水曜五限・少人数セミナー(服部教官)

佐賀県神崎市脊振村鹿路(大楮地区)聞き取り(平成18123日調査)

 

調査者・1EC06077S 辻祐希、1EC06157P青野亮一

話者・高島敏弘氏(昭和27年7月9日生)、高島恒氏(昭和17年1月8日生)

 

集落を歩く

10:40ごろ、大楮地区入口に到着。

いきなり犬にほえかかられるが、地区内を見るために坂を上る。

その途中、作業中のおじさんに声をかけられた。このおじさんが、高島敏弘さんである。

「九州大学の学生さんかい?」

「そうです。とりあえず集落内を見て回りたいので、また後で宜しくお願いします。」

などとやりとりし、とりあえず、住宅地図を参考に集落内を歩き回った。

パッと見の印象は、水が綺麗であること、空き家が多いこと、であった。

田圃での稲作のほか、ピーマンや椎茸、白菜、大根が栽培されているようであった。

集落を一巡りしたところで、高島さんの家に戻ろうと歩みを進めたところ、高島さんが我々を捜しに来られた。

合流の後、高島さんの案内で集落内をさらに歩いた。

一見、これは道なのかと思われるようなところをすすみ、このあたりはかつてカキノキジャアラと呼ばれていたところで、畑だったのだと仰有った。確かによく見ると段々に整備された後に木が生えている。20年くらい耕作していない土地だそうだ。

「間伐せんから、こんなに木が細うなって、根がはらんで保水力が落ちる」

とのぼやきが入る。昔は集落の人々が協力し合って山を手入れしていたそうだが、人手が足りないそうだ。

「ここは2年前に空き家になったけど、今はこない荒れとる。あっちは空き家にはなったけど、時々帰って手入れしているのでそこまで荒れていない。社会保険じゃ何じゃ言うて金がいるけん、こんな山の集落では生きていけん。昔は自給自足できたのに。」

などと仰有る。

途中、巨岩の脇を通る。この巨岩のあたりから坂の下にかけてがテーノモトというしこ名らしい。また、巨岩は、七郎?神社のご神体を分祀したものらしい。

今は、集会所に祠を移したそうだ。

次に、ぎちょうと呼ばれた山中へと入っていく。

このあたりも、耕作をやめて10年〜20年のところらしい。もう見事な林である。

清流の脇のみちなき道を行く。高島さんのように作業着ならもっと歩きやすかったに違いない。途中、ブロックで護岸されたところがあるが、災害復旧事業によるものらしい。

土砂が崩れ、田圃の畦を区切る建材がむき出しになっているところもある。

巨岩から約10分であろうか。大きな倒木があり、これ以上進めないところまでやってきた。その倒木の前後が耕作されていた南端くらいで、このあたりが、ギチョウと呼ばれていたという。開墾は昭和になってからで、また、昭和のうちに耕作を終えたそうだ。

かつては、このギチョウからさらに約15分、山を上るともう峠で、佐賀まで歩いて抜けられたそうだ。20年前までは山の向こうの金立神社まで初詣に行って、金立山を一巡りして集落に帰ってくることもしたそうである。

川沿いの山道を下り、集落に戻る。その途中、井手の名について尋ねてみたが、特に名前はなかったそうだ。

集会所を見てみると、確かに集会所にはしめ縄がはってあった。

次に二年前にできたという防火水槽の脇をとおり、集落の墓へと向かう。ここで高島恒さんと合流した。かつて墓地はぎちょう付近にあったそうであるが、お参りしにくいとのことで、集落に近いところに移されたそうである。墓参りは正月と盆に行うそうだ。

ところが、9月の台風の影響で、墓地への道は倒木で閉ざされていた。年末までになんとかせにゃいかんなどと仰有りながら、山の斜面を強引に登る。

イノシシに掘られ、墓のまわりが大きく欠けている。

ここで、田圃のまわりに張られた柵についても尋ねてみたが、やはりイノシシよけだそうである。この墓の脇にある谷がカマンタニで、高島敏弘さんの家の脇に続いているという。

ここで、ちょうど昼時になったので、高島さんの家へ向かうことにした。

墓から降りる途中、防災無線?から正午を知らせる音楽が流れた。

 

聞き取り

高島敏弘さんのお宅に上がらせていただく。

我々は、昼食を持参していたが、敏弘さんの奥様特製の自家栽培の野菜料理をいただいた。

メニューはうどん・おでん・チンジャオロース・柚子なます・大根と人参とイカの和え物・椎茸のステーキ・白米で、とにかく豪華であった。

 

食事をしながら、聞き取りをおこなった。

まずしこ名と牛の扱い方について書かれたメモを作って頂いたので、その説明からうかがった。

 

牛を私は扱うたことなかばってん、おやじどんがいいよったのは

右へ回るときはヘシェ、左へ回るときはトウ、止まるときはドウドウっつて

――他のこのあたりの村でも同じでしたか?

