2006年後期 文系コア科目
「歴史と社会」現地調査レポート
調査場所
佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下鍋野
2007年1月14日(日)
執印 香菜子 白木 瑞穂 前田 美紗
お話をうかがった方々
西野 静 さん(昭和19年うまれ)
森 敏治 さん(大正11年うまれ)
岸川 安実 さん(昭和13年うまれ)
池田 泉 さん(昭和3年うまれ)
古賀 国春 さん(昭和3年うまれ)
池田 健次郎 さん(昭和5年うまれ)
筒井 健固 さん(昭和16年うまれ)
西野 俊行 さん
○活動記録○
8時30分 出発
10時30分 鍋野に到着
10時30分〜12時30分 お話をきく
12時30分〜13時30分 お昼ごはん
13時30分〜14時30分 お話をきく
14時30分〜15時 御神山をのぼる
15時〜16時 和紙工房を見学する
○佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下鍋野について○
鍋野は、江戸時代は藤津郡のうちの<鍋野村>であった。
塩田川中流域に位置し、その支流の鍋野川に沿ってある平地にある。
村名の由来は、源為朝が当地で野いのししを捕らえて食べようとしたが煮る器がなく、くぼんだ岩石を鍋代わりに使用したことにちなむという。
和紙が特産で、ほかにもそばも名物だったらしい。
現在、鍋野には50戸ほどの家がある。
○しこ名について○
[地名]
@ オシロイダン(「お城の谷」?)
A ヤマンダン(「山の谷」)
B ヤツエ(田んぼのことか?)
C スダンワラ
D ムカヤマ(「向こうの山」)
E ムカエンタン(「向こうの谷」)
F ヌレマツ
G 小峠
H カマチヤ
I 大峠
J ウラヤマ(「裏の山」)
K ガラン(お寺の「伽藍」か?)
L モイノウエ(「森の上」)
M タンガシラ(「谷の頭」)
N ビューソ
O ヤンバタケ
P ガブネ
Q キャーマダン
R ヤコダン(「ヤコ(狐)のいる谷」)
S ジュウデンビラ
21 ジンデビラ(「神様のいる平地」)
22 フジワラ
23 炭焼きをしていた場所
24 ナミウチギワ(波で岩が浸食された場所)
しこ名の由来については「わからない」とおっしゃる方が多かったので、昔から伝わっているものなのだと思われる。
その土地の方言などが表れているものも多い。
◎ 祭りについて
鍋野村の主な祭りには次の2つがあります。
@ 風日(かざび) 8月31日頃
夏の2日間にわたって行われる祭りです。水神が祀られている丹生神社にお参りをします。メインイベントとして鐘や笛、太鼓を鳴らしながら踊る鐘風流(かねぶりゅう)があります。これはこの日のために村の男子が田植えの時期から稽古をしてきたものです。今回お話を伺った方々も鐘風流を経験してきたようで思い出深く話されました。1日目丹生神社にて、2日目は村を周ります。鐘風流を舞われた家の人は“御花”をあげる習慣があります。現在は金一封を渡しますが、かつてはお礼として青少年に花を渡していたことに由来しています。このお金は地域のために利用されます。“御花”を受け取った鐘風流隊は感謝として再び鐘を打ち鳴らします。
A 神祭(かんまつり) 12月1日
鍋野部落の氏神が祀られている御神山(ごしんさん)に、1年間のお礼参りにいく行事です。各家庭から最低一人が青魚である鯖を氏神に捧げにお参りに行くのがしきたりとなっています。その日村民は5,6戸が1班となり7班に分かれます。班員はどこか1軒の家に集まり、朝から晩まで食事を共にします。晩の食事が済むと、各班から数名ずつがその残りのご飯を持って御神山に集まります。社の前の広場にて暖を取りながら翌年の田畑の耕作や田植えの時期について話し合います。
