歴史と社会レポート 調査日1月14日(日)
経済学部 経済工学科
1EC05168W 小野 高啓
1EC05158T 井口 功太
私たちは、塩田町大字五町田甲2070番地にお住まいの織田 昌さんのお宅の話を伺いに向かった。バスを降りた後、地図を頼りに昌さん宅に向かったが初めての土地という事もあり、なかなか見つけることが出来なかった。そこで、地元の方に場所を教えてもらい、なんとか着くことが出来た。その際かなりの距離を歩いたわけだが、いたる所にきれいに整備された水路が広がりたくさんの田んぼが私たちの目に飛び込んできた。また、東酒造というかなり歴史のありそうな建物もあり、新鮮な気持ちがした。
約束の時間より1時間ほど遅れて昌さん宅に着き、申し訳ないと思っていた私たちを昌さんは暖かく迎えてくれた。昌さんは、現在苺作りを主にして生計を立てている方である。
挨拶を済ませ、本題に入ると、昌さんは私たちのために以前区長をしていた際にまとめたという五町田区のあざ名一覧表を私たちに見せてくれた。次の表はその一覧表である。
大字 |
字 |
面積 u |
五町田 |
観音谷(かんのんだに) |
5,839 |
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権現(ごんげん) |
3,865 |
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桜(さくら) |
310 |
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小路(くうじ) |
17,254 |
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吉浦(よしうら) |
8,559 |
|
笹谷(ささだに) |
17,298 |
|
一本松(いっぽんまつ) |
19,902 |
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上長屋(かみながや) |
17,595 |
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千堂(せんどう) |
58,935 |
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大黒町(だいこくちょう) |
37,185 |
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日千田(にちせんだ) |
9,186 |
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一本黒木(いっぽんくろぎ) |
13,446 |
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二本黒木(にほんくろぎ) |
24,666 |
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小畑(こばた) |
84,419 |
|
高城(たかしろ) |
37,087 |
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横井手(よこいで) |
86,216 |
|
前牟田(まえむた) |
46,007 |
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蔵畝町(ぞうせまち) |
25,049 |
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火ノ口(ひのくち) |
1,971 |
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立割(たてわり) |
19,729 |
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菰牟田(こむた) |
1,823 |
|
上川原(かみがわら) |
107 |
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下川原(しもがわら) |
1,465 |
注:面積は田んぼの面積である。
この表を参考にしながら昌さんは話を進めていったのだが、小路と呼ばれる場所が(くうじ)と呼ぶという点が注目すべきところであろう。以下は昌さんと私たちの会話である。
(小野・井口、以下:W) 今日はよろしくお願いします。
(昌さん、以下:M) よろしく。
W:まず、生年月日とお名前を教えてください。
M:織田 昌 昭和7年5月19日生まれです。そんでね、手紙にここら辺のあざなを知りたいっちゅう内容があったけんね、俺が区長をしてる時にいろんな資料を集めて作った字別耕作台帳ってのがあるけんね、もしかしたら役に立つんじゃないかと思ってコピーして持ってきたんよ。
W:ありがとうございます!この台帳は僕たちが頂いてもよろしいんですか?
M:うん。二部ぐらいコピーしたから、あげるよ。そんでね、これがね、観音谷、権現、桜、小路(くうじ)って言うんじゃけれども、これがね(しょうじ)、(こうじ)って書いて(くうじ)って読むんじゃけれども、くうじってのが、佐賀県のあれ(方言)かな?まあ、五町田区内にこれだけ字名があるんじゃ。んで、これがねあくまで耕作用の台帳になるけんがね、あんたたちのような歴史の調査に使えるかわからんけども、一応ね。
W:地図に載ってないあざなもこの台帳には載ってるのでしょうか?教えていただけませんか?
M:あるかもしれんね。これがね、田んぼの面積やけん家の建ってるところは田んぼが小さいけん地図とは違うかもしれんね。
(ここで地図を広げ、話は続いていく。)
W:地図上では昌さんの家はどこら辺になるんですかね?
M:うんとね、ここが火ノ口・・・それから二本黒木よね?二本黒木。ほいから、これが横井手、ほいで小畑・・・小畑ね。立割ね。これが・・南北山。これがそこの山じゃもんね。ほら、家の前にあるでしょ。(ここで部屋の窓を開け窓から見える山をさしながら)あれが南北山ね。
W:あれが南北山て言うんですか?
M:そうそう。私たちはあの山を三ヶ崎山(みかざきやま)って呼ぶんじゃけれども・・。
W:えっっ、あの山を三ヶ崎山って呼んでいるんですか?
