後期文系コア「歴史と社会」   

服部英雄教員

佐賀県嬉野町峰川原地区調査結果

 

 

                        

  調査者氏名  永見 周太郎

                           花田 邦明  

 

   

〈当日の行動〉

 

8:30   九州大学集合・出発

          10:30   現地到着

         11:30   川内の公民館 到着

         14:30   周辺散策

15:30   公民館 辞去

          16:20   現地出発

          19:00   九州大学到着・解散

 

 

 

【目次】

  

T .はじめに

U .地名

(1)地図上で用いられているもの

(2)地図上では使われていないが現地の方々が通称として用いているもの

(3)資料に載っているが全く用いられていないもの

(4)今回調査しに行った「峰川原」の由来

 

V .水について

(1)  耕作用水路

(2)  生活用水

 

W .農業について

(1)  お茶

(2)  稲作

 

X .山について

(1)  国有林、私有林

(2)  木炭・薪

 

Y .墓について

(1)  共同墓地

(2)  やんぼし塚

 

Z .宗教について

 

[ .伝統行事について

\ . おわりに

 

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T .はじめに

 

今回は、歴史と社会の授業の一環で、佐賀県嬉野町に行き、調査学習を実施した。実際に外へ出て、学生自らの足で土を踏み、空気を吸い、風景を臨み、自然の音を聞き、また現地のかたがたと言葉を交わすことにより、大学で受ける講義とはまた異なった視点から物事を学んだ。

 

 

〈今回お話を伺った方々〉

   

 ●山田次雄さん 

    

●森島春幸さん    (この地域の歴史に最も詳しい川内区長さん)

 

※今回は、峰・川内・広川原の三地区のうち、特に川内について詳しくお話をしていただいた。

 

〜村の起こり〜

 

 

 

(川内)村の発祥は、天正年間(16世紀後半)に遡る。川内地区には、湧き水という貴重な水源があり、その周辺から人々が住み始めていった。当初から、庄屋のような大地主の存在はなく、土地は平等に分けられ、皆それぞれ自給自足で生活していた(昔から

 

残っている卒塔婆、墓石などからわかる)。一方、広川原は、平家の落ち武者たちが逃げ延びた地であり、そのころからひっそりとした生活を送っていた。

 

 

U .地名

資料に載っている字(あざな)は、現在、地図上で用いられているもの・地図上では使われていないが現地の方々が通称として用いられているもの・現在では全く使われていないもの、の三つに分けることができる。ちなみに、森島さんは、資料として配られたプリントに載っていた字は、最も古いものだろう、とおっしゃっていた。また、(2)の項目の字は、すでに消滅しかかっており、このあたりの人々の中でも年配の方にしかわからない、とのことらしい。

 

(1)地図上で用いられているもの

 

(地名)        (呼び名) 

    川内         カワチ

    榎本         エノキモト

    広川原        ヒロコウラ

    草ノ木原       クサノキハラ

    平林         ヒラリン

    重ノ平        ジュウノヒラ(※

    重ノ橋        ジュウノハシ

    九郎二谷       クロウニダニ

   

 (2)地図上では使われていないが現地の方々が通称として用いているもの

   

(地名)        (呼び名)

十摩         シュウマ  

吉ノ塔         ヨシノトウ

山の木原       ヤマノキハル

  木風塚        キフウツカ(※1) 

岸高         キシタカ

   よけこし       ヨケコシ 

蛇淵          ジャフチ

大坂         オオサカ

落付石        シツケイシ

 横シヲリ       ヨコシオリ 

太ダラ        オオダラ

 わさご        ワサゴ

 咽ノす        ノドノス 

 たふのき坂      タフノキサカ 

土井ノ口       トイノクチ         調査の様子

野中         ノナカ 

春ノ平        ハルノヒラ

 

 

(3)資料に載っているが全く用いられていないもの

   

(地名)       (資料での呼び名)

