少人数セミナーレポート
1、 調査日
2006年12月3日
2、 調査場所
脊振村森山地区(佐賀県神埼市脊振町大字服巻)
3、 担当者
高田 健太郎(1SC06151R)
深江 脩紀(1TE06176M)
4、 調査に協力してくださった方の名前
園田 稔 さん(昭和3年生まれ)
5、 調査の目的
脊振村は、圃場整備や、過疎化、ダム建設などでこの30年間に相当な変化があった。こうした変化に際し、失われたものを記録し、記憶する。すなわち以前の状況を残す作業を行う。その作業を通じて半世紀前に青春を過ごしたひとたちの生活と、現代の生活の差を考える。直接にたずね、質問する中で、先輩たちの過去の暮らしを考え、またそれ以前の人々の暮らし(歴史)を考え、さらに自分たちの暮らし(現在)を考える。ガスのなかった時代、電気のなかった時代、マッチのなかった時代、牛や馬がトラクターであり、車であった時代を考える。青春を戦争の中に過ごし、肉親、愛する人を失った人たちの気持ち、それぞれを追体験する中で、現在を考える。
6、 むかしの地名について
6、1山、谷の地名
まず、聞き取りを行った園田さんの家周辺にある場所の地名について話してもらった。
園田さんの家がある、森山地区の北側にある谷について。
小字尾平のうちにウータイ(大谷)、ウランタイ
さらに、ウータイからシシマイイシ(獅子舞石)に抜ける尾根の中で、少し低まったところをヤマギ(山城)
山口から、ウータイの方に抜ける、急な登り斜面をヒャーガクラ
昔の県道(明治より前に存在した道らしい)の、フラン(地図上にはフルワン:フランは旧県道上ではない)から少し上ったところに、ハッチョウザカ(八町坂)
語源について、話してもらったものとしては、
シシマイイシ(獅子が口をあけたような形をした大きな石があったから)
ヒャーガクラ(這い上がらないと登れない急な斜面だったから?)
ハッチョウザカは、おそらく距離を意味する「八町」から来ていると思われるが、どこから測って八町なのかは不明
6、2川の地名
服巻周辺にある川の地名について。
天神橋の少し川をさかのぼった所に、昔発電所があり、その近くの川の深くなっているところがフチンモト
大作橋の上流側に、昔神社があり、その近くで川が深くなっているところがミヤンフチ
フチンモトには、川に橋が架かる以前は石飛(川を横切れるように配置した石)があったところに、発電所ができて、早い時期から電気は通っていた。
ミヤンフチ周辺にあったという神社はかなり前に焼失してしまい、鳥居などの燃え残ったものの一部は、服巻の公民館に放置されているらしい。
また、園田さんは子供のころ、ミヤンフチで川遊びをしていたらしい。
6、3田の地名
森山の集落周辺と、森山の集落の人たちの田んぼについて。
尾平のモンノウチは、集落のやや上ったところにある地名であった。
使用した地図で、モンノウチと書かれた場所は正確にはニタンハル(二反原)
ニタンハルの下はサンマイダ(三枚田)
尾平のウラタは、ウラダの誤り。
服巻の川の合流地より、尾平から流れくるほうへ、やや上ったところの西側に、コガワ(小川)、タズル(タヅル?)
シシマイイシの対岸の田を、カマンハル
カマンハルから、平松側に川をさかのぼって、大きく蛇行した内側の平らな土地はカッチャーと呼ばれ、昔は田んぼだった。
カマンハルから、竜作方面に川をさかのぼると、北側に蛇行したところがあり、その北側の田んぼをキリムシ
キリムシからさらにややさかのぼったところの北側に、ゴゼンイシ(御膳石)
ゴゼンイシのさらに上流の、荒田と竜作の境界付近の田んぼをカマクズ
サンマイダは、3枚の田んぼがあったからだと思われるが、園田さん夫妻が記憶している当時から5枚以上あったようだ。
カマンハルは、鎌を使って切り開かないと進めないほど草が生い茂っていたからではないかと推測されるが、正確なところはわからなかった。
ゴゼンイシは、そこに大きくて平らな石があったことから名づけられた。
カマクズは、さらに東側にも同じ地名があるが、園田夫妻が主張した場所はそこであった。竜作地区の人の言うカマクズとは別の可能性もある。
6、4取水地の地名
森山集落の人たちが使っている取水地について話していただいた。
フチンモトの対岸にアラヒラ
アラヒラの上流にゴジロ(古城)
ゴジロが森山集落の取水地で、かつてはよく水漏れしたり、それを直したりしていたようだ。現在はコンクリートのため、そういったことはほとんどやっていない。
取水地ができる前は、ウランタイのすぐ下に堤を作っていた。また大作地区にも同様の堤があった。
6、5そのほかの地名
フチンモトの石飛から堀切にかけてがヨケイバ。昔の県道であり、佐賀の殿様を始め、多くの人の休憩所であったため、休憩するという意味の「よくう」場からの由来だと思われる。
