火曜4限・歴史と社会(服部教官)

佐賀県嬉野市塩田町三ヶ崎地区聞き取り(平成19114日調査)

 

調査者・1EC06157P青野亮一、1EC06194N 鮫島武文

話者・橋本岩男氏(昭和8年1月20日生)、犬尾和弘氏(記録を欠く)

 

聞き取り当日の流れの記録

10:40ごろ、和泉式部公園先でバスを降りる。三ヶ崎集落までは距離があるので少し歩く。のどかな農村である。途中、使われなくなった水車が放置されていた。

三ヶ崎集落の中心とおぼしき場所で作業中のおばあさんに犬尾さんの家を訪ねる。

11:00ごろ、犬尾さん宅到着。犬尾さんではなく昔の生活に詳しい橋本さんにお話をうかがった。30分ほどの聞き取りの後、「千歯でこきよった。千歯はうちにあるまだ。私らの小学校6年ごろまでたいね」との言葉から、橋本さん宅にお邪魔し、農機具を見せてもらうことにした。農機具は売ってしまったものも多いそうだが、かなりの量の農機具や魚網を見せていただいた。

ついで、橋本さんの陸上についての話、石の話を聞く。16歩で10メートルは昔から変わらないそうである。

つぎに、かつて青年宿があった場所で、青年時代の思い出を聞きとった。

墓の下の湧き水、かつて灯台があったとされる場所、身元不明の戦没者をまつる地蔵さんを廻り、犬尾さんのお宅に戻った。14:00ごろだっただろうか。

その後、聞き忘れたことや外で聞いたことの詳細などを聞き取った。ちょうど話が一段落したときに時計を見ると、すでに4時だったので、お礼もそこそこに急いで帰る。

 

集落の成立

味嶋なにがしさん主導で干拓されてできた集落で、かつて福富山の麓まで海で、灯台があったとされる。海に面していてかつては、烏賊崎と言われていたらしいが、いつのまにか訛って三ヶ崎になってしまった。海であったことを示す伝説として、味島大明神をまつる石碑が集落内にあるのだが、その付近にはかつて灯台があったという伝説があるという。隣の新村は、三ヶ崎集落よりも成立が遅かったために新村と呼ばれるのではないか。(橋本さんの見解)また、このあたりは、鍋島氏の領地のはずれで、かつては鍋島氏と蓮池氏の間で合戦があった。そのときの見張り小屋があったと言うことで監視所と呼ばれる通称地名が残っている。場所は御神松(おんがんまつ)の付近である。御神松の由来はズバリ松のご神木だそうで、圃場整備の際になくなった松をまた植え直して、今は5本植わっているそうだ。

 

地名について

はじめは、調査の趣旨をあまり理解しておられなかったようだが、話を進めていくうちに、段々と「ここがミナミコガたい」などと、しこ名が検出できた。普段はもっぱら小字を用いて呼称しているらしく、あまりしこ名は知らないと仰有っていたが、現地を歩く中で、いくつかのしこ名を検出できた(最下段の表・添付地図参照)。ツンキレデと呼ばれる堤の名前が新たに検出されたが、ハゼの木が植わっていたそうだ。また集落の裏山の名称であるが、かつては八天山と呼ばれていたが、今は福富山と呼ぶ人が多い。なお、正式には(地図上では)八天山で、旧小字が福富山である。

 

圃場整備

昭和53年に元の田んぼの大きさの92%を所有者に分割、8%を河川拡幅や道路拡幅の用地や、工事資金を得るために売却した。中には田んぼ自体を売ってお金儲けした人もいた。当時一番広かった三反田(さんだんわい)を基準サイズとして、崩れた畦も「上が30センチ、横が40センチ」の統一基準で作り直し、新しく中心軸を打って、整備し直したので、実際に作付けできる面積が増えた人が多い。田んぼの面積は、田んぼがもともと三角形をしていたことから、底辺×高さ÷2で各家の所有面積を求めた。「それまでは田ん中の面積を出すモンおらんよったと」とは圃場整備実施当時区長だった橋本さんの苦労話。犬尾さんの家を含めて、圃場整備に合わせて移転した家もある。また、公民館(現・生活改善センター)も天神の台の上ではお年寄りが集まりにくいと言うことで、下に移した。

 

栽培していた作物について

米・麦が中心。自家用に白菜、大根、馬鈴薯、人参、たまねぎ、大豆を栽培している家が多い。この地域では茶も栽培しているが、自家用の半年分くらいしか採れない。

一時、レンコンやスイートコーンの栽培が流行したが、どちらも普及には至らなかった。

最近ではイチゴを栽培している家もある。

 

農作業の道具について

昭和29年に耕耘機が入ったのを皮切りに機械が導入された。それ以前は、手作業だったが、様々な道具が流行した。どれも長続きしなかった。倉庫内の唐箕を見せて頂いた。スキ、クワをはじめ、ワラを干す道具やローラー式の田植えをする道具まで様々な道具を見せて頂いた。また、稲は直まきではなく苗床(苗箱?)を用いて、苗を植えていた。

