式浪

2007113日調査

水口拓也            1SC05055S

北岸宏之            1SC05016N

 

☆はじめに

僕たちは式浪を調査することになったのだが、相手先の金崎さんと連絡がなかなかつかず、最悪の出だしをきった。やっとのことで連絡が取れたのだが、オレオレ詐欺などを気にしていたせいか、口調がとても攻撃的…何とか誤解を解いて、お話の約束をした。しかし、金崎さんは昔のことはあまり詳しくないらしく、奥川さんを紹介してくださった。

奥川さんも忙しく、約束をとったのは14時。現地に着いたのが10時半ごろ。ちょうどいい機会なので、あたりを散策してみることにした。

辺りはとてものどかで、バスから降りて住宅があるところまで気の遠くなる長い一本道であった。

小学校では、意外といったら失礼かもしれないが、児童が多く元気な声が響いていた。車通りも人通りもあまりなく、静かで、少し寂しい感じがした。

川沿いに歩いてみたり、工場に向かって歩いてみたりと、ゆっくり時間をかけて、いろいろなものを見てきた。

適当に昼食を済ませ、金崎さんのお宅へ向かった。

まだ、奥川さんの用事は終わっていなかったようだったので、しばらくの間、金崎さんとお話しをした。

僕たちが物理学科であると伝えると、金崎さんも大学のころは物理学専攻だったらしく、有名な朝永さんの集中講義を聞いたなど、当時の興味深いお話を聞くことができた。

奥川さんの都合がついて、早速向かった。金崎さんが車で送ってくださって、本当に感謝です。

奥川さんのお宅に着いて、家は昔ながらの佇まいで古そうでした。なんと、床下まで浸水したこともあるそうです。

中はとてもきれいでとても居心地がよかったです。

時間が許せば、もっと長い時間お話を聞きたかったです。

 


○農産業など

昔は、ほとんどの人々は専業農家。主に米を作っていた。

万才や辺田では牛、馬で農耕を行っていた。

式浪は天草から、塩田川を通って運ばれてきた陶土を、水車や水力発電を利用して砕き、粘土を作って、伊万里や有田に売ることををしていて、現在、いくらか陶器を作る工場も見受けられているのである。

竹炭を作るような所は、式浪にはいくらかあって、炭焼釜がちょこちょこあったのだという。

当時は、燃やすための竹炭で、最では、消臭や健康食品としての竹炭なのだという。

4月10月には村の人々で、水路の整備ほか、草刈り、農道の整備なんかをやっていたそうで、それは今でも続けられているらしい。

蚕をよく式浪周辺では飼っていて、えさとなる桑の実なんかがよく栽培されていた。

絹機で、布を作っていた。

生活は基本的に自給自足。

90%くらいの人は専業農家であった。今では70%が非農家で専業農家のほうが珍しい。

 

○交通

運送は全部馬車だった。

大正ぐらいから、昭和10年くらいまで嬉野から塩田まで電車が通っていた。

 

○食事

昔は塩田川はきれいで、水も豊富にあり、たびたび大水を起こすほどであった。

家が流されることもあったという。

そんな川は、日常生活に必要な水を供給してくれていた。

昔は水道なんてなかった。大変きれいな川だったそうだ。

川えび、ナマズ、スッポン、はや、フナなどが獲れたという。

くじらの肉(塩物)は食べていたという。

家畜としては、にわとりがよく飼われていたようで、たいてい、いろんな家庭の床下で飼っていたそうな。

ヤギやウサギを飼っているところもあった。

ウサギのももに細い管を挿して、息を吹き込むと皮が離れて、簡単に肉を処理できたようである。ちなみに、皮の方は襟巻きに使ってたそうな。

牛肉なんか食べるなんて考えられなかった。

よく、近くの山に、山イチゴやアケビや芋、シイの実、木の根、ツバナなんかを採りに行っていた。

今もたまに、山に行くようであるが、やっぱり、食事に困っていた昔だからこそ、より一層おいしく感じられたのだと言っていた。

ヒヨドリやモズなんかもよく食べていたそうな。

いろいろな家庭で、メジロはペットとして、籠に飼っていた。

なすびや生梅も食べていた。

式浪では、味噌やしょうゆもよく作られていたそうである。

戦争中は、食糧に困り果てていたそうで、大根も洗わず、泥がついたままのをかじっていたほどであるという。

とにかく腹がすいていて、何か食べるものを1日中探し回っていたようである。

犬の鍋なんかもあったそうだ。(金崎さんは食べていなかったらしいが。)

