「地名の歴史学」現地調査レポート

1LA06167S 宮脇千聡

共同調査 石垣竜

調査地区:背振町服巻田中地区

【一日の行動記録】

9時15分に九州大学六本松キャンパス正門に集合し、大学のバスで背振町へ出発。10時30分過ぎごろに背振町に入り、他の地区担当の人が次々とバスから降りていった。私は最後から2番目に降りる田中地区担当で、下車したのは11時30頃で、当初の予定よりは遅くなったが、お話を伺う予定の納富さんとはもともとそれくらいの時間で、ということだったのでかえってちょうど良い時間についたと私たちは思った。一緒に調査をする石垣君は久しぶりの山道での車移動で酔っていたが、この冬一番の寒気の中で体を動かしたら良くなったようだ。バスを降りると雪がちらほら、というより視界が降雪で白いほど寒かった。後で伺ったところ、背振でもこの田中地区は寒いほうで、しかもこの日は今期一番寒い日だそうだ。

田中商店前でバスから下車したが、事前にもらっていた地図を見ても自分たちの現在位置がわからなかった。田中地区だから田中商店なのか、それとも地図に載っている田中さんが経営している田中商店なのか判断できなかったのだ。そこで、商店と道向かいのお宅から調度お婆さんと付き添いの方が出てきたので納富照海さんのお宅の場所を尋ねると「この道を真っ直ぐ行って左折していくと公民館の手前にあるから」と教えていただけた。地図を見ると確かにそのようになっていたので、教えていただいたように歩いていった。納富さん宅のチャイムを押すと中から元気な小学生ほどの男の子が出てきて、照海さんがご在宅か聞いたらお祭りに出ているとの返答だった。事前に納富さんから連絡を頂いた際に「当日の昼は収穫祭があって皆でご飯を食べるからその場においで」と言っていただいていたのでお祭りに出ていたことには驚かなかったが、お祭り会場を知らなかったのでどこへ行けば良いのか思案していると、子供さんに続いてそのお父さんが出てきて、お宅前の道を登っていったところにある背振神社でやっていると教えていただいた。

道沿いに歩いていたが、どこに神社があるのか自信がなかったため、偶然家の外に出てきていたお婆さんに神社の場所を尋ねると、家の脇の道を指し「ここを真っ直ぐ行けば着きますよ」と教えていただき、進んでいった。…が、教えていただいた道は明らかに公道ではなく、そのお婆さんのお宅の畑へ続く私道で、実際、気がついたら白菜畑の中を歩いていた。「地域の人たちはこの道を通って神社に行っているとは思えないけどなぁ」などとお互い疑問に思いつつもワクワクしながら歩いていくと、結局先ほどまで歩いていた道路に出た。なんだ、そうだったのか。

神社につくと皆さんが焚き火に当たっていて、私たちをみとめた納富さんが近づいてきて、お祭りが少し遅れているから申し訳ないが少し待ってほしいとのことだったので、私たちも参拝した後に本殿の中で神事に参加させてもらった。地域の人と共に正座して神への報告・感謝などをし、神主さんが2級の上という階級に昇格したお話などを聞いた。その後、お神酒と(お清め?)の塩、煮干が振舞われ、せっかくだからと私たちにもそれを勧めてくれた。そして公民館でご飯を食べるということだったのでそちらへ戻った。公民館は納富さん宅の敷地続きですぐ隣にある。

公民館に着くと納富さんから何を聞きたいのかと尋ねられたので調査目的を言うと私たちが持参した地図を見ながらもう一人の長老のような存在の方とともにいろいろ地名を教えてくださった。公民館内で地区独特の儀式があるから外で待っていて欲しいとのことだったので、屋外の、熱燗を作ったり奉納されていた大きな鯛を網焼きしているところで待つことにした。そこでは納富さんの息子さんともう一人若い男の人が作業をしていたので、そこでも少しお話を伺った。室内では地区役員の交代儀式が行われていて、熱くした日本酒をお椀いっぱい飲み干すのだという。これを「ツウワタシ」といって、有名な伝統儀式で数年前にNHKで紹介されたりした。お酒の用意ができたところで石垣君が地元の人と一緒に様子を見てくると言って中へ入っていった。私は外でお話を聞いたり鯛の番を見ていて欲しいと言われて残った。

