西吉田地区調査レポート
調査者:桐山恵介 (1SC05257M)
:出水田一生(1SC05247K)
調査日:1月13日(土)
今回、西吉田を調査するためにそこに住む山口さんに調査の協力をお願いしたところ他の方々にも声をかけていただき、当日、近所の7人の方があつまってくださいました。
生まれた年が、一緒に提出したビデオで並んでいる順に左から、昭和14年(山口さん)、昭和22年、昭和10年、昭和12年、大正11年、*、大正4年ということだった。
(*最後にたずねたために一人の方は帰ってしまい、聞きそこねてしまいました。)
○まず、小字一覧について話をうかがいました。
西吉田について:ここは昔は温泉があったことから湯岳と呼ばれていた。温泉は今はもうでないそうだ。
森ノ木(モリノキ)について:ひとりの方の茶畑があるところ。
坊主原(ボウズバル)について:一覧にある野中(ノンナカ)が現在の坊主原に変わった。
読みなど違った小字:小市原(チイチハラ→ケイチバル)、野中(ノナカ→ノンナカ)、向(ムカウ→ムカイ)、兎→兎峠(ウサギトウゲ)、樋渡(ヒワタル→ヒワタシ)、平ノ谷(ヘイノタニ→ヒラノタニ)
誰も聞いたことがない小字:波地ノ上(ナミチノウエ)、屋敷ノ上(ヤシキノウエ←字としては知らない)、宇土谷(ウトダニ)西尾立(ニシヲタテ)、薬師前浦(ヤクシマエウラ)、堤東脇(ツツミヒガシワキ)、イソノス、夫ト谷(ヲツトタニ)、膳々谷(セセタニ)、無角(ムカク)
○ここから、そのほか昔のお話をうかがいました。
―田んぼの水はどこから引いていたんですか?
堤から。ため池ね。
―そこには水はたくさんあったのですか?争いとかはなかったのですか?
その田んぼに取りごろでな、上のほうから流れてくるわけたい。争いっちゅんはやっぱり自分の稲ば作るためにはな、自分の稲はかわいかけんが、水のとりごろゆうか、ずうっと流れてくる溝んなかにの取り分があるわけだい。ずっと配置が。そこん人んとこ行かんようにつめて自分とだけにって言うのはある。争いはつきものたい。
―あまごいとかはされてたんですか?
干ばつのときはな。神頼みたいのぉ。
それかな、雨乞いというのがだいたいは8月の14日というふうにうちの場合は昔からの伝わりできまっとるわけ。でそのあえながに結局雨が降らんやったりなんやらするときに、今はもう時代が変わっとるけんそんなこたせんばってんが、昔はそういうふうに風流どんして酒でも飲んで、雨乞いちゅうのは酒がつきもんやったわけ。ほげんが、そういうことをして祀って部落ではしょりしゃったっちゅう話。今ではもうあまりなかばってんが。というのは、減反がけっこう国からの要請でなっとるけんの、ここらへんの山岳では3割か4割ぐらい作るとこがおるわけたい。
―一等田はあったのですか?
ここの集落ではだいたいムナダ(?)て言われててね、ちょっと上がったところ。集落を囲んだところ。
―昔、米はどれくらいとれてたんですか?
だいたい8俵て言いよらしたな。1アールに8俵。
(これに対して)そんなとるうもんか!
いやいや、昔はそう言いよったとやもん。今はだいぶ少なか知らんけど。
―害虫とかはどうやって駆除してたんですか?
油。石油をタラッタラッていれて。筒ん中入れて垂らしてね。
―田植えはいつでしたか?
6月のな5日くらい。田植えの完了は10日くらいまでな。
―田植えのときの歌とかあるんですか?
私が生まれたときは知らんばってん、このおじさんたちのころはあったやろうね。
(横の年配の方をわらいながら見た。)
(恥ずかしがって歌ってはいただけなかった。)
田植えの歌とかは昔のは知らんばってんが、今現在も田植えが終わってから2週間くらいしたら、田祈祷ち言って、米がよくとれますようにって部落全部が集会所で集まって酒を飲むっちゅうのはあるよ。
―牛のえさとかどんなものを与えてたんですか?