カエルも取って食べていたそうな。

卵なんかは、非常にごちそうで、学校に弁当として卵焼きを持っていくと、みんなからうらやましがられたそうな。

バナナも病気にならないと買ってもらえなかったようで、今のラーメンくらいの値段だったのであった。300400えん相当のもの。(1本につき、ラーメンくらいの値段)

 

○男女関係

男と女が付き合うなんていうのは、あんまりよく見られなかった。(よく思われなかった)

付き合ってなんかいたら、上級生から殴られたりすることもあったという。

 

○青年団

よく、青年団というものが、各部落ごとにあり、若い人達(2040歳くらいの人々)が大体を占めていて、消防や祭りの準備なんかをしていたという。

式浪には、二式会というものがあり、これは青年団の始まりとも言うべきものであった。

 

○子供の生活

昔は、兄弟、姉妹が多く(平均5人)、兄が弟を学校に連れて行って、中庭で遊ばせとくなどといったこともあった。

夏には、川でよく遊んでいた。プールの代わりに泳いだり、釣りをしていたそうな。昔は、川がとてもきれいで、橋の上からでも魚が見えるほどであった。釣竿をたらして魚を待っていると食いつく瞬間が見えてとても面白かったそうな。

冬には、山にシメジを採りに行ったり、チャンバラしたり、メンコをして遊んでいたそうな。

基本的に家の中では遊ばなかった。

風邪をよく引いていて、いつも鼻水を垂らしていて、いわゆるハナタレ小僧が多かったらしい。そのため、あまり頻繁に洗うことのなかった服は鼻水でテカテカしていたそうな。

着ていたものは、もちろん洋服などではなく、着物であった。素材はナイロンなど使われているわけでもなく、綿入れなど手作りで、成長に合わせて継ぎ足していたそうな。

お風呂は共同風呂で、班ごとに一緒に入っていた。ちなみに、ゴエモン風呂。

 

○戦時中

軍隊の中尉くらいの身分の人が学校に来て、よく竹やりで訓練したりしていたらしい。

その中尉くらいの人には、学校の先生達も頭が上がらなかったそうな。

訓練中もたもたしてると、鉄製の鞘で殴られるから怖かったのだという。

英語を使うことが禁止されていた。

 

戦後はよく空からガムなどお菓子が降ってきていたそうな。

 

○祭り

大草野の中心には丹生神社があり、これには水の神様が祭られていて、秋に祭りなどが行われていた。

今も恐らく続いているのであろう。

式浪には、住吉神社なるものがあり、8月の第一日曜日に祭りが行われる。

風流や御神酒、カラオケなど。

本当は、8月9日が正式な日であるが、休日でないと人が集まらないので、第一日曜日になったらしい。

この祭りは、台風や嵐が来ないようにと祈るための祭りである。

 

○益世会について

始まりは明治35年。

教育の振興や地域の発展と国家社会の繁栄に貢献することを目的とする。

・基本財産

山林

 塩田町大字大草野高取甲2805

                            103反(102,149u)

 嬉野町大字下野倉の上丙10641

                            632歩(6,248u)

会の所有する山で木材を育てる。その木材を売ってお金に換えて資金にしたり、木材をそのまま、学校の建て直しに利用したりしていた。

現在では、県、市町村でないと校舎などの設備を整えることはできないので、資金のみ援助している、という形をとっている。

 