始めは鯛を焼いていた人と調査内容や大学での話をしていたが、その人のお子さんのおむつ交換の為にお宅へ戻られたので、私は一人で鯛と熱燗の番をしていた。何故こういうことになったのか自問自答しつつ、誰も火の番をしないことは不味い様な気がして石垣君が戻るまでの間は鯛のいいにおいでもかいで待っていようと思った。・・・が、彼はなかなか戻らず、2回目のお酒の用意が済んでしまった。痺れを切らした私は公民館の中に入っていき、もう一人の大学生を見かけなかったか尋ねると、「あぁ、あなたの連れならそこで皆と溶け込んでるよ」との返答。見てみると確かに、楽しそうに話をしている彼がいた。私が行くと「あ、ごめん、ワッキー(私の通称)のこと忘れてた!」の一言。半分呆れて半分怒った。背振町で鯛の番をするなんて一生に一度の経験だと思うので、別に良いのですけどね。何はともあれ、私も儀式の場にいさせてもらい、そのまま地元の方々のお話を聞くことが出来た。儀式で熱々にしたお酒を飲んだ人は皆さん出来上がってしまっていたが、わいわいとにぎやかで楽しそうにしていた。飛び入り参加の私たちにも積極的に声をかけて来てくださり、私たちも貴重で楽しい時間をすごせた。「骨酒(コツシュ)」といって先ほど炭焼きしていた鯛を皿にのせ、熱燗を上から豪快にかけたものも振舞ってもらった。すごく美味しい鯛だった。また、神社に奉納されていた炊いたご飯を円錐状に固めたものも皆さんに分けられた。集まった人の中には神社に行くときに道を教えてくださったお婆さんや、神主さんの姿もあった。皆さん優しくて世話好きな方々だった。話の内容は後述します。

お話を三時過ぎまで伺い、途中で合流したほかの地区担当の学友と共に田中商店まで戻った。せっかくだし、お腹も空いていたので商店に入ってみた。中には優しそうなお婆さんがいて、地元の名物で長期保存の効く鯨肉の塩付け「潮吹き鯨」の解説を受け(製造地はなんと福岡市東区箱崎で九州大学のご近所だった!…山間の地区なので昔は塩付けの魚のような海産物しか手に入らなかったのだろう)、お菓子などを購入して外へ出た。店の外にあったベンチで食べていると「外は寒いから中へどうぞ」とお婆さんが言ってくれたのでお言葉に甘えて3人とも中へ。店内のいすに腰掛け、お婆さんから彼女の身の上話や戦争時の思い出を伺った。優しく丁寧に話をしてくださる素敵な方だった。また、儀式の際に出たお弁当などはこの田中商店が仕出したものだった。

しばらくしてから商店を後にしてバスへと乗り込み、他の地区の人を回収した後に九州大学へと戻っていった。行きは石垣君が酔ったが、帰りは私が二重に酔って辛かった。大人が儀式・みんなで食事という際には必ず出てくるものがあり、地域の方にそれを勧められたら喜んでそれに答えなくては…。

