下岩屋の聞き取りの報告
1LT06016Y 井上雄介
1MD06075S 広松謙一
はじめに
この報告は、2007年1月13日(土)に佐賀県嬉野市で聞き取りした内容を、そのまま書き起こしたものである。口語でそのまま書き写したため読みづらいと思われるが、無理に書き言葉・標準語に直すことは、徳島県出身の筆者には難しいことであるし、またそのことにより聞き取りの価値が下がってしまうことが大いに考えうるので、お許し願いたい。なお、そのなかには現代社会においては、倫理的にはばかられているような言葉もあるが、公表するにあたって障りがあるなら任意に修正されてかまわない。
書き起こすに当たっては、(〜)は標準語以外の読み方、もしくは意味が読み取りやすいように筆者が補った言葉を表し、ルビも地域独特の読み方を示したものである。カタカナは一般的にカタカナで表す言葉のほか、音写、漢字の分からない単語にも使ってある。・・・は間や省略、聞き取れなかったところを表す。
筆者の力不足や録音機の雑音などにより正確に書き起こせなかった部分は、聞き取りの内容の後に、箇条書きで載せた。
また、それとは別に聞き取ることが出来た地名の一覧を聞き取りの内容の前に、いただいた子守歌の歌詞・猿浮立の興りの資料を聞き取りの後に載せる。
聞き取りさせていただいた方は、太田利雄さん、永松辰二郎さん、福田徹さん、太田昭登さんの4人の皆様で、聞き取ったのは、広松謙一、井上雄介である。
A地名一覧
1.ウシノトウ(牛の頭):現在の一ノ坂(イチノサカ)内
2.ツカノモト(塔ノ元):現在の山伏塚(ヤンボシツカ)内の川辺
3.ドウミョウジ(道明寺):現在の山伏塚内の川辺
4.コガワチ(古川内):轟の滝付近か
5.タンゴウ(谷川):原ノ前(ハラノマイ)の谷
6.メクラオトシ(盲目落):辻(ツジ)の谷辺
7.タナカモト・タンナカモト(田中元):不明
8.サイトウ(才道):不明
9.ミヤノマエ(宮ノ前):宮ノ元(ミヤノモト)
10.コイデ(小ヰ手):島ノ元(シマノモト)〜椎葉川
11.タノカシラ(田ノ頭):田ノ頭
12.ヨシノモト(芦ノ元):島ノ元、日子山(ヒコサン)側
13.カミヤマ(神山):馬場(馬渡?)
14.ハナノキ(花ノ木):柿ノ木田(カキノキダ)〜現住宅
15.コウクボ(川久保):轟原(トドロキバル)の川辺
16・エビガタロウ(海老ヶ太郎):柴原(シバワラ)の谷
17.モウタイ(馬渡):馬渡
18.シバワラ(柴原):柴原
19.クロイワ(黒岩):黒岩
20.ツカノハラ(塚原):辻の先端
21.サンダンガク(三反角・三段角):田ノ頭内
22.ナガオ(永尾):長尾(ナガオ)
23.マツヤマ(松山):亀頭六(キツロク)
24.アンノタニ(庵ノ谷):庵ノ山(アンノヤマ)の谷
*オニイワ・オニブチ(鬼岩・鬼淵):椎葉川脇
(番号は付属の地図上での番号と一致する)
B聞き取りの内容
[太田利夫さんの家での聞き取り・前半]
井上:どこか特別な名前のついている場所はありますか?
太田利雄さん:字というものは、だいたい明治23年ごろ新しく出来たんですよ。それでずうっと以前の名前が、あなた方が分からないって出しとる、地名ですもんね、これは牛の頭(ウシノトウ)とか、道明寺(ドウミョウジ)とか、むかしお寺なんかがあったところをさして・・・字は山伏塚(ヤンブシヅカ)っていうほんとの字ですもんね。それで谷川っちゅうのは、谷のところを谷川って書いてタンゴウ、タンゴウって呼び名で言よったもんね。
井上:それがどこに当たるって言うのは?
太田利雄さん:それは、だいぶん調べてですよ、ここに書いたとですよ・・・(地図をみる、資料を配ってくださる)・・・だいたい調べたところが26ヶ所かあったですもんね。そのうちに分からんところは3ヵ所あったですもんね。むかし、呼び名で、いまの登記の字でなくして、ただ呼び名で言よったのが、ここにチェックして出されとったとですもんね。いまの字のところもあるとですよ、このなかにはですね。・・・ほなけんが、ここに場所をかいとったとですよ。・・・@番の牛の頭ってあるですもんね、牛の頭は一の坂(イチノサカ)内の・・・これは分からんでしょ・・・ここに坂があるですもんね、一の坂内のこのへんに、やけんウシントンサカっていよったもんね。ちょうどこのへんが平地でこのへんが坂になっとうやけん、そやけんこのへんが牛の頭ですもんね。そやけどここの道でなくして、もとの道はここ、この道はちょうど明治になってできたとやけんが・・・
広松:牛が通ってたんですか?
太田利雄さん:牛の頭や(言うけど)・・・急な坂やけど・・・
井上:急な坂なんですか?
太田利雄さん:急っていうが、車は行くけんが・・・A番塔が元(ツカンモト)は山伏塚(ヤンボシヅカ)・・・川があるとですよ。山伏塚、このへんやったかな・・・
井上:何か塚があったんですか
太田利雄さん:塚があったとでしょうね。今はちょっと分からんとですよ。道明寺の・・・同じ寺の横にあったとじゃなかですか。川づたいに、川はずっと下がっとるけんですね。
井上:何か廃寺があったんですか
太田利雄さん:まあ、昔のことやけん。仏教がはやったころやけん、もう800年も前やけん。
井上:古川って言うのは?
太田利雄さん:古川内って書いて、コガワチってしちゃったもんね。古川内ってしちゃったところが・・・そこは分からんもんね。オガワチ、オガワチって言よっちょったが・・・このへんじゃなかろか・・・川があっちへ流れ、こっちに流れ、ここはこの川とこの川とこの川と、よったとこですもんね。轟の滝っていうとこがここにあるけんが。そいけんが、このへんの水田は丸石ばっかりですもんね、川石ばっかりですもんね。そやけん、このへんが、オガワチ、オガワチって言うばってんが、フルカワチってこのへんのこととじゃなかかねと思とるばってんが。
井上:オガワチって言よったのが、コガワチってなって、漢字で書いたかんじですか?
