聞き取り調査を行って。

 

聞き取り調査実施日:2007年1月13日(土)

 

 今回、佐賀県佐賀市嬉野町上岩屋乙2513番地にお住まいの永尾武俊さんから嬉野市(主に上岩屋)についてお話をお伺いすることができました。永尾さんから伺った話に入る前に聞き取り調査を行った日の1日の行動を紹介しておきたいと思います。

 

1月13日の行動

 8時30分頃    六本松キャンパス本館前に集合、出発

 10時20分頃   バスが目的地の嬉野町に到着

 11時5分     バス停(熊野神社前)でバスより下車

 11時15分    永尾武俊さん宅に到着

 〜12時頃まで   聞き取り調査@

 12〜13時頃   昼食  

 13〜16時    聞き取り調査A

 16〜16時20分 轟の滝付近を見学

 16時25分    バス停(熊野神社前)に到着

 16時50分    バスに乗車

 18時20分    六本松キャンパスに到着、解散

 

 

 ここからは永尾さんから伺った嬉野町に関する話について書いていきたいと思います。いくつかのテーマに分けながら自分なりにまとめていきたいと思います。

 その前に、永尾武俊さんについて少しだけ紹介しておきたいと思います。永尾さんは現在66歳で生まれてからずっとこの嬉野町の上岩屋で農業をやっているそうです。嬉野町はご存知のとおり有名な嬉野茶があり、永尾さんもこの嬉野茶を夫婦で作っていまして、過去には全国一に輝き、以後5年にわたり入選し続けるほどおいしいお茶を作っています。

 

 それではまず永尾さんが住んでいる土地について説明したいと思います。永尾さんのお宅には嬉野町の2枚の写真が飾ってありました。1枚は昭和30年のもので、もう1枚は昭和60年のものでした。昭和30年は水田が多く広がっていましたが、昭和60年の嬉野町は30年で姿を変え、水田が減り住宅地が広がっていました。この住宅地の広がりにも関わらず、人口は約3万人前後から変わらないことから、核家族化がはっきりと見てとれました。

 この核家族の増加は長尾さんも上岩屋に住み続けて強く感じているそうです。現在、上岩屋には約150戸、510人ほどの人口だそうです。この上岩屋でも昔は夫婦、子供とその配偶者、孫と家族で住み、7〜8人は少なくとも一緒に生活し、協力して農業を行っていたのに、若い人は町に出て行ってしまうので岩屋には老人ばかりになってしまい、人口の数字はあまり変化していないそうですが、現在は永尾さんのお宅のように7人家族はほとんどおらず、みな核家族になってしまっているそうです。また地域の繋がりも減ってしまい、20年ぐらい前から上下岩屋が分かれて区有林もその際に分けられました。個人の山も、区有林も材木はやすいために放置されているそうです。上下岩屋は分かれても昔は水も農作業、溝掃除などを上岩屋の人達と下岩屋の人達が協力してやっていたのが、今では場所を分担して別々にやるようになってしまいました。昔のように協力して住んでいた家族を知っている永尾さんにとっては自分の周りまでそのように様変わりしてしまい、非常にさびしそうでした。私達は核家族がほとんどの現代しか知りませんが、大家族で祖父母と一緒に暮らしていたら、自分が知らないことをもっと教えてもらったり、より家族の強いつながりを感じられたと思います。

 

 上岩屋やその周辺の昔の様子についても話を聞きました。まず、後に述べますが、永尾さんが子どものころよく農業の手伝いのために通っていたという陣野というところです。この場所は黒曜石がよくとれる土地柄らしく、狩猟がさかんだったそうです。その証拠に永尾さんは陣野の畑を耕しているときに黒曜石でできた装飾品のようなものや矢じりをよく土の中から見つけていたそうです。