昔はな、田んぼのあぜ。あぜの草を鎌で全部切りよしゃったけん。それを早かもんは4時か5時か起きていって、ほとんどがそれと、それから米ばとった稲わらを混ぜあわせて。食い残しとか。
―牛を歩かせるときのかけ声はあったのですか?
田ん中につれていくときは我々は「とう」とか「けし」とか言いよった。けしと言う右さひっぱって、とうて左さんと、牛がそういうふうに慣れていきよったんや。鋤を牛が最初は前について押しよんしゃが、何日かすると流れがそれに慣れて、そこの溝がいってな。とうちゅうと左いけ、けして言うと右さこいていう合図でな、よう牛も動きよった記憶はしちょけどな。
あと「わーわー」で止まれやったな。
―ごはん炊いたりお風呂は全部薪で?薪はどこから?
そこらへんの山から。
―山とか谷ではどんな作業を?
おっちゃんたちぐらいの時代やなかや?山で生活、お茶とか、飯ごうつめして。冬ばはほとんど山登りで、自分の山の。結局、枝おろしとかもう枯れたとを切ってきて。
我々どんがそれも右か左かも分からん時によその山ばそういうふうに枯れたとこ切って
…。俺たちの小学校高学年ぐらいはそういう人ん山つむぎにいきよったけんが、それをとって下の皿屋は焼きもん協会やな。ここには松の木と枯れたとがあっけん、そういうとば自分たちで40センチくらいの長さに切って、それば割って、竹輪ってのが昔あったて、そんなかに20本くらい詰めて、50円やったやろかにゃ、30円やったやろうかにゃ。
(ここでその値段について少し言いあいになった。)
―それを作って売っていたんですか?
そうそうそう、小遣い銭にな。そこのしたの陶器屋さんにな。
(炭焼きのことを聞いたが、分からないということだった。)
―杉とか切ったあとに山を焼くことはあったんですか?
それはない。
―干し柿とかかち栗とかは作ってたんですか?
あったな。干し柿はもうこの部落は全部下がってた。各家庭で。必需品やった。
―最近は作らないんですか?
もう最近はほとんどなくなったな。あるとこのがめずらしかな(笑い)。
―他に山でとれて商品として売ってたものはあるんですか?
山なんかは昔のこと言えば、こんだけ田舎やけん、やっぱそれだけ自分たちで手ばいれた
自分のうちの生活品にはしょしゃったとこがほとんどやった。
―川で魚とかはとってたんですか?
川があんまりないからね。
堤は、30人くらいの団体で鯉ばいけよしゃったけんが、1年にいっぺん堤干ゆってあげよった。そやけんが魚とりていえば、ある程度団体の人たちがいけた鯉をある程度確保してとれば、部落の人が細かくしてフナとかウナギはとれよんしゃったよ。
今はいろいろな問題で食われんが。水が洗剤とかなんとかで。当時はそうやって堤干しはやりよんしゃった。
―米はどういうふうに保存してたんですか?ねずみ対策とかは?
2階に全部あげよった。あとは各家庭にネコ(笑い)。ネコはどこにでもおったなぁ。
―米作りとか農業で苦労したことは?
小学校高学年くらいの時代まではな、ばっちゃんなんかはな、朝3時半、苗取り。田ば植えるまえ、苗取りてあるわけた。朝3時半くらい行け、せせいってゆって食いつくとがおるけんな。わらをくびって、ぼろきれとかとくびって、腰に下げて、苗取りばしんしゃあけ。夜が6時くらいにあがってしまうんや。田植えさんってゆって貸せうけでしょんしゃったわけや。ほやけ、その苗ばとって自分が田んぼん中にある程度言われたとこにずうっとふらにゃいけんやった。そいが、おいちゃんたちは当たり前と思っとんしゃったか分からんばってん、年代的にそれが当たり前やったけんが。それがおどんが時代になってきたけんそれが苦痛やったな。朝起こされて、こう…。
―それは朝早くじゃないといけないんですか?
もう7時か7時半かなったらよそからお金ば払って加勢にきてくんしゃって植えてくんしゃから。そがん段取りば身内ですればはよ済むわけじゃ。
―逆に楽しいこととかは?