太田利雄さん:いまは、オガワチっていうて、小さな川っていうて、こっちを言うですもんね、このへんば。・・・そやけんが、古い川の内って言うけんが、もとはこのへんば流れよったじゃなか。・・・そやけん、はっきり分からんやったけん書いとらんもんばってんが。
タンゴウっていう、谷川、5番の、谷川が原ノ前。原ノ前ノ谷ですもんね。あの、福田さん方の上の。
福田さん:うちの上は谷になっとう。
太田利雄さん:そいけんが、あそこあたりをタンゴウっていうと・・・
福田さん:谷川って書いて、タンゴウって言う。
太田利雄さん:それから、盲目落(メクラオトシ)。盲目落は辻の下やもんね。・・・あそこは急になっとるけんが、盲目さんが落ちていんだっちゃなかとですか。・・・あのへんがメクラオトシっていうもんね。・・・このへんがこっちへ急になっとっけんが・・・そこは1bぐらいの谷があるですもん。そのへんがメクラオトシって言う。
井上:こっちに坂がある?
太田利雄さん:この道はずっと坂です。・・・それから田中元って言うとこ、分からんもんね。
福田さん:この田中元ってどうやって調べたの?・・・とにかくこのへんでありましょうね。
太田利雄さん:むかしは、水田へいくいうときは、タンナカに行たくるって行きよったですもんね。水田のことを。
福田さん:水田のことをタンナカという。田の中で田ン中。
太田利雄さん:そいでん、原の前のタンナカに行たくるっちゅて行くときは、水田に行くときをいよったわけ。原の前のタンナカに行くとか、辻のタンナカに行くとかきいて。そのタンナカじゃなかかねと思う・・・
太田昭登さん:田ノ頭ってあるけんが。・・・
太田利雄さん:そいけん、字とかつくるときに、こういうふうに田ノ頭かなにとかつけたんやなかかね。・・・
福田さん:タンナカが、ずうっとなって、タノカシラとなったのかもわからんですね。・・・
井上:これはタンガシラとかは言はんのですか?
福田さん:タノカシラ。
太田利雄さん:そいから、才道(サイトウ)っちゅうても分からんもんね。聞いたことなかもんね。・・・そいから、宮ノ前(ミヤノマエ)っていうとは、熊野神社の、あるもんね、今ね。・・・今の字では、宮ノ前やもんね。むかしは宮の元(もと)って言よったとじゃなかですかね。そいから神山(カミヤマ)っていうとこね、ここですよ。神山って、ここに岩のあって、そこに神さんを、神さんて、ただに石をおいてあっただけと。もとは個人所有じゃなかったばってんが、区の所有やったですね。部落の所有やったですね。そいが、もう40年前ぐらいに処分して個人の所有になったばってんが、神地(カミジ)、神地っていよったですもんね。むかしは神地っていえば、もう一般の人は足を踏みこむことはできないとかなんとかいって(笑)。
福田さん:コクンゾサンといようとこですか?
太田利雄さん:コクンゾはまた上やもんね。・・・そいけんここが、神山。ちょうど馬渡(モウタイ)のこの端。そいから花ノ木(ハナノキ)・・・花ノ木ていうとこ柿ノ木・・・ちょうど、大野原線の・・・
福田さん:いま、あなたたちが来たとこね
太田利雄さん:そいけん、ここが住宅で、ここに溝が・・・溝の下側が花ノ木っていよったですもいんね。・・・そいけん、花の木があったじゃなかろうか。・・・芸者置屋の・・・
福田さん:お地蔵さんがあったんはその関係?
太田利雄さん:ありゃ、墓の・・・
井上:花っていうのは、実際の花ですか?
広松:花っいうのは、桜の花ですか?
太田利雄さん:いや、なんの花かは知らん。そいけん、なんか花があったけんが・・・そいで、川久保ってあるですもんね。コウクボ・・・コウクボ、コウクボって言よったばってんが。コウクボは、こっちの川の上・・・次、海老ヶ太郎(エビガタロウ)、柴原(シバワラ)。柴原の、ここは谷になっとるですもんね。ここはため池やもんね。そいけん、これは字はあとでできたんやろうが、このへんはずっと谷になって、ここに清水もでよったけんが、ここに水田があったですもんね。そいけんが、水がでるもんだから、エビがおったとじゃなかですか。・・・むかしは山の谷の川には、エビがおったとですもんね。いまはおらんばってんが、むかしはぴんぴん、ぴんぴんしよったですもんね・・・そいけん、こういうふうにして海老ヶ太郎、太郎はどういうふうにしてつけたか知らんばってんが。・・・馬渡(モウタイ)はそのまんまモウタイ。・・・そいから、柴原(シバワラ)もそのまんまシバワラですもんね。・・・そいから、黒岩(クロイワ)もそのまんまクロイワ、今の字・・・黒岩って、岩も黒かですもんね。・・・
福田さん:ほんと、このへん・・・ここは黒岩やないか。ここ(太田さん宅)は高見(タカミ)・・・
太田利雄さん:・・・塚原(ツカノハラ)っちゅうて・・・辻(ツジ)の先端、ここですね、このへんは塚の・・・ソメカクのへん・・・そいから、三段角(サンダンガク)っていうとこですよ、このへん、三段角っていうて、いまは補助制になってぜんぜん他のとこでもずっとおっきい水田がしようとばってんですね・・・もとはここにひろかたある三段があったとですよ。他は、小さな、何eか・・・そいけんこのへんが平地になって、ひろか田んぼがあったけんが、三段角って、そいけんがわたしたちはその広いタンナカだけを、三段角とおもとったわけよ。そいけんが、・・・むかしからそこが三段(反)あったんじゃなかろうかね。・・・
福田さん:永尾(ナガオ)、つぎは・・・
太田利雄さん:永尾は、こいやもんね。
福田さん:ここは上岩屋ですか?
太田利雄さん:下岩屋。ちょうど、・・・の境の
福田さん:マトバ?
太田利雄さん:いや、ノウメンドウの下側やけん。・・・いまこの長尾のなかもんね。・・・つぎが松山(マツヤマ)、松山っていうとこは亀頭六(キツロク)の、・・・松山って書いてあるけん。松の山のなかやったもんね。高見っていうとこは、高かけんが。・・・それから、庵の谷(アンノタニ)。庵ノ山(アンノヤマ)の、この、海老ヶ谷の谷ですもんね。これが庵の谷って。そいがお寺の・・・
福田さん:宗運寺(ソウウンジ)っていう。宗運寺のところが庵ノ山。
太田利雄さん:そいけんむかしは庵やったとかわからん。
福田さん:庵ってわかる?・・・お寺の出先機関ったい。むかしはいっぱいあったんでしょ・・・
太田利雄さん:お寺が本店とすれば、支店たい。
福田さん:むかしはいっぱいあった。福岡県もどこでもあったはずよ。
・・
井上:芦ノ元っていうのは?
