「歴史と社会」 現地調査レポート

 

調査者:井本圭祐 畑山朋美 米佑里子

調査地:佐賀県嬉野市 春日地区

調査年月日:平成19年1月13日

 

n  話者

山上鴻三郎さん(大正13年生)

松本広渡さん (大正15年生)

井藤澄夫さん (大正14年生)

堤辰次さん  (昭和4年生)

小川正俊さん (昭和4年生)

中村俊治さん (昭和18年生)

 

n  はじめに

横竹ダムを下に見ながら、一本道をのぼったところに春日集落はある。静かでのどかな風景が、印象的だった。右手に大きなイチョウの木があり、手前には真新しいコミュニティーセンターが建っていた。そこで、話をうかがうことになった。
 春日には23の小字(重石・成就ヶ谷・一本松・平原・中山・大坂・家城・小吹・西谷・
西久保・馬場野・上申・モチナガ・立石・打越・上春日・桑原・通山・一ノ瀬・ハゲ岩・
氷道・柏原・広谷)があると事前に調べていたが、実際には、もう一つカワカミ(川上)という小字が、広谷の上流にあることがわかった。また、柏原は吉田川東岸で、対岸は大坂になる。モチナガは小字「中尾立」の中の地名で、字は「中尾立」という。以上3つが事前資料と異なる点であり、訂正したものを地図1に示す。

 

n  地名調査

まずは春日の地名について呼び方や位置、由来などを伺うことにした。事前に配布されていた小字一覧と対応させながら質問したが、実際の呼び方と小字一覧の振り仮名が異なる地名も多く、謎解きのようだった。

u  字名(場所は地図参照)

・川の東岸 下流から順に


馬場野(ババノ)上申(カミサル)西久保(ニシクボ)中尾立(ナカオダテ)

立岩(タテイワ)打越(ウチゴシ)上春日(カミカスガ)氷道(クイミチ)

桑原(カーバー)通山(ツウヤマ)柏原(カシワバル)一ノ瀬(イチノセ)

ハゲ岩(ハゲイワ)広谷(ヒロタニ)川上(カワカミ)

・川の西岸 下流から順に

重石(カサネイシ)成就ヶ谷(ジョウジュガタニ)一本松(イッポンマツ)

平原(ヒラバル)中山(ナカヤマ)大坂(ウーサカ)家城(ヤジロ)小吹(コブキ)

西谷(ニシジャー)

 

u  地名(場所は地図参照)

地図上の大体の場所から小字ごとに分けて表記するが、小字の境界にまたがる場所も多い。

 

<馬場野>

ナカイワ:篠岳の斜面

ビワンクー

ブクデ:分校の東側

ドウシュウダニ:赤瀬との境のあたり

フジンオトシ(フジノオトシ):川が曲がっているところの淵

メオトイワ:「夫婦岩」二つならんだ岩の呼び名 上申との境のあたり

 

<上申>

コトウゲ:馬場野との境のあたり

ウトタニ:ナカイワから川の上流の方へ尾根を一つ越えた谷の部分

フルミチ

シモサル:「下申」

イェゲンヤマ

ウシオンダニ

 

<西久保>

ニシンコウチ:分校の下〜川のあたり

サガリ・シンガエ:両方が同じ場所を指す 昔この辺りに家が一軒あったという

タニジモ:「谷下」

ウートウゲ

 

<中尾立>

カンノンビラ:「観音平」

タニ:道が曲がっている辺り

イシクラ

モチナガ

チュウクロウ

ヒケイイチ

タジャウネ

シンギー:飲料水用の小さな川がある

 

<立岩>

タテイワ:「立岩」道をはさんで両側をさす 昔の墓地の跡がある

オオノクボ

サンガンドー:「三願通」

サンチクヤマ:大野へ向かう道の北側

オオノミチ:「大野道」大野へ向かう道 畑と山の境

・昔の墓石が残っている

・「サンチクヤマ」の道の内側には昔竹があった、現在はない

 

<打越>

ウーヤブ

ミネサキ

トクベイ

カックイビラ:道より下のあたり

カナヅチ:川のそば 西久保との境のあたり?