ハッチョウザカから森山集落に向かって走っていたという県道上の、今は竹林となっているところに、フルヤシキ(古屋敷)。昔は屋敷があったらしい。
大作のナエシロダの、現在の道を挟んだところを、シロアト(城跡)
城があった当時、矢を放ったときに、その矢が落ちたところをヤオチ
なお、ヤオチは、地図上に乗っていたヤオチヤマのことではないかと思われる。
7、 むかしの暮らしについて
事前に担当の教授に渡されたマニュアルを基に聞き取りを行った。
聞き取りを行った森山地区では、かつて炭焼きは行われており、園田さんも昭和20年前後に炭焼きを経験していた。森山地区の場合、炭焼きは集落の裏でやっていたらしい。やはり収入はある程度あったそうだが、失敗もあったそうで、燃やしすぎたり、逆に足りなかったりすると色が悪くなってしまうそうだ。それを防ぐため、炭焼き釜に10cm四方の穴を開けたところから、中の状態を見たり、煙の色を見て焼き加減を調節したりしていたそうだ。
木は、場所までは聞けなかったが、1.2-3mの長さに切って、背負って運んでいたらしい。牛に車力を引かせて運ぶこともあったが、川流しは行われていなかった。
田んぼは、50年前も基本的に現在と同じ水源から水を引いてきていた。旱魃のときは、ため池などを作っていたらしい。
田んぼでは、二毛作も行われており、主に麦がほぼすべての世帯で作られていた。
米の収穫は、現在は良い田では1反当たり10俵。昔は4-5俵。悪い田では1-2俵。麦は、自分で食べるためのものだったので収量は不明。蕎麦は、近くの野っ原で作っていたらしい。
また、悪い田では、収量が見込めないのは判っていたので、昔はウサギ用の罠を仕掛けていた。現在はウサギの代わりにイノシシが出るようになったらしい。
稲の病気で代表的なものは、やはりイモチ病。また、害虫も多かったようで、今は農薬を使っているが、昔については分からなかった。
米の保存に関しては、甕や缶の中に入れて保存するそうだ。甕や缶の中に入れておけば、そう簡単にねずみは入らないそうだ。それとは別に、昔は猫を飼っていたようで、園田さんは、今も猫を飼っている。また、不作時に備えて、米は1年分余計に保存しておくらしい。
共同作業はあまり盛んではなかったが、親戚同士でのカセイはあった。さなぶりも行われており、自分の家で料理やおはぎ、また、お酒も飲んでいた。
園田さんの家でも、牛を2頭飼っていたようで、夏場は馬を借りた(預けられた)。
えさはいろいろな草きり場からとってきたらしく、干草や稲わらを混ぜたものを冬場のえさとして使い、牛には切って出していたそうだ。
牛を操るときの掛け声として、「せ」は「急げ」、「と」は「止まれ」。また、1本の手綱で牛を操っていた。手綱は牛の右側にあるため、左へ向けるときは体をたたき、右へ向けるときは手綱を引っ張って操ったらしい。
牛、馬ともに洗っていた。馬はあまり使っていなかったため、洗うのは毎日ではなかった。牛の場合は、汚れたときに洗っていた。洗った場所はどちらもフチンモトだったそうだ。
山焼きは、村有地でしかやっていなかった。林業としてはスギ、ヒノキを植えていて、それなりの収入は得られるため、あまり大きく育てないうちに出荷していた。
カゴがウータイやウランタイでは植えられていて、切ってからその皮を売っていた家庭もあったらしい。山栗はあったかは不明。カンネはあったようで、自分の家で消費していた。カシの実は拾って食べたかもしれないとおっしゃっていた。ほかの山の幸としては、山芋を掘ったり、草の多いところではワラビやゼンマイも自生していて、それを採っていた。
川にいる魚としては、ドンポ、ハヤ、ヤマメ、アブラメ。今は、護岸工事のせいか、どれもほとんど見られなくなったようだ。川の毒流しについては「聞かんかった」とおっしゃっていたが、上流のごみ処理場ができてから、汚い水が流れてきたときはとても驚いたそうだ。
干し柿は、脊振村に着いてから至るところで干されていたが、園田さんのところでは、今年は採れない年だったそうだ。干し柿は、柿の皮をむいてから、カビ止めのために一度硫黄で焼くのだということを教わった。
森山では、山に生えているキノコはシイタケとアカナバを食べていたそうで、山に生えているものは、それ以外採らなかったそうだ。また、アカナバは、小笹の生えているところはえているらしいのだが、最近ではその小笹がなくなってしまって、アカナバが取れなくなってしまったそうだ。
農業を行なううえで、台風の災害は一番辛い。でも、豊作に恵まれた時はとてもうれしい。
昔の暖房は、ゆるい(いろり)とこたつ。また、土間のかまどの熱でも暖は取れるそうだ。
村には、主に唐津から行商人が訪れ、今も来るそうだ。背振は山の中のため、海藻類や魚介類は自給できないし、農業を営んでいるためにあまり肉類を得られないらしい。行商人は、時にはシオクジラを売りに来ることもあるらしい。薬売りは、イレ薬を売る。どこから来たかは知らないが、「富山のハンゴンタン」だけは覚えている。