 

食生活について

炊くときは米が7、麦が3。野菜は自給自足していた。貧しい村だった。魚は新村の南にある中村魚屋(店?)で購入した。

 

お菓子・おやつについて

戦時中は麦をつぶしたひしゃぎむぎ(つぶした麦)を湯がいたものや電気まんじゅう(黒砂糖を練ったものを電気釜で焼いたもの?)などと呼ばれるものをよく食べていた。幼少時代はばちんことよばれる仕掛けを作って鳥を捕って食べた。メジロはよう食べんかった。

 

食品の保存について

米の糠(サク)に大根などを漬ける。この地域では糠とは言わない。米は鼠よけの缶に入れて保存していた。

 

動物・川魚を捕って食べるかどうかについて

フナ・ナマズ・ウナギ。網を川に放って捕まえられたが、河川整備(護岸工事)でいなくなった。

イノシシ、ネコは臭くて食べられない。臭いは一日以上埋めることで消える。モグラ、イタチもよく見かけるが食べない。

 

干魃等の災害について

この近辺では、災害と言えば台風であった。去年の九月の台風でも木が倒れるなどした。1963年には大きな水害で被害が出た。この地域では干ばつが起これば豊作になると言われていた。

 

 

 

家畜

各家で最低一頭は牛を飼っていた。えさはワラ、雑草、糠を与えていた。馬を飼っている家が二軒くらいあった。

 

牛の操作方法

手綱は一本で、進め・ハイハイ、右・ケシケシ、左・トウトウ、止まれ・ドウドウ。雄も雌もいたが、言うことを聞かない雄牛がいて、まっすぐ進んでくれず操作に苦労していたようだ。

 

バクリュウさん

新村にバクリュウさんが住んでいた。小学校の帰りなどに種付け牛のナニが伸縮するのをみんなで見ていた。「われ、はい帰れ〜」と怒られた記憶があるそうだ。布で手を覆って牛の値段の取引をした。だいたい1万円〜1万5千円くらいだった。

 

馬の手入れするのはどこ?

しこ名山崎の横の水路(現在の三本柳橋の少し下流)で馬を洗っていた。河川敷で馬が寝転がっていた。集落で馬を飼っている家は少数だった。

 

青年宿(祭・夜這い・結婚・恋愛)について

今も乳用牛が飼われているところの横の階段(橋本さんは段数を83段と正確に記憶していらっしゃった)の段上には、かつて天神さんと公民館を兼ねた建物にあった。入って左側の部屋が畳敷き12畳で、右側の部屋が板張り12畳の部屋だった。年長者しか畳敷きの部屋は入れなかった。年長者に墓の下の湧き水を汲んでこいと命令されると、しぶしぶ汲みに行った。たまに天神下の用水から水を汲んだこともあったが、すぐにバレてその水をかけられたこともあった。ちゃんとした湧き水を汲んできてもわざとこぼすなどして、再度汲みに行かされたこともあった。

そのほか、青年クラブでは他の普通の農家が休む日も休めなかったのがしんどかった。(村の人の生活を助けるという役割も青年クラブにはあったため)

祭は青年クラブを中心として行われた。味嶋神社の祭りでは、他の集落の青年クラブとともに持ち回りで風流鐘と太鼓を鳴らした。太鼓は90万円くらいするところを、町の補助を受けて50万円で購入できた。この祭りなどで他の青年クラブと交流はあった。一時、若者の減少とともに祭は廃れて行われなくなったが、橋本さんが区長を務められた時に復活させたそうである。

塩田川で花火大会が行われたが、そろいの鉢巻をして参加した。(結び目がないように結んだ。絞ったわけではない。)塩田の町のパチンコでよく遊んだ。

戦没者を慰霊する地蔵さんがあったが、一時期は誰も見向きもしなくなったことがあった。昭和63年に生活改善センターの隣に再建した。普段はめいめいが参詣するが、8月(4月?)15日に共同で戦没者を弔うそうだ。

 

青年クラブで行ったいたずらと言えば芋攻撃であった。芋攻撃では、セッコウと呼ばれる偵察隊などが組織立てられており、青年クラブの活動の一つであった。盗んできた(!?)芋は焼いて食べた。

ワラコヅミという遊びがあり、これは、ワラを敷いた上で女の子と○○○する遊びだそうだ。

 

このあたりから橋本さんの表情がゆるんできた。いろいろ話してくださる。青年宿の核心部分、夜這いについてである。顔を赤くしながら話してくださった。具体的に誰から買ってこい言われたかについてもお話がうかがえたが、それは記載しない。

夜這いは、主に集落の中だけで行われた。夜這いでの他の集落との行き来はほとんどなかった。橋本さんは突撃一番ハート美人♡などの隠語で呼ばれる避妊具を買いに行かされたそうだ。正規の方法では高すぎるので、ウラルートで購入した。(ウラルートの詳細は話してくれなかった。)また、突撃一番等なしに夜這いに成功した場合、子ができることもしばしばで「おろすこともでけんばってん」、その二人はそのまま結婚した。見合いなどで結婚させられることはあまりなかった。「部落モン同士なったもんおおかよ」という言葉もあったが、集落内でのできちゃった婚が主流だったようだ。