 上岩屋には近くに大野原という地名の土地があります。この大野原は先祖が武士の人が多く、それに対して上岩屋には農民・平民が多かったそうです。この大野原や祭代、岩崎、小杭(こくい)などを通る道幅が約2メートルほどの往還(ゆききする道)があったそうです。この往還は旅人や商人なども多く利用していたため、長旅の安全を祈りながら進んでいたようで道の途中途中には観音様が多く見られ、その名残か杭と碇石の間の坂は観音坂と呼ばれているそうです。

話は変わりますが、さきほど出てきた祭代にはもともと神様がいらっしゃったそうで、その神様を時期は不明ですが宮ノ元に移したそうで、その移された場所に今建っているのが熊野神社だそうです。その神様も昔の人達と同じように往還をとおり宮ノ元にきたのではないでしょうか。

他にも人ではないものの1160年以上前に大移動したものがあります。それは風早(かつはい)にあった石です。この風早は祭代より上の鹿谷(かや)にあり、現在の岩屋発電所付近で石がよく採れたそうです。1160年以上前にこの風早の石はどのような方法かは分かりませんが、小獄の御獄神社に持ってこられこの神社の鳥居となりました。もちろん現在もその鳥居がたっているそうです。同じ上岩屋と言っても風早から御獄神社まではおそらく1.5kmほどはあるそうで、山の中をどうやって持ってきたのかと永尾さんも不思議がっていました。

 

 土地の話に続いて次は地名について書きたいと思います。まず驚いたことは、嬉野町が昔は漢字が違い「宇礼志野」だったそうです。戦国時代はこの漢字が使用されていたことは間違いないそうですが、いつ現在の地名の漢字に変化したのかははっきりと永尾さんには分からないそうです。また永尾さんに伺ったところ、永尾さんが知っている嬉野町(特に上岩屋)の地名はすでに手紙に同封しておいた子字一覧に載っていたそうです。そのため、特に新しい子字を知ることはできませんでした。永尾さんのお話では、方言の地名は昔のまま今も使われているものがほとんどだそうです。子字一覧を見ていて、知らない子字もあると言っていたので、やはり例えその土地に生まれてからずっと住んでいる永尾さんでも分からないぐらい「嬉野町の上岩屋」と限定しても子字というものは多くあるのか、と感じました。永尾さんから伺ったことで特に興味深かったことがもう1つあります。それは永尾さんがおばあ様から小さいころに歌って聞かせてもらったという唄です。この唄はおそらく明治時代からのものではないかと言われており、地名もしくは藩の名前などに関するものではないかと考えられているそうですが詳しいことははっきりしないそうです。ここでその唄を紹介したいと思います。私達が聞いたものを文字に起こしたので性格ではありませんが、「コキカキカミャグチシバ(シーバ)カナマツネコカンスイチ(セッチ)ジャラヘコジラミ…」という唄でした。文字にするとなんともいえませんが、実際に歌っていただくとなんだか可愛らしく和む唄でした。私達の地元にはそのような唄があるとは聞いたことがなく、初めて聞いたので感激しました。

 永尾さんがお住みになっているところは構口(カマエグチ)と呼ぶそうで、子字一覧の読み方と少し違っていました。また「カクイ」は「囲」という漢字ではなく「加杭」であり、また「イイモリ」は「飯盛」ではなく「井守」と書き、呼び方も「イイモリ」と呼ぶこともあれば、「イモリ」と呼ぶこともあるそうです。

 永尾さんのお宅のすぐ近くにこの地名のついた井守山があります。また、この山は日守(ヒマブイ)山と隣り合わせにあり、どちらも標高200mほどの山ですが、この日守山には昔日守城があったそうです。この城は小さな城で監視用として使われていたらしく、轟の滝に行く途中に永尾さんが「あそこに日守城があったんだよ」と教えてくださった場所は確かに見晴らしがよくて監視にとても適している場所でした。監視用の城があるということは私は知らなかったので、このように全国様々な場所に設置し、国々を監視していたのかとおもうと強い衝撃を受けました。