そうそうこの辺はね。村は。

 

奥様が椎茸のステーキを運んできてくださる。

 

――おいしいですね。

本当は山の中で取れたその場で焼いて食べるのがうまか。イノシシの肉焼いたりね。

――猪の肉てそのままだと臭くないですか?

いや臭うなか。

――関西では臭いからと言って味噌で食べたりするのですが…

今頃、12月から2月頃が脂が回って臭うなか。

――味噌とか醤油とかは…

昔は作りよったよ。こっちで。麦も豆もまた作っとった。

――やっぱし麦味噌ですか?

麦と米。昔は作りんよった。お茶もみんなお茶の葉摘んで。自家製よ。田んぼとか畑のそばに茶を植えとった。で春になるとそれ摘んでさ、釜まであったさ。

――そういえば行商の人は来たんですか?

来たよ。自転車に乗って。塩鯖とか持ってきたかな。後の方ではバイクで来たか。

――塩もやっぱり…

そうね。

――鰹とか昆布とかは?

今は買ってくる。昔はやっぱり炒り粉・昆布・鰹節を行商の人から。それこそ、ない時は味噌とか醤油とかでおそらく…

――イノシシの他に動物は…

たのき(たぬき)、アナグマ、ウサギ…

――その中でおいしいのは?

アナグマうまかよ。今冷蔵庫ん中うちいるよ。

――アナグマって何ですか?

たぬきより一回り大きかね。ちょっと種類が違うがね。脂のうまかよ。アナグマはね。すき焼きにするとうまかよ。

――果実の栽培は…?

柿、栗、柚子、カボスとか、いちじく、最近はブルーベリー、キーウイフルーツとか。ブルーベリーと柿は少し売りよう。

――みかんは作らないんですか?

作らない。

山芋ってわかる?自然薯。昔はよう採れたばってん、今はイノシシが掘りようて、食べられんごちなって…

あと山で採れる言うたら薬草ごたるね。みんな薬草と同じたい。みんなね。山で採れる自然のもんはね、木の芽から木の実から、もう薬草よ。何でも山にあるもん薬草だけん、薬草園でも開こうかと(笑)ヨモギとかこれが何に効くとか…。んで旬のもん食べんと。スーパー行ったら何でもある。ああいう季節に反抗して作ったのは…椎茸も中国から輸入したの食べたらイカンよ。ウチの息子たちもみなファーストフードばかり食べよるけんね、アレがイカン。この辺の綺麗な流れる水で作った米やけん、もちろん農薬は使うよ、でも味が違う。

――麦は米と一緒に炊いたりは…

麦は今時分から撒いて春には採って、それから米を植える。

――この辺の土は火山灰質なのですか?

違うなぁ

――鶏とか飼ってたりしましたか?

昔は床ん下で…昔の家じゃけん、こう空いとっちゃろ、そこん下に鶏をね、

とにかくね昔は自給自足で…

 

ここで、一旦別行動となっていた恒さんが帰っていらした。

 

――前の川で魚は捕れますか?

今は冷やかけん、出ん。10月くらいまでなら出る。昔はウナギばつりよった。大きミミズば山から捕ってきてこう針につけて石の間に沈めるとよ。こうやってぐーっと引くとね。こうやってウナギのつけ針で捕るとよ。夏前かね。

――この辺までウナギが?

来よろうねぇ。今はやらないだけだよ。

うん。ウナギつけ針(つけばい?)のシーズンになるとね、一キロから二キロ下の川までずっと仕掛けて20本から30本くらいつれた。

――それは蒲焼きにして?

うん。食べたよ。

食事が終わり、聞き取りも一段落。恒さんが興味深い話をされる。

 

さっき、お墓行ったでしょ。昔、親父があの奥に、墓、石塔にお人形さんの顔をした石塔があるとか言ってたのよね。大小野の方にあったって。あの辺に住んでたのが下りてきたのか…?

