070114嬉野市塩田町五町田地区

 

調査者:1EC06177R大島健司、1EC06191Y古賀裕久

話者:松尾正八郎(まさはちろう)さん(88歳、大正8210日生まれ、)

 

 

114() 11時半塩田町到着。バスを降りて「和泉式部幼少の町」という看板を見つつ老人ホームを目指して二十分ほど歩いた。近所の人に松尾さん宅の場所を尋ね、12時にやっとのことたどり着いた。

縁側で挨拶をした後、家に上がらせてもらうと私たちは驚かされた。そこには付箋の貼られた地図とたくさんの資料が準備されていたのだ。

松尾さんは「他の地区の担当者は校長先生ばっかりやもんね、私は農家ですから()」とおっしゃられたが、太平洋戦争体験記の作成や塩田町の歴史の記録をなさっておられるため、多くの詳細な情報をいただくが出来た。

また、少年航空兵の試験を受けた話や、山本五十六の艦隊にいて一緒にミッドウェーにも行った話、海軍は戦争に乗り気ではなかった、釜炊き優等賞を貰った、ガダルカナルで飛行場をつくった、といった松尾さんの個人的な話もたいへん興味深かった。

 

 

<アラコ>

「川の曲がるところにアラコちゅうのがある。石垣を積んで向きを変えるわけ。」

「昭和初期に構築しとる。河川改修の一環としてね。」

 

<井手神>

「普通は水神さんだけど、ここは蛇の神さんになっとる。蛇にいわれがあって、どうして井手神さんは蛇になったのかとゆうなことの平安時代からの伝説を私は書いとる。普通の水神さんと違って土木事務所も蛇の神さんちゅうたら丁重にしてくうわけ。ちょっと崇りがあると。」

「お祭りがあるんですか?」

「お彼岸に。秋の彼岸にお祭りがある。部落の水利委員が、各部落に3人ずつおっけんね、お礼を言ってから一杯飲むと。六角水利委員会ちゅうのがあるから、このへんの部落全部たいね。」

 

<水害>

「けっこう氾濫したんですか?」

「終戦後一番大きな水害は78水害で、自衛隊の応援が来て、7日に洪水が来て15日まで自衛隊の応援があって、やっと自動車で通われるていうような状態になった。そいでここは激甚特別対策事業で川幅を広げて河川改修箇所を1メートル下げて、それから全部井関がテント井関になった。それからは浸水はない。それまでは年に3回位は浸水しよった。」

「このへんは湿地なんですか?」

「湿地じゃなか、川のほとりやけんね砂地。水はけはよかった。」

 

<山王社>

「これは新山神社、神埼の、山の神さんていう。山王ちゅうのは部落の農作物の守り神さんたいね。そいで結局昔の神社ちゅうのは、こういうふうな神さんを崇めて一杯飲んで親睦を図るというのが、この部落の祭り。ただ漠然と飲みよるわけにいかんから。何か信仰の中心になるものがあらないかん。」

 

<和泉式部伝説>

「こいも伝説で、大黒屋敷ていうものはここであろうという。伝説は杵島の福泉寺で生まれて、生まれたときも、事実か知らんけれど色々説があんもんね、猪の子であるとか、鹿であるとか。そういうなことで大黒丸が子どもがいなかったから願を掛けたと、そしたところが夢物語に、福泉寺に赤子がおるからもらいに行け、と。そしてここに9歳までおったと。そのころに歌詠みが上手であったとかなんとか。9歳ぐらいで『君が望むその木の綿は川瀬住む 鮎の〜なんとか』て実際したかちゅうことを考えたら、ねぇ(一同笑)。そして京に行って、結局親の恩を忘れんで親に会いたかったら東北に行かんよね。しかし和泉式部は東北で死んどるもんね。だいたいわざわざ宮使いをやめて両親に会いたかったなら九州さ来っさ。人間としては。」