 

<上春日>

ジャームジンババ:「大明神馬場」春日大明神へ続く道 ジャームジン=大明神

ミズノデグチ:「水ノ出口」春日大明神の裏

アンノサカ:春日大明神からジョウノウオに登る坂

カミノセ:「上(神)ノ瀬」

・「ミズノデグチ」には昔共同の飲み川と洗い川、2つの川があった。ここを中心にかつては10軒ほどの家があったという。

 

<氷道>

ワタウチ:「綿打」綿打橋周辺の川の両岸をさすため、平原にまたがっている

ウバンツクラ:「姥ノ懐」

ジョウノウオ(ジョウノオ):「城尾跡」山の頂上付近

ジョウノヒラ:ジョウノウオの下の斜面

フジノタニ:ジョウノヒラより少し北の方

ウエクワバル

シタクワバル:ウエクワバルより川に近いあたり

ヤマンカミ:柏原との境界のあたり

・「こおった(氷った)」を「くうっとったばい」と言うことから、「クイミチ」と呼ぶ

「氷った」ではなく、氷を食べる「くう(食う)」だという説もある

・「ウバンツクラ」は「おばあちゃんのふところ」の意味

北風が入ってこないため、あたたかい

 

<柏原>

ヒトツイシ:国有林より下の方

ゴンベエダニ

メクラオトシ:百貫橋よりすこし上流、林道と川の間

 

<一ノ瀬>

ダドメ:滝がある 「馬留」

キーダニ

 

<ハゲ岩>

ハゲイワタンゴ:「ハゲ岩谷川」川の名前

・「谷川」を「タンゴ」と読むそうだ

 

<広谷>

ヒロタニタンゴ:「広谷谷川」川の名前

 

<重石>

コウクボ:赤瀬との境のあたり 上の方も含み、タカダケまでの一帯をさす

マツガヒラ

・重石の由来:大きな四角い石の上に丸い石が乗っていることから

       斜面なのに崩れないのが不思議

昔は見えていたが、現在は木が大きくなってしまい見えないという

 

<成就ヶ谷>

カクセン

ナッタロウ(ナッタロ):「鳴太郎」タカダケからの尾根上の峠 一本松の方の谷から登る

カキノキビラ:道より下の川に近い方

タイ:一本松に近い谷の方

 

<一本松>

ロクシュマキ:「六升蒔」

<平原>

オクガヒラ:林道より山側

カイフキダニ:「貝吹谷」

カメワリザカ:「甕割坂」カイフキダニの下の方

・「カイフキダニ」山伏さんがほら貝を吹きながら谷を下りてきて、春日に通り抜けていったことから

・「カメワリザカ」は背負ってきた甕を割ったことから

 

アラハシ:百貫橋(ヒャッカンバシ)の呼び名

 

<中山>

コダニ

ハシンクチ

・このあたりには昔のお墓が残っているらしい(墓石のみ)

 

<大坂>

ベンザラ

 

<家城>

トマイワ・トマリイワ:「止岩・泊岩」崖のように切り立った岩

ヒラゴヤ

ナガタン:「長谷」ヤジロタンゴ:「家城谷川」川の名前

・ナガタニタンゴもあるらしいが、地図にはなく場所がわからなかった

 

<小吹>

ヤシャブチ:一ノ瀬橋の下の淵 きれいな風景で、よく写真で紹介されている

・一ノ瀬橋一帯を「春日渓谷」という

 

<西谷>

ニシジャータンゴ:「西谷谷川」川の名前

 

現在でもこれらの地名は日常的に使用しているという。呼び名は分かるが漢字ではよく分からないという地名が多く、小字一覧との対応がしづらかった(太左エ門畔→タジャーウネなど)。小字一覧の読みと異なるため今回気づかなかった地名がある可能性もあり、いくつかの地名に印を付けて頂いた。みんなで一緒になって謎解きをしているような感覚でだんだんと話が盛り上がっていき、帰る時間が来てしまったのが惜しかった。

n  聞き取り調査

 昔の暮らしについても詳しいお話を伺った。ワナのしかけ方など、身振り手振りで説明して下さったが、文章ではそれを表現できないのが残念。

 

昔は、私が子供の頃はねえ、川にねえ、ツケバエっちゅうてねえ、ウナギば取りに行きよった。

――どの辺ですか。

吉田川全部。

縄張りのあってねえ、子供の頃ね。餌にはカエルとかタニシばつけてねえ、それとかドジョウとかつけてさあ。川はもう頭に入っとったけん、川の地形は全部頭に入ってしまっとった。50本ぐらいつけよった。自分ひとりでねえ。全部、夕方つけにいくでしょうが、あくる日三時か四時ごろ取りに行きゃないかんもん。明るくなったら逃げるけんね。暗いうちに行きゃあならん。それでもうほら、50本つけとけば、数えなんもんでしょうが。川の地形ばずーっと辿って行きよってん、どうしても足らんもんねえ。50本つけとってもやっぱ44、5本しかわからんわけたい。で、また1からこうやってこう…。それば楽しみやった。