 

 次に嬉野町で有名なお茶について説明していきたいと思います。永尾さんは祖父の代からお茶つくりを始め、3代目だそうです。全国で有名な嬉野町ではやはりお茶作りをしている家庭が多く、農家の収入の約80%はお茶によるものだそうです。

 お茶は東脊振山(せふりさん)に栄西というに日本臨済宗の祖であるお坊さんが伝えたのが始まりだと言われています。嬉野町では300年ほど前に「よしむたしんぺい」さんが不動山に茶園を始めて拓いたそうです。この嬉野町は山が周りに多いため、谷間になっています。谷間が多いため、日照時間が短く、霧が多い土地柄だそうです。また、黒土が多いため排水が非常によいそうです。このような嬉野町の環境はお茶の生産に非常に適しているため、嬉野町にこれほど多くお茶の栽培が広がり、かつこれほどまでに発展したと思われます。

 嬉野茶(佐賀県のお茶)は意外にも全国では生産量は非常に少ないそうです。それにも関わらず、嬉野茶が全国でも有名になっているのは先人達の努力により、質の向上がなされ、嬉野茶が全国的にも有名なブランドとして名を広めてくれたからです。なぜこのようなことが可能だったのでしょうか。それは昔の嬉野町の農家の人達が共同で努力したことがあげられます。

昔は地区の農家の人達が協力しあいながらお茶の生産を行っていたそうです。また、地区全体が農業を優先する傾向が自然とあり、休みの時には子どもたちもお茶の生産に関わります。後にまた述べますが、子ども達がお茶作りや農業に参加できるように、現代にはない休みもあり、そのことからもどれほど昔は農業が重要視されていたかをうかがい知ることができます。嬉野茶は一般的に「玉緑茶」という種類としてわけられるそうです。この玉緑茶の特徴は丸く、しまっていることだそうです。昔は現代と違い手つみであったため、お茶の収穫の時には連休などを利用して家族総出で茶摘みをおこなったり、子ども達を雇って茶摘みを手伝ってもらっていたそうです。特に品評会の時期には、人手が特に多く必要になるため、多いときには40人ほどの子ども達に茶摘みに協力してくれることもあるそうです。私はお茶についての知識は恥ずかしいですが、ほとんどありませんでした。永尾さんのお話によると、品評会で評価されるためには、茶摘みの際にも注意が必要であり、仮に1つの茎に5枚の葉がついていたとすると摘むのは上から1・2枚だそうです。そのように細心の注意を払いながら地域でみんなが丁寧にお茶の生産をおこなってきたからこそ、今日の素晴らしい嬉野茶が存在するのです。永尾さんも先に述べたようにお茶を作っていて、嬉野茶の説明をしている姿がとても楽しそうに感じ、自分の作るものをこんなに誇らしげに話しせるのはそれだけ嬉野茶を大切にしているのだなあと感じました。

 

それでは話題を変えて次は農業について紹介したいと思います。永尾さんが卒業されたのは集団就職の年昭和32年で、このころまでは牛を利用して農業を行っていました。そのころ学校から帰ると玄関先に、『牛を連れてどこどこの茶園に来なさい』とか『陣野(永尾さん宅の近所の茶園が多くあった場所)に来なさい』という手紙がおいてあり、毎日牛に鞍をつけて背中に乗り家の手伝いをしていたそうです。永尾さんのお宅には当時牛は1頭のみでした。牛は死んだら食料としていましたか?という質問には、『いやぁ牛は、四足のものは家族と同じだからとき場っていう中のとね(普通の)お墓(牛だけの共同墓地)に埋葬しよったよ』ととても驚いた様子で答えてくださいました。もちろん犬など四足のものは全般食料にしたことはないそうで(四足のものはたとえ肉がなくても食べない)、食料となっていた動物はにわとりや野生の鳥または魚でした。野生の鳥や魚をとってくるのは主に子供達の役目でした。私達からしてみると子どもがそのようなことをするのは大変だと感じますが、永尾さんはみんながしよったから苦労とは思わなかったそうです。また実際は永尾さんの記憶に残っているお墓は馬墓のことだけのようで、牛のお墓のことははっきりとは覚えていないようでした。永尾さんが小さい頃、近所の馬が亡くなってその馬が人の来ない山の中に埋められるのを見たことがあると言っていました。永尾さんはお宅の西側にある日守山(ひまぶいやま)に死んだ馬(おそらく小さなころに埋められるのを見た馬ではないかと考えられる)を埋めてその頭だけがひょこっと出ているのをよく覚えていらっしゃるようでした。