「福泉寺の話では和泉式部は猪の子だから足の指が2本だったと。そいでサンヤシロというところで大黒丸夫妻が子どもを見たら足がこうしていたと、ちょっと気持ち悪かもんね誰でん。そいでサンヤシロで一晩明かした後連れて帰るか悩んだわけ。顔は愛らしい顔をしとるもんじゃけんね。一晩でもいたら愛が出て、そして布を巻いて連れてきたというのが旅の始まりて、こういうぐあいに話をもっていくわけたいね。そして結局はここに来てそういう才能があるもんだから偉い人から見初められて京都に行ったと。あの人は実際は5人か7人か婿さんをもっとるもんね。そしてだいたい全部死んでしまうわけでしょうが。それで結局猪の子だから性的には強かわけ。そういうふうなことじゃなかろうかと話をする人はするわけ。なんも事実を証明する人間もおらんしね、言うたもんが勝ちじゃもん。あんたたちも私から聞いてこうじゃったと言うたらそうなる()。そいぎ結局は“だろう”というなこってね。そいけん私がそこに、三宮、大黒、このへんに橋があんもんね。それば『大黒丸橋』てつけたから私が反発しよるわけ。昔は『三宮橋』てゆうはっきりした場所もあるし三宮さんてゆう祠があってそこの畑があるから私たちはぜんぶ三宮て言いよるわけ。そいけんそれをわざわざね『大黒丸橋』てつけんでもいいじゃないかと言いよる。『大黒丸橋』て今までは和泉式部公園の地域の活性化の問題でこういうふうなのをつくったわけですよ。」

 

<馬捨山・博労>

「これは誰でん知らんもんね。牛も捨てよったばってん馬はようけおらんだった。牛ば野つなぎするわけたい、草を食べるから。堤防とか溜池の土手に杭を打って、しっかりうっとかんと逃げるけん。そのとき手綱と足ば巻くときがあるわけたい、引っかかるわけ、慣れたとはうまいことして外すばってん、慣れんとはびっくりして暴れるわけたい。蹴るもんだから鼻からひっついてくるわけたいね。こんどはごろっところんだら川ん中、溜池に入るったい。ふとかけんいっぺん入ったらもうダメやもん。処置ばしわれんわけ。重量はあっし、綱で引っぱっとっけんね。そいでそのままお陀仏()。それを自分が家畜としてこうとった牛を食べとうはなかわけやろがね。そん時分は魚や鶏ぐらいしか食べんとやけん。結局処分に困るから役場に申し出て、ある一定のところに埋葬すると。」

「土葬ですか?」

「土葬、土葬。そいけん一箇所にその村全部をするから骨自体が露出してくるわけ。場所知ったもんのおらんけんね。このへん何坪か10平米ぐらい谷のとこに、ちょっとここだけに捨てるというときもあったもんね。今は馬捨山てゆうたけんて今の子どもはもうわからんね。」

「それは何年ぐらい前まで?」

「大体終戦後20年ぐらいまで。そのころから耕運機がはやってきたけんね。それから牛飼うものはおらんごとなった。今はいない。大きな牛を飼わんと値打ちが上がらんから。小さい牛もおるわけたい。作が小さい人は小さいのを育成して自分でつこおて農作業に馴らしてから高う売るっと。」

「博労さんですか?」

「博労(ばくろう)ちゅうのがおったわけ。」

「博労さんは自分で育てていたんですか?」

「いやいや、農民が育てていてこれを買い上げて。私んとこに持ってきてくれて言うたら金ば出さないかん。私んとは老いぼれのやけん、肉にしても固かもんね。よく育てた人はこんどは金ばもろうてよか。お互いの連携とりながら昔は農家は生活しよった。」

「博労さんは口がうまいって聞いたんですが。」

「そうそう。結局は口で言わんもんね。袖下でやってる。わがたちは暗号で知っとる。人前でも袖でこうして。安したばいてゆうた風評をせんぎ相手が騙されんけん、おいが儲かるごとしてくいないばいの、て信用するわけたい。そいぎ安かっても高かっても『あんたの言うないばそやしこ努力してくうたいね、あんたのようにする』て。世の中今も昔も変わらん(一同笑)。そいで加勢すっとのおんもんね。私が博労やったらあんたたちが『あの親父はあんたのこいじゃでけんばい』てゆうて、そいでお茶どん飲みながら。どっち加勢するもんかわかんもんね。そいで日当ばもらう。博労はそいが分は掛けとっくさ。そいと山の入札なんかもおんなじ。」