福田さん:こいは芦ノ元(ヨシノモト)。
太田利雄さん:島ノ元(シマノモト)、日子山(ヒコサン)ていう向こうの山やもんね。山の、轟の滝の上のぼったところ。
福田さん:轟の滝があるんよ。観光客がいっぱい歩く。
井上:芦が?
太田利雄さん:いや、今はなかばってんが。もとはこのへん全部、芦の生えとるだったですよ。そいで、熊野神社もですね、熊野神社がここに来たのはもっとあとで、・・・1080年ぐらいまえに、山のところにあったとですよ。そのへんは狩猟民族がもとはおったでしょ。平地にはいろいろ芦とかなんとかで、もうなにもできんかったけん、狩猟民族あたりが、山の土地のいいところを切り開いて、何かをつくりながら、狩猟も、イノシシとかとって生活しよったやなかですか。
井上:今でも、おりますか、イノシシは?
福田さん:今は、イノシシすごいって、出てくるんよ。
太田利雄さん:そいけん、そのころは、このへんは家はなんもなかったとでしょうね。神社がでけるっていうことは、そこに住民がおって、はじめて神社ができるわけでしょ。そいけんが、神社がいちばん最初は1180年ばかり前に神社がでけたわけだから、もう2,000年ぐらい前から人がすんどったわけでしょ。山のほうには。そいけんが、そのころは、ここに人間はすんどらんで、こっちに人間が住むようになってから神社がここに来たんじゃなかかと思う。そいけん、この神社のあとは今もあっですもんね。
井上:どこらへんに?
太田利雄さん:この図面にはなかばってんが、祭台(代)(サイダイ)っていうとこにあるですもんね。もっと山のほうに。
福田さん:上岩屋の奥に調べにいった人が調べとう・・・
太田利雄さん:・・・そして、椎葉というところにも、人が住んだ跡があるですもんね。墓なんかが、それをお祭りなんかを今でもしようけんが。
井上:山だと、炭焼きとかがあったんですか?
太田利雄さん:そのころは、なかったんじゃなかですかね。炭焼きはずっと後じゃなかですかね。煙がでんように、部屋で焚くっていうようになってからやけん。
井上:炭焼きの、そういう経験とかは?
太田利雄さん:炭焼きは、自分のは焼かんかったけど、手伝いにいっきょったですもんね。学校でも炭をやっきょったですよ。学校に、炭窯をつくってですよ、それを焼いて、・・・火鉢、あれで炭を焚いて、それに弁当おいて、弁当ぬくめて食べよったですもん。
井上:炭は、基本、手伝いに行って、貰う感じですか?
太田利雄さん:それは、戦時中でですね、戦時中は、炭を焼いて、軍部に出したり、木炭生産ちゅうてしよったですもんね。そいで、終戦前ごろは自動車なんかも、木炭車ちゅうてあったでしょ。木炭を焚いて、そのガスでエンジンをおこして、きいたことないですか。・・・
福田さん:昭和20年代まで。
太田利雄さん:戦後まであったやろ。・・・そいで力がなくて、坂道なんかも、全員降りれーちゅうて・・・そいで昔は、ものを大事にしてですね・・・このへんに佐賀藩の、米を集めるわけでしょ。そいでこのへんに倉庫があったらしかですもんね。そいでこの倉庫に、火事ができたばあいに消すために、これは何`あるか、椎葉川からひいてですよ、こんな水平みたいな道ですもんね、100分の1、50分の1ぐらいの(勾配の)水路でずうっとひいてですね、1`500(b)ぐらい。・・・
今はゲートボール場になっとるばってんが、そこのため池に流れ込むもんね。・・・
そいから、このへんに倉庫があったらしかですもんね。・・・
太田昭登さん:この分かれ目に鬼岩(オニイワ)ってあるですもんね。・・・椎葉山荘がここにあるけんが・・・三叉路の・・・鬼淵(オニブチ)って、深ーい淵があるですもんね。・・・
・・
福田さん:新兵衛さんはお茶をね、・・・嬉野のお茶の発達の元祖ですもんね。・・・吉村新兵衛さんのおかげで嬉野茶は発展したんだから、新兵衛祭りっていうのを毎年するんよ。お茶のちょうど、5月の境に、新茶を摘むとき新兵衛祭りをするんよ。・・・
・・
太田利雄さん:小ヰ手(コイデ)、言はんかったねえ。
太田昭登さん:ここは、イデンコ、イデンコ。牛とか、馬とか洗いよったですね。・・・用水の井手の。
福田さん:牛つかって田んぼを鋤きよった。・・・嬉野温泉のいわれ、神功皇后の、朝鮮征伐の、嬉野温泉に来られて、温泉にひたって、あな、うれし〜な〜といわれたから嬉野温泉。・・・
太田利雄さん:そやから、このへんは昔は、川づたいに、ずーっと温泉が噴き出しよった。いまの旅館もないけれども、ぼこぼこ湧き出よった。・・・そやけど、地下水が限られとって、汲み上げて、汲み上げて涸れてしもた。・・・
井上:じゃあ、水は地下水と用水と、あとため池ですか?
太田利雄さん:いや、嬉野は、用水は、ずっと川の水で。ダムもあるし。・・・山は、谷川の水・・・
(しばらく皆一斉にしゃべって書き出せず)
・・
井上:(牛は)オス・メスどっちが扱いやすいということはありますか?
太田利雄さん:いや、どっちが扱いやすいというんはなかったけんが、オスがコッテ牛、メスがウノ牛。・・・
(ふたたび書き出せず)
・・
太田利雄さん:35年ぐらいまでおったかな。そいから、テイラーとか、コンバインとかできたから・・・そいけん、そのころまではばくろうっちゅうておったけん、やけど、そのころのばくろうはもう、ふつうの(商人だった)・・・昔のばくろうっていやあ、ばくろう、なんだか一代っていうのがあるでしょう・・・いまの高利貸しと同じで・・・この牛は、いい牛だから、悪い牛でも、この牛はいい牛だからって、買わすんよ。・・・
(みたび、書き出せず)
・・
太田利雄さん:・・・(祈願祭としては)今ここに猿浮立(サルブリュウ)っていうのがあるですもんね。それが、祈願祭の・・・これは、昔からあったとを、青少年健全育成の・・・22、3年ぐらい前から・・・子供たちに、夏休みから練習させて・・・
福田さん:ここは、猿浮立ってあるよ。猿が踊る。猿浮立を伝承芸能として、このへんはしよる。子供たちが踊るわけ、猿の格好で。それでね、お猿さんがね、踊ったけん、ここの熊野神社に奉納したわけ。やけん台風とかこんやったとかいわれのいっぱいある。わたしたちたしも岩屋の浮立保存会ってつくっとるんよ。そいけん、たとえば、よそに出て行くとかね、子供で、太鼓、笛、全部子供たちでする。もう、すごいですよ。・・・
井上:猿はいまも出ますか?