    大黒石        ダイコクイシ

    川ツウ        カワツウ

    鵃子         ヒシヤゴ

    鮎返         アユカエリ

    与宗谷        ヨソヲタニ

    屋敷副        ヤシキソエ

    灰ノ丸        ハイノマル

    長葉         ナカバ

 

 

 

1 現地特有の読み方もあるらしい。

(地名)      (資料の読み方)      (現地の読み方)

 木風塚       キフウヅカ         ヤンボシヅカ

 その由来は不明だが、「山伏」がなまって「やんぼし」になっていったという説もあるらしい。

  

2 重ノ平(ジュウノヒラ)、重の橋(ジュウノハシ)は、非常に珍しく希少な字だろう、と森島さんはおっしゃっていた。

 

 

(4)今回調査しに行った峰川原の由来

 

 峰川原(ミネコウラ)・・・・昔は峰、川内、広川原の3つの地区にわかれていたが、昭和30年の合併で新しくできた地名である。 

他の地区名の由来は不明だが、その当時の周辺環境から付けられたと思われる。

 

 

V .水について

 

(1)耕作用水路について

   

<今も残る九郎ノ谷からの2km水路>       <川に注ぐ湧き水>

 

明治政府の時代、国からこの部落に水路を作るよう命じられ、2kmにわたる水路を作られた。これは、九郎の谷という名の地に岩盤から水の湧き出るところがあり、そこを源としており、順に、榎本を経て、それから上峰、下峰の大きく二手に分かれる、というものである。水路が完成した当初は、水が平等に行き渡らず(より水源に近い地区の人がたくさん水を取ってしまっていた)に、もめごとになることもあった。そこで、大正時代に、再確認の意味も含めて話し合い、すべての田に水が行き渡るよう協定を定めたという。

 

 

(2)生活用水について

 

 

 

生活用水は、昭和37年に、佐賀県が山林から湧き出ている水をパイプでつなぐことにより供給されている。なおこの水は吉田村から引いてきたものであり、共同でつかわれている。当時から、岩の口に横竹ダムという貯水槽があった。厚生省の補助事業として、住民に出費を手伝わせ、水道水を供給しようとしたが、それに待ったがかかり、結局水は貯水槽から引くことになり、設備を取り付けてもらうだけで水の供給が間に合った。このように、水に恵まれている土地ではあるが、唯一の問題点は、一ヶ所から人口4000以上の住む住宅すべての水道につないでおり、伝染病の危険性が否めないという点である。そのため、現在では定期的に保健所にチェックしてもらっている。

水の恵みを利用指定している点からは、他方で、広川原の湧き水を利用したキャンプ場(町営)なども盛んである。広川原には3箇所の水源があり、ひとつはこのキャンプ場、もうひとつは鞘川の源流となって注いでいる。

 

当日は、ここでその水道水を一杯いただいた。カルキの一切入っていない水で、福岡の水道水とは全く違い、澄んだ味がして、とても飲みやすくおいしかった。山田さんは笑顔で「水道料なんか払わずにおいしい水がのめる。これが山の一番いいところなんです。」とおっしゃった。

地下水100%の水道水 

 

 

W .農業について

 

(1)茶について

 

この地域ではお茶で有名である。しかし、その歴史は浅く、当初は稲作だけでは不足する分の収入を補うために行っていた。茶の栽培が本格的に始まったのは戦後の昭和35,6年ごろからで、県の援助を受けてのパイロット事業として実施されたものである。何か新しいことを始めるにはそれなりの資金が必要となってくるので、何を始めるにしても、国や県などの要請が必要だった。お茶の栽培の良し悪しには、標高も関係するそうで、川内公民館周辺(標高200m〜220m)よりも、海抜300m前後の地域で盛んに栽培されている。その理由としては、霜

 

が一番の原因であり、標高の低い所だと、気温が下がったときに茶の葉に霜が降りてしまい、品質を損う。だから、ある程度の標高が必要なのである。もっとも、今では国の援助により、霜に対応する機械(気温に応じて水(?)を撒くもの)が設置され、標高の低い地域でも栽培されているが。しかし、最近、お茶で生計を立てている人もごくわずかとなり、援助もカットされ始めている(近々援助すべてが打ち切られるとか…)ので、嬉野のお茶産業としての立場の目から見ると、非常に厳しくなってきているのが現実だ。