 

<釜ノ口>

「直澄公がこの吉浦神社の祭神に隠居されたもんね。隠居されたときに、あの人は朝鮮征伐のときに陶工を何人か連れてきとんさんわけ、鍋島藩のね、あの焼き物つくり。結局ここに庵をつくって隠居されたから。そこで窯焼きをつくろうということで思い立たれたけれども、やっぱり立地条件がいるよね。窯を構築するには赤泥が要るわけ、ネバネバする。で、このへんは火山灰泥、灰泥と言うばってんね。そいで窯を作ろうとしたけれど赤泥がない、ということで名前だけ残った。」

 

<水利>

鹿島市との契約で問題が未だにあるとのこと。

明治に結ばれた契約では問題はなかったのだが、昭和38年ごろの契約で問題が発生。

松尾さんも悲しんでおられた。

「契約書なんかは慎重に、外交でも何でもね、ひとつ間違うたらおろたえる。真剣にやっていかな。この人たちはようやってくんさったばってん、明治時代までは意志を継いで。その後が、昭和の時代の役員がでたらめやったわけ。勉強せんでたいね。内容がわからんもんだから。」

 

<溜池の水>

「池に水を溜めるのは冬ですか?」

「冬はモグラが穴ほがすさい。そいけんじゃろと思っとる。水のたまっとったらほがしきらんでしょうが。私はそぎゃん解釈しとる。」

 

<川の生き物>

「フカミの溝はコンクリートですが…」

「だいたいこれが一番いかんとたい。魚介類の絶滅の原因。」

「昔はどのような生き物がいましたか?」

「昔はこのへんもね、めだかが泳ぎよったもん。今はもうぜんぜんおらん。」

「ドンポツ橋にハゼは?」

「おらん。今は橋の下は全部コンクリじゃろ、カニもおらん。」

「どういうカニですか?」

「毛の生えたふとかカニ。」

「食べてらっしゃったんですか?」

「おいしかった。」

「どうやって釣るんですか?」

「網を杭を打ってつけて横から。山の上の田んぼのは青色しとった。谷川の水はきれいかけんね。ないどん、ぎゃんとけ来たとは泥色たいね。保護色じゃろ(一同笑)。」

「昔は溜池んところに石垣をつんどるわけたいね、土用うなぎてあるじゃろが、そんとき45匹ぐらいとるる。今はおらん。」

「いつぐらいからいなくなったんですか?」

「だいたいね、ホリゾールすっころまではまだ良かった。」

「ホリゾール?」

「ホリゾールて農薬。あれから魚が減ったね。それから三面コンクリでしてしもた。それから。」

 

<農作業>

「農薬を使う前の農作業は?」

「牛、馬だけたいね。佐賀地区は馬は農耕用に使うもんね、田んぼには。しかしこのへんは馬は荷馬車、荷馬車引かせよった。トラックの代わりたいね。耕すのはだいたいこのへんは牛じゃった。馬は速かばってんね、馬は飼うのに手のいっもん。牛はほったらかしとってもよかないどん。」

「蹄鉄を打つ人はいたんですか?」

「一部落にこのへんやと一ヶ所あった。塩田町に何軒ぐらいあったかね、45軒ぐらいありゃせんやったろかな。」

「部落ごとに一人ですか?」

「部落ごとやなかね、馬の頭数が少なかけん。牛なんかは爪ば切らんばなんもんね。外に出しとったら爪が自然的に磨耗するけんども、牛は藁ん上ばかりでしょうが。」

「肥料は?」

「肥料はやっぱいね、有機質の堆肥を使わんといかん。特別栽培ば息子がしよるばってん、堆肥ばうちで作りよるったいね。発酵剤入れて、籾糠に。」

「松尾さん以外に今もやられている人はいないんですか?」

「結局ほら、生産コストを下ぎゅうで。そいと専業農家がおらんでしょうが。昔は牛を飼いよったけんね、その下の糞と敷き藁をぜんぶ一年分つみこんでそいが肥料やったわけたいね。今はそがんとすんもんおらんもん。そいけん有機栽培の農産物しか買わん、てゆうごとなったらだいでも作ろうばってんね。今は自家製の堆肥のなかたい。」