夜這いに関する思い出は、雪駄を持って待たされたことがメインであるが、雨戸が開かず床下から忍び込もうとしたときに、たまたま運悪く芋が床下でぬか漬けになっており、そこに入り込んで糠まみれになった人がいたことをよく覚えているそうだ。

ケンカは夜這いにやってきたクマ炭坑の人たちとしばしばあったそうである。

青年クラブの年長者は犬を食べたこともあったそうだが、橋本さんは食べたことがないらしい。橋本さん曰く「人間のケツが一番うまか。」

 

風呂について

各家が五右衛門風呂を所有していた。水は天神下の用水から汲み、薪は福富山(八天山)から採取してきたものだった。共同風呂はなかったが、鍋野では共同風呂があったらしい。共同風呂では「男も女も一緒に5、6人が入りよったと」とは聞いている話。

 

小作制度について

地主と小作人は半々と言った感じで混在していた。

 

行商人などについて

鯖(塩付けの?)、天ぷら(薩摩揚げ?)、ちくわ、などを有明百貫という店の行商人から買った。アイスキャンデー(かつてはアイスケーキと呼んでいた)、豆腐、などはそれとは別に売りに来た。鎌などの刃物は鹿島に買いに行った。鹿島に買い物に行くことが多かった。戦後になって一時期集落内で鍛冶屋を営んだ人がいたそうだ。

 

竹細工について

集落の中に、竹細工を作る人がいた。竹は福富山から採ってきたものか?外に行商に行くことはなかった。主にウナギを捕るカゴなどを作っていた。

 

ガスやその他燃料について

薪は福富山から担って降りてきた。地区内で使う分しかなかった。(山の所有者は聞き取れなかった。)昭和30年頃に木材を切り出して集落外に売ったこともあるが、もっぱら木材も集落内の家を建てるのに使っただけだった。レンガ製の改良かまどが普及したが、昭和45年頃にガスが入りすぐに廃れた。

 

自動車について

農協にあるのみだった。昭和40年頃から徐々に普及して、道路が広がったりした。圃場整備の際に車が通れるように道路を整備した。

 

 

戦争について

集落から戦地に赴いた人もいた。長崎に原爆が投下されたときは水路で水浴びをして遊んでいたが、光をみて急いで逃げた。大牟田や佐世保の空襲の時にB29の大群を見た。鹿島の方が焼けているのを見たことや、長崎原爆の時は一機しか飛んでいかなかったのを覚えている。また、鹿島にも長崎で負傷した人が運ばれてきて、救助にかり出されたそうだ。

 

橋本さんの幼少期の遊びについて

釘ねんぽ、ホッサ当て、ガチャ、ペチャと呼ばれるビー玉や釘を投げる遊びがあった。

 

娯楽について

塩田に塩田劇場と映画館があった。また、「パーマ屋さんと写真館の先にあった」パチンコ(現在の形ではなく玉入れとも言うもの)で遊んだ。

 

荷菰を作るときの労働歌(?)

「たづながもちうた」

三ヶ崎名物は なんじゃろかなー

にごもどんが名物やろう

近所のよか女はだいやろか

おいが とらんはだがとろかー

そがん ゆうだちや おいがすとらすたい(以下100番まで続くらしい…鹿島市の保育園で音源を保存)

 

以上


しこ名まとめ

小字三ヶ崎のうちに、ミナミコガ、キタコガ、ミナミダイ(谷筋)、テイジン(尾根・台地)、ハカンシタ(湧き水)、テイジンシタ(田の名前だけでなく用水路の名前である)

小字定連のうちにカンシジョ(監視所)

小字高城のうちにカノハシ

小字境から小字樋口にかけての堤防をツンキレデ

行商の屋号

有明百貫

避妊具のこの地域における通称

突撃一番ハート美人♡

感想

普段田舎の話を聞く機会がなく、とても貴重な体験だった。特に、恋愛についての話(夜這い)がとてもとてもおもしろかった。青年クラブという存在をこの講義を受けるまで知らなかったのだが、昔の方々にも若い時期があったのだと改めて実感した。現地の方々が昔からいろいろな工夫をして生活をしていたのだというのを、橋本さんのお話で身近に感じることができた。

しかしながら、録音装置の不具合で、逐語記録がほとんど取れなかったのが残念であった。

 


写真

左上・米を精米する際に用いた石臼(橋本さん所蔵)

右上・米を保存する缶(橋本さん所蔵)

左下・田植えまでに苗を育てる「苗箱」(橋本さん所蔵)

右下・川でフナなどを捕ったという網(橋本さん所蔵)

左下・新村にあった水車?の残骸

右下・圃場整備の竣工記念碑

左上・天神さん(かつての公民館・青年クラブがあった場所)へ通じる階段。83段ある。

右上・味島大明神をまつる石碑。かつてここには灯台があったとの伝説がある。