そっで、ギッチョっていうてアブラバエっちゅうてね、ヌルヌルするうろこの長い魚んおった。アカバエっちゅうて、腹のあっかハエ。ハヤっちゅうかね?魚釣りにサケダゴつってば、うどん粉と酒とばと作ってさ。

青虫とかね、キャベツについた青い虫とかつかってば魚釣りにいったりしよった。 

――今でも釣れますか。

あんま。昔はもっとウナギは上ってきよった。ひと夏に何匹ばとったって自慢しよった。40こ揚げたとかね。俺は25やったとか。ひと夏にね、ある人は40こ。

――じゃあ、相当きてたんですね、ウナギが。

水路まで上ってきよった。

とかねぇ、冬はメジロ捕りっちゅうて。昔はほら、今よりメジロが、こう。1匹でしょうが。昔はもう(メジロが)20匹も30匹も、捕ってさ。メジロ捕りに行きよったしね。

カチワナっつうて、罠がけ。

カッチュウって言って、ヒヨウドリ。カッチュウのことをってなんていいよらすとかな、茶色のヒヨドリみたいなのがね。地面をこうってかっかっかっか.っと。カッチュウとかヒヨウドリとか。

カチワナと言って、かけてね。罠かけっつうて、餌を入れてこうして、罠をかけるっつたい。こお(い)った感じにしてね、こおしてこおして、でその、こう餌にしてクって倒れるよ、でこれがコっと倒れてパタって閉まって、かかるとさ。カッチワナって。

餌をね、こおって(こうして)囲う訳よ。木の枝で囲って。そして、あの、木をバネにして。細い木のこお、弓なごとく。それでね、アオベエ???カヅラ??

そればバネにして、あの、パタっていうごと、原理はどうなんかな、こうして、原理ばいやーっちゅうことね、なんだろね。その。

そいで、ここにちょこっとかかっとうけ、こうその餌を、食べるでしょうが。そいでそれがパッとはずれてこの、チンボウって言いよったもんね。(それが)ポンってはずれるわけたい。タンってあがって。そいでこれがバネにこうしとるでしょうが。ピタってあがっていって、こう。こおってば、木ばね、こんくらいの木ばこう渡してさ、股のある木でブスって抜くとさ、下に。そして、カヅラのついた紐ばをね、こんぐらいの木の、木の下から通すわけたい。そして、バネに引っ掛けるわけたい。そしてこっちをずーっと、で上げる。こうして、真ん中にもういっちょしといて、こう、こうして押さえてね。そして、ここでとむわけ。で、そのこうこっちかわしかかかってないから、結局、こいでこうばこうして、こう(手を叩く)、たぶっとる(食べてる?)時にこうするわけ、鳥が。パッと外れるときにこれば、こうして引っ張っとパタって。そして冬やっけんが雑煮に入れてさ、だしにして。
自分達も先輩から習ってそういう感じで。それも山に何箇所でもかけとくわけよ。10箇所も20箇所もかけて回るわけ。学校から帰ってくるても勉強はせんで。夏は魚獲りやろ。冬はメジロ。山にカッチュウ、ヒヨドリ。

 
勉強はなんもせん。全然せん。テレビなんかも無かったしね。昔はね。そういう遊びばっかしよった。よう昔の人は作ったとよね。凧揚げたりもしよったね。自分で凧作ってね。凧揚げもしよったしメジロ獲りもしよったしカチワラもかけに行くでしょうが。ビー玉もしよったね。そしてクギっちゅうてばい、五寸釘ちゅうてぎゃんと釘があっでしょうがたい。建築に使う釘。あればこう、立てて、ぶすっと人の立てたやつばこっちで弾くわけたい。相手のば抜いて。自分のば立てて相手のば飛ばすわけたい。釘のところにこんな頭の付いとっでしょうが。何回でんしょっけんがシャッて放す瞬間にやっぱ摩擦でね(指を怪我した)。
学校まで持っていってしよったもん。休み時間に。クギでん、缶蹴りとかね、凧揚げとか。
今はもうほとんど外で遊びよらんでしょうが。ゲーム機でこちょこちょこちょって我がしてテレビ見て。運動不足だん。そっでん、やっぱ何らかの遊びば自分達でね、工夫してさ、楽しみよった。そっで今の子はなあ、もう都会の子と一緒やもんね、田舎もね。なーんも遊びよらん。仲間っちゅうのがなか。とう内?の人とも遊ばん。もう自分達はドロドロやってさ、昔は子沢山やったけんね、もう固まって集団で、けんかしたり叩かれたりしてさ、昔は。今はなーんもそういうことのなか。子供も少なかしね。ほとんどおらん。10人おるかな。