その後、昭和37年になるとテーラーという機械が導入されるようになり、39年には車が普通の農家でも普及してきました。永尾さんは高度経済成長(1955年〜1973年)により農業にも機械化され、農業のこのような変化を直に感じたそうです。とくにオリンピックの影響は大きかったのではないか、おっしゃっていました。現在永尾さんのお宅には、トラックが2台と普通の自家用車が3台あるそうです。全部で5台ということで私達はとても驚きましたが、『ここら辺の農家はだいたい7台はざらにある。うちは少ないほう』とおっしゃっていました。

昔の農業にまた少し話をもどし、牛の食料について聞いてみました。牛には普段は水稲からのワラを小さく切ったものに米ぬかを混ぜたり、野菜の皮などの残飯を混ぜたものを与えていたそうです。そして仕事が大変な時期で牛が疲れてるなぁと思ったときは大豆や大根(ジャーコン)を米ぬかに混ぜたり、さらに大変そうなときには黒砂糖をなめさせたりしていたそうです。私達は当時は砂糖は高価なもの、手に入りにくいものという印象があったのですが、永尾さんは黒砂糖はわりと手に入っていたとおっしゃっていました。牛の食料から当時の人達にとってどれほど牛が農業のためよく使われていたことときちんと牛を敬い、家族として大切にしていたことを感じました。

 

私達は永尾さんの学校についてのお話も聞きました。学校にはさつまいもを弁当として持っていっていました。たまに麦ご飯にさつまいもを小さく切ったものを混ぜたご飯を持っていくこともありました。町の人はパンをお弁当として持ってきていたので、永尾さんは恥ずかしく隠しながら食べていたそうです。春になると個人の所有している山に登って山の幸を収穫していたそうです。ワラビ・ゼンマイ・フキ・ツワ・竹の子・フキノトウが採れたそうです。また、小学校までは自分で編んだぞうりを履いていっていたそうなのですが、走ったり歩いたりすると背中にひどいときは頭まで水がはねていたそうです。それも恥ずかしかったとおっしゃっていました。中学校に進学するとぞうりではなく下駄を履いていけるようになりました。その下駄も永尾さんが作った手作りの下駄でした。中学生になると自転車で通学するようになったそうなのでぞうりでは不便だったようです。もちろん町の人は小学生のころから自転車で通っていたようです。中学3年生になって下駄が禁止になり全員靴をはくことになり、初めて運動靴を履いていけるようになりました。下駄では運動がしにくかったので、運動靴が履けるようになったときはとても嬉しかったそうです。