太田利雄さん:いや、猿はめったに、このへんは。・・・昔は、子守歌からはじまったけんね。子守歌からはじまって、むかしの歌、地区の名前、ずーっと折り込んでうたいよったもんね。こりゃ方言やけんが。こりゃ動物を折り込んで。もう簡単なもんやもん、昔のうたはね、話すような格好でうたいよったけん。ねんねんころりよや、曲はずっとあとにできたけん。・・・
井上:野焼きとかは、したことは?
太田利雄さん:野焼きは、今はなか。昔はやんよったらしかですよ。この草刈場を。わたしやらのときはなかったやな。
井上:草刈場だけですか?木を切った後とかは?
太田利雄さん:もとはそういうふうに焼場やって、その椎葉っていうところが焼場ってなんかしよったらしかですもんね。山の方、狩猟民族が、何千年も前に、・・・こっちを耕し、こっちを耕しっていろいろつくんりょったじゃなかですか。稗とかなんとか。
井上:じゃあ雑穀類も。稗ぐらいですか?粟とか、稗とか?
太田利雄さん:それは、昔のことやっけんが、分からんばってん。
井上:じゃあ食べたことはないですか?
太田利雄さん:粟とか黍とかは食べたばってんが、稗はくたことなかね。・・・そいで、芋っていうのは、サトイモは何千年も昔からあったらしいですもんね。そいで、バレイショとか、サツマイモなんか、サツマイモなんかが仏教のはじまってから来たでしょ。・・・バレイショなんかずっと後ですもんね。そいけんが、サトイモは、ずーっと昔からあったらしかですよ。そいで山にあって、昔のサトイモって長てで、ぬるぬるして、いまは改良されてサトイモって丸かでしょ。そいでサトイモには、輪がはいっとるでしょ。そいでイモムシって言よったですもんね。シャクトリムシ。・・・そいでこの子守歌にかいとる、ちょうちょなんかもですね、きれいかばってんが、こまんかときは、小さいときには、幼虫のときにはいもむしばいってですね、手でさわりとうなかってですね。そいで、昔の子供もですね、いまの子供はちょっとかわいかばかりのことさ、昔の子供は栄養失調の人が産んだ子供で、顔も赤黒々として、・・・そいでんが、このこもかおはきたなかばってんが、大きく娘になればきれいな娘になるということですもんね。・・・
[太田利雄さんの家での聞き取り・後半]
・・
広松:シーボルトの足の湯っていうのがあるらしいですね。
太田利雄さん:ああ、町の中にね。シーボルトも、やっぱり、嬉野の温泉に入りに来よったとじゃなかですかね。
広松:長崎街道が通ってますもんね。
太田利雄さん:長崎街道・・・だいぶ変わったですもんね。・・・
広松:さっき、藩のお米を集めるところがあったっておっしゃったじゃないですか。あっこらへんは、なに藩になるんですか?
太田利雄さん:鍋島。
井上:なんか、も一つ、支藩があった、蓮池藩ていうのがあったって?
太田利雄さん:蓮池(ハスノイケ)とは、分かれとったですよ、嬉野は。さっき水路がずっとあるって言よったでしょ。そいけんが、ここに境界の石があったとですよ。そいでこれが境になっとったですよ。・・・
井上:当然、こっちのほうが石高、高かったんですかね、こっちが山なんで。
太田利雄さん:さあ。どうやろかね。・・・竜造寺孝信が、大村を攻めたっていいう話はしたですかね?これは椎葉川を渡って、攻めたって伝説があるですもんね。そいけんが、嬉野にきて、椎葉川をわたって、これから上はずっと野原って言よったでしょ、もと。いまは県有林で、ずっと、杉とか、檜とか、植わってしもて山ばかりですけど。ずっと、大野原演習場知っとるでしょ、あれ、ずうっと、大村まで野原ばっかりだったとですよ、山の上はぜんぶ。そいで、はじめ、竜造寺孝信が大村を攻めに行って、負けて、殺されて、死んだとですもんね。・・・そして孝信がしんでから、鍋島が・・・それこそ、椎葉川を渡って、陸のほうからと、それから海からと大村を攻めて・・・
広松:大村まですごく近いんですね。
太田利雄さん:大村は、車で行けば、30分ぐらいで行くもんね。
広松:けっこう、お魚とかもあまり困らなかった?
太田利雄さん:魚はですね、彼杵(ソノギ)・・・彼杵は魚屋さんが、ようけおったですもんね。・・・担いで。
井上:塩とかもですかね?
太田利雄さん:塩は、どうして来よったかしらんがですけど。魚はほとんど、ソノギの魚屋さんが、フナトさんって言よったですもんね、舟人って書いて。そいで毎朝、わたしたちの知ってからは嬉野までバスで来て、そいで、バスから降りて、担いでずっと魚売って、されてましたですけど。もとは歩いて、ソノギから嬉野まで歩いて、魚売りなんかが・・・そいで、お米と、魚と換えて、物々交換で。
井上:じゃ、むかしは米が?
太田利雄さん:こっちが米をやって、むこうが魚をやるっちゅうかんじ。
井上:米は豊富にあったんですね?
太田利雄さん:そうですね。そいで、私たちの小さい頃までは、ほとんどは、米と物々交換やったですよ。・・・
井上:米は、それと食べるぶんとぐらいですかね。売りに出したりは?
太田利雄さん:はい、売りに出しよったです。そいで、嬉野は水田が少ないもんだから、そげ多くはなかですけどね。・・・そいで、茶畑が、あちこちに、わたしたちの小さい頃は、あちこちに、あったとですもんね。そいけん、終戦後ですもんね、今のような大々的な茶業が広まったのはですね。そいで、鹿児島なんかも、ほとんど終戦後ですもんね。・・・日本でも、静岡が一番、鹿児島が二番て言うことあるけど、鹿児島はほとんど芋畑ばかりやったとやけんが。
井上:ほかに売りもんになる、畑の(作物)、とかは。あのへんに植わっとった白菜とかはじぶんちで食べるぶん?