昔はこのあたりは脊振村で、佐賀市の大小野や大和の楮原との交流が多かって、逆にあの向こうの鳥羽院とかとなると三瀬との交流が多かったんでね。

 

この辺は、昔は隣の鹿路のヤマモトさんカタフツさんとかナガフチさんとか妙楽寺のヤマサキさんの田ん中で、小作料払えんとか言ってたのが農地改革でみんなが土地を持つようになってね。終戦後の。ここはみんな小作人で。終戦前労働力として朝鮮人もこのあたりに住んでいたねえ。ずっと住んでたんじゃなく炭坑での強制労働で来てたんだろうけど。

 

 我々は、今回の聞き取りの目的を改めて説明し、本格的な聞き取りに入る。

 

(昔の生活といえば)この辺は話聞きよるけどタキモン、蒔やな。薪とか炭を焼いて金ば稼ぎよったと。山から薪を採って佐賀の方まで担いでいって、ある程度道のあるところでは車力で…この辺なんもなかった。山しかなくって。木を切って。木を切るってことは原野がきれいになって。畑にしたり。

この辺は畑にしたらよかねぇとなれば、焼き畑ばして、あのまあ少し削ったりして。昔は峠ばこす直前まで田ん中やった。

池がなかったかの?

池はジュッケンドー。ジュッケンドーちゅうとこにはため池があったとよ。

結局山があるから常時水が流れてくるよね。下を開墾すれば…

地図でいうとここたい。

じゅっけんてどう書くの?じゅっけんは十間?

たぶん…

どうはどう書くの?道のどうかお堂のどうか?

わからんったい

――口で伝わってるだけですからね。

(昔は)字を知らん人もいたからねぇ。

――ため池に名前は…?

そりゃ知らん。で、もう今は水も全然たまっとらん。

 

 地図を見ながら、敏弘さんが、ここも田ん中やったここも田ん中やったと説明してくださる。恒さんが、時折質問を入れる。

 

この道を抜けると佐賀に抜ける。マキば積んで、ある程度行けば車力に積んで、日やち銭ば稼いだ。野菜みたいなは、どこでも作ってるが、マキが、燃料が、あの、生活の糧みたいなもんで、もうその他は金いらんけん。昔は国保も払わんでよかけん、税金も年金も払わんでよかけん。なんもなか。社会保障もなかったけん、だけん、お金の一銭もなかとて暮らせたとよ。ただ、自分の欲しかもん買わんで。まあ今は社会保障が充実しとるけん、年金も払わんばいけん、国保税も払わんば、介護保険も払わんば、で金ばっかいるけん。昔はお互いにみんな助けおうてさ、ねさ、金なんかイラン。だけん、欲しいものだけ、ぜいたく品だけ、買うくらい。着物買うたりせんといけんばってんね、その分をマキでね。んで米ば売ったりとか。農産物で(売れる)ちゅうたら米しかなかった。時代がどんどんどんどん発展して、社会保障じゃなんじゃ言うて、ことなって、だけんが、百姓も農家も病院代がね国保でねかかっとるとよ。もちろんね、病院行けば金がかかるとよ。昔も。普通のホラ、病気くらいなら、漢方薬のあれでね。山のヨモギをば取って揉んで飲めばね。だけん、早死にしたりね、手遅れなったりして…。老人もみな家族で診てやってね。うち、昔は14人も子供がおって。14人暮らしとった。

――この集落全体ではどれくらいの人が住んでいたんですか?

450人くらいはいたんでねか?昔は。農業はホラ。機械化する前は人手がおらんことには。ねぇ。牛か、それか鍬で手作業で。機械なんかなかばってん。

――では田植えの歌みたいなのは?

ないね。この辺はあと炭焼きとマキ。タキモンさ。

――どこで取ってもいいとかは…?

そりゃ決まっとるさ。それぞれみんな領地みたいに線があちこちで引かれとる。

――では自分の土地の中であれば、それぞれがマキや薪を採ったり…

そうそう。ここは日当たりよかけん、畑にしよかとか、ここは谷の水があるけん田んしよかとか、だけん、冬場は田んぼ耕さんでいいから、規模拡大をば。石をもってきたり山を削ってこうこうこうとね。国土調査ばしとるけんね。

 

 ここで、土地の所有者と境界を示した地図を見せてくださった。

 

ある程度どこが田んぼかわかるようなっとる。名前もかいとる。山の中もずっと境界ついとる。でも、今の若いもん、息子どんなんか、どの田ん中が山がどっからどこがってわからんじゃろ。この辺は大分なんかと違うて、みんなめいめいが(所有権を)持っとる。

 

敏弘さんはまた地図を指しながら、この田んぼも荒れてしもうた。などと説明してくださった。実際、我々だけで歩いて見てきた荒地も、田んぼだったようだ。大和町の小字大楮にあたる田んぼは、敏弘さんが管理しておられるところだけが、荒れていないのだと言うことだ。

 

もう息子どんは、(耕作)せんやろね。そうすると山んなってしまう。(耕作を)やめたとこは全部イノシシの住処になってしまう。

――ところで、行政区は異なりますが集落内での交流は?