○学校

分町の話で塩田町から嬉野町に移って学校が遠くなってしまった。そのため、2つの町がお互い資金などを出し合って、ちょうど間くらいに小学校を作った。

その名も、塩田町嬉野町組合立大草野小学校。このような形での小学校は異例であって、日本でもここぐらいではないかと話していた。

議会も変わっていて、それぞれの町から3人ずつ出し合って、児童数の多いほうの町のメンバーの1人が議長、もう片方の町の人が副議長という形をとっていた。このように議会の仕組みなど面倒なこともあったが、その反面、両方の町から予算が出るので便利であったという利点もある。

その組合立の小学校も市町村合併の影響で、H.17年までで名前が変わり、嬉野市立になっている。

高校の学費が1000円に対して、大学の方は700円であった。学生はほとんど企業に取られてしまい、教育者の、特に理工系の人材が足りていなかった。教育者になるというだけで、県のほうから奨学金が4年も貰えたという話を聞いた。

 

 


お話を聞いている中で、分町に至るまでのの騒動についての内容が興味深かったので、そのまま文章にすることにしました。

 

奥川泉さん

昭和4年 2月23日生まれ

 

 

奥:→奥川さん

金:→金崎さん

水:→水口

北:→北岸

 

○しこ名一覧(小字と重複する)

辺田                    ヘタ

万才                    マンザイ

角ノ谷                カクノタニ

三坂                    サンサカ

長谷                    ナガタニ

五代                    ゴダイ

南大草野            ミナミオオクサノ

 

 


奥:町村合併するまではここ全部、塩田町だったんですよ

水:シオタチョウ…

奥:塩田町

水:あっ塩田

金:塩田町誌って本ばおいてたでしょ

水:はい

奥:塩田町です

水:ここ一帯がー

奥:ええ、この辺全部〜

水:合併したというのはいつ頃…

奥:合併したのは昭和37年か38年ですよ

水:昭和37年から38年…

奥:そんな感じです

金:これはブンレイですかね…?ブン…

奥:分町ですね、言葉で言えば…ね、塩田町と嬉野町の関係ですから。塩田町から嬉野町へ分町したんです。

水:はい

奥:これはあの〜合併促進法っていうのがちょうどこの頃出来たんですよね

水:はい

奥:その合併促進法に基づいて分町しようっていう話をしたのがこの地区なんですよね

 

―昔の部落の名前を確認していった―

 

奥:町村合併してね、いや〜あのー分町してね、式浪と三坂が…実際分町当時はね、大草野いっぱい、全部、大草野校区全部が嬉野に行こうという分町騒動したんですよ。でもその中にも嬉野には行きたくないー塩田にとどまりたいという…同じ部落の中でもね、あのー、2つ派が出来たわけですね。そういった騒動はだいぶ、1年以上分町騒動しましたね。これは〜ひどかったですよ。前後ろそのー分町派と反対派がね、もう…いわゆる言葉もかけないというか、格好まで…夜…しのぎを削りましたね。そういう時代がございました。で、ちょうどその騒動をしているときにね、天皇陛下のご巡幸があったんですよ。でーたぶん塩田の方からねーシロイシか塩田の方から、こう、県道を通って…で、嬉野の???試験場から元の病院かね…あそこ視察の予定やったんですよ

金:昭和天皇?

奥:昭和天皇。ちょうど37、8年くらいやなかったでしょうか、分町する前ですからね。そのときはですね、いわゆるー町の執行部に圧力をかけるために、今言うおかしい話なんですが、あのー、ムシロバタ…ちょっとあなたたちには理解されないと思いますけどね。ムシロバタって言うのを立てようとしたんですよ。ムシロって言うのはね…(金崎さん、)あなたは知ってるでしょ?

金:知ってる、藁で…

奥:藁をね、編んで、でー、今はもう米の…米屋で30kgくらいの紙の封筒で袋してありますよね、元は、あのー、藁…稲藁ですね。あれを編んでね、そしてそれを袋にして、そしてその中に、あのー、60kg袋だったんですよね

北:米俵?

奥:米俵。で、米俵をポーンと解けばね、畳ぐらいの広さになるんですよ

金:畳ぐらいののを編みよったわけ、藁で。

奥:それで、夜、嬉野に分町するという文字を書いてさ、そして、あのー、いわゆる反対の意志を天皇陛下にも伝えようというのが…ちょっと〜行動を起こしたんですよ

水:それは、ほどいたんですか。?