M:それがね、三ヶ崎区ってのがねあるわけよ。この区がね、うちの区とは別の区があってね。この地図では、南北山って書いてあるね。福富山ってもかいてあるね。ほんでね、福富っちゅうのが別にあるわけよ。(昌さん、地図を指しながら)ここらへんが福富区って言うんよ。
W:三ヶ崎山とは距離があるんですね。
M:うん、うん、距離があるんじゃけどね。なんで、福富山って言うんじゃろうかって俺も思うんじゃけどね。だからね、うちがねこの辺になるのかな?これかな?(火ノ口あたりを指しながら)うちの裏が小畑やもんね。うちの裏が小畑って言うんよね。この地図って昔の地図よね?この塩田川がね、今は真っ直ぐになってるんじゃけども・・・。
W:はい、そうです。
M:そうやろ?あのねぇ、この辺ね、耕地整理があってね川でも道でも全部潰してね新しく作り直したわけ。だから、川も場所によってはないわけ。ほいで、大きな川は残ってるけど、小さな川は潰したわけ。ほんだら、田んぼを出来るだけ四角に作り変えたわけ。見てもらったらわかるけど、全部真四角やもんね。いわゆる耕地整理ってやつやね。水路なんかも、小さな水路はかなり潰して、大きく道にして・・・出てみたらよぉわかるんじゃけどね。かぽーんと。ちょっと外出てみようか。わかると思うよ。
(ここで昌さんと私たちはいったん外へ出る。)
(玄関のすぐ前の道を歩きながら)
M:この水路はコンクリなんかで固めてるけども、この水路自体は200年ぐらいになるわけ。これは、へたすると300年ぐらい経つのかもしらんよ。
W:じゃあ、昔はこの上に道があったんですか?
M:いやいや、道じゃないわけよ。これは、あっちの川から水をとるためにひいたいわゆる水路やね。道はこの辺にあったわけ。ほいで、これは昔からあった道。こっちはなかったわけ。
W:じゃあ、この辺は昔は田んぼだったんですか?
M:そう!田んぼやったわけ。それも今のこのように真っ直ぐなっとらんでね、むこうのほうに川もこう来とったのよ。ほんで、そういうやつ全部潰してしもうて、この通り一面真四角の田んぼにしてしもうたの。ほんでね、この水路は徳川時代からあった水路ね。
(歩きながら場所を移動して)
M:この川はね、昔からあった川。この川は。昔は田んぼも川も曲がりくねってたのよ。昭和35年ぐらいに耕地整理やったのかな?昔は鍬でしよったからね、曲がりくねってても良かったわけ。けど、今は機械でしょ?機械だとそうはいかんわけ。
(この後、以前川のあった場所を教えてもらい、家に戻る。)
W:それでですね、今の塩田川の形と昔の塩田川の違うとおっしゃてたんですが、いつぐらいに真っ直ぐになったんですか?
M:え〜とねぇ、今から20年ぐらい前かな〜?30年になるかな?とにかく耕地整理と前後よ。はっきりとした年代は言えんけども。
W:それじゃあ、それまでは頻繁に夏とかは川が氾濫していたんですか?
(当時のことを徐々に思い出したのか、昌さんは饒舌になっていった。)
M:そうそうそうそう。家なんかは年中そこまで水が来よったよ。そこの大きな川(塩田川)の堤防も何回か切れたよ。ほいでね、何十年か前に、この川の堤防が切れてね、とねりの部落が流されて何人も死んだよ。家も何十軒も流されたしね。う〜ん、さんぱち水害とかなんとか言うのかな・・・昭和38年かな?家も何十軒も流されて、そこから下の有明海まで流されたのよ。
W:季節的には、やっぱり梅雨の時期とかなんですかね?
M:う〜ん、梅雨の時期がいつまでって言うのかってことになるんじゃけどもね、だいたい8月が多かったね。
W:やっぱり、台風の時期とかと重なるんですかね?
M:まあ、そうやね〜。それで、根本的な河川工事なんかをやらないかんちゅうんで、荷物の運搬なんかも船でするのも昭和の頃は不要になってきて、そういうのもあってねこれを真っ直ぐなしてね。
W:台風の時期の前に、そういった被害をなくすのを願って祭りなどが開かれたりしたんですか?
M:う〜ん、そうやね。いわゆる浮立(or風立)・・・いわゆる風日、二百十日やね。二百十日って知ってるかな?