昔は青年でね、夜はここ(公民館)に泊まり来よった。今はコミュニティセンターになっとうばってんね。昔は倶楽部てゆうてね、青年倶楽部て言いよった。夜になるとここで寝泊りして朝帰る。もう畳にごろ寝よ。もうけらけらするごと布団ば被ってさ。飲みがもう――。いろいろ昔は封建的やったけんね、掃除ば当番で若っか人でせにゃならん。全部板張りから、拭いてね、そうしてお茶沸かして、教育ば受けっとよ。上の人たちから。徹底して。

――青年倶楽部は男の人たちだけですか?
うん。青年倶楽部で教育された人は上下のピシャッと守ってね、今の人はさ、年上か年下かわからんもん。そんな、けじめとかなかもん。そうが、ここば通った人は一級上の人には敬語ば使うしさ、今はもう上か下かわからんごっなっとる。人間的な教育のね、あんま自由すぎてさ、昔は悪かごとすると座らされよった。ボウキ?っちゅうて、薪ば割るでしょうが、それば並べてその上に膝立てて座っとった。もう、ちょっと尖っとるけんね。薪ば割ったのば三本ぐらい並べてそこに膝ば。そういう罰ば受けよった。
病院のあったったい。
――
今はないんですか?
うん。今は吉田?の学校の近く。一箇所しか。屋敷がそこだもんね。そこに見えよるよ。そこの向かいが屋敷やった。薬師堂のあんもんね。お堂のあってお祭りしてある。
お彼岸とかなんとかには巡礼に来んしゃる。春と秋の彼岸にね。お彼岸さんにお参りに。八十八箇所巡りみたいな感じ。部落の人もそこに入っとる人は8軒ぐらいかな。で、あの、(薬師堂の)管理をする。まあそこの一員やろね、結局信者さんちゅうかな。本当はもっとあったとばってん今は。8軒に回してね、旗を立ててみたりね、そんでお参りに、巡礼に来んしゃるけんが、そん時にお茶を出してね、掃除をしてきれいにして、お供えばしてね、巡礼者に豆とかさ、饅頭とか。当番で回ってきて。そこの世話にね。秋の彼岸と春と。
――
薬師堂は病院の跡ぐらいにあるんですか?
うん、ちょうど隣。元は薬師堂ちゅうと、向こうのね、あの私の家の裏にあった。それがこっちに移動してきた。青年倶楽部っちゅうのと一緒にあった。一緒んとこに。しかしもうこの公民館がここに移動してきたもんやけん、薬師堂もそこに。

 

この辺りで時間がきて、最後はうやむやになってしまった。

 

次に書くのは、とても面白い話。テープが取れていなかったのが残念だった。

 

 山を切って畑にするとき、焼畑をした。すると夜に、山が燃えている。とてもきれいだったそうだ。しかし、その火は「ぱっと燃えて、ぱっと消えてしまう」。燃えていた辺りに行っても、燃えた跡はない。うそのような話だが、何人も見た人がいる本当の話だろう。タヌキが人間のまねをしいたのではないか。証拠に、昼に焼いたときだけ起こり、焼いてないときは火が立つことはなかったそうだ。他のも道を歩いていたら、ガラガラと石が崩れる音を出すこともあったとうかがった。タヌキが本当に人を化かすなんて驚いた。

 

u  春日の暮らし

現在(H.19.1.13 の春日地区には、46戸の家がある。内43戸が古くからあるものだ。

多いときには、170戸ほどあり、一ノ瀬橋の上のほうまで家があったそうだ。今でも、墓石が残っている。

 吉田小学校春日分校は、本校より早く開校した。昔は赤瀬のほうからも、生徒が通っていた。生徒間には縄張りがあり、赤瀬の子供たちと学校帰りなどに石を投げ合っていた。現在は本校と統合し、閉校している。

