佐賀の歴史と社会
〜辺田編〜
1MD06166G 渕上 愛
1MD06122Y 岡 優子
○ 聞き取り調査に参加してくれた方々
・ 池田 義孝さん(昭和生まれ)
・ 森 四郎さん(昭和生まれ)
・ 池田 薫さん(大正生まれ)
・ 広川 繁美さん(大正生まれ)
○村の名前・地名・しこ名一覧
私たちが訪れたのは、辺田という地域でした。そこの地名を列挙します。
<川>
・ 塩田川
※雨で水量が多くなると、誰がその過酷な状況で一番に川を泳いで渡れるか競争していたというエピソードのある川です。また、この川にかかっている今川橋から飛び込みをしていたそうです。
・ 流海川
※ここでも泳いでいたそうです。
<渕>
・ ハンドグチ(別名:ハンドブチ、ハンズーグチ) (半戸口)
・ フロマン
・ イチノハネ(一の跳ね)
・ ニノハネ(二の跳ね)
<岩>
・ ガメイシ
この岩は、塩田川の中にあり、泳ぐときにこの岩の上からもとびこんでいました。
・ ニキャ−イワ(二階岩)
<井堰(井手)>
・ センゴク(千石)
・ メクラオトシ(盲落とし)
・ ガンダラ
・ ウマンジュ(馬集)
・ ツカハラ(塚原)
・ カントウ(関東)
<堤防(デー)>
・ ヨコデー(横土手)
・ マツノキデー(松ノ木土手)
・ コウラギデー
<田>
〜湿田〜
・ ショウタイチ
・ ユッタンポ
・ ジッタンポ
「湿田はいけんのよねぇ。今は土地改良されとるけん、無かばってんね」(池田さん談)
〜乾田〜
・ コウチセイ(耕地整)
・ イチノカク(一の角)
・ ニノカク(二の角)
・ モチガク
・ ミゾアライ(溝洗い)
・ モイゾー
・ サギノウラ(鷺野浦)
・ カクダ(角田)
・ ゲンゾー(源蔵)
・ ヒラセ(平瀬)
・ ホウデンジ(ほうれん寺)
・ イマガワ(今川)
・ ウーゴモイ(大籠)
※ウーゴモイは田んぼの名所です。
・ フチノウエ(渕ノ上)
・ クボ(窪)
・ タカダ(高田)
・ チャーバル(太原)
・ ハシモト(橋本)
・ タケンウチ(竹ん内)
・ カワダ(川田)
・ イチンモイ(一ノ森)
・ ショウタイチ(別名:シオタイリュウチ)(塩滞流内)
・ アカダ(赤田)
・ ヒャクダ(百田)
百田の地名の由来は、狭い田が沢山集まっていることから。
・ ヤナギハラ(柳原)
<谷>
・ クウラダニ
・ ウランヤマ(ウランタニともいう)(浦の山)
・ シンジャコダニ(新坂谷)
・ ネズミダン(鼠谷)
・ ミヤンダン(宮司谷)
※ミヤンダンから二つの谷に分かれます。一つはホンダニ(これは林道です)、もう一つはコダニです。
・ ゲーセダニ(玄盛・玄清)
・ イチンタン(一の谷)
・ フロンタン(風呂谷)
・ クラタン
・ ゴンゲンダン(ゴンゲンダニともいう)(権現谷)
・ ミロクダン(弥勒谷)
・ ネズミダン(鼠谷)
・ イチンタン(一の谷)
・ コミゾナシ(小溝無し)
・ シオダン(塩谷)
・ マエンタ二(マエンタンともいう)(前ん谷)
・ トーキ
・ イチノコチ(一ノ河内)
<畑>
・ ジッチョウ(十町)
・ ネズミダン(鼠谷)
※ ネズミダン(鼠谷)は、畑と田が混在しているところですが、畑のほうが多かったそうです。
<峠>
・ ジュウオウトウゲ(十王峠)(ハシヤマトウゲ(橋山峠)ともいう)
<道>
・ 長崎街道
※長崎街道の宿場は「屋敷」というところでした。
・ 電車道(大正4年〜昭和7年まで電車が通っていた)
※停留所だったのはテイシャバ(停車場)という所です。
<水路>
・ コモゼ
○ 当時の生活について
