F:いや。あのね、肉はね、うーん。やっぱり、牛がね
S:多かったんですか。
F:うん、やっぱ自分たちで殺してね死んだりしたらね。すぐね。そげんとは食べよった。
S:猪も食べるんですよね?
F:うん、あの頃は猪は今は出てくるけど、もう山奥におるからね。で獲れんわけよ。
S:ああ!
F:あの頃は、ほら豊富だから。
S:ああー。
F:今なって、ここ10年くらい猪とか狸とか狐が山から降りてくるけんね。いま、食べもんがないけんね。
S:ですよね。
〜昼食休憩後の調査〜
聞き取りをした方の名前:大田さん
S:あの、シーボルトの足湯ってのがあるらしいですね。
O:ああ!シーボルトの足湯ね。街の中にね。今は足湯ってどこにでも出来とるとですね。足をつけると血行がよくなるけんって言って。健康のためにっちことで。あの、シーボルトも嬉野の温泉に入りに来よったとなかですかね。
S:長崎街道が通ってますよね。
O:はい、長崎街道。(地図上による説明のため省略)
S:さっき、あの、藩のお米を集めるところがあったとおっしゃったじゃないですか。この辺は何藩になるんですか。
O:鍋島。
S:あの蓮池藩ってのがあるって聞いたんですけど。
O:ああ!蓮池藩。分かれとっとですね。あの嬉野は。
S:ああ…。
O:あの、そいでね、さっきずっと水路があったと言いよったでしょう?溜池。
S:ああ、はい。
O:えーっと、そじゃけんがここにずーっとですね…(地図上の説明のため省略)
S:お魚とかにはあまり困らなかったんですかね?
O:魚はですね、そのぎとか…
S:あぁ…にしそのぎとか…
O:そのぎは魚屋さんが余計におったですもんね。魚屋さんが行商にくるですもんね。嬉野はほとんど。こう…かついで…
S:塩とかもですかね?
O:塩はどうしよったかしらんですけどね。魚はほとんど、あのそのぎの魚屋さんが…ふなどさん…あの舟人って書いて舟人。そでもう、毎朝、ずっともう…私たちがしってからは嬉野までバスで来て、バスから降りてかついでずっと歩いてさるきよったですけどね。それでお米と魚と代えて。物々交換で。こっちが米で。
S:米は豊富にあったんですね。
O:そうですね。そいで私たちのころ小さいころまでは、もうほとんど物々交換でしたよ。私たちが学校に行く頃までは。
S:じゃあ米はそれと食べる分くらいですかね?売りにだす分とかは…?
O:あぁ売りに出しよったですよ。嬉野は大体水田が少ないもんですからそげん余計はなかですけどね。有明のような水田はなかですけんが。
S:あぁ…
O:そですけん、茶畑が私たちの小さい頃はあちこちにあったとですもんね。そいでん終戦後ですもんね、こげん大々的な茶畑は。そりゃ鹿児島とかはもうほとんど終戦後ですもんね。茶畑は日本でも静岡が一番、鹿児島が二番てあるけど鹿児島はほとんど芋畑やったけんが。
S:他に売り物になるようなものは…?
O:この辺はもうほとんど自家用。お店に出てるのはほとんどよそからきとっとですたい。
S:みかんもあるってきいたんですけど
O:はい、みかんは…嬉野…吉田地区ていうのいうのがあってそこに少しあるだけで、佐賀県はみかんは日本でも三番くらいになっとうんじゃなかですかね。でも嬉野の農家といえばお茶ですもんね。ほとんどお茶で生計をたててるくらい。
S:じゃあ売り物になるのはお茶くらい…?
O:はい、もう今は米も売り物になったけんてたいした金にはならんし。そいけん今はもう農家といってももう勤めが主流で。純農家といえばそうですね…5パーセントくらいですかね。どんどんもう年寄りが農業して子供が勤めっていう…
S:だいぶ話とびますけども山の幸とかは?
O:やまいもなんかは私たちの小さいころは山にとりにいっとったけどばってん今のやまいもとはだいぶ違いまして粘り気がもちまして。もう雑木林がないからやまいもももうなくなってしまったですもんね。
S:なんか山菜とかでとってきよったものとかあります?
O:山菜はわらびとかぜんまいとか…ぜんまいってしっとう?
S:あぁあのわらびに似た…?
O:そうそう。ぜんまいのほうがこりこりしておいしいですもんね。
S:げらんとかってありました?
O:あの毒のげらん?
S:川にまくとかって聞いたんですけど。
O:昔はねぇ、げらんっていってげらんをこう…汁を出してそしてうなぎとり。
F:あぁ毒流し。
O:椿油。あの椿油のかすを毒流しに。でもげらんのほうがひどか。
S:食べても問題はないんですか?
O:いや内臓をはずせばよかと。そいで魚も昔は余計におったけんが。
F:うなぎてごっていって長いてごがあってあれをつけてうなぎががばがばはいりよった。
O:私の学校にいきよったころはもう毎朝朝起きのけいこっていってから夕方とるんよ。
F:それからねぇびんつけってありよったんよ。丸いびんがあってそれに穴をあけてからそして米のぬかをつけておいとくわけ。魚がそしたらいっぱい、そんなかに。昔は味噌とかお醤油とか全部じぶんかたでつくりよったんよ。だけん、今よりおいしかったわけよ。そしてもろみとかいらんくなったもので作るわけよ。昔の人はたいしたもんやったたいね。昔は山にイチゴとかなっとったけん果物は豊富。かきとかね。
S:へぇぇー
F:冬には山遊びとかそがんと。めじろとりとかね。とりもちをつくってですなぁ。
O:そうそうとりもち。
F:とりもちの木ってあるんよ。それを皮はいで…こうセメダインになるわけなんよ。それをこう枝につけてぴたっとめじろをとるわけよ。だけんもう遊びはいっぱいよ。
S:はぁぁ…
O:竹馬作ったりとかね。今はもうパソコンとかテレビとかねぇ
S:アハハ
F:だけん今は目が悪かったりね。もう70なるけど遠目がきく。1.5.