 

 

(2)稲作について

 

もともと自給自足の村であったため、稲作の歴史は古い。この辺は、平地ではないため、石垣をたくみに積み上げて田んぼを作っている。しかし、耕地面積に限りがあり、現在は一戸あたり4〜5反ほどの割合である。

 

 

X .山について

むかし、川内地区周辺まで国有林がおりてきていたが、今は払い下げられている。明治20年代に第一次払い下げ、明治37年に第二次払い下げがおこなわれた。もともと材木は全部人工林ではなかった。昔は、木炭、蒔などをつくり砂利道をくだって出荷していた。というのも、米を作っても一年中食べていけるわけではなかったので、木炭や薪を作り、副業としていたのだ。山で作った木炭や薪を低地に運ぶ方法としては、牛が用いられていた。その方法の名前は「(ぞう)()き」であり、皆行っていたという。馬を飼っている家もあったが、馬が活躍することはあまりなかった。ちなみに、田んぼを耕すときなども牛が使われている。

 

 

Y .宗教について

 

川内地区には、浄土真宗のお寺が二つあるが、流れは同じである。明治時代に禅宗から改め浄土真宗を信仰するようになった。

 

公民館にも仏壇があったが、阿弥陀如来の姿がなかった。理由を聞いてみると、行事のあるとき以外は大事に木箱にしまっているそうで、そうしないと失礼にあたるから、だそうだ。

 

 

Z . 墓について

(1)  共同墓地

 ここの地区の人々は、亡くなると共同墓地に入る。公民館からすぐ近くにあり、実際に連れて行っていただいた。その墓は、昔は子供たちの遊び場だった。周辺の歴史を探る目的としてもお墓は用いられるらしい。そこには、比較的きれいな墓石から、風化して字が見えなくなっているような墓石まであった。古いものになると、明治以前の禅宗を信仰していた時代のお墓もあるという。また、墓の入り口には、観音様のお堂もあった。

観音様     

 

(2)やんぼし塚

やんぼし塚は、共同墓地から歩いて少し下ったところにあり、狭いところに墓石が数個あるだけだった。川内地区の住民でない、山伏や行商といった人たちがこの地で亡くなると、ここに葬られた。

 

 

 

やんぼし塚からの景色。村全体が見渡せる眺めのよい場所だった。

 

 

 

 

[ .伝統行事について

 峰川原には、伝統行事は存在しなかった。ただ、収穫―豊作を祈る「田祈祷」よばれ田植え後におこなわれる行事は存在するらしい。このあたりで民俗芸能などを継承してきたのは、春日、西吉田くらいであった。しかし、広川原の歴史を探れば、明治時代中期ごろまで、「山観音」をまつる祭りが行われていたらしいが、定かではない。

 

\ . おわりに

 今回の調査では、まず景色のよさに感動した。福岡での生活ではあじわうことのできない自然の雄大さに心を奪われることから始まった。私たちが受けた村の印象としては、人口が少ないからか、静かで落ち着いた雰囲気だということだ。あたりを散策していると、まさに時が止まったかのような感覚さえした。そんな村の地に刻まれている歴史を直に教えていただくというのは、とても興味深いものだった。話を聞けば聞くほどより広く、深く学びたいという意欲がわくようになっていた。時間の都合上、限られた範囲の中でしか学習できなかったのは、心残りである。しかし、今後、また大学に戻り机上での学習を続ける中で、十分に生かせるようなよい体験ができたと思う。今回私たちの調査以来を快く受け入れ、また話をしていただいた山田さん、長年川内に住み、誰も知らないような秘められた歴史を熱心に語っていただいた森島さんには厚くお礼を申し上げる。また、この調査の段取りをしていただいた服部教授、バスの運転を務めていただいた方にも感謝の言葉を述べたい。