その米俵からですね…その入れ物に…広げたんですか?

奥:広げて文字を書いたんですよ

水:じゃあ、けっこうひろいんですね。

金:畳くらい。まあ、はじめはその縫うて袋にするわけやけん、袋にする前がムシロたいね。版画ストライキばしよったでしょ、あの頃。

奥:もちろんそうですよ。

金:役場の前でね。

奥:でー、そういう、いわゆる威圧を与えるために、そういった行動もしましたね。そしたら、やっぱり町も…町の執行部も、こりゃあ天皇陛下にね、こういう内輪の騒動をね、見てもらいたくないということで、だいぶその頃はね、分町派にも、その…、執行部にも動揺したんですよ。そして、それはしちゃいかんだろうということで分町派もね、若干、その、控えめにしとって、それを撤去しましたけどね。騒動の中にはやっぱり、あのー、青年行動隊っていうのがね、作ってね。でー、塩田の町役場の町舎に行って、そして、町長が入るのを阻止してみたり、あるいは、その〜、業務妨害と言ったらおかしいですけど、それに近いような行動までとって(笑)、そして、断食もしましたね。

金:断食しよったもんねー。

奥:1週間くらい断食したでしょ〜。断食行動!いわゆる分町させろっちゅうことでね。

水:その…分町派が、ですか?

奥:分町派が。

水:断食したんですか?

奥:断食したんです。

金:版画ストライキやっててね〜

奥:版画ストライキしたんだよ。手に(持って)たってね。

金:新聞につきよう頃は私はまだ大学くらいやったけんね。新聞に広島に行くまで載りよった。

奥:これは全国版でしょー!

金:3面に載りよったもんね。式浪、三坂が嬉野に…

奥:全国版に載ったでしょ。

水:すごいですね〜(笑)

奥:そう、行ったねー、大きな騒動しましたよ、当時はね。で、それで落ち着いて、そしたら、分町はどうしようかっていう最終的な話になりましてね、この塩田川とこっちに小田志川っていうのがあるんですよ。式南橋の所かな。

 

―地図で小田志川を探す―

 

奥:これが小田志川!

金:小さな田んぼの志(こころざし)かな。

水:あそこを流れてる…なんかもう、濁った川ですか?

奥:濁った川。

金:あの小さな川。よう見てきとんね〜。

水:ええ、もうここら辺まで散歩してきましたから。あっち行ったり、こっち行ったり。

奥:ここに小田志川ってなかったかな?

金:間違いなし小田志川でしょ、これが。

奥:これやろ。この青いやつやろ、長谷までね。

水:あ〜、長谷はここですか。

奥:いわゆるこの川(小田志川)とこの川(塩田川)を挟んで嬉野寄りがね、嬉野に分町したんですね。

水:最初は塩田だったんですよね?で、こっちは?

奥:こっちは塩田町式浪。

水:最初は…塩田町の式浪と、こっち(西の方)は何ですか?

金:こっちは元々嬉野町、昔からね。

―国道34号線を探す―

奥:これ(34号線)からこっちが嬉野町。

―記録のため地図に書き込む―

北:式浪が昔は塩田で、今は嬉野に変わったと、そのときに騒動があって、他の所でもそういう騒動とか無かったんですか?

奥:こっちはこっちであったんですよ。大草野一縁のなかでね、分町しようと言うのと、そのまま居残ろうと、最後式浪だけは分町しようという1つのグループになってしまったわけ。だから反対派はいなかったわけね。というのは、やっぱり嬉野町に1番近い、嬉野町と背を合わせてますからね、嬉の町は3km以内で行きますからね、町役場まで。こっち(塩田)はもう10kmぐらい離れてますもんね、塩田に行くのはね。そして、行政上の問題とかいろいろな通学の問題とか経済的な問題でも嬉野町が良かろうということで、全員が嬉野町に行きたいと。こちらはどっちかって言うと元のいろんな因縁があるんでね。塩田町に残ろうという人、近いから嬉野町に行こうという人があったわけですよ。

 

―式浪の地名、呼ばれ方を確認する―

 

水:式浪は順調に…

奥:いや、分町一本で行きましたね。順調に行ったわけですね。

水:そのまま嬉野に入って、後の残り塩田町の中のここですか?