S:えー!!1.5??すごーい!
F:本とか読んだことなかったけん。学校も国民学校なんたい。あんたは尋常高等小学校ですな?
O:はい。
F:終戦後が国民学校。
O:私たちの学校にいきよったころは戦時中やったけんが勉強しろげないいよらんやった。ローマ字もならっとらんし。
S:戦後すぐアメリカ軍とかこなかったんですか?
F:そうそう来たと。もう終戦後ジープでね。そいで子供ばよせてチョコレートやらすと。そやけ子供たちが集まるんよ。
S:へぇぇー
F:今中国がそうなんよ。桂林ちゅうて中国のね。この前行ったんやけど50円玉とか500円とか拾ってもう涙が出たよ。昔を思い出して。60年前。あすこんとこは貧困やもんね。もう北京とかは豊富ばってんね。
O:上海とかね。
F:こっちはかわいそうで涙がでたよ。500円に10人くらい重なってね。60年前に駐留軍からガムもらいよったのと同じで。そがん時代もあったとね。
O:戦時中には各家にウサギを飼わせてね、集めて皮だけはいで肉はかえして皮は兵隊さんの防寒にね。私たちはくじらの時代ですもんね。やけん昔はどこの家も軒下に鶏を飼うようにしとったですもんね。
S:それは卵用?
O:はい、そして卵産ませてそれを食べて。牛肉とか高くて食べられんですもんね。祭りの時はいつも鶏でしたもんね。
F:祭りんときが自分方でまんじゅう、あがんとを作ってね、よそ様にもっていくわけよ。今日できました。っていってね。そやけん5銭とか50銭とかもらうわけよ。小遣いば。今の100円とか500円ね。飴玉ってあるやろ?それもいもで作るんよ。
O:労働賃と物価との格差がひどかったけんね。昔は。物が高うして。あのー一日働いて部落の集会では一日働いて一升がたちいいよったけんが。今は一升いくらくらいかいな?
F:一升は1.75キロやろね。やけん一日日当500〜600円くらい。
O:えっとよばいとかなんとか聞きたいんやったかね?
F:あぁよばいね。昔は青年が二十歳前あの人好きやていってからね。
S:よばいって女の人の家にいくんですよね?
F:そうそう。まあ恋愛ならいらっしゃいていうんやけどね。俺たちのちいさいときまであったよ。俺たちは経験ないけどね。
S:青年クラブとかってあったんですよね?
O:あぁあったですね。一人前ていって例えば日当が3000円として青年クラブに入ってなかったら2000円しかもらえんかったんよ。
F:あぁなるほど。仲間はずれですたいね。
O:そいけんが青年クラブに入って大人一人ていいよったんよ。
F:今はもう公民館組織みたいになってね。
S:規律とか厳しかったんですか?
F:厳しかったくさー。もう年齢が一つ違うだけで。湯飲み洗いとかごはん炊きとか。
O:時代劇とかにでてくるようにこうひざついてこんばんは、こんにちはってするでしょ。もうそんなことせんと怒られよったけん。
S:はぁぁー
〜再び福田さんと大田さんへの質問〜
O:あんた達はあの担ぎ嫁さんってしらんやろ?
S:はぁー知らないです。
O:担ぎ嫁さんちゅうて昔はねもう、私たちの世代はそういうことなかたばってんが、もとはあの、ここに好いたもん同士居らしたわけや。男とおなごとね。そいで、あの、好いて好いてたまらんでおっても、あの親がほとんど昔は親が決めよらしたけんが。お前はあそこに行けとか。あん人と一緒になれとか。そじゃけん親が決めてあの、こいとこいと好きばってんが、この人と一緒になさすっちゅうわけね。そやけん親の言わすもんやけん仕方なしにこう一緒に結婚式まで決めて、そいでこの人とこう一緒に結婚式の日取りも決めて、その晩になってからよ、結婚に行くごとなってからどうしてもこの二人が別れとうなかと言ってね。そいでね、あの青年仲間、今の青年クラブそういう人にお願いして、そいで今夜はこのおなごば担いでくれって言うて。頼んでね。ほしてこの嫁に親の決めた人に行かんようにあの担いでくれっていうて頼みようたわけ。青年の仲間がね、そいでこの人を嫁に行かすとばさ。途中で担いで連れてこらしたせ。もうどうしてもこの二人一緒に、好きで好きでたまらんもんやけんが、この人もこっちにって隠さすんよ。好いた人の家にかくまってさ。家族とか親戚とか来てもおっぱらすわけよ。しきたりのあったとでしょうね。好きな人やったら一緒にならすという風習があったとじゃなかとですかね。あの人は担ぎ嫁さんやっていうてね。
S:いい話や。
O:大正時代までは相当居らしたとなかとじゃないですかね。
F:おれも初めて聞いた。