「やはり少ないんですか?」

「このへんでしよるのはうちだけね。」

「昔はみんなそうだったんですよね?」

「否が応でも溜まるわけたい。牛ばこうとるけんね。一年中飼料ばたぶっけん糞の溜まる。」

 

<山>

「草山、草切り山はありましたか?」

「このへんはね、植林関係で、廃藩置県の時に藩主からもろた山の植林しよるけんね、草の生えた山ちゅうのはここはなかった。ぜんぶ模範林のような姿やったね。そいがもう今は木材の価格の低迷でぜんぶ荒廃してしまいよった。」

「荒廃する前、炭とか焼いたりしていたんですか?」

「いや、炭なんかやない。用材ばかい。このへんの材木は一番良かったとやもんね。」

「杉ですか?」

「杉、そいから松ね。松の木はだいたい炭鉱の坑木に使う。生長が速かわけたいね、松が。松が半分ぐらいあったね昔は。」

「赤松ですか?」

「だいたい赤松ばってん。そいぎ松山の後はぜんぶ檜になったね。松食い虫でやられて。今はもう松の木見たってなかもん。」

「赤松があったってことは松茸も?」

「このへんはあんまい地の良かったじゃろ。あんまり良かったらいかんごたんね。そいけん広島なんかは赤松ばかりでしょう。そいで岩じゃんもんね。痩せとらんぎな。」

「山から採ってきたりしたものは?」

「山から採ってきたものねぇ。特産てゆうごとなかよ。結局昔は山を切ったら、焼いて、そいから芋、さつま芋をしてから、そいから木ば植えよったもんね。焼畑関係ばしよったもんね。そいで、(右手を少し上に挙げ空を掴むような仕草をしながら)『しょうこんよみがえりてわらびのじゅうけんくうをつかまんとす』てあっじゃろが。」

「な、何ですか、それは()?」

「山を焼いたらさ、わらびが出てくるたいね。結局、山を焼いたらわらびのじゅうけん、てゆうことは、わらびの若い芽がこう空(くう)をつかまんとす、て言うてね。国語の本にあったばい。『焼痕蘇りてわらびのじゅうけん空を掴まんとす』て。」

「木の実とかは?」

「いやぁ、木の実はあんまりなかったねぇ。だいたいもう人工林ばかいやっけんね。自然林やもんね、椎の実とかなんとかああゆうのは。そいと昔は薪とりよったでしょうが。共有林の加入者だけしか山に登ることなかったもんね。日にちの決まっとった。そいぎ130人がかたっとても、後の100人以上はかたっとらんわけ。」

「かたってない(加入してない)人はどうやって薪を?」

「買わんばならんたい。この山を売ったら山師が買うわけでしょうが。山を売るときがまたおもしろかもん。山に詳しか博労のごたっとがおるわけよ。こう見て『ここはいくら』って目測で決むるわけじゃろが、案外当たっとったりする。プロやっけんね。そんなのがこの部落に3人ぐらいおったもん。どの部落にもそんなのがおっと。博労のごたっとの。だいたいこんくらいあっばいと予告して、今度は競争入札をさせるわけ。そいぎ今のあぎゃんとやないどん、あの…」

「談合とかあるんですか?」

「談合があるわけ(一同笑)。昔は談合あったもん。よかごとゆうて。山師が『まちかっと安うおいがしてくっけん、俺にいくらか銭やらんかい』て()。部落でその人を信用しとるわけやろがね、その人のおらんとでけんとやっけん。部落のもんは高うがよかじゃっけんね。そがんとのおらんぎ世の中は構成のでけんね、中を取り持ってくるるもんの。昔からそぎゃんとのおっとばい。今でこそ官庁関係でもなんかて。」

 