また学校では水田作りの授業がありました。肥料として家の便所を友達と一緒に担いでもっていっていたそうです。学校には茶畑もあって授業としてお茶作りを習ったそうです。茶工場もちゃんとあって学校で摘んだお茶の葉は精製までして体育の道具部屋に置いていたそうです。生徒が収穫したお茶やお米は生徒は食べられず、おそらく先生達のご飯になっていたか売っていたか全然わからないとおっしゃっていました。私達は自分達で作ったものなんだから生徒達に分けさせたらいいのになぜそうしないのかと疑問に思いました。当時の学校は農業と密接に関係していたことが分かる話をもう1つ聞きました。当時の学校には今の学校には無い、「田植え休み」や「茶摘み休み」があったそうです。「茶摘み休み」と言う時期があるのはさすがは嬉野町だなあというのがまず感じた印象でした。この休みの時期に子ども達は家の手伝いをしていたそうです。学校が休みになるほど、子どもが農業において大切な働き手でだったのです。そこで田植え歌や茶摘み歌などありましたかとお尋ねすると、『とんでもない!!友達と競争しながらどれだけ早くたくさん(苗を)植えられるかが大事だったから、歌を歌いながらのんびりやるようなものじゃなかった』と笑いながら答えてくださいました。昔の農業では共同精神でお互いに子どもも近所も協力して農業をおこなっていたのに対し、現在は個人主義になってしまったことをすごく悲しそうにおっしゃっていました。

永尾さん達は学生のころは轟(トトロキ)の滝で泳いで遊んでいたそうです。現在も岩屋の子供達は岩屋川内ダムの下までは泳いでいいので夏になると川で遊ぶ子供たちが見られるそうです。永尾さんが一度神戸に行かれたとき、神戸の電車が走っている下の川で子供たちが泳いでいるのを見てとても驚いた。今度神戸に行くことがあったら、ぜひ見てみてください。とおっしゃっていました。

話は少し変わりますが、学生のころの生活についても質問しました。食べ物はほとんどが自給自足だったそうです。食べ物を買うという感覚はあまりなく、お正月だけお客様用に魚などを購入していたといいます。食べ物もやはり30年代になると増え始めたといいます。子どもの格好ですが、学校でないときは裸足でどろだらけになっていたそうです。衛生面に関しても、やはり今の時代とは違い、のみやしらみが多かったようです。しらみで頭がかゆいという女の子達に対して、男の子達は髪が短かったのであまりそういうことはなく、女の子は大変だなあと永尾さんは思っていたとおっしゃっていました。

またここで永尾さんに話を聞いていて唯一戦争に関するお話も聞けました。昔は清水、大野原はどちらかというと田舎よりで、下に行くほど都会になっていたそうです。私達が聞いたのは永尾さんが小学校1年生ぐらいのころのお話です。このころはちょうど朝鮮戦争のころで、大野原にアメリカ軍が戦車などを用いた訓練のためにいたそうです。そのことを知っていたため、永尾さんは学校が終わると大野原まで歩いていき、米軍さんからカンパンやチョコレート、チューインガムなどをもらっていたそうです。このようにアメリカ軍と接した話を聞くと、永尾さんの話ではほとんど感じていませんでしたが、永尾さんやその同世代の人達は戦争が終わってまもない、朝鮮では戦火があがるという大変な時代を過ごしたのだと改めて感じました。

 

学生時代の話だけではなく、もちろん永尾さんの青年時代の話も私達は聞きました。永尾さんの青年時代は百万農家といい、家族で年に100万円の収入を目指して農業を行う時代でした。そのため、収入が多い都会に憧れて出て行く青年も多かったそうです。昭和30年代は現代のように情報をすぐ得られる時代でなかったということもあり、八幡と流行が4・5年遅れていたというのも都会に憧れる要因にあったのではないかと私達は考えました。

当時は都会に憧れた青年たちが村を出て行くこともありましたが、非常に活気のある青年団があったそうです。青年団自体は現在も残っていますが、現在は10人ほどとなってしまいました。ここからも村に若者がいないことがよくわかります。また、共同精神よりも家族が優先するのだと永尾さんは少し悲しそうにおっしゃっていました。私達が実際に村を歩いていても、若い人達はあまりいませんでした。それにより結婚する人も少なくなり、子供が減り、高齢化が進んでいくのかなと思いました。しかし、永尾さんは『都会は便利で、新しいものがたくさんあるから若者が出で行くのもわかるけど、都会に住むと、大切なことを忘れ、素朴さを失ってしまうこともあるといっておられました。素朴さを忘れないことが大切だ』と教えてくださいました。私達は確かに便利な生活を送っていますが、嬉野町に行って感じたあたたかさというか、独特の雰囲気は都会にはない大切なものだと感じました。