部落は交流いうか一つったい。ただ、行政が違うけんが、学校は別じゃった。この辺は楮て書いてカゴと読むのが多いけんが、昔は紙でも作ってたんじゃ(ないか)?障子紙とか。

――果樹園の地図記号がありますが、ここでは何を栽培しているんですか?

栗たい。みんなぎちょうて言いよるとこもみな栗たい。みんなイノシシに食われて今は外国から輸入するばい。

――このあたりでは栗はどうやって食べていたんですか?

煮たり…それか生で出荷しとったったい。栗ご飯もしたよ。この集落はこの辺まで支配ちゅうたらおかしいけど、耕作とか管理しておったんだけど、人手が足らんでだんだん荒れてきよったと。なだらかなよかとこまで荒れてしもうとる。この山の上に神社がある。祠が。全部石でできとる。金立(きんりゅう)いうて、ここいらまでうちから一時間かからんと登れる。正月なんかはよく。初日の出なんかみたりして佐賀平野ば見て。つーっと帰ってきた。もう今はおいどんがいかんけんわからん。

――いつくらいまで…?

20年…230年前までは。

――(散歩などで)集落を出ることはあっても、入ってくる人っていうのは…

なかねぇ。

――この金立神社の管理は?

佐賀の人たちがやっとる。こっちはなんもなかけん。都会のこと、土地の値上がりとかすることあったりすっがさ、まだ大事にね持っとる人もおるけん。でも境界だけはピシャッとしとるよ。ところどころ杭があったりね。ほとんど谷とか尾根境にね。まあ、今は金のいる時代ったいね。教育にしたってね。お父さんお母さんがいっぱい働いてね。うちなんか3人も大学行かせたけん、家一軒ば建つほど金かかったったい。何もせんでも、医療費だとか国保費だとかいるったい。だけん、現金収入がなかったら生きていけんったい。だから、こんな山ん中から出て行くったい。収入上がらんけん。自給自足で何もイランとなればね、飢え死にだけはせんばってんが、だけん、みんな出て行く。昔は社会保険なんかなかったけんが、行商から塩やら塩鯖やら塩鯨やら買ったりさ。塩ば買っとくと漬物、保存食になるけん野菜が。あと芋か米が主食になるけんが、里芋とかね。米は売らんばいかんばってん。

――粟や稗は?

作りよったかもしれない。粟とか黍とかね。まあ山にあるもん、みんな活用しとったとよ。山羊飼ったりもしとったね。乳とるったい。あと鶏ね。卵採る。地鶏よ。馬は飼わんね。

――牛や山羊を飼うとなれば餌の確保は…

田ん中の草。田ん中の周りのね。あれ。ほとんど採って食べさせた。たまに、その場で食べさせたこともごたるね。牛の餌はほとんど草。それとか米ばとってから、白米の取った後のクズ、これを草に混ぜたりとか、あと麦。ご飯と一緒に炊いてやってそれを牛にやるとかね。草のおかずにやるったい。うちの前の小屋が(もともと)牛小屋ったい。3匹いれられた。だいたい2匹さ。んで忙しかけん、毎日使うけん、腹いっぱい食わす。藁も稲藁も全部使って。村中そうじゃった。

――牛が死んでしまったら、代わりの牛の確保は…

バクリュウさん。あれから買いよった。牛飼いさん。タオルば手の上にかけてわからんようにして、指でいくらで買うたとか売ったとか。鼻具をこうつけんといかん。(鼻に)塩を塗って。(暴れるので)しっかり押さえて。鼻のここ(入り口)薄かろ。ほら最近人間でも開けとろ。で、ここが一番うすかけん、ブスッとやってね。竹をつけてね。縄をこうかけてね。紐を通して、トウトウトウ、ヘシェヘシェ言うて。

――引っ張るときの縄は一本ですか?