<夜這い>
昼ごはんの談笑の中で、夜這いについて聞いてみました!ニヤニヤしだす四人の男性陣。池田さんが「それは先輩方が知っとらすやろう」と、さんにバトンタッチ。
〜夜這いについて〜
「あの地区に年頃の女子がいる」と聞き、ただそれだけで遠く離れた土地まで後輩(下駄持ち役)を連れて歩いていく。
その途中で、みかん・干し柿・漬物・大福をほかの家からこっそり頂く。
夜這いの本来の目的を果たさぬまま、余興で終わることが多かった。
※ 夜這いに失敗したとき
夜這いに行った家の主人に見つかり、追い返されたときは、そこの主人
に仕返しをしていた。例えば、次のような仕返しをしていた。
・ 家の玄関に小便田桶を置き、主人が外に出るとひっくり返し、小便が主人にかかるようにする。
・ 馬や牛の小屋の入り口をあけ、逃がす。
それらを聞き、驚く私たち女性陣。そんな私たちに対し、「夜這いするために夜道を歩くけん、火事見つけたり、泥棒つかまえたりしよったけん、夜這いは良かこったい!」と声を大にして言う男性側。
私たちは、夜這いは実は当時の女性にとっても楽しみの一つであったのかもしれないと思いました。全員ではないかもしれませんが…。
「まぁ、夜這いとかは、全部先輩から教わりょったねぇ。寄り合い所で集まったときに酒もたばこも大人がやることは全部先輩から聞きよったったい。」
「先輩が言うことは絶対で、年功序列やったもんね。先輩があの家に夜這いに行
けち言ったら絶対行きょったもんね。」
夜這いは、青年宿で先輩から伝えられるものの一つであったようだ。青年宿ではその他に、煙草・酒など、世間一般の大人がするようなことを覚える場であったらしい。
年功序列は会社の中でのイメージがあったが、当時は生活の中にもあったのは意外だった。
<もやい風呂(もや風呂)>
話はもや風呂の話へ。男性四人はさらに盛り上がって話してくれた。
渕上「もや風呂ってなんですか?」
―「共同風呂のこったい!」
渕上「共同って…もしかして男女共同じゃないですよね…?」
―「共同に決まっとろうもん」
渕上・岡は驚愕した。
男性たちはさらに盛り上がる。
「下着が誰のかわかりよったもんね。キャーフ(女性の下着)が落ちとったら“このキャーフはあそこの奥さんの”っちわかりよったもんね。」
渕上「男女共同なんて絶対嫌ですよ!」
―「それがあたりまえやったったい!」
渕上「女の人たちは恥ずかしいとか思ってなかったんですかね?」
―「それが普通やったけん、誰も何ち思とらんよ。」
渕上「それじゃあ見まくりですよね?」
―「そうたい!もや風呂に長ーおりたかけん、井戸端会議しよったよねぇ!」
「しよったしよった!!」
「足音で誰が近づいてきよるかわかりよったもんねぇ!」
ショックを隠せない私たち。
「でももや風呂は良いとよ。地域の子供をみんなで世話しょったもんね。」
「やけん犯罪とかがなたったとやろうね」
確かに、今の世の中は、地域の人たちとの関係が希薄になってきているように思える。実際、地域人々ののつながりがもっと深ければ防げたであろう事件も多々あり、昔の良さを激しく感じた。
次にもや風呂の支度の仕方を教えてくれた。
〜もや風呂の支度(当番制)〜
燃料に使うのは、麦わら、へご、薪である。燃料は、使うまで山に置いておき、使うときに“おおこ”を使って運ぶ。
水は川から汲んできて、風呂釜にバケツで20〜30杯必要だった。
※ もや風呂に入るときは火傷しないように底板の上に乗る。
