現地調査レポート

 

調査地:佐賀県嬉野市東吉田

担当:金田知也(1EC06185R

小薄俊介(1EC06180W

訪問先の方:田中孝男さん

 

一日の行動記録

 

 830 バスで六本松地区を出発

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1100 バスに乗っている途中で休憩をはさみ、現地に到着。バスから降車

     道に迷う   

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 12:00 田中さん宅を訪問。そこで、16:00頃まで2人の方のお話を聞く。

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16:20 お話を聞き終えて、バスに乗車。

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 18:30 途中で休憩をはさみ、六本松地区に到着し、解散

 

<佐賀県嬉野市東吉田について>

 

 ・歴史

1889年(明治22年)41日 西嬉野村、東嬉野村、吉田村が成立した。

1929年(昭和4年)422日 西嬉野村が嬉野町になった。

1933年(昭和8年)41日 嬉野町と東嬉野村が合併して、嬉野町になった。

1955年(昭和30年)41日 嬉野町と吉田村が合併して、嬉野町になった。

2006年(平成18年)11日 塩田町と合併し、嬉野市として市制施行

 

旧嬉野町は佐賀県南西部長崎県境に位置していた町で、面積は80.46km²、総人口は19,141人(2004101日)であった。また町の木はケヤキ、茶、町の花は藤であった。「嬉野」とは、神功皇后が三韓征伐のおり、温泉で疲れを癒した時に「うれしいのう」と言ったことに因むという言い伝えがある。が、「うれしの」の文献初出は中世に下る。江戸時代には長崎街道の宿場町としても栄えた。その後、嬉野町と塩田町の合併により平成18年一月一日に嬉野市となった。また補足であるが、キャッチフレーズは『うれしのほほん』である。 

嬉野といえば温泉とお茶で有名である。嬉野での茶の栽培は吉村新兵衛が江戸時代慶安年間に始めたとされ、茶業発祥の地不動山地区には、国の天然記念物に指定された樹齢300年を越える大チャノキ(大茶樹)がある。「嬉野茶」として高品質で知られ、近年では伝統的な「釜煎り茶」の技術も復活された。またこの温泉にある温泉湯どうふは温泉水で特製の豆腐をゆで、温泉の作用により豆腐がとろりと溶け、湯が白濁した頃に薬味を入れて味わうものである。「豊玉姫神社」の近くにある「宗庵よこ長」で考案され、漫画『美味しんぼ』で紹介され、現在では町内の多くの温泉旅館・飲食店で味わえる。また、陶磁器も特産品であり、これは「肥前吉田焼」と称し、天正年間の磁鉱石の発見に端を発し、江戸時代に鍋島藩主の奨励により興隆した。現在では主に有田系の磁器が皿屋地区で生産されている。いろいろな温泉の看板やお茶畑を見ることができるが、東吉野ではあまり見られず、米を栽培する田んぼが多く見られた。

 

嬉野町の景色

 

訪問先の田中孝男さんと地元に詳しいという方の二人に現在やむかしのこの地域での暮らしについていろいろとお尋ねしました。お二人とも生まれたときからこの地域で暮らしているそうでたくさんの知識を持っていました。いろいろと質問している最中、地元の方言がたびたび出てくるので分からない言葉についてはなるべくお聞きしましたが、はっきりと理解できないところもありました。それでもお二人からはいろいろと貴重な情報を得ることができました。

 

 ・米作りについて

まず最初に米作りについて質問していきました。この地域の人々はむかしからほとんどが農家で、農業によって生計を立ててきたみたいです。したがって、こちらの人々にとって米作りは生活そのもので切り離すことはできないものであったと思います。だから、さまざまな工夫や苦労をお聞きすることができました。

最初に「田んぼへの水はどこから引いていますか」という質問に対しては用水路が整備されていてそこから引いているようです。そしてこの用水路ですが、以前は3本あったそうなのですが今は1本に整備されているそうです。しかしながら、やはり1本では十分な水が確保できない可能性があるため、質問に答えていただいたお二人も行政に対して抗議のようなこともしたとおっしゃられていました。そして近くのダムから水を引いたりするなどの対策をとって対応しているそうです。

続いては田んぼでの作業についてお聞きしました。むかしは当然機械がなかったので、馬や牛をつかって作業をしていたそうです。加えてこの馬や牛は山から薪を入手するときにも役立っていたようです。ちなみにこの薪はご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりと当時の生活には必要不可欠なものだったようです。そして時代が進むにつれてだんだんと機械が導入されていき、現在ではすべての農家が機械を使用して作業を行っているようです。また、機会を持っていない農家でもお互いに貸し合って機械を使っているようです。こうして田んぼでの作業は以前に比べるとだいぶ楽になったのですが、やはりむかしはとても大変だったようです。むかし田んぼでの作業はほとんど裸足で行っていたため、一日の作業を終えると夜お風呂に入れなくなるくらいまで足が痛くなったようです。当時の米作りの過酷さが伝わってきました。

「むかしはどんな肥料を使っていましたか」という質問に対しては草や牛のフンなどを肥料として使っていたみたいです。そして害虫の駆除は農薬などを使って行っていたようです。