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【伺った内容】

 まずは、持参した1/5000の地図を広げて地図に記載されていない地元の人が使っている地名・谷などがないか伺った。「よく調べられてる地図だねぇ」とのことだったが、やはりいくつか未記載や誤載だった。まず、背振神社のすぐ下に記載されているニンジュウはもっと北(山の上のほう)であり、城原と書かれている辺りの少し開けたところだそうだ。また、城原の南に記載されているレンジュウはニンジュウの間違いで、そのニンジュウとハナフカリの中間付近にフニャーシがあるのだという。ニンジュウから一山越えたところに貝吹谷(キャーツクダニ)があり、そこに田が広がるがタノコウチと呼ばれている。さらに、タノコウチから西へ一山超えたところの田が広がる谷間をヒコチンタと言うそうだ。田中橋の南にはアナンクチと呼ばれる田んぼ(場所)があった。背振山の山頂を嶽・上宮嶽・ベンジャアナン(弁財天)と呼ぶ。また、久保山を窪山とも書く。地図が最新のものでないからだろうか、現在、地図で背振村と書かれている文字の北側を舗装された道が通っているのだそうだ。この10〜15年ほどで道路整備が大きく進んだと何人かの方から伺った。確かに、地区の中を通る道は使用量が少ないからかもしれないが、平坦で色が均一で新しい感じがした。

 次に神事を行った背振神社とこの日のお祭りについて。背振神社は弁財天を祭った神社で、佐賀県内には海辺に3つ、山間部()に3つ弁財天を祭った神社があり、背振神社は陸のうちの一つで、5月3日の春祭りになると県内各地から多くの人が訪れるそうだ。この日にあったお祭りは収穫祭で最も大きな祭りなのだそうだ。ただ、祭りと言っても本来の意味での祭りであり、収穫物を奉納して神事を執り行い、感謝と地区の益々の繁栄を願うものである。だから、田中地区の人しか参加しない。ただ、地域一帯が収穫祭に当たる日で、ほかの地区でも皆で食事に言ったり、集まったりするそうだ。田中地区は人数も多く仲がよいので公民館に集まっているが、他では人が少なくなってきているので、これほど大々的ではないようだ。私が横座りでお話を聞いていると、せっかくなのだから弁天様の座り方をしなさいと、膝を高く上げた胡坐のような座り方を教えていただいた。この座り方を教えてくださった、物知りで世話好きなお爺さん(吉田さん:73歳、私ほどの年齢の女性に会うと「アイちゃん」呼ぶ癖があり、私にもそう声をかけながら、孫のように可愛がってくださいました。しかし、「息子の嫁に来ないか」とおっしゃっていましたが、息子さん方は皆さんお相手がいらっしゃいますよ!…ということで丁重にお断りしました)に私は特にお話をいろいろ伺った。

 

 次に生計を立てた手段について。現在も田中地区はほとんどの人が農業を営んでいて、お米のほかにはハウスでほうれん草を作っているそうだ。背振全体としてはピーマン作りに力を入れていたり、あちらこちらで干し柿を見かけたが、田中地区ではそうでもないという。多いほうとはいえ、田中地区でも人が減り、背振小学校久保山分校は廃校となって、現在は宿泊施設になっていると、久保山分校出身の方々が仕方がないと言った感じで、しかし少し寂しそうに教えてくださいました。お祭りでも高齢者の方が大半だった。

 もともとこの地区は林業が盛んで、現在は杉の人工林が多くを占めるが天然林を切り出して、炭焼きや材木として(加工はしない)出荷していたのだそうだ。若い方にはほとんど記憶がないことのようだったが、お年寄りの方は皆さんよく覚えていらっしゃいました。春から秋にかけては農業を行い、冬の収入源として林業を行っていて、地区の中で炭を作ったそうだ。炭焼き釜の火は明治の頃からマッチがあったのでそれを使い、煙の色で釜の温度を見て、釜ふみのタイミングを考える。また、日常で使う薪は山で拾って使った。山で切り出した木はドウビキといって牛を使って下ろした。トロッコもあった。地区には弱った牛の入れ替えなどをするバクロウがいて村人がなるそうだ。というか、祭りに集まった方の中に元バクロウがいた。これには二人とも驚いた。牛への指示として、ワーワー:止まれ、へセへセ:右、サシサシ:左という掛け声があって牛がそれを覚えることで操ったのだという。はっきりしないが、この言葉は韓国か中国辺りの言葉らしい。牛の餌としては「ワラチマキ(藁粽?)」を作って与えた。また、ドウビキ用の牛には牛用草鞋を履かせた。