W:いや〜、知らないです。初めて聞きました。
M:あのね、あの〜これは怪しいからあんま鵜呑みにしないでね。これは、立春・・・節分かな?とにかくその立春から起算してね、二百十日目。二百十日っていうと、7ヶ月?すると、二月から計算すると九月でしょ?だいたいね、九月の一日か閏年だと二日をね、いわゆる風日、二百十日といって一番台風が来るという昔の言い伝えがあってね、そいで、八月三十一日の晩にね、氏神様に要するに風(台風?)が来んようにとお願いしますってんでね、八月三十一日の晩にね、この辺の部落は全部よ。いわゆる浮立(風立)って言うんじゃけれども、この「ふりゅう」がね本当はどの漢字を書くかはわからんのじゃけれども、「浮立」と「風立」の二つがあるんじゃ。これはどっちが本当なのかはわからん。この浮立も佐賀県で色々あってね、大きく分けると、鐘を使う「鐘浮立(風立)」・・・いわゆる楽団やね。チンドンドンチンドンとね。
(その祭りの光景を思い出したのか昌さんの顔はとても楽しそうだった。)
まあ、神様にそうして楽器を演奏して神様にお願いするといったね。ほいで、この辺の主流は「鐘浮立(風立)」。今は鐘とか太鼓が三つか四つぐらいあってね、昔は六つぐらいあったんじゃけども、だんだん少なくなっていってね。
W:そういった鐘や太鼓を叩く人は毎年決まっているんですか?
M:そうそうそう。昔は青年団っていうのがあったけんね、いわゆる「わっかもん」(若者)たいね。部落の「わっかもん」が・・・今のあんたたちとは違うんじゃけどね、小学校に高等科ってのがあってね、中等学校と高等科に進む二つがあったの。いわゆるエリートコースが中等学校に進むのよ。
(この後、昔の学校制について、ナンバ高や商業、農業、工業高等学校など、昌さんの話が発展していったため、割愛させていただく。)
〜〜〜〜〜昔はそういう形になっていったわけ。大半の人は小学校の高等科に行くわけ。高等科を二年いったらここら辺の農業をするわけ。そやから、ここら辺には若いもんが何十人もいるわけよ。そういう人たちが各家に一人か二人ずついるわけ。そいつらが百姓。「わっかもん」やから、暇でしょうがないわけ。
(ここで昌さんは今までとは違った何かを含んだような笑顔を見せて笑った。)
M:あんたたちは、そんなことせんじゃろうけども、まあ、色々よからんことをするわけよ。んで、あんまし「わっかもん」をほったらかすとよからんことをするってもんじゃから、で、部落で面倒をみるっていう形でね、「わっかもん会」っていような事よね。「青年団」とか「わっかもん寄合」という形でね、それがね、高等科とか中学を卒業するとこの「わっかもん会」とか「青年団」みたいのに入るわけよ。ここだけでも100人ぐらいいたんじゃないかな?そやから、中学卒業で今より一年早いから14歳〜25歳までがその「青年会」の会員なわけ。ほいで、25歳までのうちに結婚したら、青年会を外れるわけ。その青年会が請け負って、その若いもんの行事になってるわけ。その浮立(風立)をね。今はその青年団ってのがないわけ。だから、今は部落でしてるわけ。
W:それじゃあ、今も浮立(風立)は続いてるんですね?
M:そう、昔は部落関係無しに青年会でやっていたんだけれども、浮立(風立)をするとね、区から色々補助金ももらえたし、おんはな(恩華?)っていうんでね、有志の方が、酒一升とか3000円とかをくれるわけ。これが、その青年会の運営資金になるわけ。(ここで昌さんは少年が照れ隠しをするような笑顔を見せながら)まあ、つまりは飲み代やね。
W:それじゃあ、浮立(風立)の後はみんなで飲むのですか?
M:そうそうそうそう。浮立(風立)をすると儲かるわけよ。まあ、自分たちの飲み代とか旗竿とか作ったりの経費を引いても今の金でいえば10万円ぐらいは残るわけ。それから、花見や自分たちの飲み代に使って青年団の収入源だったわけ。話が本に戻るけど、八月三十一日の晩にね、一晩中、鐘囃子やね。お祭りをやるわけ。昔は七時から晩の一時までガンガン鐘を叩きよったけどね、この頃は手を抜いてもう十時ごろには解散になるんじゃないかな?一応、氏神様のところに参って・・・
W:氏神様っていうのは?
(昌さんは再び窓を開け氏神様を祭っている場所を見せてくれた。)
M:そこに行って、昔は一晩中騒いでいたわけ。それで、各部落の拠点になる氏神様のところに行って、それこそ一晩中騒いで、隣の部落に負けんようにってガンガンガン鳴らしよったよ。
(この時の昌さんの顔は自分が若い頃に実際そうしていたように楽しそうに話してくれた。やはり、今も昔も祭りが人々にとって楽しいものである事は変わらないのであろう。)
W:ということは、氏神様は雨の神様ということになるんですかね?