奥:うん、ここはもう、***としてそのまま残った。

北:三坂の方は…?

金:三坂も嬉野。

奥:三坂もこの川よりも手前ですから。

水:でー、争いはどこだったんですか?

奥:部落だけで争ってたのは、五代、辺田、角谷、満才、そっちがだいぶ部落だけで争ったですしね。とくに、五代が争ってたと思いますよ。

水:えー、それは…

奥:五代っていうのは部落では話は割れましたね、2つに。

水:塩田に残るか…

奥:そうそう、残るか出るかっていうことでね。

水:えー、結局塩田から出るってことは区切れて、どっかに行っちゃうってことですか?

金:塩田に残ったわけですよね。

北:塩田に残るか、嬉野にくっつくかっていう…

金:あなたが争ったって言うのはここの部落がね、塩田町の役場と争ったわけ、こっちに。話してくれっちゅうことでね。それで、ムシロバタ立てて役場にね、私たちが嬉野につくのを認めろという…

奥:意思表示をね。そういった極端な行動をとったわけね。断食をしたり。

水:断食って言うのはやっぱり、見せびらかして…こうやって…

奥:そうそう、意思表示をオーバーに表現したわけですね。

金:痩せほそーしたら心配するからね。

水:1週間も断食したら、後ちょっとしたら…

金:死ぬ者も出てくるけんね、大ごとよ。

奥:それか、もう1つの行動はね、いわゆる小学校、中学校…これに登校拒否。登校拒否ばさせました。もう通学させないという…で、そのままにしてほっとくわけにはいかないからね、各部落の公民館あたりでね、元先生をしておられた方々にお願いをして、いわゆる、学校にはやらんで、補習教育をしてました。いわゆる、登校拒否運動までしたね。

水:いろいろありますねー昔の話っていうのは。

 

 


○調査を終えて

今回の調査を通して、様々なことを知ることができました。始めはうまくいくか不安でしたが円滑に進めることができ、終わりの時間が惜しいとまで思いました。周りには気をつけて見るといろいろなものがあり、昔はどのように違っていたと分かっていれば見方も違ってきたと思うと少し残念です。お話も途切れることなく、そして興味深い内容のお話をしてくださって、すごく感謝です。最後まで送ってくださった金崎さん、お話はもちろん資料をたくさんくださった奥川さん、本当にありがとうございました。大変参考になりました。(北岸)

今回、調査をするにあたって、昔の地名について細かく聞き取り、記録に残すと言うのが主目的であったのだが、地図に書いてあるしこ名の確認に終わったように思う。しかしながら、昔の大草野の人々の暮らし、文長騒動など、いろいろなことを知れたことは、成果に値する。また、そのようなことは、我々にとっても、大変刺激あふれるものであった。戦時中の経験も、いろいろ話して頂き、食料不足の実態も知ることができた。やはり、経験者が言うことには、リアリテイがある。非常にいい経験を、この調査の中でさせてもらった。(水口)

 

 

 

 

 

○田んぼ

バスを降りてすぐ、田んぼが広がっていた。よく見てみると、焼けて焦げた跡があるので焼畑か何かしているのかと予想した。

お話の中で聞いてみると、やはり収穫跡のものを焼いているらしい。作物は主に米。


 


○竹やぶ

竹を使った何かを作っているのかと思い撮ってみた。

昔は竹炭を作っていたらしい。

ここにはたくさん生えていたが、それほど多くの場所に見られるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○茶畑

ここだけでなく色々な場所で、しかも割りと小規模なものが多かった。

ひとつの家庭で作っているといった印象を受けた。

 

 


 

 


○塩田川

すごく濁っていたので写真に収めてみた。

水量も少なく、何かに使われているという様子はなかった。

昔、ここは透き通るほどきれいで、魚も多かったらしい。