<食糧難>

「終戦後食糧難はありましたか?」

「とにかく私どんの食ぶる米の無かったとよ。百姓しよって。今は減反しよるばってんね、あの頃は肥料もなく米も取れよらんで、自分の保有米を出さないかんやった。出さんぎ脅してね、徹底的に出しよったと。自分たちは米を余して、今度は高う売るわけたいね。そいけん闇米のあったもんね。」

「どのような取立てでしたか?」

「前もってからね、事前割当やん。あんたたちはこいしこ出せ、と。そいで米がでくる前から前渡し金ちゅうてその米の二割ぐらいの金ば持っていって。」

 

<夜這い・青年宿>

「夜這いはありましたか?」

「夜這いはあったくさ。それは終戦後もあったはずよ。私は満の14歳で卒業したわけ、小学校ば。昔は少年学校・小学校ば終えたら青年学校に行かんばやった。軍事教育ば。それで行くにも、今度は部落にも青年クラブてあったさい。青年団だけが寝泊りする。青年宿。そこに入らんぎいかん。そいぎ上の若者夜這いにいくわけやろが、そいけん下駄持ちで行かんばならん。私は少年航空兵を志願しとったもんだから、私のおじが塩田の町長ばしよったわけ、昔の町長はあんまり何もせんで名誉職やった、ステッキどんついて着物着てね。そいぎ青年団の青年宿に行くぎ勉強が出来んでしょうが。そいでその町長に頼んで、飛行機乗りば志望させよるけん青年宿ば免除してくいろと。そいでん下駄持ちば何べんじゃしたばってん勉強が大事やもん。」

「同じ部落の人のところにはいかないんですか?」

「自分が好いとったらだいでんたい(一同笑)。ところが予約ばしとかんば。行く相手の親がすかんぎばい、親が監視するわけたいね。」

「じゃあ松尾さんは夜這いに行ってないんですか?」

「うん、下駄持ちで何べんか行ったばかい。」

「青年宿は五町田だけですか?」

「他部落には他部落の青年宿に行って。かねがね部落のお互いの付き合いがあって、嫌わるっぎりゃ行かれん。」

「部落ごとで争いなんかはあったんですか?」

「争いはしよらんね。しとったらどこもかしこも行かん。わがひとり下駄持ちどん連れて行かんばいかん。先は、私は行たことなかけんばい、先はどぎゃんしよっとか知らん()。昔はね、一人娘で、子を囲って寝るわけたい。娘も40代もあんまい変わらん。そいぎ親に行ったりして帰ってくるもんもおった()。」

 

<電気>

「五町田に電気がきたのはいつですか?」

「電気がきたのは、私が大正8年生まれだから、大正末期やなかろうかね。私は隣村ないどん、私んところは一番最終点やったもんね。そいぎ電気のきとるちゅうてそれは珍しかったばい。ろうそくばかり見よったとんの。それまではランプやったけん。煙の出らんとね。そして夕方点いて朝消えよったもん。そいぎ『電気の点いたけんはよ帰らんば』て言いよったわけ。ちょうど今の5時の時刻のあれとおなしことたいね。」

「ラジオとかはいつ入ったんですか?」

「ラジオねぇ、ラジオはそれこそあの町長さん、おんちゃんがたがね一番部落で早かったもんね。たっかところにアンテナば付けてさい、そいけんそれを私はかせに行きよったけん。昭和8年ね、その頃はラジオば聴くぎにゃご馳走になりよった(一同感心)。いつも聴かせられんと。ラッパのぎゃんふとかとんついてね。」

 

 

<しこ名>

ウツボガタン(ウツボヶ谷:一番大きい)

ノウノマツ(ノウの松:直径2メートルの松の木があった、松食い虫にやられて今はない)

カキノキダン(柿木谷)

ザシキイワ(座敷岩:上で10人ぐらいが弁当を食べられるほどの大きい岩)

コロビダン(コロビ谷)

コウセビダン(コウセビ谷)

ザラダン(ザラ谷)

シンペイダン(新平谷)

ウーヒラ(大平)