出来上がったお米の保存についてお聞きすると、米は農協に持っていき、冷凍するなどして保存しているようです。

つぎに米作りを行わない冬などについてお聞きすると、麦や嬉野の名産であるお茶を栽培するなどのようなことをやっていたようです。しかし、基本的にこの時期はそれほど忙しくはない時期だったようです。

そして、むかしの地主制度についても話していただきました。当時収めるお米の量は上、中、下の三段階があったのですが我々が訪問した東吉田地区は他の地域に比べて収穫量が多かったため高い税率でお米を収めていたようです。だからその分自分たちの家で食べる米も限られてくるため、現在ではしていないそうですが麦とご飯を約11の比率で混ぜて炊くなどの工夫をしていたそうです。やはり地主に収める小作料により生活は厳しくなっていたと思われます。そしてこの地主制度は子供にも影響を及ぼし、現在でも格差のようなものにつながっているそうです。

最後に米作りの現状についてお聞きしました。全国的にもそうですが、やはりこちらの地域でも農業を行っているのは主にご年配の方々で、働き盛りである若い人々は会社勤めをいたり、あるいはこの地域を離れたりしたりして農家を継ぐとい方はほとんどいないようです。実際、田中さんの息子さんは二人いるそうですがどちらも現在は福岡で暮らしているようです。このままいけばこの地域の米作りが衰退していくのは必至だと思われました。せっかく整備された田んぼや水路がこのままでは意味のないものになってしまうのはとても残念な気がしました。

 

・昔の生活について

米作りに続いてはそれ以外の生活について質問していきました。まずは車社会になる前の様子について尋ねると、基本的にはとにかく歩いていたそうです。この地域は山に囲まれているため当然坂道が多く、重たい荷物などを運ぶときは相当大変だったのではないかと思います。

続いてこの地域のお祭りについてお聞きしました。夏にお祭りがあり、おどりを踊ったりして毎年楽しみにしているそうです。

病気になったときについてお尋ねすると、この地域には病院がたくさんあるというわけでもないので、普通は病気になったとき自宅療養するそうです。いざというとき病院で医者になかなか診てもらうことができないのは大変だなと感じました。

ガスや電気がこの地域にきた時期についてお聞きすると、はっきりとは覚えていないそうですがおおよそ明治の終わりから昭和の初めにかけてだそうです。

最後に戦争のころについてお尋ねしました。お二人とも戦争には携わったそうですが、この地域のことについて聞くと空襲のような直接的な被害を受けることはなかったそうですが、他の地域が受けた被害などによって食糧不足になるなどの間接的な被害を受けたそうです。やはり戦争中の生活は大変過酷なものだったという様子がお二人の話から伝わってきました。

 

・しこ名について

そして地名のことについても質問していきました。しかし、小字一覧や地図などを見てもらいましたが、お二人ともほとんど分からないといっていました。「一本松」という地名がかつて一本の松があったからという由来があるなどとおっしゃっていましたが、地名のことについては知らないそうでした。長年その地域にいくら長い間住んでいても地名についてはなかなか知識の得るのが難しいものだと実感しました。実際私自身もこれまで自分の住んでいた地域の地名についてまったく無知だったような気がします。

 

本当にお二人からは貴重な情報をたくさん得ることができました。突然の訪問にもかかわらず詳しく丁寧に我々の質問に答えていただいたお二人には、いくら感謝してもしきれないほどです。

 

 <感想>

・小薄 

 今回の現地調査を行った中で一番よかったと思うことは、実際にその地元の人の話を聞くことができたことである。方言などがあり聞き取りづらかったこともあったが、教科書やプリントよりもよい情報が得られたと思うし、こちらの方が実際のことに近いと思う。また、昔の生活についての話を聞くことにより、今どれだけ世の中は便利なものなのか、どれだけ自分たちがよい環境にあるかと思った。さらに、農業が行われている地域であり、農業人口の減少などについても聞くことができよい勉強になったと思う。

 

  金田

私は今回の現地調査とおしてとても貴重な経験をすることができました。普段、山や田んぼもない福岡の街に住んでいたので今回のような嬉野のような場所に訪問して、ある意味新鮮な感じを覚えました。

何かを買おうと思っても歩いていける距離にある店は限られていて、はっきり言って車がないと生活でいないような場所でした。そんな環境でもいろいろな工夫を凝らして自給自足の生活を送っている様子はとても印象的でした。

そして私がこの地域を訪問してとても心に残っているのが現地の人々の暖かさでした。バスを降りた後私たちは訪問する田中さんのお宅の場所が分からなくていろいろな人に質問していきました。すると誰に質問してもすごく丁寧に見知らぬ我々に対して答えてくれました。そして、訪問先の田中さんご夫婦も突然訪問してきた私たちを暖かく出迎えてくれて、質問に答えていただいた後昼食までご馳走になり本当によくしていただいて、感謝の気持ちでいっぱいでした。

しかしこの地域で見かけた人々はほとんどがご年配の方で高齢化も実感しました。この地域での仕事というとやはり農業に限られてきて専業農家では生計を立てるのが困難なため、若者が離れていくのは必然の流れなのかもしれません。それでも少し寂しい気がしました。

今回授業の一環でこのような経験ができて本当によかったと思います。せっかくの経験を無駄にすることのないようにこれからの大学での学習に生かしていきたいと思います。