 春日では、多くの人が米や麦をつくって生計を立てていた。役所勤めをする人以外は、山仕事をしていた。山では炭焼きが行われた。基本的には、どこの山でもやっていたようだ。昔の山は雑木林で、カシの木などがあり、炭焼きにむいていた。カシなどの質の硬い木が炭焼きに使われ、硬い木でつくった炭は、硬く長持ちでよい炭になった。木を塩水につけて焼くと、さらに高級品になるそうだが、春日ではそこまでは行っていなかったらしい。炭焼きは年に3窯くらい焼かれていた。1窯で30〜50俵ほどの炭がとれた。窯は、共有だった。炭は萱でつくった“スゴ”という容器に入れていた。スゴは、15kgぐらい炭が入るようにつくられていた。炭焼きは、高い技術を要する、経験が重要な仕事だったらしい。同じ窯でも、どれくらい炭が焼けるかは、その人の技術による。木の上のほうが炭になっても、下はまだなっていなかったり、下が炭になると、上が焼きすぎてなくなってしまったりしていた。下まで炭になって、上をどれだけ残せるか、炭焼きの難しい点だ。その焼き加減は、焼く人の経験による。きれいに炭になると、火をつけても煙はでないが、炭になりきっていない木は煙がでた。煙が出る様子から、炭になりきっていない木を“スボリ”と呼んだ。炭にする木の残りの枝はたきものにつかっていた。炭焼きの帰りにはマキ(たきもの)を持って帰っていた。たきものは”ビャーラ“と呼ばれ、ごはんやお煮しめを炊いていた。 

 現在、山は人工林となり、スギ・ヒノキが植わっている。スギやヒノキはやわらかいので、炭焼きにはむかない。よって、炭焼きは、どこの山でも行われていない。

 

 春日は5班に班分けされており、各班ごとにさまざまな催しがあった。

 まだ、各家庭にお風呂がないときは、班に1つずつ“もやぶろ”があった。もやぶろとは、共同ぶろのことだ。もやぶろは五右衛門風呂で、下から火をたいていた。湯かげんは次にはいる人に、火をたいて調節してもらっていた。下から火をたくので、板を沈めて入る。子供だけだと板をうまく沈められず、ひっくり返ることがあるので、大人が一緒にはいっていた。また、風呂は混浴で、若い娘さんからお年寄りまで、老若男女みな一緒に入っていた。別になんとも思わなかったと語ってくださった。知らない人と一緒に入れるかと聞かれたが、思わず考えてしまった。

 風呂の水は、沢から引いていた。竹を縦に割って水を引くパイプのように使っていた。流しそうめんの竹のイメージだ。当番になった家庭が交代で、風呂の掃除や風呂たきを行っていた。もやぶろは、昭和37,8年ごろまであった。

 紀元節(2月初め)のころには”ご縁“が開かれていた。年に一度、3日くらいお坊さんとお話をしたり、説教を聴いたりする。青年団が主催していた。昭和35,6年ごろまで行われていたが、今はない。

 

<ナッタロ峠>

コミュニティーセンターからナッタロ峠が見えた。あの峠を越えて、郵便やさんが、毎日広川原のほうから配達にきていたらしい。峠はウサギ道(ぴょこぴょこした道)で、歩いてくることしかできなかった。

 

<水>

 昭和53年に簡易水道が通った。以前は、生活用水は水のきれいなところから持ってきたり、井戸を掘ったりしていた。“イノテ”と呼ばれる。一斗ダルを2つ吊り下げたものをかついで、もってきていた。”ハンズガメ“という瓶にため水をしていた。

 また、春日集落には水路も通っている。一ノ瀬川の下流の堰から水を引き、全長4kmにもなる。偉い設計者が来て、つくったらしい。農業用水や生活用水に多目的につかわれた。

 トクベイに茶工場があった。水でまわして、タービンを回転させていた。まだ他のどこにもなかったころに、つくったそうだ。そのころのタービンは現在、鹿島市にある。

 

<国有林の払い下げ>

 班ごとに国有林を買い、くじ引きで自分の山を決めていた。

 