(荷物を)引くときは鞍をつけて、前足と後ろ足につけて。鼻はたんに操縦たい。ほんの一本だけったい。鼻は一本だけ。田ん中とかで引かせる時は、こうやって(図を描きながら)鋤かなんかを。

――牛を扱う道具は処分されましたか?

去年、去年(牛小屋を)建て替えのときに。鞍もあったよ。

――牛はいつくらいまで飼っていましたか?

おいが小学校入るくらい…昭和30年ごろくらい…学校行く時分は耕運機使って…。エンジンつきの。小学校行くくらいまでのころはね、牛が2匹おったとよ。で、毎日春先から秋までは親父たちがずっと朝草を刈って全部食わせるけん。だから山もきれいに手入れすっけど、今は草とっても何も食わんけん。藁は寝床になるけん、夏は草を干草にして、2日くらいでカランカランになるけん、家の前でそして、二階に上げるさ。冬の食べ物になるさ。冬はこの干草と藁とサク(糠?)を混ぜてね。そんで一ヶ月に一回ぐらいは敷き藁を変えて、別のとこにおいて牛小屋の中身を堆肥にするね。んで発酵させたもんが田ん中の肥料になる。

――堆肥は各家がそれぞれ作るんですか?

うん。それぞれ。草とか藁に、ウンチしたりしよるやん。それはそんで堆肥にとっとって、また新しい藁とか敷いてやって、やっぱり、循環農業やった気はないが、循環しとったね。

――人の(屎尿)は?

冬場は作物がなかばってん、田ん中に桶で運びよったね。ほって、夏はどっかに瓶があって、そん中で発酵させて田んぼに。

――そこに落ちる人とかは?

そりゃわからんね。自分とこはここにあるてわかるけんど。今はそんなことせんけ、化学肥料ばっかりったい。やっぱり地の田んが痩せていきよんがわか。

――昔は木の葉とかは?

そりゃ入れよったさ。有機肥料さ。土はやせんけど、昔は昔なりにあんまり採れんやった。化学肥料はないけんね。有機肥料てのは有機物だけったい、肥料にはならんばい。窒素リン酸カリ、尿素だけやもんね。窒素分がね。うまく配合したリン酸カリまではいっとらんけん逆にあんま採れん。ただ、土は泥土でふわふわいうかぶかぶかじゃけん、根の張りだけはよか。だけん、有機の肥料入れんけんやせてしもうた。あとは、雨が降ったりなんかすると下に流れていきよるけんね。有機物の入らん化学肥料だけの土地だと、雨ば降らんとカチッと固まってしまうね。耕しにくうね、根の張りの悪か。ホントは木の葉とかちょっとずつ入れるとよかば、そんな暇なかばってん。化学肥料も必要。

――農薬がなかったころの虫対策は?

昔は、ついたよ。油で。菜種とか木の実の油。水面に落とすとバアーっと広がって虫が落ちると油にぺたっとひっついて死ぬとか

――自分ではたき落としたりは?

棒でやったさ。

――その油の入手は自分の分だけ?

そうそう。ガソリンとかの化石の油じゃなくて菜種とかの自然の油。自家用だけの分しかなかった。昔は油もほとんど使わんかったけん、洗剤もいらんかったとよ。今は何にしてもすぐに油使うけん。だけん、昔はファミリーみたいな洗剤はなかけん、鯨の脂とかは灰、かまどのね。灰で取ったりとかね。焚いた灰やけん、川も汚れん。ストーブなかけん、囲炉裏や火鉢で炭を焚いて暖房に。昔はここに(玄関入ってすぐのところに)あったとよ。

――照明にも植物油を?

ああ、電気がなかときはランプやろね。そこまでは知らん。もうおいら電気のある時代しか知らん。だけん、昔は機械がなかったと思わんといかんね。鋸と鎌と。草刈り機とかチェーンソーとかなかけんね。やっぱりいろいろ難しか。大変やったと、みんな手作業やったと。もう考えられんけんね。今は中東のほうから油が入ってこんと大変やろね。もう電気もアレも機械が。稲刈りも全部手刈りやったば。田植えも全部手で植えんといかんばってん。

――田植えは集落で協力して?

