歴史と社会現地レポート

1SC05258W 桑田康輔

AG06189R  松田亜由美

 

まずバスを降りて迷子になった。三坂地区の国道沿いだということはわかっていたのだが、目標になるような建物や看板はなく、地図も古いものであったので現在地が掴めなかった。そこで私達は公民館の案内標識を見つけ、とりあえず目指すことにした。道中開けた高台につき、そこから学校・工場や山を確認し、初めて現在いる場所が分かった。そうして次に、訪問する山浦さんのお宅を探すことにした。ここでありがたいことに、家庭菜園をしていた初老の方に道を尋ねたところ、山浦さんのお宅まで案内してくださった。

ここで時間を確認すると、山浦さんと約束していた時間まで2時間ほどあったので、まず三坂地区を歩いてまわり、土地勘を掴むことにした。まず北を目指して歩くと、記念碑が建っていた(写真:紙媒体でのみ掲載)。後述するがこれは農道記念碑であった。

次に川を目指し南西に向けて歩いた。周りの景色を見ていると、比較的新しい家が多く子供が遊んでいる姿が見られた。川沿いにこそ多くの田や茶畑が見られたが、S.51年製の地図で見られた多くの田畑は、住宅か家庭菜園用の小さな畑になっていた。後でお話を聞いて分かったことだが、主に歩いた国道の東側反対の西側には多く茶畑が残っていたそうだ。開発が進んでいるのかなと思いながら歩いていると式南橋に着いた。明らかに今回の調査地区から外れていたが、この地区の重要産業である茶畑を発見したので撮影しておいた(写真:紙媒体でのみ掲載)。

ここで適当な時間になったので、昼食をとり山浦さんに、今から向かう旨を伝えてお話しを伺いに行きました。

 

・三坂の歴史と発展について

今回お話を聞かせてくださったのは、山浦健さん(71歳/2007年現在)と奥さんの山浦文子さん(62歳/2007年現在)でした。旦那さんは元々鹿島の出身で学校の先生をされていた方で、現在は益世会の副会長をされている方です。奥さんは三坂地区出身の方です。家に通していただくとお茶を出してくださりました。特産のお茶はやはり非常においしいお茶でした。三坂について聞き始めると、地図が古いため、始めは少々戸惑われていたが、すぐに「ここが○○で」と地図を指して説明し始めてくださいました。

三坂地区の名の由来はイチンサカ(一ノ坂)、ニノサカ(ニノ坂)、サンノサカ(三坂)からきたもので、ニノ坂は現在の地図上に書かれていなく今の北三坂の中にあったそうです。もともと近くに旧長崎街道が通っていたそうで、近くにトウジンモリ(盗人森:街道行く人から物を盗む輩が多かったために付いた?)という地名が残っています。その後、国道と県道に挟まれて発展していった地区です。昔は土地の利用は茶畑が多く、他の地区(南部落など)から人が通って来て畑をしていたそうです。そのため、南地区と三坂地区は同じ集落であったそうです。また、昔は三坂に住んでいる人が非常に少なく30世帯ほどしかなかったそうで、米や麦・茶を栽培したり、桑を植えて蚕を育てたりして生活していたそうです。木を切って生計を立てている方はいなかったそうです。なので、しこ名等はほとんどなく、アガリタ(上がり田:坂を上がった所にある田、小字三坂の中にある)、ヤジリ(矢尻:耕すときに矢尻が出てきた田、場所は不明)、ヒノクチ(樋ノ口:小字樋ノ口にある田)などを教えていただきました。また、少々離れるがホタルバシ(蛍橋)という橋が塩田川に架かっていて、そこでは多くの蛍が見られ、観光客も来ていたそうです。蛍が一番多い時期には川から離れた三坂でも見られたそうです。道や山にも特にしこ名は無かったそうです。また牛や馬・鶏を飼っていたそうですが、各家庭が個別に世話をしていたので、共通の洗い場などはなく、それにちなんだしこ名もなかったそうです。