やっぱとれたときがうれしかもんね。
(千歯こきの話で盛り上がった。)
―冬は暖房はそんなふうに?
いろり。むかしは「ゆるい」言いよった。各家庭にどこでもあった。
―屋号はついていましたか?
そりゃ結局金持ちさんとこだけやないとかと思う。
―外の村から売りにくる人は?
今も来る。魚とかそんなもん。
―薬とか売りに来るとかも?
今現在もある。各過程で置き薬を使うたぶんだけ。
―病気になったときとかはどこで診てもらってたのですか?
医者やな。
―米と麦は混ぜてたんですか?どれくらいの割合で?
うんうん。麦が多かったと感じたな。自分がころもほとんど麦んごと。昔は最初から麦飯て言いよったくらいやけんが。割合はわからんけども。
―結婚前の人たちが集まる青年クラブとかいうのがあったのですか?
むかしはここの公民館に寝泊りして、掃除。若もんがずうっと後継者で残っていくわけだい。それも我々の年代までくらいやった。そのときはぬぎ掃除て言いよったけんが。雑巾がけでな、冬でもなんでもほんっとに毎晩。先輩来んしゃ前までは。
―先輩とかそんなのは厳しいんですか?
そりゃあ厳しかった。上下関係が。おどんが時はたたかれよったけんが、それが当たり前やったけんが。そがん叩かれよっても生きたかいよかった。先輩が根っから悪か人やなかけんが叩かれてもそこに魅力があったとやろな。
青年クラブは寝泊りもしょやった。10人くらい。男が泊まりに来て。
1年間に1回は女の人が。
囲炉裏端であたってお酒のみとか毎晩しょった。
―そこにはみんな行くんですか?
男はね。結婚するまで。
いつまでも寝と人はおかさんが起こしにきとらんしゃった。「はよ起きてこんか〜い」っつって。
部落も力いれよった、青年クラブに。
公民館てのは何年くらいにできたとかな…。
昭和はじめごろでけて…。
(などの話をする。この日、訪問してお話を聞いた場所が公民館であり、昔の青年クラブがあった場所という話だった。)
―戦後とか食糧難ではどう過ごしてたのですか?
もう農家が多かったけんが…そう影響なかった。
―干し柿泥棒やスイカ泥棒は?
あった。
いつの時代でも泥棒はおった。しかしね、お父さんたちもしてきちょけんね(笑い)。
物干し竿んとこ行ってからずらっとね(笑い)。
楽しみとしてね。
―昔、子どものときはどんな遊びをしてたんですか?
釘鉄砲言ってな、道で。釘同士で遊ぶと。釘を打って立っとくたい、相手が。それを命中して倒すと。それから、ぺちゃ、ビー玉、むくろうち。むくろちゅうんはビー玉のかわりな。木があってその実ばむいて、その中に黒いのがあったから。羽根つき。
野球は中学校なってからはあったけどな。敷地がそんななかけん、そこで野球すっためには三角でね。
小学校のころ、小鳥のわなかけしてね。
そういうんは、ひよゆうてな、だいたい食うためにな。焼き鳥。
わながな、木を1m20くらいに切って、ばね式に作って…、
毎日て言うくらいに学校に行って帰ってくっのが楽しみでな。
遊びゆうと、メジロとりね、かご作って。
(ここで五右衛門風呂の話が出る。)
藩に、共同風呂てあるわけよ。
混浴やけんね。
昭和41年か2年くらいまではあったっちゃなかろうか。それぐらいからぼちぼち終わったはずやけんが。
―盆踊りとか祭りは楽しみだったんですか?
そうやねぇ、そいうとき我われは小遣い銭もらいよったね。1銭とか2銭ね。それが1番の楽しみやったね。
(昔の遊びで竹細工をしてたという話をしていただいた。竹とんぼなど自分でナイフを使って。鉛筆とぎもしていたということだ。)
―出会いとかはどんなだったんですか?
出会いの場は今より多かったね。青年クラブがあってね。青年団が主体になってね、出会う機会が多かった。
―よばいはしてたんですか?