そらめいめいさ、家族だけで。ただ、どこか遅れてる家があるなら、どこそこは遅れてるから手伝いにって行ったさ。ボランティアでタダで。そら飯とかおにぎりとかはもらったけど。病気なったとかで加勢に行ったけど、今はそんなの全然なかけん。今は機械でね。昔はコミュニティがよかったさ。田舎はまだあれじゃけど、都会は今、あんた方の隣の人が何やってるかわからんやろが。名前も知ったか知らんかで。この辺は田舎でもう2キロか3キロ先の人の名前とかどこに田ん中持ってるかとかね。畑とかだいたい知っとるさ。昔のようなコミュニティがある、今で言うコミュニティやね。昔は共同作業とか一緒にしよったとさ、昔は。助け合ったり助けられたりしながら生きとった。そげん、この辺の集落の人のことみんなね、息子がなにしよるとかね、奥さんがどっから来んしゃったとかね。そういった時代がよかったかもしれん。子供たちも我々を知っとるけん。顔見たら挨拶したりね。集落みんなの子みたいな意識があったとよ。今の子は家ん中でテレビ見たりゲームしたりで外で遊ばんけんね。

――むかしはどうやって遊んでいたんですか?

田ん中で野球したり。それこそワナ掛けしたりとか。小鳥ば捕りに行ったりとかさ。ちょっと太か枝をグイッと曲げたりして、ね、糸を張ってから小屋を作ってね。こうして小屋の入り口に木の実とか入れといてね、そこで木がバタンと倒れるようにしとけば、バンッと当たってさ、あの、鳥の挟むことなる。そんで川につけ針でうなぎ取ったりとか。

――その捕った鳥は?

もって帰って毛羽むしってから、焼いて食べよったったい。焼き鳥たい。

――ご飯としてというよりおやつの感覚ですか?

そうね…ご飯、うーん、おやつね…毛羽むしって、バーッて焼いてね。鳩捕ってきたりとか。ノバトね。うまかよ。そげん、肥後刀いうて小刀があったからね。ずっとポケットの中に入れとる。常にね。それで枝を削ったり…

 

ちょうどここで、恒さんが用事だということで退席なさった。(以上、文責・青野)

 

 

正月の七良神社のお祭り

タイ二匹を炭火で丸焼きにして少し焦がらかす。その鯛の身をとって大きな皿に入れ、さらに熱燗を入れて骨酒を作り回して飲む。他に、りんご、みかん、酒、ちくわ、てんぷら、大根の酢物、ごんぼ(ごぼう)をまるのまま湯がいて(太いものは半分にして縦に割り)味噌に付けたものを用意する。「つうわたし(通渡し?)」といって材料調達を家ごとの当番制でおこなう。祭りは大楮の集落の人たちだけで現在も行う。

この集会所が神社を兼ねている。

中央に見える巨石が御神体である。

 

川の神様の祭り

子供たちが川遊びで事故を起こさんように願う。4月のたけのこのたつころ、竹で編んだものの中に赤飯入れて、「ぎっとんさん」(水車のこと。水車が回る音から名づけられた。)のあった近くに置く。他に、ちくわ、てんぷら、ごふくさん(麦飯)、たけのこの煮しめを用意する。今は置いておくとカラスに食べられるらしい。祭りは大楮の集落の人たちだけで現在も行う。

このあたりに水車があったらしい。石垣が残っているのが分かる。

 

正月のもち

最近はないが、何軒か共同で朝の四時から餅つきをしていた。一、二俵ほど木臼でついていた。もちは保存食。瓶に入れて、かんのみず(寒の水?冬の冷たい水)の中に入れとくと腐らないで春まではもつし、腹持ちが良し焼くだけでよいので山仕事に都合が良かった。鏡餅も開いたら水の中にいれていた。

農休日

45年前まで、土曜日は出荷がないので農作業を休んで皆で集まってお茶を飲んでいた。

 

おすわさん(諏訪神社)

浜玉町。マムシの神様なので、農作業でマムシにかまれないように今もお参りに行く。

 

いえくちなわ(蛇)

家に多い。家にあるツバメの巣ツバメの雛を狙っている。抜け殻は見られない。

 

ねずみ

家に出て壁をほがす(穴を開ける)らしい。昔は米をねずみに食べられないようにかんかんの中に入れていた。一つに35俵ほど入った。現在もかんかんを3つほど持っているが、今はストッカーを使っている。

 

米の産出量

面積は2ヘクタール。140俵、8.5トンほど取れていた。(一俵=60kg

 

夏になると見える。見に来る人はいない。自分たちだけで見る。

 