◎ 田んぼ・米について
田植え:6月10日頃と他の地区より早く始まります。このため他地区の田植えの時期には泊り込みで賃稼ぎに行っていたそうです。しかし鍋野自体では他の地区から雇い人を呼ばず、もっぱら親戚や家族でゆいを行っていました。田植え後は感謝として風日でも述べた丹生神社へお参りに行きます。その後公民館にてさなぼりが行われます。
旱魃:昭和6年の水不足の際は村民が結束し、溜め池から水を平等に引いて被害を減らそうと努力したそうです。雨乞いは現在行われていませんが、昭和15年頃に起きた旱魃時には五万頭山に雨乞いに行ったそうです。
米の保存と鼠除け:
・ メッキ…藁で編まれており米が4斗(60kg)程入る俵のようなものです。内側に鍋野紙が張られているため敗れにくく保存に適しています。
・ 甕…籾や玄米のまま保存をします。
・ 板張り…納屋や小屋の出入り口を塞ぎ鼠の侵入を防ぎます。
精米所:部落で共同使用していました。使用時の合図を出す時には精米所管理者や三四(さじ)という区長の秘書がホラ貝を吹いていました。またこのホラ貝は寄り合いの召集にも使用されていました。
減反:鍋野も減反政策を受けた例外に当たらず、20町あった田は現在は8町にまで減ってしまいました。
◎ ガス・電気、電話について
ガスの普及:昭和36,37年頃にプロパンガスの10kgボンベが普及したそうです。
電気の普及:大正14,15年頃に普及したそうです。電気代は現在のメーター制と異なり、定額制でした。電気は夕方5時半頃から自動につくため、電球が切れていてもその時まで分かりません。当時電球の交換は変電所が行っていたため、暗い中急いで塩田の変電所に交換に行ったそうです。
電話機:最初の電話機は昭和31年頃にやってきました。お寺に一台のみであったため、村民に電話がかかってきた時は区長がマイク放送で呼び出しをかけていました。
◎ 青年クラブ(青年団)
中学校卒業後に男子は全員加入していました。今の公民館に当たる青年宿という場で他の男子と寝食を共にしながら、結婚するまでの間部落内のしきたりや上下関係、礼儀作法などについて先輩から指導を受けていました。消防団の役割も兼ね、戦時中には軍隊に入団するための教育もなされていました。
娯楽としては、部落の家を1軒借り、3,4日飲み食いするつつじの花見や、よばいがあったそうです。このよばいの時には後輩は先輩に付き従って外で下駄を持って待っていたようです。この役はゲッチョンといって嫌がられていましたが、ここからも上下関係の厳しさが見受けられます。
また思い出として布団を干すことが滅多にないので、布団の中には蚤や虱が沢山いました。このため、就寝前にわざとズボンを膝まで捲り、跳びつく虫を潰してから床についていたということも語って頂きました。
◎ 病気・戦争について
病気:
・ 応急処置…診療所が遠い場所にあったため、応急処置として富山の「反魂丹」などの入れ薬を服用していました。入れ薬がなくなると薬売りが鍋野やってきた時に補充してもらっていました。
・ 伝染病…森さんが小学生の頃に腸チフスが流行ったそうです。原因は当時食器を川で洗っていたため、上流から患者の病原体が流れて来たためだと考えられています。
戦争:鍋野の青少年たちも軍需工場へ学徒動員として働かされていました。兵隊へも行かず、学徒動員にも参加しなかった人たちは農兵隊に組み込まれました。食料難による死者は少なかったですが、戦死者は多く、森さんの同期は3分の1もの方々が命を落とされました。
◎ その他の生活について
食べ物:村のほとんどが浄土真宗を信仰していました。そのため川にはドジョウやフナなどの魚が住んでいましたが、親にも注意を受けていたため食べなかったそうです。