昔は、移動手段はほとんど徒歩で、ガスもなかったので、風呂に入るだけでもこのように大変な思いをしていたのだと知った。今は風呂をわかすのもガス、水も蛇口をひねれば簡単に得ることができるので、とてもありがたいと感じた。
<炭焼きの仕方>
まず、原木を1mくらいの長さに切る。
※ 原木に適するのは、樫の木、まつずみ、竹である。
「まつずみは鍛冶屋が使うとで燃えやすいったい。樫の木とまつずみは別にして燃やすとたい。」
釜で半生になるまで燃やす。燃やす途中で密閉し、空気の逃げ道を作る。
炭が完成したと判断する基準は、煙の量か、煙の上にマッチをかざし、マッチに
火がつくことである。
炭は大体4日で完成する。
※ 炭の頭があまり焼けないことがあるが、それを炭頭(すみがしら)という。
炭を途中まで使って1回冷やし、また使うことを消し炭(けしずみ)といった。
炭は燃料としてだけでなく、湿気を取るためにも使われた。
「昔はなんでも大切にしょったけんね。今は何でも使い捨てやろうが。」
昔は何でも“職人技”に近いものがあって、例えば上のような、炭が完成したときの判断など、今のような機械などを使った便利さが無い分、技術を要したのだと感じた。
また、今は何でも、お金を出せばすぐに手に入るが、やはりそれでも昔のようにものを大切に扱わなければならないなと感じた。
<ド引き(ろ引き)の牛と馬>
ろ引きの牛・馬を使うのは・・・?
・ 材木を山の上から下ろすとき
・ 田んぼを耕すとき
馬や牛の使い方はこれだけではない!
糞も肥料として使っていた。
「あんたたち、馬と牛の糞の違いがなんかわかるね?」
全く分からず頭をひねる岡・渕上に対し、笑いながら教えてくれた。
「馬の糞はころころしとって、牛の糞はベチャっとしとるったい。」
(馬の糞のほうが高級なのかと思っていました。)
また、驚くべきことに、人糞も使われていたのである!
人糞が使われたのは、昭和30年頃までであるが、人糞を使うためになされていたことがある。それは・・・
“回虫”という人体寄生虫を体内で養っていたのである(この卵が肥料には必要だった)。もちろんであるが、嫌だったそうである・・・。
昭和30年頃をすぎると、人糞を使わなくなったため、その回虫も「お役御免」となった。そこで当時の人々は、回虫とおさらばするため、回虫駆除薬である海人草を飲み、見事体内から回虫の存在を消すことができたのである。
<スラ・キンマ>
薪を山から下ろすときに使った。 3人組みで役割を決めて(右・左・後ろ(前)担当)使った。後ろ(前)担当の人は、綱を引く仕事をした。山を下るときは後ろ、平地や山を登るときは前にまわって綱を引いていた。 「こりゃぁ大変やったなぁ!1日に2往復しかされんやったもんね。」
<辺田ならではの特産品>
● 昭和初期
・ 米
・ すいか
・ 繭
・ 松茸(昭和40年頃まで。松くい虫のせいで赤松が枯れたため。)
・ 手長エビ(川エビ)―ハンドグチで獲れた。
・ うなぎ
・ 鮎
・ つがに(やまたろうかに)―さるかに合戦のかにらしい。
● 現在
・ イチゴ(とよのかいちご)
・ ゴーヤ
・ インゲン
・ キュウリ
・ 小ねぎ(朝倉ネギ)
※ちなみに
工芸品として、大正7年〜昭和30年で有名だったのが美野焼きである。
美野焼きに関して有名なのは、桟継雄で、染めつき食器を製造した人物である。
<行商>
長崎の彼杵(ソノギ)から行商人が来ていた。
長崎からはるばる来ていた行商人が売っていたものとは・・・
●クジラ
●塩いわし
●塩さば
●クラゲ
※当時塩は配給で、手に入りにくい高級品であった。
<海産物の獲り方>
●うなぎ