話を青年団に戻します。当時の青年団は団員一人一人が会費を払ったり、寄付を受けたりして、なりたっていました。会費の金額までは記憶していないそうですが、集めたお金は行事や勉強に行くための交通費に地要されていたそうです。団員になる資格がは学校を卒業してから(つまり社会人である人)25歳ぐらいまでだったそうです。団員の割合はやはり男性が多かったそうですが、女の人が極端に少ないわけでもありませんでした。人数が多かったため、運動会などを行っていたそうです。

青年団というのは私達にあまり馴染みがないので永尾さんに青年団ではなにをするのか伺ってみました。すると、永尾さんは1番はじめに『勉強ができる』とおっしゃっていました。青年団はダンスの仕方を学んだり、行事(相撲大会や野球大会など)に参加して仲間と交友を深めたり、時には出会いの場になっていたそうです。そんな青年団で永尾さんも働きながら、会計や社会部長の役職についていたそうで、精力的に活動していたのだなあと感じました。

恋愛の話を聞いてみたいと思った私達は永尾さんも青年団を通じて奥さんと知り合ったと思い聞いてみたところ、奥さんとは紹介で知り合ったのだと少し慌てながら恥ずかしそうにおっしゃっていました。永尾さんは違いましたが、私達の想像通り、青年団を通じて知り合い結婚する人達もいらっしゃったそうです。永尾さんの話を聞いて初めて知ったのですが(もちろんすべての地区に当てはまるかは分かりませんが)、青年団はほとんどが独身の人達から構成されるそうです。はっきりした規則というのはあまりなく、会費をおさめるなどの基本的なことを行えば団員でいれるそうですが、結婚すると25歳になる前に青年団からぬけるのが普通だったそうです。私達は昔の恋愛は今とは違うものなのかと思っていたけど、同じ活動を通じて恋に落ちたり、紹介を通じて結婚にいたるなど、今と全く変わらないと思いました。

 

青年団が多くの地元の行事にも携わっていたそうです。では、どのような行事があったのか紹介したいと思います。町民体育祭がまずその1つです。この行事は名前を変化させながら現在も行われているそうです。もともとは体育祭だったのが、嬉野町民体育祭となり、現在は市民体育祭となっているそうです。

風日(かざび)というのも地元の行事で現在も続いています。この行事はおそらく1番大切な行事で『二百十日の風日』ともいうそうです。などがあったそうです。風日とは8月31日に行います。台風の多い時期(風が強い時期)に行われる祭りで、水稲が台風によってやられないことを祈ります。1日中起きて行うそうで、この風日や祈願、外山浮立という行事の指導などを行う人が永尾さんの地元にはいらっしゃるそうで、そのような人を太夫(だいゆう)さんとよぶそうです。この太夫さんは歴史が長く、永尾さんのご近所に住む81歳のおばあ様の3代上の方が文化2年(1804年)に太夫さんであったということが永尾さんのお宅にあった嬉野町に関する記述の巻物に書いてあったそうですが、成立はさらに昔、ではないかとおっしゃっていました。先に述べた浮立に、上下岩屋で行う『かね(漢字を聞き忘れて不明)浮立』というものがあり、昔は男女ともに参加していたそうですが、今では女の人は料理の用意などにまわり、少しだけ様子が変わったそうです。

 

