背振村倉谷地区 現地調査レポート
1TE06817T 三木由希人
1DS06064K 中橋さゆり
話を伺った方:森崎純夫さん(75歳、1931年生まれ)
しこな一覧:ジャダイ(大蛇の意)・キュウイガマ・ヒロタキ(広滝)・ハラマキ(服巻)・ロクロ・マコロビ(馬転び)・マッコウチ・ホイキ・カワムコウ(川向こう)
基本的にあまり具体的な地名は語られなかったが、それらにまつわる様々な話を伺うことができた。
・炭焼きについて
炭焼きは自家生産でやっており、収入もそれなりに良かったという。
炭焼き小屋を建てるのは大変なので集落全体の人が協力して建て、共同のものとして使っていた。原料となる木を運びやすく、集落からも近い場所を選んで建てた。
着火はマッチで行っていたらしい。炭を焼くのには数日間夜通しで火の番をしなければならないので大変だったという。それでもある程度慣れると、燃やしすぎて灰になるといった失敗はほとんどなくなる。ただし、小屋の下部で立てている木は中心部が生焼け状態になる。
出来上がった炭は、今はダンボールに詰めて運ぶが、昔は藁で束ねて背負って運んでいった。藁袋の大きさが決まっているため、必然的に焼く木の長さなども注意する必要があった。
材料になる木の切り出しは人が担いでいたそうだ。川があるが、急流なため川流しはできなかった。
実際に炭焼き小屋を見せていただいた。小高い丘の上の広場になっている所だった。つい最近炭を焼いたらしく、出来立ての炭があった。詳しくは別紙参照。
・田植えについて
昔は田んぼもあったが、減反などにより今はほとんどない。しかしそのほとんどに名前がついていた。(例:馬がよく転ぶところがマコロビ)
苗代田を近くに確保していた。
他所から水をひかない限り、水はあまり豊富でなかったそうだ。そのため水喧嘩(水争い)もよく起こった。高いところの集落が水を使ってしまうので山麓では水が来にくく、田を植える時期が遅くなり喧嘩の原因となったらしい。なので、竹でパイプを作り上部の水をこっそりもらっていた(森崎さん本人はしなかったとか)。
稲の病気にはイモチ(稲熱:穂が枯れてしまう)などがあった。今は苗の時点で加工することで病気を防ぐことができるので、消毒しているところは少ない。
脱穀は足踏みでやっていた。また、米の保存は、昔は家族が多かったため一年分保存していたが、今ではまとめてとれた時に保存する。
・家畜について
家畜は馬より牛を多用。馬は走るのが速いが、小回りがきかない。このあたりではほとんど牛を使っていた。「牛は財産やったけんね。」今でいう農作業用機械であり必需品だったのだろう。
一本の鞭のようなもので叩いて歩かせ、鞍をつけて稲などを運ばせた。
牛の餌には田んぼの周りに生えていた雑草を勝手に食べていた。「どうせ雑草は切らなきゃならん」ため一石二鳥ということだろう。また糠も餌になっていた。冬には干草に藁を混ぜたものを食べさせる。夕立があると濡れないように急いで取り込んだという。
発情期には雌雄どちらでも暴れ出すが、雄牛は去勢するとおとなしくなる。今は人工授精だが、昔は種牛を使っていた。産ませる時期も考えて子作りをさせたという。
ウノ牛という呼び名が定着していた。夏場はダニなどをとるため必ず牛を洗う。また、バクロウと呼ばれる家畜交換屋もやって来たという。
・その他農林業について
終戦直後の昭和20年頃には焼畑が流行った。藪を切り、延焼しないように山の上から順に焼いていった。灰は肥料になり、大根・小豆・菜種、また傾斜部には里芋も植えていた。
山にはどんぐりなどがあったそうだが、殆ど食べなかったらしい。椎の木が宮にあり、クヌギは今でも植えたりする。
植林する前はウド・こんにゃく芋・山芋・葛・猪などがとれていたそうだ。現在もビニールハウスの裏に猪用罠(金網の中に柿の実を入れたもの)がしかけてある。
川には魚はほとんどいなかったらしい。砂防ダムなどが原因か。それでも「あぶらめ」という魚や鰻、毛蟹までいたという。
道端や民家の庭にはたわわに実をつけた柿の木がたくさん生えている。干し柿を作っている家もあった。おやつに柿をいただいたが、とても甘くておいしかった。
農林業の楽しみ、苦しみなどは「とりたてて(あったという)感じはしないばんね。」しかし実際は、少子高齢化など深刻な問題は多そうである。「過疎化はもう止まらないと思う」と残念そうに語られた。福岡までバス通勤していた者もいたが、それぞれ所帯をもって出て行ってしまったらしい。
・生活などについて
山伏が英彦山からお参りに来たり、逆に集落で篠栗(飯塚)や諏訪(唐津)へお参りに行ったりしたこともあるようだ。
若いころは青年クラブに属していたそうだ。現在公民館になっているところで、消防の詰め所も兼ねていたという。狭い部屋に布団を敷いて寝たので、靴下がとても臭かったと楽しそうに語られた。上級生の布団も下級生が畳んだなど、上下関係はそれなりに厳しかったようだ。しかし皆で肝試しに行ったり隣の畑から作物を盗ってきたりと仲は良かったらしい。風呂は共同で混浴の五右衛門風呂があり、伝言板や集会場にもなっていたという。ちなみに夜這いについては訊いていない。
昔はやはり結婚は見合いが多かったそうだが、近所同士の恋愛結婚も一応はあった。尚、森崎さんの奥様はここ出身の方ではなく、外地から来られたらしい。
終戦後、神社や寺は法的に所有でできなくなったそうなので祭りはなくなったが、田んぼを持っていた所では6、12月に米がとれたら3つ祭りがあった。
犬を食べたこともあったという。犬の首に縄をかけて橋から落としたり、目隠しをして叩き殺したりしたそうだ。
倉谷地区に電気やガスが来たのは意外と早く、とくに電気については発電所が下流にできたので昔からあったらしい。また各家に屋号などはついていなかった。旅館など特別な施設のみだったという。
少年時代が戦争中ではあったが、特に戦争で大変な目にあったとは聞かなかった。山村にはあまり影響はなかったのかもしれない。
・最後に
この現地調査実習を最初聞いたときは、とても大変なことのように感じた。しかし実際に行ってみると、普段は知らなかった山村の生活、昔の暮らしを聞くことができて非常に有意義であった。お伺いした森崎さんは75歳というご高齢にもかかわらずとてもお元気で生き生きとしており、楽しそうに語って下さった。ただ調べるだけでなく、実際に生き字引に会って生のお話を聞くことで、他では知り得なかった貴重な体験ができた。
最近の平成市町村大合併で、いま日本からは古い地名が続々と消えつつある。確かに地名とはそもそも、その地に住む人たちが使いやすく親しみを持てる名前であればいいのだが、それと過去の歴史を無視することは違う。無機質で安易な合成地名や商業用地名が氾濫する現在、このような形で古い土地を調査し記録することはとても大切なことだ。古いものはただ淘汰されるだけの遺物でなく、先人が我々に遺した財産である。そう考えることを忘れずにいたいものである。