太田利雄さん:いや、このへんはほとんど、自家用だけ。もう、町なんかに、店なんかに出とるのは、ほとんど、よそから。長崎県の大村あたりから。大村は畑が多かですもんね。
井上:なんか、ミカンもあるみたいに聞いたんですけど。
太田利雄さん:ミカンは、吉田地区っていうて、・・・吉田の方にすこしあるだけで・・・そいで、佐賀県が、日本的にも、ミカンが多かっとでしょう。・・・そいけん、嬉野の農家といえば、ほとんどお茶ですもんね。お茶で生計を立てとる。ハウスなんかも、そうよけはないし、何人か指折りぐらい。・・・今、米は、そうたいした金はあがらんし。農家といっても、ほとんど勤めが主で・・・何%ぐらいかねえ、もう、全農家っていえば、5%ぐらい、嬉野でよ。いまは、年寄りは農業して、子供は勤めっていう、私んとこなんか、ほとんど純百姓ばってんが。・・・
井上:だいぶ、話飛びますけども、山の幸とかは?葛根?
太田利雄さん:カンネていうんは、あまりなかですもんね。それで片栗粉をとったりする、このへんではあんまり、採らんですもんね。今は、すこしでもカンネがあれば、イノシシが掘ってしもうて、土手なんか。・・・山芋、芋なんか、小さい頃まではだいぶ、掘りに行きよったばってんが。ばってん、今の山芋とはちごうてですね・・・もう雑木林がないから、山芋もなくなってしもうたですね。
井上:なんか山菜とかで、採って来よったもんとかありますか?
太田利雄さん:山菜とか、ワラビとか、ゼンマイ。
井上:あれ硬くないんですか?ゼンマイは硬くて喰えんって、親父が言よったんですけど。
福田さん:ワラビもゼンマイも食べられるねえ。
太田利雄さん:ゼンマイの方が、コリコリしてね。
井上:ゲランとかアシビとかはなんなんですか?
太田利雄さん:ゲランですか。毒のゲラン?昔はねえ、川に流して、ゲランの汁を出して、そいで、鰻取り。・・・毒流し。ゲランがひどかったですもんね。・・・そいで、椿油、椿油のカスも、カスで、それも毒流し。ゲランのほうが危険と。ゲランは1`ぐらい下まで。
井上:食べても問題ないんですか?
太田利雄さん:内臓をはずせばよか。そいで、むかしは魚もようけおったけん。
福田さん:鰻テゴっていうて、あれを浸けて、鰻とか入んりょった。・・・中にいれるんは、ミミズかタニシ。
太田利雄さん:タニシが一番よかやったですね。
福田さん:そいで、白い水がさーって出るときはいっぱい入っとうと。にごっとうときはなあんも入っとらんもんね。それからね、ビン浸けってやんよったんよ。丸いビンに、このくらい穴を開けて、浸けとくわけ。魚がいっぱい、ハヤとか。
太田利雄さん:酒(粕)とかがいちばんよかだったですね。
福田さん:味噌とか、醤油とか、ぜんぶ自分方でついて、食べよったとよ、昔は。・・・そいけん、今よりおいしかったとよ。そいでそのカスをとってね、醤油のみって今もあるもんね。モロミ。ご飯にかけて食べてん、おいしいけん。・・・昔は、山に行くとき、いっぱい、イチゴとかなっとたけど、果物は。
太田利雄さん:むかしはトビワラっていうて、小鳥ばとって。今は知らんやろ。枝を折って、そこに餌なんかおいてよ、そいで、・・・ほれにのって餌なんか食べに来てよ・・・
福田さん:子供は小学校3、4年から罠をかけてとりよったよ。冬は、山遊び、メジロとりとかね、カッチュウ、ヒヨドリ。トリモチを作ってね、トリモチいうてね、トリモチの木ってあるんよ。それを、皮はいで、セメダインになるわけ。それで、枝につけて、メジロばとるわけ。いっぱい、遊ぶことは。竹馬をつくるしね。今は、あんた、パソコンとか・・・やけん、目が。あなたたち目は大丈夫ね?・・・その環境よ。・・・学校も国民学校だった。尋常高・・・あなた(太田さん)は尋常高等小学校から。子供は、終戦後は国民学校。
太田利雄さん:わたしたちの学校行くときは戦争中やったけんが、勉強せばこっちゃ・・・
福田さん:竹槍練習とか。・・・
太田利雄さん:いまのわたしたち、いまの中学校ぐらい、もう支那事変がはじまったけんが、あまり勉強は習いよらんやったもんね。ローマ字も習いよらんやったけんが、ローマ字なんか、このごろ覚えたようなもんで。・・・
井上:アメリカ軍の人とかは来んかったですか?
太田利雄さん:もう、終戦後すぐジープでね。そいで子供が、よてきて、チョコレート、・・・
福田さん:いっぱい集まるよ、チュウインガムやろ、チョコレート。もいうあわれたい。いまね、中国がそうなんよ。この前、桂林て、そこに行ったらね、・・・五十年前、六十年前を思い出して。中国の、南東、東南か、あそこは貧困だもんね。北京とかさ、あんなとこは・・・
太田利雄さん:戦時中には、各家にウサギを飼わせてさ、いまちょうど北朝鮮が、ドイツウサギ飼わせて、肉にね、しようと、今言いよるけんが、ちょうど、戦時中は各家にウサギを飼わせて、それで、飼って、大きくなして、料理人にもっていって、皮だけとって、肉はかえして、そいで、皮は兵隊さんの防寒着に使う。
太田昭登さん:わたしたちは、鯨の時代やもんね。・・・
太田利雄さん:そいから、ほとんど、縁側の、縁の下は、鶏を飼う。・・・そいでそれを食べてね、卵産ませてね、牛肉なんか、ほどんど高あて食べきらんやったもん。
福田さん:むかしは、自分方で、いまの、饅頭たい、あれを作ってね、よそさまにもっていくわけよ。5銭とか、50銭とかお金をもらうわけ。・・・
太田利雄さん:1銭で・・・1銭玉ちゅうて、・・・2銭飴っていうたら大きかったもんね。・・・労働賃と、物価との格差がひどかったけんね、もとはね。物が高こして。一日働いてね、部落の集会、区なんかの行事では、一日働いて一升がたしよったけんが。いま、一升いくらぐらい・・・
井上:青年クラブとかは?
太田利雄さん:青年クラブあったですもんね。青年クラブに入らんば、一人前っちゅて、仮に、日当が一日3,000円なら3,000円もらうとはね、青年仲間に入らんば2000円しかもらわれん。そいけん、青年仲間に入って大人一人って。そいけんほとんど入んりょった。・・・
井上:規律とかは厳しかったですか?
福田さん:厳しかったさー。一つちがうだけで、湯のみ洗いとか、ご飯炊きとか、一つちごうて全部させられる。
太田利雄さん:時代劇あたりででてくる、ひざついて、こんにちはならこんにちは、こんばんはならこんばんは、そういうふうに完全に・・・そいであの、ごめんくださいっていくでしょ。かならず、手ばついて、かならず、頭ばさげて、明日何時にどこどこに集まってくださいって知らせに行くわけでしょ。・・・わたしたちは、戦時中ほとんどそうだったとよ。
井上:それは、男だけですか?