産業に関しては吉田焼きというものがあるそうです。地区を歩いている途中の川原に石の加工場のようなものがあったのが気になり、尋ねたところ教えてくださいました。有田焼の系列の陶磁器で、歴史は古く約400年前からあるそうです。が、次第に原料が取れなくなり天草から石を取り寄せるようになり、さらに近年では天草の石を加工しそれを別の焼き物の産地に送るのみで、焼き物をあまり作らなくなったそうです(出典:肥前吉田焼窯元会館ホームページ)。私が詳細を尋ねたところ吉田焼をよく知る方に連絡していただき、肥前吉田焼窯元会館に訪問できるようにしていただいたのですが、あいにく時間が限られていたため行くことが出来ず、申し訳なく思いました。

水に関しては近くに塩田川があり、また井戸を掘っていたため困らなかったそうです。そして、三坂は台地の上にあるので川の氾濫などにもあわなかったそうです。川の下流のほうでは毎年氾濫して大変だったそうです。この話の中で奥さんが、井戸水で入れたお茶は水道水で入れたお茶より格段においしく、旦那さんにお父さんが気に入っていたと話してくださいました。現在は井戸の水を全く使っていないそうです。

インフラなどに関しては、病院は嬉野に早く出来たため病気になったときには通っていたそうで、町医者もクチイ医院が戦前からあり医療には問題がなかったそうです。また、電気やガス・下水なども嬉野の町に整備された時期とほぼ同じだったそうです。また近くを電車(肥後電気鉄道?)が通ったそうですが、廃線になったそうです。

道に関しては、昔は小さな農道があっただけだったが、益世会がS.46年に農道A・農道Bを整備しました(資料@:紙媒体でのみ掲載)。始めに歩いていたときに見た記念碑はこの道を作ったときの碑でした。まず元々の村道から農道Aを伸ばし、その途中から農道Bを伸ばしたそうです。この農道は記念碑に『一、近年大草野小学校児童の減少が進ので、益世会は、その対策として、三坂の台地に住宅化を考えて農道の建設を計画した』という碑文が刻まれているように、単に農道の整備が目的なのではなく、過疎化し始めた地区を活性化させるため、要は村おこしのような目的で作られました。この計画は成功し、嬉野・武雄・鹿島などの大きな町に近く、国道・県道に囲まれている立地条件もあいまって40年代〜50年代にかけて急速に人が流入し始めました。今はバブルのころより建つ軒数が減り始めたそうです(バブル期には毎月家が建っていたが、最近は珍しいとのこと)。現在この地区には約300軒の家があるそうです。この農道は区役で、皆でコンクリートに舗装したそうで「行政がしてくれる前は自分たちでやっていた」とおっしゃっていました。この農道は町道となり、昨年から嬉野市の市道になりました。この農道を作った社団法人大草野益世会は元々明治35年に教育基本金貯蓄の計画をたて寄付を募ったのが始まりだそうです。これまで多くの寄付を、小学校を中心に行ってきたそうです(出典:益世会報平成9年5月)。

祭りに関しては近くに神社・仏閣が無かったため、神事的なものはなかったそうです。ただ、村の人々が春・冬に持ち回りで1つの家に、御馳走を作って集まることはあったそうです。30世帯と人が少なかったため出来たことだったそうですが、それでも人が増え、家ではとても出来なくなったため公民館を作ったそうです。今は「ふれあい祭り」など大きくなった区全体での催しものもありますが、初期の30世帯が祭りも続いているそうです。

