「歴史と社会」レポート
農学部一年 1AG06164E 平林 知紘
1AG06166T 福田綾
1、 導入
1月14日。快晴。午前8時30分、九大六本松キャンパス出発。約二時間かけてバスで佐賀県嬉野市塩田町へ移動した。事前に山口定様宛に手紙を送った際に、南区公民館に南上地区に昔から住んでいらっしゃる方々が集まってくださる、との温かい返事を頂いたので期待を胸に向かった。バスを降りたとき、塩田川の水の綺麗さ、のどかな空気の流れにとても癒された気がした。また、このようなゆっくりとした時間の流れを肌で感じたのはとても久しぶりのことだった。そのようなことを考えながら熊野の方から歩いていると、車で迎えにまで来ていただき(本当に感謝しています)、無事公民館に到着することができた。公民館の中には、山口定さんをはじめとする11人の方がいらっしゃって、とても温かく歓迎してくださり大変嬉しかった。ほとんどの方が大正生まれということだったが、皆さんとてもお元気で、この地域がとても好きで暮らしているということが伝わってきた。また、部落の中の、いわゆる“ご近所付き合い”が良く、会話の中にも出てきた“絆”を垣間見ることができた。きっと“絆”というものを大切にされているのだろう。いや、これが当然のことだと思っていらっしゃるだろう。そして、「生まれる前からここに住んでいる。」との言葉通り、この地域についてたくさんのことをご存知で、それを丁寧に教えていただいた。
この現地調査の目的は、この30年間の劇的な変化に際し、失われたものを記録し、記憶することである。また、この作業を通じて、半世紀以前に青春を過ごした方々と現代の生活の差を考える。この目的に沿って質問した項目について次の順でまとめていきたい。
2、生活全般について
3、特産について
4、青年団について
5、当時の遊び
6、風呂について
7、面浮立について
8、まとめ
↑写真中央が南区公民館。周囲は田と民家だけ。非常にのんびりとしたところだった。
2、生活全般について
まず、この地区の農業について。「夜明けから夕方まで牛の尻ばたたいて田ば耕しよった。」との言葉通り、昔は一家に一頭の牛がいたそうだ。左手にはムチ、右手には綱で、「とう(左)」、「けし(右)」、「わ(止まれ)」、「はいー(進め)」と言いながら牛を動かしていたそうだ。この話が出たときは、皆さん、懐かしさに笑いが出た。私たちは、この少し変わった掛け声と綱の上手い扱いによって牛が人間の言う通りに動くということに大変驚いた。思わず、「それで本当に牛は動くんですか?」と、聞き返してしまった。しかし、牛は一家の大事な労力であったため、小学生のころから「朝飯は牛に草ばあげたからじゃなか、食わせん。」と言われてきたそうだ。それほど大事な存在であったのだろうと察することができる。そして、時代とともに、この田を耕す労力として牛からテーラー、耕運機、トラクターへと変化していった。トラクターへ変わったのは昭和27〜30年においてである。テーラーとは、5馬力以下の小さいトラクターで、使用されていた時期には、嫁入り道具として持って来た方もいらっしゃったようだ。しかし、トラクターに変わって労力が非常に楽になったといえ、土地には限りがあり土地拡大はあまりなかったようである。
「夜明けから夕方まで土地を耕かしよった」とはいえ、それはあくまで自給自足のためのものであった。「耕期が短いけん、何か収入源を。年から年中、金になるものば考えよった。」今では考えられないくらいの大変な生活だったであろう。私たちは、実際に経験していない分話を伺うことで想像するしかないのであるが…。昼間田を耕した後夜はわら草履などを作っていたそうだ。また、農家の副業として農閑期に「むしろおり」をしていたそうだ。「むしろおり」とは、とれた米を入れるための袋で、当時は60sも入れていたようだ。また、冬に椿油のような“はぜ”というろうそくの原料も山にとりに行っていた。
次に、炭焼きについて。炭焼きは、商業用としては数人が行っていただけで、あとは農閑期にどの家庭も自分の家庭用にと行っていた。当然、当時はガスなどの火がなかったため、山に行って炭焼きにしていたそうだ。山には杉、ヒノキが植林されていた。また、囲炉裏においていた炭を風呂のかまどに入れたり、かまどに入れていた炭を直でこたつに入れるなど“使いまわし”もあったそうだ。