太田利雄さん:男だけ。・・・
福田さん:俺ゃ、もう、高校1年、2年ぐらいで入っとったもん。・・・
太田利雄さん:悪かこともね、命令されて行かんならんけん。どこどこの柿なら柿をちぎって来いって・・・
井上:どろぼうとか?
太田利雄さん:ちょっとしたどろぼうぐらいは命令されよったと。
福田さん:昔はね、スイカとか、ウリとか、盗りに行っきょったよ。人のもんは自分のもんちゅうてね。
井上:ヨバイの話とか聞いたことがありますか?
太田利雄さん:ヨバイは、大正のはじめごろまではさかんにやんよったやなかかね。
福田さん:あなた(太田さん)がたのときはもうなかったですか?
太田利雄さん:俺んときはもうなかった。
福田さん:そいて、あれは、親近、友達とか、恋人同士とかの間で、ちょっと行っきょった。・・・会長さんのころも知らんって言んしゃるけんが。
太田利雄さん:わたしん頃はもうやかましかったけんが。・・・
井上:他にどんなことを、青年クラブで?
太田利雄さん:青年クラブでは、夜食を炊いて。・・・十八ぐらいまでが小若者ちゅうて、小若者頭、いまでいう班長ね。小若者頭っていう、年上が、二十歳ぐらいになりよる人が、言いよったわけね、今夜飯を炊けって、ゴボウ飯を炊けって。ゴボウはどこからとってくるかって、あそこの畑から、どろぼうして来いて。
福田さん:はいはいっちゅうて、中学ぐらい、一番若い人がとりにいく。・・・
あのころ楽しかったね。二十歳ぐらい。
太田利雄さん:そいでん、言葉遣いといか、礼儀作法とか、厳しかったけんが。・・・
井上:中学生以下で、子供の仕事ってあるんですか?
太田利雄さん:子守。
福田さん:きょうだいは、いまの、少子化じゃないでしょう。1ダースとか、ざらやったけんね、12人とか。そいて、昔は五右衛門風呂に、水汲み、風呂焚き。そいからね、昔はネップクて言うて、今はお米を乾かすって、電気で、保温でするけども、昔は太陽の熱で、米とか乾かしよったけん。ネップクていうても、藁でつくった、重とうてね。それをやりたくなかったけん、学校でクラブいうてね、おそまで帰りよったら、お袋からブーブー言われて、・・・
太田利雄さん:そいで11月の15んちは太陽にたいしての感謝祭いうことで、御日祭りいうてね、そのひは籾なんか太陽に干さんということで、その日は干しかたを止めよったもんね。そいで15日にはお日様のお祭りばしよった。太陽のお祭り。・・・いまは、シロイシあたりば、まだ御日祭りば、三夜待ちとか。・・・二十三夜のお月さんがちょうど丑時ちゅうて、二時頃ね。・・・そいで、二十三夜の月は、三つのお月さんが、三体出られるちゅうことで、そいで、親孝行するとか、・・・
井上:なんかその類のお祭りとか、他の。なんか、行事祭りの。
太田利雄さん:行事祭りは、二月の二日の日が、お祭りにして、体を休めるということで、フツカヤーヒっちゅうて、あのお灸ば昔やきよったやなかですか。フツカヤーヒって言うね。お灸のことをヤーヒっていう。・・・そいて、川祭りっていうて、昔、今は、花見、花見って言ようばってんが、川祭りって言よったもんね、川を、水を大事にするっていうことで。そいで、川を、池なんかのゴミをあげてきれいにして。そいで、いまも川掃除なんかやるでしょう。そういう風な意味で昔は川祭りっていうて、水を大事にしよったんやなかですかね。
永松さん:春川祭りって。春川祭りがもともとは。
太田利雄さん:そいけん、昔の文書やなんかにも、春川祭りって書いてあるもんね、・・・帳簿なんかにも。・・・土用祭りとか。土用って一番夏のぬくか日、ぬくか期間、二週間ぐらい。その土用祭りっちゅうて、暑さにこたえるために、体を休める、そんとき酒とか飲んで・・・
太田昭登さん:昔は、ココンジョサン祭りとか、弥勒さん祭りとか、いっぱい祭りが。そいから、観音講とか、女性なんか。
太田利雄さん:昔は日曜とかなんとか、休みがなかったけんが、そういうふうなお祭りを利用して体を休めて、英気を養いよった。
太田昭登さん:二月は、・・・稲荷さん祭りとか・・・
太田利雄さん:そいけん、ずーっと、日曜がわりに、そういう風な祭りがずーっとあったですもんね、休む日が。
井上:じゃあ、夜の仕事とかありました?
太田利雄さん:昔は、青年クラブにおって、遊ぶことがなかったけんが、楽しむためにおったわけやなかけんが、昔、草履やったでしょ、そいに、草履を作ったり、縄を、手でなってね、昔のは藁で作って、縄なんかなかばってんが、昔は藁で作ったのが縄やったけんが、それをなって、それをよけ編んで、それを金に換えよったですよ。・・・そいてそれを売って、その金で、いろいろ花見の経費とか、遊ぶときの経費とかあてよった。
井上:田植えが終わったときの打ち上げとかは?
太田利雄さん:田植えがおわれば、田祈祷っていうて。今年の田植えを無事にすませてくださいって、神様にお願いするときにお祭りばやんよったわけ。
太田昭登さん:農業祈願祭。そいから願成就、秋には。
井上:サナボリとは言わんかったですか?
福田さん:田植えの終り、サナボリって。
太田利雄さん:そいて、ワッカモンガンジョウジュってね、若い人、青年たいね。青年の一生懸命、田植えのために、労働で骨折っけんが、疲れとっけんがね、ワッカモンガンジョウジュってね。祈願ば、さっき言ったね、田植えのために、田植えがおわるまでに元気で田植えができるようにって神様に祈願ばしとくわけね、青年がはたらきよったけんが、田植えがすんだ時点で、ワッカモンガンジョウジュってね、その若い人がね、おかげさんで田植えも無事にすみましたって、元気で田植えも終りましたって、またそこで休みをとるわけね。ガンジョウジュったいね、願をかけとったんが成就した。・・・
井上:熊野神社ですか?
太田利雄さん:いや、それはわたしたちの時は終っとったけんね。ずうっと以前は、わたしたちの先輩の時代は、ずうっとしよらした。・・・
井上:恋愛とかはどうでした?