今の三坂・これからの三坂については、現在上記したように農道建設成功からの流れで多数の人が流入してきた。そのため、過疎化の心配は全くない。ただ、伝統産業である茶畑は廃れてきているようだ。流入してきた人々は町に通勤しており、ベットタウンとして三坂に入ってきている。また、初期の30軒の家に関しても、若い人は都会に出て戻らないため家が無くなったところが2・3軒あったり、子供が町中に就職したりして、茶畑から離れているそうだ。昔三坂の茶畑まで通っていた人々ももう来ていないそうです。中小企業の工場や実験場、若い人々のお茶の研究グループはあるそうです。だけれど、全国の農家と共通で、やはり後継者不足の問題があるようだ。世話をしなくなった畑は荒れ放題になったり、宅地化されたりしていったそうだ。旦那さんは「もったいない感じがしますね。かつては立派な茶畑だったのが、放置されている。そういう仕事(農業)は受け継がんで、他の仕事をされている」とおっしゃっていました。また、人口の流入は家同士の付き合いの希薄化も起こしているようです。「新しい人が増えていくから、希薄にならないように地区で行事を活発にしている」とおっしゃっていました。実際、多くの年寄りから若者まで参加できる行事を催したり、ご夫婦自身が小学校に行って子供たちに昔の遊びを伝えたりしている。宮崎の同じような地区と交流を持って情報交換もしている。「このような地域が増えているから、モデル地区になってゆきたい」そう話してくださいました。

感想

事前に調べた資料には細かくとも茶の産地ぐらいしか調べ上げることが出きませんでした。また実際行ってみても、別段変わったことのない町というのが最初の印象でした。なにか報告することが見つかるのだろうかと、少々不安でした。しかしいざ尋ねてみると、多くの歴史があったのだなと思わされました。100年以上前から村おこしのようなことが行われていたのは驚きでした。そして、今多くの問題になっている後継者不足・近隣との関係の希薄化・年寄りと若い人の交流のすべてに熱心に取り組み解決してゆけるのではないかと思わされる意気を感じました。また、実際に現地で聞き取りをしなければ分からないことの多さに気づきました。自分の足と耳と目で調べることの大切さを知りました。大変よい機会を与えてくれた服部先生と山浦さんご夫妻に感謝します。

 

 

 

 

一般生活

三坂地域はかつて畑作(主に茶畑)であり、また桑畑もあった。蚕を飼っていたらしいが紡糸工場はなかった。

水源は川からであり、川から遠い地域は地下水から水を得ていた。(当時の地下水はそのままで飲めるくらいきれいだった。)そんな耕作地も今では手を加えていないため荒地になってしまい残念。南田の辺りでは耕作が良く行われている。

土地の所有は明治の大地主から、小作人へと渡りその所有者が代々に渡って変わったのだろう。三坂の土地を持っていた大地主はここから離れた隣村に住み小作人に働いてもらっていた。現在の土地所有者の中にも30世帯ほどは代々の土地を継いだ家であるらしい。

30世帯から現在の240世帯まで増えたのには農道であるA線、B線が法人組織である益世会によって造られたからである。

今住んでいる人々は豊かな土地を持っているにも関わらず耕作をすることも無くそのままにしている。ほとんどの人はサラリーマンや、勤務者、業者である。自営業者は少ない。良い土地を持っているのに手持ち無沙汰にしてしまうのはもったいないなと思う。実家では土地が悪くて困っているのに・・・。

茶畑では新しく来たひとが耕作しないためそのほとんどが荒地となった。現在嬉野茶を作っているのは業者である。近くの流通センターは企業の加工場であり、競りが行われている。

 

学校

当時学校では農繁期休業があった。田植え、稲刈り、茶摘、芋ほり休み。約3〜4日ほど。楽しみだったらしい。私も当時の小学生だったら楽しみにしていたと思う。

遊びは凧揚げ、こま回し、竹とんぼ、水鉄砲、カルタ、お手玉(中は小豆・数珠球・ムクロ)、ビー玉、缶蹴り、陣取り、おはじきなどの子供たちが自分で作ることができるような遊びが主流。

中学生くらいになると着物を作ったり、家の手伝いをしたりして過ごした。今の私の生活からは考えられないが、家族の絆が強くなると思った。今の生活は家にいても自分の部屋にこもったりで、寂しい生活だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