塩田川の漁について。主に、塩田川には鯰や鯉など、また4月には上りうなぎ、9月には下りうなぎ、ツガニなどが棲んでいた。漁は、石を並べ、両岸に紐をつけて網を張ったり、受けを取り付けるという方法で行われていた。ただし、「土地に入札のあるように川にも入札のあって、ここからあそこまでは○○さんの、ってなっとってから魚ばとるのもできんやった。波佐見の人(焼き物関係の方)なんかに接待・娯楽として川に連れてきて魚釣りしてもらっていた。」との言葉には大変驚いた。
塩について。港や彼杵からリアカーで塩水をくんできて火をたいて塩をとっていた。終戦後は、岩塩から塩を採取するように変化していった。
最後に、飲み水について。水道がなかったため共同で使用する井戸があった。しかし、鉄分が多くて良い水は出ていなかったそうだ。ただ、皆さん口を揃えておっしゃったのが、「この地区は、山のふもとにあってきれいな湧き水に恵まれとったけん、良かった。」、「塩田川の水で田ば耕し、野菜ば洗って、飲みよった。」、「本当に水には恵まれとった。」しかし、現在は家庭排水、嬉野の温泉街からの排水により飲料水としては使用できなくなったそうだ。大変残念なことだ。塩田川の水は、私の目から見て非常にきれいだと思ったが、今以上にきれいだったのだろう。失われていく自然をこの地区では決して見たくないと思う。嬉野の温泉街の排水を中止することはできないかもしれないので、塩田川に負荷のかからないように何らかの対策を考える必要がある。そして、いつの日か再び塩田川の水を飲めるようなきれいな水の流れを取り戻して欲しい。
↑塩田川。思わず川辺までおりて水を触ったり、歩いてみたり・・・。
2、 特産について
この地区の特産品はお茶である。しかし、大正〜昭和前期にかけて養蚕も行われていた。桑畑もたくさんあり、戦時中には桑の皮をはいで繊維にして戦地に送られていた。そして、戦後次第に桑畑もなくなっていき、養蚕も衰退していった。
また、陶器の原料もこの地の特産品だ。天草から石を船で運んできて、スタンパーで粘土にして、全国的に有名な陶器の産地である有田、伊万里、波佐見などへ運ばれていく。大草野焼もあり、この地がないとあの有名な陶器は存在しないのである。
この地の歴史について。9世紀初期に空海がこの地に立ち寄り、草が茫々と生えていたこの地を見て言った言葉から「大草野」というようになったそうだ。また、唐から持ってきた十六善神もこの地に祀ってある。更に、昭和4年には源氏蛍発祥の地として定められ、蛍の名所として知られていた。以前は「どこでんおった。」そうだが、現在は山まで行かないと見ることができなくなったそうだ。
↑以前蛍橋があったところ。
↑現在の蛍橋。側面には、蛍の絵が描かれている。
4.青年団について
「青年団」という集団を結成していたそうだ。
この青年団では、先輩後輩の関係がとても厳しく、先輩の言う事には絶対服従というように規律がとてもしっかりしていたそうだ。また、朝でも昼でも夜でも挨拶は必ず「おはようございます」だったらしい。
しかし、この青年団には特権も存在した。青年団の団員には夜這いに行ってもいい、という特権が存在したのだ。夜這い、とは男が夜に女のところに行って情交を結ぶ事である。
夜這いに行く時は、「相撲に行く、鐘を打ちに行く」などのいいわけをしていたというお話が伺えた。私たちはこのことを聞き、夜這いに出る時は周囲の人に誰にも見つからないように、ましてや相手の父親には絶対に見つからないように行くのだろうな、と想像した。
しかし、実際には家の前で父親が待ち、「うちに来い」と手招きをするようなことあったという。当時は、結婚や交際などはほとんど部落内だけで行われていた事が関係していると思われる。年頃の娘を持ちながら、夜中に男が訪れない家の両親は娘の将来を案じ、父親がそのような行動に出ていたのだ、という話を伺った。
また、青年団の中では上下関係が厳しく先輩には絶対服従、という風習が存在したからであろうが、いじめもあった。
ここで言ういじめとは、現代社会のなかで起こっている言葉の暴力やインターネット上での誹謗中傷、などとはもちろん異なり、「暴力」といえるようなものであった。
体育の授業の時に使用するような布団で、ぐるぐる巻きにする、というような事をしていたらしい。私たちがお話を伺った方々の部落では出なかったらしいが、他の部落では窒息死する人もいたという。
この「青年団」の規律の厳しさなどは、戦争時代の「軍国主義」の流れからきているのではないかという方もいた。確かにそのような気がする。