太田利雄さん:恋愛なんかなかった。たまーにね、十人に一人ぐらいは、十人に一人もおったやろか。・・・
福田さん:さっき言よったやろが、ヨバイね。やっぱ恋愛関係で行きよったわけよ。・・・わたしたちもモーテルはなかったけん、茶山とかなんとか、恋愛しよった。お茶畑とかさ、稲の、そこにね。そこで、恋愛ごっこをしたりしよったよ、昔は。
太田昭登さん:結婚式の日、はじめて、ようまじまじと顔を見るんでしょ。
太田利雄さん:そうそう。
太田昭登さん:そして、お茶摘みに女の人が来たりとかね、こっちから、・・・
福田さん:そいたら、この娘さんはよかばい、こい息子に嫁って、なんよったですね。
太田昭登さん:大野原とか金松とかは、吉田の奥の人と一緒になった、山越です。・・・
太田利雄さん:あんたたちは、担ぎ嫁さんって知らんやろ。担ぎ嫁さんっちゅうて昔は、わたしたちの世代はそういうことはなかったばってんが、もとは、好いた人と、好かん人、いや、好いたもん同士おらしたわけですよ、男と女子とね。そいで、好いて好いてたまらんでおっても、親が、子供を、昔は親が決めよったけんが。おまえはあそこにいけとか、あそこと一緒になれとか。そういうふうに親が決めて、こいとこいと好きばってんが、このひとと一緒になさすというわけね。そいで、親の言はすもんやけん、仕方なし、一緒に結婚式まできめて・・・その場になってからよ、結婚にいくことになってから、どうしてもこの二人が分かれたくなかっていうわけですもんね。そいで、青年仲間、いまの、青年クラブの、そういう人にお願いしてね、そいで、今夜、この女子ばかついでけれー、て言うて頼んでね、そいで、この嫁にいく、親の決めた人にいかんように、担いでくれっていうて、頼みよったわけよ。そいでに、青年の仲間がね、この人の嫁にいかすとがさ、途中で担いで、それで、この二人、好きで好きでたまらんもんやっけんが、・・・そいで、隠さすわけね、その嫁にいきよう女を。この好いた人の家に、かくまってさ、この人の家族とか、親戚とか迎えに来ても、そいばおっぱらすわけ。この女はこの人と一緒に、そいでおっぱらして、そいで、昔、しきたりがあったとでしょうね。そいけんが、そういう人は許すっていうような風習があったっちゃなかですかね。そういうふうな好きな人だけなら、一緒になしてもよいじゃないかーっていうふうな風習があったっっちゃなか。そいは、いろいろな裁判がらみの、なんとかそういうふうなことはなくして、一緒におった人やもん、そうとう昔の。そいで、あの人は担ぎ嫁やもんねって言よらしたもんね。もう、担ぎ嫁さんって今はのこっとらん。・・・
太田昭登さん:恋愛たいね、いまでいえば。
太田利雄さん:そいけん、担ぎ嫁さんは、大正時代まではそうとうおらっしゃったじゃない。・・・
井上:ついでに、ひとつ、いいですか?地名辞典をみたら、ここいらへんは、清和天皇何代かの子孫の、太田ツグナガとかいう人の子孫の・・・
福田さん:太田道灌とか・・・
太田利雄さん:やけんこのへんは、太田ばっかり・・・
永松さん:先祖墓が黒岩にあります。
井上:その墓っちゅうんはどこに?
太田利雄さん:黒岩・・・黒岩やけんここたいね。・・・太田は、資長っていよったらね、太田道灌からは、5代目か、6代目やもんね。資長っていう人が。そいで、太田道灌が、殺されて、太田家がつぶれたわけやろ。それで、ずうっと子孫がね、また九州に流れてきて、そいで、また肥前の国に来て、また再び、太田を・・・増やしたばってんが、こっちは勢力の強かたばっかりようけおったわけ。竜造寺孝信とか・・・
福田さん:太田家も、平家の落人やろか?
太田利雄さん:いや、源氏よ。源氏やんね。
福田さん:うちは平家の落人ですね、福田は。ほいけん、ああ、源氏ですか。うちは平家。源氏、平家入り乱っとうかいな、嬉野は。西嬉野村だ、いや、こっちは東嬉野村。その、この川をね、轟川を、こっちが西嬉野、東嬉野。うちは西嬉野村ていう。
太田家:そして、大村に行かしたとですね、昔は。そいて、大村にいって、大村にいっても、大村の勢力が強かったわけやけん、そいで、またこっちの嬉野に来て、いろいろ、生活しよりて、百姓をしたり、なしたりして、そいでこのへんながしたじゃなか。そいで、生まれがよかもんじゃけんが、ずっとこのへんの人も、だいたいその人をたてて、頭もよしね、学問もした人は、そりゃよけおらんやったろうけんが、昔はね。・・・その人たちの力が、強うしてこのへんずうっと増えたっちゃなかですかね。そいけん、今、13代、12代ぐらいやもんね、資長という人から。そいけんが、こうして太田家が増えたというわけ、このへんずうっと、亀頭六、黒岩。
福田さん:40ぐらいあるですかね、太田家、このへん。・・・うちは、福田家は、37軒ですもんね。・・・
太田昭登さん:温泉区も昔はね、下本村、上本村・・・
太田利雄さん:太田家の系図がちゃんとあっですもんね。・・・その墓ば、この墓やけんね。これあの、明治に、・・・
[太田家の墓にて]
福田さん:こなんしてするとこめったにないわね、福田家もするんよ、うちが本家もっとるけん、11月の8日、・・・ここはもう日にちも決まっとう、うちの福田家っていうたら向こうの、・・・塩田川をはさんでむこうが東嬉野・・・
[鬼淵にて]
永松さん・:なんか下に岩が、その大きな岩が、鬼が小指をかかえたっていう伝説があるもんね、そこのすぐ下んところ、鬼淵っちゅうて深ーい淵がある。潜ってもかなり、狭ーいですけどね。それから・・・の山、檜か、90年以上たっとう、その向こうにアジアの森。その材木で歴史資料館・・・
[轟の滝にて]
福田さん:滝は下から見て三段の・・・ここは、椎葉山荘行ったでしょ、あの川から流れよる・・・この(轟の滝の)裏側は、ずーっとつながって有明海に・・・この滝は平野部では日本有数の滝よ、だから自慢していい・・・あっこ(滝)から飛びよった、あれ何mあるん、3m、4m・・・
[盲目落とし・軍用国道にて]
永松さん・:もともとはこれが本道であって・・・これがずっと大野原(へつづく)、軍用国道って言よったもんね、むかし、戦時中、戦車(のことを)、タンク、タンクって言よったもんね・・・いまお寺のほう、下、むかし池やった・・・もともとは溜め池やった・・・