(みないっせいに笑いだした。みんなあったようだ。)
先輩のぞうりばもってね。
よばいもそうやけども、むかしは共同風呂がずっとあったわけだい。その当時に共同風呂やけんが、まだ嫁さにいかん20代の女ん子が、みんなが、親と全部入っとなかもんやけんが一番最後に行きよったわけだ。もう10時も過ぎてから。したら先輩が、ちょっとわい行ってくるけ留守番しとけ、来なけりゃ呼びにこいいうて。板も打っつけちょるが、こぎゃん開いとるわけじゃ、こんな壁板も(興奮気味)。そういうのが多かった。
そらもう隙間から、先輩も見よらっけんど我らも見たかもんだ。おどんが年代くらいまではあった。もうお前たちくらいの年代は見ることはできんが(笑い)。
―農地改革前の小作制度はどんなものだったのですか?
地主さんと、それに対して小作人とおっての。金持ちさんの地ばもってらっしゃんとを小作人が田を作って、1反にたいしてこれくらいの割合でとか。
―格差とか多かったんですか?
ん〜、まあね。
やっぱ収むっとが多かったんですか?
いや、やっとが少なかったですね…。
―神社の祭りの参加とかは自由じゃなかったんですか?
みんな参加することはできたよ。そこに奉納わしよったからね。
―このあたりにガスなどが来たのはいつごろですか?
プロパンガス?さあ。
電気よりは後。電気は大正元年。
ガスは、うちがものごころついたときはまだなかった。全部ゆるい端でお茶わかす、めしは釜やったけんが…。
だいたいこっちは山で焚きもんがあるから遅かろうね。
(ガスについていろいろとみんなで話していた。結局、昭和40数年かという話になった。)
(生活用水についての話となる。)
昔はな、堤んとこに、かめいっていってな、我々の低学年の時分にはな、バケツに2回くらいはくみに行きよった。どこの家もじゃろが。
1日1回は行きよった。
―戦争はどんな影響が?
防空壕くらいはあった。B29が飛んどった。
空襲警報ば言いよったけどな。
―周りで亡くなった方とかは?
こっちのほうではちょっといないな。戦死はあったけどね、兵隊さんが。
―疎開は?
疎開はあったね。そこそこね。都市部が焼きだされてね。転入生なんか多かったね。我々が入学したときは40人くらいが、6年生なっとき60人ぐらいに…。
―村は変わってきましたか?
変わったろうね。ずうっとおれば分からんとよ。仲間がね、都会から帰ってきて、「変わったのう。」って言うね。道路とかまずね。昔は砂利道で。
ここ吉田ちゅうとこも数年前まで信号のなかったとやけん。
―これから変わっていくとか言う話などはありますか?
一般の人はそんなんはわからんばってん…。
一般市民はそういう中まで入っていかんけんね。
○感想
今回佐賀の嬉野町に調査に行ってみて、やはり資料を見たりして調べるのと、実際にその土地の方々に話を聞くのでは全然違うと身を持って感じた。また、資料で見た小字も地元の方々に尋ねることで今はない小字や、その小字の由来、今では別な呼び名で呼ばれている小字などを知ることができた。最後に昔の生活についていろいろと質問をしたが、その土地の昔の生活などを知ると同時に、今の自分が生活している環境と比較ができ、「なるほど」、「そうだったのか」と思うことがたくさんあり、いろいろと考えさせられた。また、佐賀の方便を使われて面白おかしく話されてくださったので、聞く側としてはとても楽しく話を聞くことができた。今回西吉田の調査に行き、地域を調べる楽しさが分かり、次は西吉田以外の地区も調べてみたいと思った。 出水田
西吉田へ調査に行くために見知らぬ先方と連絡をとるなど、なかなかない体験をすることができた。また、当日は予想もしてない大人数でびっくりしました。なかには、以前の調査で生徒を受け入れたことのあるという方もいて、大変参考になりました。みなさん親切な方ばかりで積極的に多くの話をしてくださいました。終わった後、最後に話をしていたら、「訪問前にもっと詳しく内容説明をしてくれていればこちらもさらに詳しい内容の説明などが準備できただろう。」と言われました。こちらとしてももっと準備に力を入れるべきであったなあと感じました。今回の調査は全体的に楽しくすることができ、よかったです。
桐山