青年団は、軍隊のような規律の中に成り立つものだったが、あの規律は今の社会にも存在するべきだ、とおっしゃっていた。
現在、塩田町の南上の地区では敬老の日に催し物をするらしいのだが、これを企画・運営するのもまたお年寄りなのだとおっしゃっていた。
青年団がなくなった後、きびしかった規律はなくなり人々は個人主義にはしっていったように思える、とおっしゃっていた。本来敬老の日というのは、若い人がご老人を敬い感謝する日であるのに、その心が全く感じられないという。だから敬老の日の催し物のお世話をご老人がするという事態にもなるのだろう。青年団の「目上の者を敬う」という心や、最低限の礼儀などは今でも持ち続けたいものである。
5.当時の遊び
現在のようにパソコン、テレビ、テレビゲームなどが普及していなかった当時は、どのような遊びをしていたのだろうか。
話を伺ってみた。この日集まっていただいた皆さんは、普段は川で泳いで遊んで遊んでいたそうだ。大雨の翌日など、川が増水した日に川へ出かけさかのぼって遊んでいたらしい。
現在の常識で考えるととても危ないように思えるが、そのような遊びが楽しくてたまらなかったそうだ。
どこの川で遊んでいたか、と言う事は地図に示しているが、基本的に子供達は上流のほうでよく遊んでいたそうだ。また、「ぴんぴん橋」と呼ばれる場所が存在した。
これは川に石が置いてあり、飛び石の事であった。子供達はこのぴんぴん橋を通って学校へ通っていたそうだ。これも地図に示しているが、このぴんぴん橋を通る事で学校への近道になっていたのだ。
また、当時は「休日」というものがなかった。部落のほとんどの人が農業に従事していて、当時の家庭では、先に述べたように一家に一頭は必ず牛がいた。朝起きると牛の世話をする、これが一日の始まりであった。昼は畑仕事をし、夜はわらぞうりを作る、などといいった内職を行っていた。
このため、「休みの日」がほとんど存在しなかったのである。
休みは夏のお盆、正月くらいだったという。あとは二月二日と八月二日の「二日やい」という日があった。この日はお灸をすえて休む、という日だという。八月十六日は「自国の蓋が開く」と言われこの日にも休んでいたそうだ。
また、「せいれん」と言って、神社に灯篭がけをする仕事があったそうだ。この仕事をした次の日にも遊んで良い、という決まりがあったそうだ。
このような休みの日には嬉野まで出向き、映画を見に行ったりしていたそうだ。
塩田町から嬉野までは歩んでいくか、自転車で行くかのどちらかだったという。自転車は今のように一人が一台持っているというわけでなく、一家に一台、という感じだった。もちろん自転車を持たない家もあったそうだ。
また、部落対抗でのすもう大会があった。
この練習の一環として、「力石」を上げて遊んでいた。力石には表面がごつごつしたものとつるつるしたものの二種類があった。もちろんつるつるしているほうが持ちにくかったそうだ。この石を上げて筋力アップを図っていたのであろう。
今でいう所の筋肉トレーニングを遊びのようにして行っていた、と私たちは解釈した。
確かに、当時は現在のようにジムやトレーニングルームなんかは一般的な部落には存在しないはずで、もちろんそこらにあるトレーニング器具なども存在しなかったはずだ。
だから、この「力石」のように自然にあるものを利用しなければならなかった。
6.風呂について
現在は一家に一つ風呂が存在するのは当たり前である。
しかし、この頃はもちろんそうではなかった。20件に一個くらいの割合で存在した。
この風呂は、「共同風呂」と呼ばれていて、20件位の家族が共同で使用していた風呂である。
当時は各家庭で風呂を焚くほどの火力がなかった、と言う事が共同風呂を造っていた理由の一つである。
この共同風呂は大体畳二畳分ほどの広さで、底には鉄板を敷き、横は松の木で作られていた。この風呂は専門の大工さんが作っていたそうだ。
風呂で使用する水は流れ川の水を使用していた。水車を作り、水を入れていたそうだ。
風呂用の水、農業用水以外にも使用目的はあった。有田焼の原料作りの際にはその動力としても川の水を利用していた。
このように川の水は農業用水としての使用だけでなく、生活のいたるところで利用されていた。
風呂を焚くのは大体三時ごろからで、風呂を焚く係りというのが決まっていたそうだ。
今のようにボタン一つでお湯が出てくるような便利な世の中ではなかったため、火種からまきへと火を移し、風呂を焚いていた。