<農業>

 山を切り、焼畑をして畑を作っていた。そば、いもんこ(サトイモ)、ぼんかん(かぼちゃ)を栽培した。他にも、お茶、米、麦をつくった。ハゲ岩では、ワサビもつくっていた。ワサビは、沢やきれいな水辺でできる。秋には麦をまき、冬に収穫する。6月末には米をつくり、二毛作を行っていた。米は化学肥料導入前で、6俵(360kg)ほどだった。肥料には、草や牛糞をつかった。牛糞はわらと混ぜ合わせ、発酵させ、草は乾燥させて、切って畑にかえしていた。

 耕作用として、各家に牛を1頭ずつ飼っていた。馬はあまりいなかったそうだ。牛はすきを引いて、田をくるっくるっと上手に耕していた。左に行きたいときは「とうとう」、右は「けしけし」とかけ声をかける。“けしとう”という。鼻輪がしてあるので、ひっぱると、その方向を向く。しかし、かけ声だけでちゃんと動いていたそうだ。休憩していると、牛はひとりで牛小屋に戻っていることもあった。牛は頭がいい。どんな動物も話はしないけれど、人間と一緒で何でもわかっている。なるほど、そうだなと思った。

 気性が激しい牛は、玉とりをした。玉とりは、“ばくりゅう”という、今の獣医さんのような人がしていた。獣医さんといてもそれが本業ではなく、玉とりをしてくれる人を”ばくりゅう“とよんだそうだ。金玉を縄でしばって、塩とニラでもむ。血が通らないようにしたら、くさって金玉がとれる。塩とニラでもむのは消毒のためだ。他にセッケンをつかうこともあった。何でもよかったらしい。玉とりをすると、おとなしくてよく働くいい牛になった。

 牛は、ワタウチあたりであらっていた。牛を洗う場所は決まっていた。1か所ではなく、他にもいろいろなところにあったという。川の深さは1〜2mだ。牛洗い場で、自分も泳いでいた。

 

 

<サンショウウオ捕り>

 昔はカワカミのあたりでサンショウウオが飯ごうの蓋や手で捕まえられた。捕まえたら水と一緒にそのまま飲んでいたという。サンショウウオは疲労回復に効くらしい。今ではあまりみなくなったが、カワカミで小さいのを見たと話す方もいた。

 

<アシナカジョリ>

 ジョリとはぞうりのことだ。わらを打ってやわらかくし、自分たちで作っていた。雨の日は、びちょびちょと水を吸い、歩くたびに水がはねあがって、大変だった。

 

<ガンド> 

 ガラス張りになっている四角い照明。石油(灯油)に芯をとおして灯りをつけた。ちょうちんのようなもので、ちょうちんと併用した。

 

u  現在

 昔はたくさんいた子供や人も今ではすくなくなった。春日の子供たちも昔のように川や山で遊んだりせず、テレビゲームをやってばかりいるそうだ。山は手を入れると、人件費や木材の安値のため、赤字になってしまい、手付かずの状態になっている。山仕事は大変だし、技術も要するので、今の若い人はできないそうだ。

 

u  春日大明神

 春日に入り、目に付くのが、大きなイチョウの古木である。このイチョウは、樹齢700800(県によると500)、高さ60mにもなる。県の文化財の指定も受けている、春日大明神のご神木だ。春日大明神は、嬉野にあると豊玉姫神社の分神であり、豊玉姫を祀っている。豊玉姫は、奈良の春日大社の三体の御祭神のうちの行方不明になった一体で、この地(春日)に来たと考えられている。

 近年、神殿を改築したとき、屋根の下のところから骨が発見された。豊玉姫にお供してついて来た、“しか”の骨と思われる。現在も、この骨はもとの場所に納められている。なお、豊玉姫神社の社務所には、春日の文献がおいてある。

<お祭り>

今もいくつかのお祭りが行われているという。田植えの後のお祭り、7月15日に灯ろう、11月30日がおしたき、12月15日が大明神祭り。

 

n  簡略歴史

大正14年4月 九州電気配電:電気がくる。

昭和2年   足踏み千歯稲こぎ 入荷

       足踏み脱穀機のこと。飛ばないように囲って、風をおこしてもみをとばす。

昭和11年  春日林道工事着工

昭和18年  春日林道完成   →現在は市道になっている。

昭和32年12月 バスがとおる。1日6便。嬉野⇔春日 250円

昭和53年  簡易水道ができる。

昭和55年  多良岳横断林道ができる。

平成18年  全国アルプホルン大会開催(広川原キャンプ場) 

韓国からの参加者もあり、大成功。今でも記念にホルンをおいてある