川に流れている水は飲めるが今はそれを使用しておらず、6メートル掘ってかめがらを入れて、もう一つはボーリングで43メートル掘ってその自然の湧き水を使っている。よって、水道代は払ってない。消毒はしておらずカルキ・塩素もなし。温度は14℃くらいで冬は暖かく夏は冷たい。池の水は川の谷側の水を使用。冷たいから鯉が太らないらしい。家で使った水は基本的にそのまま川に流が、トイレだけは浄化槽を使用。

池の鯉。

 

共同風呂

敏弘さんは入ったことがない。終戦後ぐらいには入ってたらしい。一度に23人入ってた。五右衛門風呂。

たけのこやわらびを湯がいたり、もちをつくときに。金の釜。ガス代かかるため今でも薪を使用している。

 

オスもメスもいた。オスは暴れるので去勢をした。縄でしっかり縊って何日かして切る。そうすると、おとなしくなる。種付けを獣医さんが行っていた。去勢してもオスの角はそのままで落とさない。

 

かまど

今はしてないが正月にはお餅と柿とみかんをささげていた。お経はあげなかった。今は、車・農業機械・仏さんにお餅をささげる。

 

楮原の名尾。この集落のほとんどはそこ。大和町のだいたいはもそこ。浄土真宗。

 

竹のかごなど

金立山の向こうから毎年売りに来て、同時に修理もしていた。来ていた時期は不明。

 

ホース代わり。田んぼに水を通すときなど。竹を割って節を取って、てい(とい)として使う。道路の下などを通すときは丸のまま使う。中の節は鉄の棒を竹の中に入れその重みで取る。340年前まで使用。長さが足りないときはつないだ(竹は先に行くにつれて細くなるので、根元の太いほうに差し込めはそのままつなげる)。今は塩ビ管。

 

かなでこ

石を動かすときに使っていた。

 

かや(すすき)

畔とか山から刈ってきたものを編んで炭俵(墨を入れる袋)を作っていた。

川の魚

大楮の集落にいるのはあぶらめ、どんぽ、めだか。岩魚は500メートル下流に生息。集落同士で魚の取り合いはなかった。

 

釣り

昔は針だけ買って竹でさおを作っていた。針がないときはミミズと裁縫の糸に巻きつけて魚が食いついたところを引っ張ってあぜに落としていた。

 

シュロ(棕櫚)の木

皮をはいでロープを作る。冬場にこれで縄を作る。敏弘さんが45歳くらいの頃まで作っていた。

シュロの木。(集落にあるものを撮りたかったのだが、カメラのバッテリーが切れたので写真はWikipediaから拝借。)

 

あしなか

草履。靴とか地下足袋がなかったころに藁で作っていた。足の半分までしか大きさがないので「あしなか」。それをはいて田の中へ入った。敏弘さんのお爺さんが作っていたが、今は作り方不明。つまり、こういうことである。

 

刃物

売りに来る人がいたらしい。町に行ったときに金物屋に行ったりしたらしい。手入れは自分で砥石を使ってやっていた。

 

昔は全部鋸で木を切っていた。

 

薪を割る。子供が手伝わされたりした。

 

消防団

敏弘さんは45まで入っていた。昔は警防団と呼ばれていた。

 

青年クラブ

ここらへんにはなくて隣の集落にはあった。よく喧嘩もしていたらしい。

 

映画

祇園さんやお祭りのときにフィルムを持って巡回し、映写機でちゃんばらや時代劇を写す人がいた。夜に鳥居にさおを下げて白い幕をはって電気を引っ張ってきて写していた。来ていたのは昭和30年から40年くらいまで。雨が降っていても来ていた。見れれば良かったらしい(他に娯楽が少ない)。

 

芝居

昔の広滝の役場の中心街で年に一回芝居をしていた。

 

夜這い

あったらしいとしか聞いていない。敏弘さんは実際に体験したことはないようだ。敏弘さんのお父さんの時代、つまり、80歳前後の人までではないか。行くのはもっぱら他の村らしく当然喧嘩もあったらしい。他に楽しみがなかったためではないかとは敏弘さんの談。

嫁さんは大体近くの人。遠かってもとなりからとなりの部落くらい。昔は食わせんば、いけんから親戚の方行くと付き合いも広うなるけん昔親戚だった人をもらったりすることが多かった。「素性の分からんところはいかんばってん。あそこはよかもんね、お父さんもお母さんもじゃあ娘もよかろうもらおう」といった感じだったらしい。それから、仲人を立てて見合いをして嫁にもらう。ほとんど親が決めていた。