C書き起こせなかった項目
・タガメはドンガメという。今はいない。
フナは串焼き、照り焼きにして食べた。
ナマズ、ウナギは蒲焼。ナマズのほうが、あっさりしている。
他に、ハヤ、ソイ、ギギョウもいた。
ミミズに似たシジナという生き物がいた。
牛を操るときに、右はケシ、左はトウトウという。
牛が多かったが、明治は馬が多かった。
飼料は藁が主食、青草が副食。青草は上山(カミヤマ)の草原から。
‘94年の旱魃では、水路の水がなくなった。川から水を汲み上げたが、その際施設は共用、作業は個人で、だった。
S27年の水害では用水の板が流れた。部落共同で修理した。
雨乞い(’94年)は熊野神社で神官を呼んで祝詞あげてもらった。
一ノ坂の坂は牛が通るとき牛の頭が見えるため「ウシントンサカ」といわれる。
山伏塚は長崎街道に住んでいた山族「山伏」によるものらしい。
川久保は滝の上の地名であり水の豊富な土地である。
松山は昔の自然林が松だったところで、今は杉の植林である。
日向山とは「日に向かう山」つまり「朝日が昇る山」という意味らしい。
祭代は現在、太田さんが作った薬師如来を祭る祭壇がある。
嬉野温泉は川温泉とよばれていた〔る〕。
うれしのの呼び名の由来は傷ついた鳥が癒されたことに拠るらしい。
昔、長崎街道の要衝に位置した当地はシーボルトが逗留し温泉につかったいわれからシーボルトの足の湯というものがある。
牛の糞尿は田畑に撒いており、海産物のない嬉野にとって重要な肥料になっていたらしい。
D下岩屋猿浮立の興りの資料
『下岩屋の氏神様熊野神社に伝わるものでこの地に鎮座なされて1160年になります。
その長い歴史のなかの或る大きな台風の来襲に気付き熊野神社に集まり祈願することになり笛に合わせ鐘や太鼓を打鳴らし一心に祈りを捧げていますとしばらくして神社の境内に大きい猿小さい猿たちがたくさん集まって来て村人達の打つ鐘や太鼓に合わせ踊り振舞つていたそうですこうして村人達とお猿さんがいったいとなつて尚一層激しく鐘や太鼓打ち鳴らし一心に祈り続けていますと何時の間にか風雨は収まり何時もの静けさを取り戻していたそうです
それで何の被害もなく村人達は大変喜びこれはきつとお猿さんまでが踊りをおどり祈願祭をしてくれたお陰だと信じて それから後は風鎮祭や田祈祷 雨乞 願成就等いろいろなお祭りにはお猿さんの姿に扮して鐘や太鼓の音色に合わせ舞踊るようになつたとのことです このように昔の人が大事に受けとめ踊り継がれたことを私達も思い浮かべ一生懸命練習しました どうぞご覧下さい
では始めます だんだんと進につれて踊りも激しくなります 真剣に踊る姿 一心に祈りを捧げるまなざし 見落としのないようにどうぞご覧下さい』(下岩屋猿浮立保存会)
E子守唄の資料
『昔世の子守歌(一、〇〇〇年前地名を集め唄われた、子守唄)
一。こきぃ(小杭)・かぁきぃ(加杭)・かぁめゃぁごちゃ(構口)・だいがぁつけたぁ(誰が名付けた).−ヨイヨイ
しいぃばにぃ(椎葉)・かなまちゃぁ(金松)・よかところぅ(善いところ).−
二。ねこんかぁんす(猫巣家)・いっちぃじゃぁら(一位平)・へこぅじらみ(褌子蝨).−ヨイヨイ
ぶっしゅぅの(仏衆)・ひだまりゃぁ(太陽溜まり)・おともよか(陽溜りでは大きくなるので潰すと音が大きい).−ヨイヨイ
昔世の子守歌 其の2 (昆虫の名前を集めた唄)
一。ひっちょこちょいの・ちょうらんみゃぁは(カマキリ)・こぅしのこまんかぁ(腰)(小さい).−ヨイヨイ
こぅしの(腰)・こまんかぁぁほど(小さい)・しんのぅふとかぁぁ(お尻が大きい).−ヨイヨイ
二。りんりん、りんりん・なくむしゃぁ・すずむしぃばいぃ.−ヨイヨイ
ひぃげの(髭)・なんかぁほどぅ(長ければ)・こえぇもぅよぅかぁぁ(音色が美しい).−ヨイヨイ
三。ちょうちょうも・こまんかぁとぅきゃ・いもむしぃばいぃ(成虫の蝶々になれば、美しいが、幼虫の時は、芋虫みたいで、きたない).−ヨイヨイ
このこぅも・ふとぅなぁっぎい・よかむすぅめぇ(この子も、今は、鼻たれ、よだれたれでも、大きくなれば、綺麗な娘になる).−ヨイヨイ
昔世の子守歌 指導 太田 セン 元治元年生 利雄祖母』
F終わりに
とにかく、自分のいたらなさを痛感する調査だった。この次に、似たような調査をする人への助言として、また次の自分のチャンスまでの反省点として失敗したところを挙げてみたい。
まず、資料の把握不足。地図を正確に把握できていない上に、地名一覧なども覚えきっておらず、折角話していただいた内容が分からないことも何回かあった。これと関係しては、当地の歴史的事情や、九州地方での常識を知らなかったため分からなかったということもあった。
このことがもっとも大きな失敗だが、ほかにも、音声を聞いていて分かったことだが、自分のリアクションの悪さにあきれるということがある。もっと素直に心のうちを出していけばよかった。
また、めいめいがさまざまなことを話したために、音声が雑音ばかりになってしまって、文章に正確に起こせないということもあった。
このほか数え上げればきりがないが、このへんにしておく。
このようなわけだから、今回の調査の内容に踏み込んでなにか意見を述べようなどとは出来るはずもなく、ただ報告書にとどめる。この調査を使っての発展的研究は服部先生やそのほかきちんとした研究者の皆様がやってくださるだろう。(2007年1月、井上雄介)
嬉野市は、周りを山に囲まれた盆地であり、第二次世界大戦の影響をあまり受けずに、古き神社、仏閣がきれいな形で残っており、地名の由来にはそれらが大きな影響を果たしているようであった。昔からある地名が、現在ある地名に変わったのは、明治23年に、日本政府が「字」を取り入れたからであり、(現在そのあざは廃止されている。)それまでは昔の地形の特徴に基づいた地名が用いられていた。今回、自分達が話を聞いた太田利夫さんは、大正時代生まれでいらっしゃったが、その太田さんでも、地名の由来を調べるのは相当難しく、先生が調べあげた文章や地名に、下を巻いておられました。(2007年1月、広松謙一)
参考文献:角川日本地名大辞典・佐賀県、佐賀県の地名(平凡社)