シロヤマ(城山:城があったと言われているが遺跡はない、松尾さんは平らなのでのろし場の跡ではないかと推測)

モミタケカンノンデラ(籾岳観音寺跡)

イデカミ(イデンカミ、井手神:蛇の神様が祀られている)

サンノウシャ(山王社:神埼の新山神社が関係している、部落の農作物の守り神)

ユウカンデイ(ユウカン堤)

ナガフシ

フカミ(昔の子どもの泳ぎ場)

コエノウラ(昔の堤防の跡)

サノミヤバタケ(三宮畑)

ジゾンデイ(地蔵堤)

シモガワラワタシバ(下川原渡場)

フキアゲ(吹上)

アマガハシ(天ヶ橋:イボを治す神様、今の子どもは知らない、石がある)

ヨコイデ(横井手:水路が横に分かれる)

イチノカク〜ロクノカク(一ノ画〜六ノ画:今では詳細な範囲はわからない)

ウマステヤマ(馬捨山)

ゲンチョウバシ(ゲンチョウ橋)

クラトコ(倉床)

ヒロタン(広谷)

キョウヨミダン(教読み谷)

ミゴコロ

カゴダンゴエ(カゴ谷越:昔はこの道を通って隣の部落を行き来していた)

トントンザカ(トントン坂:五町田小学校の下の急な坂)

カマノクチ(釜ノ口:直澄公が窯をつくろうとした)

バイチャオウ(売茶翁:表千家・裏千家以外の一般の人のためのお茶)

ドンポツバシ(ドンポツ橋:昔はハゼ(ドンポツ)がよく捕れた)

ジック(十句:和泉式部が歌を十句作ったとされる場所、小さな田)

ハチマンヤマ(八幡山)

ウメダン(梅谷)

クロボシ(黒星)

キツネビ(キツネ火)

フカタン(深谷)

ナガタン(長谷)

ホンタン(本谷:城山の下)

コダン(小谷:城山の下)

カッダイワ(カッダ岩)

観音谷丁石(首のない地蔵がある、神仏分離)

カメサンヤシキ(亀サン屋敷)

フルヤシキ(古屋敷)

ミョウケンサン(妙見さん)

ミョウケンヅツミ(妙見堤)

エンノギョウジャ(役の行者:忍者の守り神、石がある)

ロクジゾウザカ(六地蔵坂)

スギババ(杉馬場:今では使われない地名)

オオウラ(大浦)

キンザンアト(金山跡:昭和10年頃まで黄銅鉱が出た、素人は金と間違えた、山師がいた)

植林記念碑(廃藩置県のとき武士に与えられたが、共有林になった、後に所有問題が発生)

シシノミダン(シシノミ谷:平地、猪が水を飲みにくると言い伝えがある、農作物被害があり猪には困っているとのこと)

ザッシャダン(雑社谷:直澄公の火葬場の跡、遺骨は三分され一つは吉浦神社に)

ハンジャーダン(ハンジャー谷)

シバヤマゴンゲン(柴山権現:売茶翁のところ、ほこらがある)

フナツ(船津:川沿いの船着場、五町田と袋区の境)

 

 

<調査を終えて>

この歴史と社会のレポートの作成を通じて得たものは机上の学問のみが勉強ではないということである。現地に赴き、その土地の人々に出会い話を聞き、その土地を実際に見ることは、教科書や教授の話を聞くだけの学問などよりはるかに強く印象に残るものである。また、現地の人と接して話を伺うということは、コミュニケーション能力を高めるという点においても大変価値のある経験であった。

また、地図に載らない地名を調べるということは、消えていってしまう可能性のある地名、そしてそこに残る歴史を助け出すことに他ならない。実際、話を聞きに言った先でも、その地の郷土史研究家の方が同じようなことをおっしゃられていた。しかし、すでに由来などが、風化してしまっている谷や地名などがあったことも事実である。人の記憶とは、時間によって簡単に風化していってしまう弱いものである。しかし、私たちが調べたことが、記録となって人の記憶を補完するものとなれば、きっとその土地の歴史は長くのこるものとなるだろう。