上りうなぎは“てぼ”で、下りうなぎは網で。
●鮎
普通に釣るか、たわあみ漁で。
●カニ
籠漁と梁で。
<戦争について>
広川さんが経験された戦争の話について少しばかり伺ってみました。
「昭和16年に南満州鉄道株式会社ができたったい。おどんが入隊したんは19年の4月1日で、武装解除されたんは20年の8月20日やった。おどんは捕虜として3年間ロシアに行っとったったい。ロシアのコッカ(黒河)から、ブリアートモンゴリー州のウランウデーちゅうとこにね。ウランウデーはバイカル湖の近くたい。で、3年間収容されて、共産主義を習わされたと。いわゆる洗脳たいね。赤の教育っち言いよったんよ。そいで23年の10月2日にナホトカから船に乗って舞鶴に上って帰ったったいねぇ…。」
※美野地区で戦死された方々の人数
南 6
辺田 10
谷 18
熊野 10
合計 44
このお話は最後のほうにお聞きしたため、時間がなく、あまり多くをお聞きすることができず、とても残念です。しかし、月日を正確に覚えておられることから、60年以上経った今でもまだ戦争の記憶は深く刻み込まれ、とても辛いという言葉では表せないであろう、私たちの想像を絶するご経験をなさったのだろうと思いました。そのような戦争を経験された方の生の声を聞けたことは本当に貴重な体験であったと思うし、本当はもっとたくさんのことをお聞きしたかったです。これから先、もっと“戦争の記憶”というものが薄れていくと思うので、私たちの世代から、戦争の経験をもっとよく知り、それを次の世代に伝えていかなければならないと思います。だから、戦争を経験された方々にとっては、思い出したくない、口に出したくない経験であるかもしれませんが、語っていただきたいと思うし、私たちも意識的に耳にし、感じ取っていきたいと思います。
<昔の遊び>
『遊びは全て外!!』
『おおかん(往幹)で遊べ!!』
(おおかんとは主要道路のことで、車などはほとんど通っていなかったそう)
まず、これが昔の遊びのキーワードだそうです。
※遊びの種類
●メンコ(ペチャ)
●ビー玉
●竹馬
●もぐらうち
(農作物を狙うもぐらたちを土をたたいて追い払う)
●相撲
(ちなみにここには女相撲という伝統芸能が存在したらしい)
○最後に
今回、辺田の区長さんのご自宅にお邪魔させていただきました。想像していたよりはるかに多くの昔についてのことをお聞きできたので、驚きつつ、良かったと思います。昔は本当に羨ましくなるほど良い時代だったのだと話を聞いていく中でひしひしと感じました。今の時代は機械などに頼った生活をしており、自分でしないと生活が成り立たないというようなことはほとんどありません。昔であれば、例えば水を川まで汲みに行ったり、燃料を得るために炭を作ったりして、自分たちの体を酷使して生活を成り立たせていました。そうかといって、辛い、きついだけでなく、毎日を楽しんでいるようで、まさに「古き良き時代」を垣間見たようでした。
近所の子供をみんなで世話するという、今ではほとんどあり得ない状況も、本当に良いものだと感じました。前述した通りで、繰り返しになりますが、近所づきあいがもっと深ければ、今、毎日のように起きる事件も少なくなるように思えるからです。
「昔を知り、今を知る」とはまさに今回の調査のことであり、このような機会を得ることができた私たちは幸せだったと思います。私たちがこの調査をする中で感じたことは忘れたくないし、忘れてはなりません。
日本の将来は私たちの世代にかかっています。これからは“昔”をもっと意識して生活していきたいものです。