森山にも医院があった。現在、服巻のバス停があるところの近くに昔医院があった。また、今は空き家になっているところに昔、もやい風呂(共同風呂)があったらしい。
蓑を直したり、売ったりする、ゼンモンさんは、大作橋の橋げたの下でナベカマ持ってきて野宿していたらしい。
園田さん自身、若いころには青年宿で過ごしたことがあった。男性だけで構成される青年宿は、上級生からさまざまなことを教えてもらう場所で、時には無理難題を命令されたこともあった。干し柿泥棒や西瓜泥棒、また、「よばい」も上級生命令だったという。そのせいか、「よばい」が成功することはほぼなかったらしい。また、西瓜はこの地域ではあまり作られていなかったらしく、後に嫁いできた奥さんは西瓜を作っていたこと自体初耳だったようだ。
園田さんの若いころ、恋愛は御法度だったらしく、森山地区では恋愛結婚した人はいなかったとのこと。ただ、周りの部落では恋愛結婚した人も存在したらしい。
昔は地域の祭りも多かったらしい。だが、現在は殆どが廃れたため一部しか思い出せなかった。3月25日には「天神さん祭り」、7月25日頃(こちらは日にちまでははっきりと思い出せなかった)には「祇園さん祭り」が行われていた。どちらも酒が飲める場だったため、かなり活気に満ち溢れていたものだったらしい。そのため、祇園さん祭りの時には喧嘩があったと園田さんは記憶している。また、祇園さんでは浪花節なども行われていたそうだ。
森山地区では格差といったものはなかったとのこと。せいぜい昔の住民台帳に「士族」などと書かれる程度だったらしい。よって村の祭りの参加・運営に関して不平等はなかったらしい。
フラン(フルワン)には昔、薬師様が祭られていたところがあり、当時は医院と、その周辺の家の子供たちが日曜日に掃除をしに行っていたらしい。しかし、今ではそれは行われていない。
森山にガスが来たのは遅く、昭和35-40年頃だったそうだ。しかし、近くに発電所ができたため、電気が通ったのはとても早く、大正の終わりごろにはすでに電気は通っていた。また、水力発電だったらしく、そのおかげで水路が発達し、その水路が農業に転用されるようになったらしい。
大正の終わりごろに発電所が出来たということもあり、今の道と昔の道は同じだそうだ。地名調査の際におっしゃっていた「県道」は、明治以前の道だそうだ。
第二次大戦は、脊振にも影響を与えた。山一つ隔てたところに福岡があったため、福岡への空襲の誤爆とみられる焼夷弾が落ちてきたこともあったそうだ。また、被害は焼夷弾だけでなく、戦死した方もおられた。事実として、園田さんの2人の兄も戦争で帰らぬ人となった。
また、戦中には出兵のため農業の手が足りなくなることもあったため、疎開してきた人に土地を貸していた。
戦後の食糧難の時には、犬を食べることはなかったらしいが、猫はあったらしい。だが、臭いがくさくてあまりおいしくなかったとのこと。また、牛をさばいたこともあったらしく、園田さんは参加しなかったそうだが、近所から持ってこられてその肉を煮炊きしたそうだ。
脊振は戦後、過疎化などで、人口も家も半分以下に減ってしまった。今住んでいるのも高齢者が多いようで、これからも過疎化が進んでいってしまうだろうと園田さんはおっしゃっていた。
8、 反省と考察と今後の課題
今回の聞き取り調査をいったとき、園田さんにお会いした最初に、ちゃんとした自己紹介が行えなかった。幸いにも向こうが気を遣ってくれたお蔭か、お互いに話しやすい雰囲気ができたため、聞き取り調査に支障がなかった。しかし、最初に形式的なものであれ、お互いに自己紹介をすべきであった。結果として、園田さんの奥さんの名前を聞き逃してしまったため、本書で挙げることができていない。
園田さんの属する部落の外についてはあまりご存知ではなかったようで、今回の聞き取りは、比較的狭い範囲を重点的に話していただいた。だがそれでも多くのことが分かったのだが、その中にもいくらかの謎があった。地名を聞いていた際に出たものとしては、
ハッチョウザカはどこから測って八町なのか
「カマクズ」という地名が、元はどこにあったのか
「カッチャー」、「カマンハル」の由来 など
後者2つについては、竜作地区の聞き取りを行えばわかることがあるかもしれない。
また、昔の暮らしについての聞き取りを行った際に出てきたものとしては、
ゼンモンさんや、薬売りがどこから来たのか など
また、河川の開発などでかつて川に棲んでいた魚などの生き物がいなくなったり、話の中でも出てきたが、上流のごみ処理場からの排水で川の魚に影響が出たりと、近年の人間の開発で森山地区を流れる川の生態などが大きく変わってしまったようだ。こういった貴重な話が聞けたのは、とても重要なことであった。