電気などの普及についても伺ってみました。陣野には昭和22年ごろから開拓団がやっていきていたので、比較的早い昭和27、28年くらいに電気は普及してきました。その後テレビが昭和31年わたや別荘としんせんかくに初めてやってきました。テレビを見に町の人たちがたくさん集まってきたそうです。永尾さんも友達と一緒にテレビを見に行ったそうで、『クラブ(柔道)で相撲を見に行った』『テレビを見に行ったからちゃんと年代を覚えているんだよ』と懐かしそうにおっしゃっていました。プロパンガスは電気よりもだいぶ遅い30年以降に入ってきたそうです。現在ではガスで何でもするお宅が多い中、永尾さんは自分の所有する山でとってきたまきを使ってお風呂を沸かしているそうです。まきを使うのでもちろん五右衛門風呂です。一緒に住んでいる娘さんや奥さんに『古いよ』とか『なんでそんなめんどくさい事をするのね』と言われるそうなのですが、『人間楽ばかりしちゃいかん、昔の苦労も知っている人間にならないと』と笑っておっしゃっていました。ガスで沸かした風呂はスグに冷めるけれど、まきで沸かした風呂はじんわりとしか冷めていかないから、ずっとあったかく入れるし体がものすごくあったまるそうです。『機会があったらまきで沸かしたお風呂に入ってみたらいい』と勧めてくださいました。今の家はガスばかりですが、祖父母の家で入ったまきで沸かしたお風呂が懐かしくなりました。今でもまきを使ってお風呂を沸かして伝統を守っている永尾さんは素晴らしいと思います。

 

話は変わりますが、次は永尾さんのお宅で実際に見て説明していただいた遺物や化石について書きたいと思います。長尾さんのお宅の西側にある轟(ととろき)の滝の下流には500万年前の化石が地面から顔を出しています。その化石は木の根っこや幹の化石です。それはこくんぞ岳の噴火のときに木が一瞬にして埋もれてしまい川にずっと浸っていたので腐らず化石になったということでした。実際に轟の滝まで見に行ってみたのですが、黒い炭のような化石が(実際、炭になっていたのですが)木の形を残しながら地面から出てきていました。水に浸っているとなぜ腐らないのかとお尋ねすると、永尾さんは城の石垣の例を話してくださいました。城の石垣の土台は昔は水の流れる上に木を置いて作っていたそうです。木が腐るのはシロアリ(永尾さんはシラアリとおしゃっていました)が巣を作るからだそうなのですが、水につけておくとシロアリが木に入れずにいつまでも腐らないままで保存して置けるのだそうです。

また、永尾さんのお宅の敷地内に数字の書かれた大きな石が昔発見されたそうです。その石には『七十七』『七十五』とかかれていました。『お習字で書いたごときれいな字で書かれとる』と言って目をキラキラ輝かせて永尾さんは説明してくださいました。その石は70kgぐらいの重さなのだそうですが、永尾さんが抱えて移動して今は庭に置いてあります。『おそらく里の境石やないかと思う』とおしゃっていました。永尾さんのお宅があった付近は大村藩だったということです。また近くのお寺にも永尾さんのお宅にあるのと同じ境石がありその境石には『八十二』の番号が記してあるそうです。

永尾さんのお宅の玄関からは棚田のようになっている長尾さんのお宅の茶畑の一角にある五輪の形をした8体のお墓が並んでいるのが見えました。一番大きいお墓が日守城の城主のお墓ではないかということです。これも実際に見せていただいたのですが、昔のお墓は五輪の墓で意外と小さくてかわいらしいサイズの墓でした。しかし、どうやってそこまで上るのだろうと言うくらい高い場所(おそらく3mくらいはある石垣だった)にお墓が並んでおり、壊されないようにするためなのかと考えました。

 