暖房器具:火鉢や「ゆるい(いろりのこと)」で薪を燃やしていました。
儀式:結婚は「ところんもん(所の者)」同士が多かったそうです。結婚や出産、葬式などは全て自宅で行っていました。
風呂:「もやい風呂」という共同風呂が村に4箇所あり、当番制で誰がどこの風呂に入るかが決められていました。混浴だったため思い出も沢山あるようでした。その地区の一番の年寄りから順番に入浴するのが決まりでした。
〜特産品、鍋野紙〜
ここでは鍋野地区の特産品である鍋野紙について先方の方々に教わった事柄を記録する。
<歴史>
鍋野紙は1650年頃、日蓮宗の高僧と日源によって鍋野の人々に伝えられ、大正の初め頃までは鍋野地区の約8割が紙漉をするほどであった。鍋野地区で生産された紙は塩田港から長崎へ送られており、当時鍋野地区は紙の生産により潤っていたが、昭和に入り機械紙の導入が行われ、そのことにより鍋野紙への需要は激減した。そして昭和38年に鍋野紙の製造は中止に至った。しかし平成12年1月、村おこしのため塩田商工会、鍋野紙漉職人などが協力して鍋野紙の復活を成し遂げた。現在では鍋野手漉き和紙工房にて鍋野の手漉き和紙が製造、販売されたり、土日には手漉き体験などが行われたりしている。
<鍋野紙製造の手順>
鍋野紙の材料となるのは楮とのりの役割をするトロロアオイである。以下に昔に行われていた和紙の製造手順を記す。
まず、@楮を蒸し、「かごはぎ」といって、楮の皮をとる。このときはげた楮の皮(焦げ茶色)を「皮とりかご」、楮の芯の部分(うす黄色)を「かご」という。実際紙の製造に使用するのは楮の皮の方である。 次に、A「かご踏み」といって楮の皮を川で踏んで出来るだけ上の方の茶色い皮を剥ぐ。このとき全て剥いでしまえず残ったものは、B「皮とり」といい、包丁を使ってこそぎとる作業を行い、きれいにとってしまう。 C皮を剥いでしまうと使用する時期まで乾燥、保存しておく。 D紙の材料として使用するときになると、一晩水に浸しておき、次の日に煮る作業を行う。 E煮た楮の皮は石盤の上で太い棒を使い一日中叩く。 F叩いた楮の皮をのりや水などと混ぜ合わせる。このときののりはトロロアオイの根をホルマリン漬けしたものを使う。 こうしてようやくG紙をすく作業に取りかかる。 すいた紙はH十分水分をとり、 I乾燥して出来上がり、となる。
比較として現在の製造過程で昔の過程と異なるものを示すと、D煮る、とE叩く、の間に苛性ソーダとハクラフクを使ってあく抜きとカルキ抜きを行っている。また、現在ではE叩くではなく、かくはん機を使って繊維をかくはんしている。
<特徴>
鍋野紙の特徴は、なんと言ってもその引きの強さである。鍋野紙は引きが大変強いので他の和紙とは違い、水に浸しても簡単には破れないという長所を持っている。さらに、繊維が複雑に絡み合っていることにより紙は縦方向には絶対に切れないのである。
<用途の比較>
鍋野手漉き和紙の用途は昔と今とでは若干の違いが出てきているようであった。昔はちり紙や傘紙、提灯紙、障子紙などといった日用品の一部として鍋野の和紙が使われていた。一方、現在でははがきや名刺から嬉野市の小中学校の卒業証書、押し葉入り便箋、草木染めまで様々な日用品以外のものまで制作している。鍋野手漉き和紙保存会の代表、西野俊行さんのお話によると最近では「日用品」というよりも「お客さんのニーズに合わせた商品」を制作しているということであった。西野さんは、和紙に味を持たせるためにわざと茶色く色の付いた繊維を和紙の原料の中に混ぜてほしいという要望まであるということもおっしゃっていた。
<鍋野紙に関する思い出>
鍋野に深く根付いている鍋野紙に関するみなさんの思い出話も色々お伺いすることができた。
〜より上質な紙を作るために〜
