志田焼について

写真:志田焼の里博物館

 

 

塩田町の焼き物に「志田焼」というものがある。志田焼について伺ったところ大島英樹さんが志田焼の里博物館につれていってくださった。

博物館に着くと館長の青木克己さんが志田焼について詳しく説明してくださり、館内を案内してくださった。

 

 

志田焼の歴史

志田焼は、肥前の国鍋島藩、本藩領の東山と支藩蓮池領の西山、いわゆる有田大外山の二つの窯場で焼かれたものをいいます。
初期は、陶器のみでしたが、1700年頃には天草陶石による、磁器の焼成が始まりました。
全盛期は文化年間以降で、東西5つの登り窯により、大中小の染付皿が大量に生産されました。生産された種類は皿製品が中心で、それ以外は極端に少ないことが特徴です。
幕末期、鍋島藩全皿山の中で、志田染付皿の占める割合は、過半数に及ぶとみられ、佐賀県窯業史上、重要な役割を果たしています。この工場は大正時代から生産がはじまり昭和30年代までは火鉢などの生産の中心的場所となりましたが昭和59年に工場が閉鎖されました。

 

 

 

志田焼の工程について

@    A 

 

 

 

@これが志田焼の原料となる天草石です。これは天草地方で取れる陶石でとても上等な

もの。陶器なら陶器、磁器ならば磁器、土器ならば土器といったように焼き物によって配合割合を変えていくそうです。この陶石がたくさん含まれるほど硬い焼き物になるとのことです。

 

 

Aこれはその陶石を潰し細かく砕いていくスタンパーです。これによって陶土の原料ができます。これはもちろん石をくだいたものですから、作業を行う職人さんは長年肺に石がたまっていき塵肺にかかるといことがよくあったのだと青木さんが教えてくださいました。昔はマスクをしないことも多く職業病にかかる人が多かったそうです。

 

B

 

 

B次に細かくなった陶石の粉を撹拌機にいれて水に溶かし砂上げ機によって粗い砂は取り除きます。

       

 

C    

 

 

 

C次に細かく砕いた陶土を水と合わせ下に不純物を沈殿させます。沈殿物を沈ませた綺麗などろどろの液体は右の図のフィルタープレスに約三時間かけられ板状の粘土となります。

このフィルタープレスは何枚ものフィルターを両側からとても強い圧力で押さえつけられていたとのこと。そのフィルターに液体を流すことで粘土物質がたまっていきます。機械の下からはこされたあとの液体か流れ出していたのだと青木さんが教えてくださいました。

 

 

 

D      

 

 

Dこの瓶にはいっているのは釉薬、つまり上薬です。この釉薬の種類によって出来上がりの色が変わってきます。図のような茶色の瓶をつくる時は土をまぜた釉薬を使うこともあったようです。

 

E F G   

 

 

 

E形を整え釉薬もつけた作品は焼成場(石炭窯、重油窯)にいれて焼きます。この釜の大きさは幅6メートル奥8メートル。窯の内側は耐火レンガ、外は石や使わなくなった窯道具が使われています。Fに見えるのはその耐火レンガです。普通のレンガだと焼き物とともに溶けてしまいますが、このレンガは溶けることなく窯の内部を支えました。原料はこの工場の近くで取れる特別なものであるそうです。熱によってレンガは膨張したり縮んだりするため窯の隙間がふさがったり開いたりしたと青木さんは語ってくださいました。    焼き物をサヤの中にいれ12001300度で約7日間焼き続けます。窯には全部で8個の焚口が両サイドにあり、窯の中で熱が対流し、煙は床に開いた穴のなかに吸い込まれ地下を通って裏手にある煙突(G)から出ていたということです。

 

火鉢などの大型の作品をこの大きな窯で焼いたということですが、焼け具合は途中で中を見ることはできません。その判断はすべて職人さんの勘によるものなのだと青木さんは教えてくださいました。「勘といっても適当なものではなくすべて長年の経験と技術があってのものなのですよ。」と語る青木さんからは志田焼を守っていく人の誇りが感じられました。

 

 

 

 

 

感想

 

青木さんから志田焼についての説明をしていただき、焼き物の全工程がよくわかった。志田焼を後世に残していこうとする地元の人達の動きがこの工場の保存につながっているということだ。佐賀の焼き物といえば多くの人は有田焼などの名を思い浮かべるが、今回志田焼を学んだ者として私達も志田焼の名を語り継ぎ、広めていく一員となりたいと強く感じた。