M:いや〜、言い方悪いけど、専門はないんじゃないかな?氏神様やからなんでも一切合財お受けしますよということになるね。(昌さんはとても歴史に興味を持っている方らしく、この後、鍋島藩のなりたちや江戸時代の話に発展したため、再び割愛させて頂く。)
W:じゃあ、逆に雨が降らずに旱魃の時も氏神様にお参りしていたのですか?
M:そうそう、何でもお参りしていたね。けど、ここら辺は水が少なくて困ったことはあんまりないんじゃないかな?もう、大水が出て当たり前っていう状態が昭和35年ぐらいまでは続いたね。今はポンプで水を吸い上げて少ない水を有効に使っているけども、昔は水車を使ってね、それから、基本的には水路を閉めるわけ。水路に板を入れると水が止まるよね?そうすると、水が溜まっていって、溢れた分が田んぼに流れてたわけ。だから、小さな水路がブワーっと広がっていたわけ。
(ここで昌さんの声のトーンが少し落ちていき話は続いていく。)
だから、昔は水喧嘩なんかもやってたよ。それでね、水路の分かれ道の所で部落間で決まりごとがあってね、ここは板を三枚しか入れたらいかんとかね、それで水の流れを調節してたわけなのよ。ところがその、どうしても上の人が強いわけなのよ。そうすっと、下の人が油断してると上の人が閉めてしまうわけ。そうすると、下の人が誰が閉めたんじゃとか文句を言ってね。そういう場合はだいたい村の長老とか村の代表が出て行って話し合いとかで色々、穏便に片を付けていくんじゃけど、なかには血の気のある人がいて、そこで殴るになるわけ。俺が知ってるだけでも、一件か二件はあったよ。まあ、殺人事件までは発展せんやったけども、いわゆる天秤棒で殴ったりしてね、入院したとか警察沙汰になったりしたこともなんべんかあったよ。
ここまで、昌さんが私たちに話してくれた内容のほとんどが昭和35年の耕地整理前後までの出来事のようである。耕地整理によって水害が減ったことで、水喧嘩や浮立(風立)も徐々に減っていったと昌さんは話してくれた。
W:昔(耕地整理される以前)は牛を使って田畑を耕していたのですか?
M:やってたよ。昭和20年代までは完全に牛を使って耕してたよ。俺もそれまでは実際に牛を使って耕してたもん。昔は米麦だけだけどね。
現在、昌さんは苺を主に作っていると最初に書いたが、以前は米と麦が主な生産物だったようである。ここで、なぜ耕地整理される以前は田んぼが曲がりくねっていたのか?その理由が明らかにされていった。
昔は米の値段が今よりもずっと高値で取り引きされており、米だけで十分生活が成り立っていており、昌さん曰く「百姓様様」の時代であったそうだ。そうなると、少しでも多く米が取れるように人は田畑を隙間無く作っていったと昌さんは教えてくれた。
その後、昌さんは私たちが順を追って質問すると、徐々に記憶をよみがえらせていった。
W:昔は田植えや稲刈りの時期は一家総出で作業をしていたんですか?
M:そうよ〜。昔に比べると今の子どもたちは極楽やね。昔は16、17歳になると一人前なんじゃけん、仕事を一人前にさせられるわけじゃけん。
(この後昌さんは、顔を赤らめたようなバツの悪いような、また恥ずかしそうにしているともとれそうな顔をしながら)
まあ、こんな事を君たちに言っちゃあ悪いんだろうけれども、じょろ(女郎)買いに行ったりね、そういうことをね16,17歳からしよったよ。俺はしてないよ!?俺は真面目だからしてないよ!
(ここで、その場にいたのが全員男だったというのもあり、話は夜這いや、じょろ(女郎)屋の話へと進んでいく。)
M:まあ、我々の時代は戦後だったんだけれども、戦前は、16,17歳で夜這いに行ったり、じょろ(女郎)買いに行ったりしてたわけよ。
W:じょろ(女郎)屋は五町田区に多かったんですか?
M:いや、じょろ(女郎)屋は鹿嶋に多かったね。それとか、この辺だと、武雄と鹿嶋がね、じょろ(女郎)屋が多かったね。他には正式名称じゃないんだろうけども、親不孝通りが鹿嶋にあって、じょろ(女郎)屋がずらっとあったよ。夜這いも昭和20年代から30年代までは、おおらかにやってたらしいんじゃけどね。
この後も昌さんの話は続くのだが、1950年あたりを境に戦前と戦後ではっきり別れたとそうである。
W:昌さんが小学校の頃とかは、どんな遊びをしていたのですか?
