歴史と社会レポート *熊野地区*

 

※熊野ついて

 

「熊野とはね、美濃(みのう)というところの一部なんですよ。他には、この熊野の隣に谷とゆうところがあります。そいでその隣に辺田(へた)があって、その先に南とゆうところがあります。その四つを合わせて美野です。んでそれは、さらに大きくなると五町田という地区になります。熊野地区はですね、今アパートが4戸あって、それを入れて46戸ぐらいの戸数です。」

 

職業について

 

「こちらの地区はですね、以前の職業としては、陶土業、あの水車業ですね、があったね。この熊野にも17、8件陶土を仕事にしなさっている家があったね。立地条件が良かったんだよね。もう今では1件になってしもうたけど。 陶土業とゆうものはね、まず熊本の天草から石ば取り寄せていたんですよ。」

『天草からはどうやって運んだのですか?』

「船です。距離的には四キロくらいかな。塩田川まで運んでくることが出来てね、そういったことで立地条件が良かったんです。だから、塩田川は塩田町の港やったわけですよ。今では川が広うなって、水害はおきんごとなったけど、そういったことはなくなったね。」

『水害は当時ひどかったんですか?』

「毎年のようにきよったよ。あ、陶土はね、その、取り寄せた陶石を砕いて粉にして、それを水で練って、でいわゆる陶土を作ってそれを有田とか伊万里に出されよったんですわ。その頃はね、家内労働者だけじゃなくてね、各地から住み込みで来なさっていたわ。あとはほとんど副業で農家でした。あと職業としては、大工さんとか、昔は麦わら屋根がほとんどでしたので麦わら屋根の葺き替えをする家葺きさんとか、山の木を刈って製材所なんかに売る山師さん、山かいさんとも言いよったですね。その時に牛や馬で木を引いて上から下に引っ張り出すド引きをやっとったね。それから炭焼きさんもありました。共同で炭焼きをしていたという頃もありました。」

 

◎今となっては陶土業を仕事にしている家庭が1件と聞いて残念だなと思った。しかし川も昔とは変わってしまっているため、昔のようには出来ないのかもしれないと思った。塩田川が港だったという頃を見てみたいと思った。

 

※畑について

『畑ではどんなものをつくっていたのですか?』

「昔は畑もたくさんありましたけれども、今では放置されて藪となっているところが多いです。うん、だから竹の進出が多くってね。もう今は山ん中はあるけんごとなった。自然に任せているというか・・。昔は山を綺麗にしとったもんね。52年に国土調査があってね、それで境なんかがはっきりしたとですわ。」

『農産物なんかは、何か作っていましたか?』

「米、麦、そして昔は粟なんかも作っていましたねぇ。粟は・・餅、うん、餅の中に入れて、粟餅とよんでおりました。あ、とうもろこしも作って餅の中に入れとったね。きび、そばなんかも家庭によっては作って食糧としていました。」

『今もきびやそばなんかは作っていますか?』

「今は作っておりませんねぇ。山から採れたのはね、わらび、ぜんまい、ふき、たら、それからマツタケがぎょうさん採れていました。現在ではマツクイムシとかでほとんど枯れてしまったんやけどね。昔は子供たちも採りに行って、かごいっぱいとりよったですわ。一時はみかんもたくさんありましたわ。お茶もあったな。良かしなもんも出来んし、金にもならんしでなくなりましたね。今はわらびはとれるけど、他はとれんね。あと薬草はげんのしょうこうっていうね、腹薬になるやつがいっぱいはえとったですね。どくだみっていうやつね。」

 

農産物に関しては、その時その時で自然に合い、かつ生活のためのものを作り続けてきているからこそ、変化しているのだなと思った。

 

塩田川について

 

「昔ね、塩田川を挟んで向こうの地区と土地をめぐってあらそったみたいでね、熊野が勝ったわけです。それで、現在ある塩田川は本来はもっとこっちのほうさ曲がっていたんだけれども、勝ったということで塩田の土地が広くなって、川が向こうのほうさそっているんですわ。これは僕たちの世代の話ではなくてね、父の世代にあったみたいでね、実際に昔の川の跡も分かります。あんた達は現地ば歩いたほうが良かとよ〜(笑)」

 

実際に話の後でその川の跡を見せていただいたが、本物を見たときは本当だ〜と感激した。土地を争った証拠だなと思った。そのような争いはテレビの中の世界になっているが、かなり身近に実感することが出来た。

 

よばいについて

 

「よばいについては(あははは)、昔は藁葺きの屋根だったし、開放的やったもんね。今んごと戸締りする世の中じゃなかったもんね。だけん夜はね、若もんが外につるしてある饅頭をもらって行ったりね、娘じょうの寝てるとき、かやどをひんまくってみたりしよった。(一同笑)全国的に昔はそぎゃんことがあったったいね。(えへへへ)これは昭和33年頃までね。昔の家のつくりできちっと戸締りをしてなかったってのもあるし、聞けば、訪ねて来れるように、娘さん達がある所を開けて待っていると、いうようなこともあったらしいね。(一同笑)

 

◎本当によばいがあったなんて今では想像できないので、とても驚きました。

 

共同風呂について

 

「ここは共同の風呂がありましたね。共同風呂ばっかりやった。もやい風呂って言ってます。田舎はね、ほとんど共同風呂でね、10軒に一軒風呂ば作ってね、そして当番で風呂をくんで沸かしてね。熊野地区には3ヶ所ぐらいもやい風呂がありました。ほんでその入り方は、子供とお年寄りの男の人が明るい夕方ぐらいから入りだしたね。午後の4時ぐらいからお風呂焚きをしよったですね。五右衛門風呂でね、焚物は稲わら、麦わら、それから山の雑木を取りに行って、あと菜種の枯れたものだとかやったね。昭和32,3年ぐらいまであったろ。今は昔のつながりがずーっと消えてきよる。世の中の変わっていきよるじゃんね。残念かごてよ。ほんなごてね。今の人は。昔は助け合いの気持ちね、もやいとかごじょうとかね。そういうようなのが田舎にはあったのにね。」

 

昔のようなつながりが今ではなくなってしまっているのがとても寂しいことだと思いました。私達も周りの人とつながりを持っていきたいと思いました。

 

戦争について

 

「戦争の時は熊野は空襲も何もなかったんよ。ただ大牟田のね、燃えてるのが見えたねぇ。」

 

 

 

今回知った谷の名前

 

空良(クウラ) 穴谷(アナダニ) 新坂(シンジャコ) 宮谷(ミヤイダン)

 

 

今回わかった土地の名前

 

一の角 二の角 十の角 二十角 コウチセイ フロマン モチガク ミゾアライ 

モイゾウ ネングスビラ オオクボ  殿様松(トンサママツ) ホリダ 鷺浦(サギノウ

) イマゴウツツミ ハンドグチ 

ベンキンジャラ: 小さい小石がたくさんおちており、昔は子どもの遊び場だったという場所

ガメイシ:昔川の中に亀のような形の石があったという場所