戦争

結婚したばかりの長男が戦争で死んだため弟が兄の嫁をもらうこともあった。あねのざなわり。大楮の集落にも出征した人がいたが、敏弘さんの家にはいない。敏弘さんの母の実家は長男が出征したので弟さんが奥さんをもらった。

 

医者

昔は診療所が広滝にあった。230年位前まで久留米から置き薬(在庫を調べて使った分だけお金を払う方式)を売る人が2ヶ月に1回くらい回ってきた。赤チンキなどがあったようだ。今は農協から置き薬の人が来る。

 

学校

こんなところじゃいかんと言って高校、大学に行く人もいたが、どうせ百姓だから中学まででいいという人もいた。今は空き家になっている23年前に亡くなった90の爺さんの家は、田んぼもあんまりないので自然薯ほったり正月の飾りをつくったしたが、その子供はラサールに行って東大に行った。昔は集団登校で歩いていった(4.5キロ)が、今はスクールバス。

 

犬など

赤い毛の犬がうまいらしい(敏弘さんは実際に食べたことがない)。鳩は食べていたようだが、カラスは食べなかった。

 

学校から帰るときに盗んだりした。ここらへんに甘柿なく、ふわふわになってあかくなった渋柿の熟柿を取る。渋柿だから取っても怒られなかった。

 

泥棒

最近は農機具や干し柿を盗んだりする奴がいる(道がよくなったから)。今年も何回か干し柿を取られたそうだ。昔はなか。

 

木の実

アケビ、山葡萄、椎の実、野いちご、むかご、柿、くり、柿の皮(干しとくと甘みが出る)

 

やなぎむし(柳の木の中にいる虫)、蜂の子。フライパンで焼くとしゃーんとなってぽたっとしてうまかった。

 

春になったら、かやのね、ぎしぎし、すかんぽなどを食べていた。

 

家に軽トラックが入ったのは昭和40年くらい。それから農業用機械の機械も使うようになった。

 

道路の舗装

昭和50年前後。それまでは土舗装。

 

草刈

現在、佐賀市の境から大和の境までの道路を夏と秋の年二回草刈している(ボランティア)。缶が多く、二袋から三袋くらいになる。

 

ごみの収集

昭和53年ごろから。分別はここ十年位前から。

 

プロパンのガス

昭和50年ごろから。釜戸は今使わない。最近はオール電化になっているところもある。

圃場整備

していない。そのため春先には掃除して修繕して水を通さなくてはならず、労力を使う。

 

干し柿

小刀のようなものを使って剥き、硫黄で燻す。作り方は江戸時代から変わっていない。

 

災害

昔からかんばつはなかった。杉の木は保水力が弱く、折れやすい。今年の台風で栗の木もかなりダメになっていたり、杉の木が折れているのが見受けられた。

山火事

原因は山焼き。その跡が残るところは既になく、山火事自体も最近はない。

 

現在の村の農業

米だけでは生計が成り立たないので、以下の二つも栽培、出荷している。自家用には、白菜や大根も栽培している。かつては自家用としてこんにゃく芋を栽培していたこともある。

ピーマン

しいたけ

 

今は、集落の人は滅多に行かず手入れもされていない。写真のように木が整然と並んでいるところは、田があったところに杉の木を植えたということだ。

荒れた田んぼ

手入れが行き届いていないと、数年で下のように荒れてしまうらしい。

 

参考

http://www.geocities.jp/themusasi2/gorin/g201.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD

 

 

以上、文責・辻
しこ名まとめ

脊振村小字大楮のうちに、ギチョウ・カマンタニ(釜谷)・ジュッケンドー・ホンタ(本田)・タイゴバタ(谷ゴバタ)

脊振村小字下り谷のうちに、ヌストデン、クダリタニ(下り谷)

大和町小字大楮のうちに、マエダ、タロクロ、テーノモト、カキノキジャアラ(柿の木平)、ニシ(西)

 

しこ名なのか、屋号なのか判別のつかないもの

大和町小字大楮のうちに、ギットンサン(かつて水車小屋をそう呼んでいた。水の神様祭りで供え物をお供える場所となっている)

感想

比較的若い方からの聞き取りだったので、本格的な聞き取りの前に集落の中を歩き回れたのが大きかった。また、干し柿を吊るしたりする作業を手伝うという機会にも恵まれ、非常に楽しい調査であった。

しかし、帰ってきて聞き取り音声を確認するうち、なぜこれを聞かなかったんだろうという点が多々あり、まだまだ調査不足である感は否めない。

以上