私の祖母の家は十年前位まではガスではなく、薪を用いて沸かす風呂だったので何度か幼い頃に風呂を沸かした事があるが、なかなかきついものであった。
冬場ともなると、火がおこるまでに外でじっと火を起こすのがとても辛かった記憶がある。
当時の人々はこの作業、もしくはもっと大変な作業を一年中休むことなくやっていたのだとおもうと、本当に凄いなとおもう。
7.面浮立について
佐賀地方には古くから伝統行事として「面浮立」というものが存在する。
塩田町でもかつては面浮立が盛んで、大阪万博では国から出演の要請が着たほどだったという。この面浮立は佐賀の南部では盛んだが、北部では行われていないという話を伺った。
(1)面浮立とは
佐賀地方の浮立は、室町時代の頃より民衆的な神事として舞い伝えられており、佐賀県内には約200程の芸能が伝わり舞い継がれているが、その多くが「浮立」であり、その中でも代表的な芸能が「面浮立」である。
佐賀の面浮立の面は、鬼であるが、しかしこの鬼面は決して人に害を及ぼすことはなく、むしろ人の生活を守り、また悪霊を退治する鬼として昔より民衆に親しまれ、また大切に扱われてきたものだ。浮立面の形態は阿(ア)・吽(ウン)の形からなっていて、これは「神」「仏」の世界でも悪霊をはらう形態としている。例として、神社でみられる「狛犬」寺院でみられる「仁王像」あるいは「鬼瓦」などがそうである。
この浮立面は口を結んだ「ウン」形の面が「男面」で、先頭で舞う。また、口を開いた「ア」形が女面 で男面の後ろについて隊列を組んで舞うそうだ。「浮立面」は葉隠の里の象徴的造形として、また、家庭の守護神として尊ばれている。
浮流面 中央)オス 右)メス(右側二つは鹿島市で使われているもの)
(2)面浮立の歴史
戦国時代の末期元亀元年三月、豊後の大友宗麟は突如大友八郎親貞を総大将として、数万の大軍をもって肥前の竜造寺隆信を襲った。
不意をつかれた竜造寺方は僅か数千、佐嘉城の防戦につとめたが戦い利あらずはや落城かと思はれた時、知勇を誇る名将・鍋島直茂は百人ばかりの決死隊にシャグマの毛をつけた鬼面をかぶらせて、暗夜に乗じて囲みを突破し勝利の酒宴に酔う、敵の本陣今山八幡原に夜襲をかけた。
敵はその怪奇な姿に仰天混乱するうちに、大将八郎親貞を討ち取り大勝利の先がけをつくった。この大勝利に若武者達が鐘や太鼓に合わせてそのままの姿で踊りくるったのが面浮立の始まりの一説と言い伝えられている。
また、面浮立は地区によって多少の違いがあるそうだ。
現在、塩田町では数年前に火災がありのぼりと太鼓が消失しているそうだ。さらに若い人々がこの伝統芸能を行わないため、後継者不足となり現在は活動をしていない。
このような世界に誇れる伝統芸能が衰退するのは何とも残念な事である。
8.まとめ
今回の実地調査では塩田町南上の皆さんからとてもたくさんの興味深いお話をうかがうことができた。子供の頃は桑の実泥棒、書き泥棒をしたり、蛇をつかまえて食べた、などという面白い話も伺えた。蛇は半煮えだと甘くなり美味しいそうだ。人の家から取ってきた渋柿は地面の中に一週間埋めると、渋さが抜け、甘柿のようになる、とおっしゃっていた。
戦争時代などを経たみなさんであるが、この地区は自然に恵まれていたためひもじい思いをする事はあまりなかった、とおっしゃっていた。
お話を伺っている最中には様々な意見が出ていた。
「現在の食べ物を食べるほうがいいのか、それとも昔のように天然のものを食べたほうがいいのか」「現代社会にも軍国主義の風潮を少し取り入れたほうがよいのではないか」
などという意見だ。
確かに現代社会ではかつての「青年団」の中にあったような厳しい規律などはあまり見受けられない。また、目上の者を敬い、その命令には絶対服従するということもあまり見受けられない。
このような世の中だから、成人式で暴れるものや逮捕されるものが出てきたり、子が親を殺す、などという事件が日常茶飯事のように起こるのではないか、とおっしゃられていた。
昔の生活を今の社会に全てとりれる、というのは無理だし、それが正しいとは私もおもわないが、「目上の者を敬う」という気持ちなどは持ち続けるべきだと強くおもった。
今回の実地調査では、現地の地名の変化、暮らしの変化、伝統芸能について、など様々なお話が伺えたがそれ以上に「持つべき心」について学ばせていただけた。
学校の座学、日々の生活の中で見落としていた事を教えていただけたとおもう。今回私たちの調査を快く引き受け、お話をしてくださった皆様には心から感謝したいとおもう。