M:あの頃はね〜、要するに物がないんじゃけんね。一つはね、あの頃はね体を鍛えようと、強い兵隊さんを作ろうという感じでね、その年その年で流行もあったけんね。あっ、そういえば今思い出したんだけども、水雷艇って知ってるかな?軍艦の中に潜水艦とか巡洋艦とか水雷艇とか駆逐艦とか戦艦とか航空母艦とかあるわけよね?そうすると、戦艦が一番強いわけ。けど、戦艦は潜水艦に沈められるわけ。いわゆる、ジャンケンと同じようなもんやね。
(この昌さんが教えてくれた遊びの力関係は別図にまとめた。)
M:確かね〜帽子とかはちまきでね誰がどの艦をするか決めてね、それぞれ印を付けてね・・・・。
(この遊びはいわゆる陣取りゲームに近いものである。この遊びについて話している時の昌さんは当時の遊んでいる時の楽しさを思い出したのか、とても嬉しそうにルールや勝つための秘策や作戦を語ってくれた。)
そういった遊びはかなりやったね。雨の日以外は外で遊びよったね。教室で本を読んでたら先生から怒鳴られてたよ。
W:川に行って魚をとったりしていたんですか?
M:そりゃ、もちろんしてたよ。ところがね、俺はあんまり魚取るのが上手じゃなかったから、あんまり行かなかった。けど、好きな人は毎日行ってたよね。けど、今より魚はいっぱいいたよね。メダカなんてそこら辺にいっぱいいたしね。昔は、俺みたいな下手くそでも少しはとれよったもんね。
W:この近くの水路に蛍とかもいたんですか?
M:うん、蛍もいたよ。蛍はね家の中にもいたし、珍しいもんじゃなかったよ。ところがね、農薬使いだしてから一、二年でいなくなったね。
W:化学物質が入った農薬を使い始める以前は、代用の農薬を使っていたのですか?
M:いや、使ってなかった。農薬も何にもなかった。そやからね、雲霞ってやつが発生するんやけどね、菜種油みたいな、油をね田んぼに張って、その水を稲に足でかけてたのよ。そうするとね、稲に付いてる虫が油の張ってる水に落ちて死ぬのよ。う〜ん、その程度やね。それとか、虫追いっていってね、夜にたいまつをつけてね、田んぼをぐるぐる回るわけよ。そうすると、たいまつに虫が寄ってきて川原まで持っていって、一気に燃やすぐらいやね。
W:昔、肥料は何を使っていたんですかね?
M:昭和以降は今の肥料とあんま変わらんよ。牛糞は補助的にしか使ってなかったよ。牛糞なんていうのは、肥料成分としてはごく一部しかないよ。
その後、昌さんから当時の通知表や賞状、昭和九年の尋常小学校の通知表などを見せて頂き、当時の写真や浮立(風立)祭りの様子を撮った写真を見せていただいた。これも最後に併せて載せておく。
W:食糧不足の時は犬を食べたりしていたのでしょうか?
M:それはほとんど青年団の血の気が多い連中が食べてたぐらいでここら辺はそこまで深刻な食糧不足にはならなかったよ。
W:風呂に入る時は薪でお湯を沸かしていたのですか?
M:いや〜、ここら辺は山が少し遠いからほとんど麦わらでしてたね。麦わらならいくらでもあったしね。山のほうに行けば、そりゃ、もちろん薪を使ってたやろうけどね。
・整備された水路
・耕地整理によって整備された田んぼ
・ 東酒造
・徳川時代から残る水路
・現在の鐘浮立(風立)祭りの写真
・戦争で物がなく六年の頃のほうが小さい賞状
・戦艦ゲーム(仮名称)の力関係図
戦艦 |
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駆逐艦 |
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巡洋艦 |
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水雷艇 |
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航空母艦 |
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潜水艦 |
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潜水艦 |
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駆逐艦 |
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巡洋艦 |
こうして、あっというまに時間は経ちもう家を出なければいけなくなった。昌さんが集合場所まで送ってくれるとのことでお言葉に甘えることにした。市役所に行くまでに、以前塩田川がカーブして水が溜まっていたと言っていた場所に連れて行ってもらい(現在は河川公園)当時と現在の川の様子の違いを目で確認することが出来た。昌さんのご協力により普段私たちがお目にかかれないような昔の資料や写真を確認することが出来、非常に価値のある時間を過ごすことが出来た。