さまざまな話題をとりあげたところで次は水に関連したことを書いていきたいと思います。嬉野には不動山から海に流れる川、大野原からダムを通り塩田への岩屋川と椎場を通る川の3本の川が流れています。昔は出水(源流)にパイプをひいて山の上でも田がありましたが、当然川に近いところ、水のあるところに家を建てていました。水田を作る上で、井手も必要になります。そこで井出について永尾さんにお尋ねしました。まず1つ目は楠木井手という井手で碇石から溝口、下岩屋の間にあった井出で幅1m、深さ20cmほどあったそうです。また清水から永尾さんの住んでいた構口の間のものは山下井手とよび、井手口のものは井手口堰の水道と呼んでいたそうです。この3つの井手のうち、1つめは上下岩屋共同で残りの2つは上岩屋が管理していたそうです。

水は生活に必要不可欠なものです。ダムができる前はやはり山の高い位置が水を得やすく、永尾さんが小学校6年生ぐらいの昭和27,28年ごろは水が途中の水田にいってしまい下岩屋のほうまで流れないということもおこり、水争いがおこることもあったそうです。用水路で水漏れがある部分は赤土で埋めることもあったそうです。今では上下水道管が発達してダムからの水が供給されることが当たり前となった時代しか知らないためか、水で争いがおこるということにぴんとこない自分達がいて、水の大切さという当たり前のことも現代人は当時の人よりも感じられていないのだと反省しました。

 

水の話でダムがでてきましたので、岩屋ダムができるきっかけになったことを書きたいと思います。昭和37年、永尾さんは青年団支部長だったそうです。その年に不幸にも大きな水害がおこってしまいました。幸いなことに死者は出なかったそうですが、家や橋が流され、永尾さんのいる嬉野町も大きな被害を被ってしまいました。また石垣も流されてしまい、当時は重機もなくみんなで協力して、日雇いの土方(土木工事に従事する労働者)や人夫(力仕事をする労働者)として手でガラスを拾いざるで捨て、コンクリートをねって修復作業を行ったそうです。このような大きな水害により、岩屋ダムがつくられたそうです。

大きな自然災害についてのお話をもう1つ私達は聞きました。それは昭和43年2月14日ごろに起こったそうです。嬉野町は佐賀県ですので、北の国と違い雪はあまり多くないと思われますが、そのときは2・3日ほど降り続ける大雪で1mほどの雪が積もったそうです。私達も経験がないことなので具体的な想像ができないでいましたが、永尾さんがその雪がダムの日陰では6月まで残っていたと聞き驚きました。予想を上回る雪のため、備えがしっかりなく、大変な思いをしたのは容易に想像ができます。永尾さんは消防団に所属しており、雪かきをひたすらしたそうです。雪に慣れていないのは人だけではなく木も同じで、雪の重みに耐えられず多くの木が倒れてしまったそうです。さらに大変だったのはそのようなことに加えて停電が起こったことです。2月27日までまったく電気が通らなかったそうです。なぜその日をしっかり記憶しているかというと、その日は永尾さんと奥様の結婚式の日だったそうです。その前日までの人達は電気がつかないため結婚式をキャンセルしており、永尾さんもキャンセルするしかないのかと思っていたときにぱっと電気がついたのだと、永尾さんは嬉しそうに話していました。いろいろな意味で忘れられない思い出深い結婚式なのだなあと感じました。

今回永尾さんのお話を聞いて、多くのことを学ぶことができたと思います。紙の上だけ時代の変化を学ぶのと、その変化の中で生きてきた人の話から学ぶのでは雲泥の差だと改めて感じました。永尾さんが『昔は貧乏で山に住むが、今は定年でお金持ちが山に住む』と言っていました。私達はその言葉を聞いて時代の変化と現代の人達が忙しい時の中で穏やかな時をもとめているのだと感じました。昔の生活に戻ることはできないけれど、昔の話を聞いて、共同精神やもっと今当たり前にあるものがどれほど大切で貴重なものかを私達はしっかり知っておかなければならないとも思いました。今回は本当にお話を聞くことができてよかったと思います。このような機会を与えてくださった服部先生と私達を歓迎して貴重な時間をさいてくださった永尾武俊さんと永尾さんの奥さんに心から感謝したいと思います。