昔は上質な紙を作るために女の人は川に入り、板をしいてその上で紙の原料の中に入った色のついた繊維を一つ一つ手で取り除いていたそうである。この繊維が和紙の中に混じっていると見栄えが悪くなるため、昔はよりきれいな和紙を作るためにこうした作業を行っていたということであった。
〜特徴を利用して〜
上述したように鍋野の和紙には引きが強いという特徴があり、水で洗ってもなかなか破れないという長所を持っていたため、昔はこの和紙をちり紙として一枚持っていたそうだ。なぜかというと、このちり紙を一度使用しても水洗いして、再び使用するという使い方ができたからだ。昔はこうした鍋野紙特有の性質を利用して紙を使用することが多かったようである。
〜鍋野紙すき歌〜
鍋野の人々は昔、和紙をすくときには「鍋野紙すき歌」という鍋野だけの紙すきの歌を歌いながら作業していたそうだ。歌詞は以下のとおり。
一、
鍋野の入り口高間山
西にそびえるじょうご岳
南 万才峠です
北にそびえる五万頭山
ストトーン ストトーン
二、
五万頭山から 見下ろせば
十七・八の小娘が
頭に手ぬぐい ちょいとかぶり
鍋野川で かごさらす
ストトーン ストトーン
<鍋野紙の現状>
村おこしために再興された鍋野紙について、西野さんは現状とともに問題点を挙げていた。現在では嬉野市の小中学校の卒業証書に鍋野の和紙が使われていることもあり、卒業式前には地元から100人ほどの人が手伝いに来て一緒に紙を作っているそうだが、和紙の採算がとれるにはまだ時間がかかるので今はまだ行政によるサポートが必要な状態にあるということであった。また、現在いる職人は高齢の方が多く、後継者に関する問題もあるということであった。
〜鍋野のこれから〜
お話の最後に、鍋野地区の今後についてお尋ねしたところ、みなさんが農家の後継者不足により、「集落の維持」が今後の問題であるとおっしゃっていた。昭和の頃には世帯数も100戸ほどあったが現在では44戸にまで減少している。現在も10年に1戸ほどのペースで世帯数が減少しているということであった。また、空き家も10戸ほどあるため火事など、治安面でも心配があるとみなさんはおっしゃっていた。そして地元に仕事がないからといって若い人が都会へ出ていってしまうために、高齢者の家庭ばかりになっているという状態も鍋野地区のこれからの大きな問題となっていた。
現地調査全体を通しての感想
今回の現地調査で鍋野地区を訪れ、昔の生活について様々現地の人のお話を聞いて今とは全く異なった昔の暮らしぶりを知ってとても驚いた。現在では無くなってしまったそうした暮らしや習慣などに、お話を通して触れることにより、昔と今との生活の違いを知識として理解できただけでなく、実感することも出来たように感じる。そしてこれまで全く知らなかった、昔の暮らしについてのお話を聞くことは私たちにとってはとても新鮮なことであった。中には自分たちが「こうだろう」と予想していたこととは違う答えが返ってくることもあり、意外性を感じることもあった。しかし現地調査を終えてみると、やはりこうしたことは現地へ出向き、実際に生活している人の話を聞くことなしにはなかなか得られないものであったのではないか、と思う。また、現地の方々が昔の暮らしを振り返って楽しそうに話をなさっている様子は聞いているこちらまで楽しい気持ちになるものであった。このような楽しそうな様子を実際に見ることで当時の生活の様子が、想像ではあるが分かってくるのだと感じた。そして実際に話の中で出てきた場所を訪れたり紙すきの現場を見たりして話の内容がよりリアルに伝わってきた。
今回の現地調査を通して様々なことに驚きや新発見、過去と現在との比較をする機会が得られた。私たちにとってこの調査は様々なことを学べた貴重な経験となった。