大草野小学校PTA会報 ほたる より

60年前のこと

 三坂   山浦文子

桜の木下を通って校門の所で一礼すると、目の前の大きな建物が講堂でした。校門に入ると右手に大きな銀杏の木があり(今もそのまま)、その先に一階平屋の校舎が2棟並んで建っていました。講堂や校舎も教室にある机や椅子も全て木で作られていました。運動場には、今のようないろいろな遊具などは無く鉄棒と滑り台だけはあったように記憶しています。休み時間になると裸足で飛び出し思いっきり遊んだ後は井戸の水を手押しポンプで汲み上げて水をためた足洗い場で足を洗い教室に入りました。プールは無く塩田川で泳ぎました。農繁期になると田植え休み、稲刈り休み、芋ほり休みなどがあり子供たちも一生懸命手伝いをしました。

時は流れても子供たちの素直で元気な笑顔がいつまでも続く大草野小学校であって欲しいと願います。

 

地域活動

老人会と子ども会が協力して行う行事がいくつかある。

  区民レク大会  (528日)

  芋さし体験活動 (610日)

  親睦GG大会  (618日)

  陶芸教室、ソーメン流し  (716日)

  七夕祭り    (労友会)

  海釣り体験学習 (7月下旬)

  ふれあい祭り  (108日)

  芋ほり収穫祭  (114日)

  わら細工体験学習  (1117日)

  長崎街道歩行会 (2月下旬)

このような活動のおかげで地域の結びつきが強まり他の地域からも関心が持たれている。

現在はこのような会が無ければ結びつきは薄いのだろうが、かつては茶摘や田植え、稲刈りなどは地域の人々と協力して行われていた。(日当で行う)実家の近くに田んぼなどもあったが、稲刈りの手伝いをして欲しいという掲示や知らせは無かった。時が進むにつれて言い難くなっているのかもしれない。実際、何か協力して行うものにはボランティア活動の一環だったりで、どこと無く特別なものという感じがした。時の変化とともにある人々の意識の変化は良くない方向にあるかなと思う。

 

・生活

川で獲れた川魚(フナ、鮎、ハヤ、鰻、テボ)や有明海の魚が干物にされることなく生のまま売られていた。近くまで持ってきて売っていた。佐賀名物のフナ寿司!!鯛などは魚屋らしい。川魚は子供たちの遊びの一環でもあった。遊びと生活が結びつく当時はいいなと思う。テレビゲームなどからは何も生まれないし、何度も人間が復活するなんて考えとしてかなり狂っていると私は思っている。1つの命を大切にする生活はとても尊いことでありこれからの子供たちが学んでいくべきことの1つである。

また、山ではマツタケ、柿、ワラビ、セリ、ツワ、フキ、春の七草、ヨモギなどが採られていた。

食べ物は野菜、魚が主であり、肉類はあまり食べられなかった。鶏や野うさぎを食べることがあってもお祝いのときである。そんな訳があるせいか三坂地域には養鶏場が1件しかない。

話を聞けば聞くほど日本人らしい生活だったのだと思った。

結婚についても聞いてみた。私の父や母と同じお見合いが多かったのこと。同じ地区でのお見合いもあった。時には親戚内のお見合いもあったらしい。県外とのお見合いはめったに無い。好きな人と一緒になるのが一番というのには同感だった!!話を伺った山浦夫妻はとても素敵なご夫婦でした。所々に娘さんのお話などもあったり、思い出している姿が好きでした。


午前中の探検!!

午前中にいろいろ歩き回った。天気がよく絶好の散歩日和だった。

 

偶然歩いた道で山浦氏に聞いた農道の記念碑を発見していたり、公民館を見つけたりしていた。偶然にしろ歩き回っていて良かった。三坂から塩田川まで歩いたり訳も分からず歩いたが、良かったと思う。

 

塩田川の近くで陶土を作る工場を見つけた。焼き物が盛んなのかと思ったがそうではなく、天草原石を下野で加工して有田焼用の陶土にするらしい。

有田焼はそもそも吉田焼が変わったもの?

本当に気持ちが良い所だった。ビルしか見えない福岡とは違いかなり遠い景色までも見えた。犬も何匹か見たのだが、畑に繋がれている犬もいて笑ってしまった。車の音もぜんぜん聞こえなく子供の声が聞こえたのはとてもうれしかった。実家の風景が呼び起こされる。