 農業としては米の一期・一毛作で(麦などは作らない)、地面が砂地で水が溜まらずに常に新鮮な水を入れるために非常においしい米が取れるのだと、自信を持っておっしゃられていた。「ここ背振の米はうまい!」と皆さん口をそろえて言う。水は城原川上流から竹を割った管で引き、割り当てられ、止めるときは石で止めた。雨乞いなどはするまでもなく、雨が降ったという。田には一等田・二等田と別れていたが、現在では大して違いは無いのだそうだ。また、水がきれいなため昔は美味しい山葵が良く取れたそうだが、いのししに荒らされたり、乱獲されたりして今ではほとんど無くなってしまったと、怒り気味に語ってくださった。お話を聞いているととにかく水がきれいで土も良いため蕨やぜんまい・里芋などの山菜も美味でよく採れ、地元の人は漁や魚釣りはしないようだが、県外から多くの人がヤマメ釣りに来る。よって、川流しと言った風習も無い。山焼きの風習はあった。農林業で目立った害虫がいたか尋ねたところ「そんなものいないよ」と自慢げに・楽しそうに返事が返ってきた。両祖父母の家で農業を営んでいる私からすると意外な返答だった。

 お話を伺う中で多くの時間を割いたのが私も石垣君も夜這いに関してだった。お話を伺ったのが男の人がほとんどだったからかもしれないが、この話題が妙に盛り上がると言うか、続くのだ。もちろん、どんどん質問した私たちのせいでもあるのだが。この風習は日本各地にあるようだが、「よばい」「よばいえ:長野あたり?」と言われる。青年クラブといって、中学卒業後から結婚するまでの若い男の人が夜に集まって集団生活をし、そこで社会教育から性教育まで色々と先輩から習うのだそうだ。(注意:現在の青年消防団とは別物である)中学校を卒業すると成人とみなされて飲酒なども許される。色々なレクリエーションがあり、力石と言って10kgずつ持つ石を重くしていき、100s・50kgの重い石を持てるかどうか力比べをしたりした。昭和30年頃には飼い犬を食べることもあり、自分の犬がいなくなった子供が「うちの犬食っただろ」などと青年クラブのところへ来たり、「お前の家の犬今日食うぞ!」と言ったりしたそうだが、これも一種のレクリエーション。夜這いもまたそうで、大抵失敗するそうだが、事前に相手と話をつけて行くものであり、レクリエーションなのだという。それで何故失敗するのだろうと疑問に思うが、まぁ、とにかく十中八九失敗して逃げ帰る際に下駄を履く暇も無いので「下駄持ち」という下駄回収係りまで付いていくのだそうだ。下駄持ちは新米の青年クラブ員がやる。他にも雨戸を開ける係りなど細かく決まっていたり、廊下の真ん中はきしんで音がするから恥を歩けといったアドバイスもされ、万全な態勢(?)で夜這いに出かけたようだ。中には、結婚は決まっているが、結婚前に夜会いたいという場合に夜這いをする者も。公認の仲が夜這いをすることも多いのだと言う。ちなみに、わたしに夜這いの話をしてくださった方は失敗に終わっている。というか、成功したと言う方にお会いしていない!また、やはり昔に恋愛結婚は少なかったようで、相手は親が決めてくるのである。結婚が決まると、青年クラブの者が結婚式場(40年ほど前には公民館で行った)の火鉢に胡椒を入れるという悪戯をしようとし「やって欲しくなければ酒よこせ」と言われるのだそうだ。

 そのほかの生活に関することについて。移動手段としては村の中でも他の地域へも昔は徒歩で移動していたのだそうだ。山間の地区なので雪の積もる冬などは特に苦労したことと思う。車を使うようになったのは昭和42年以降のことである。おそらく、舗装された道路が整備されたのはもっと後のことだろう。田中地区にガスが来たのは昭和35〜40年にかけてで、電気は比較的早い時期だったが60Wしかなくて苦労したのだという。お風呂に関しては共同風呂が24件に一つや810件に一つなど様々ではあるが存在していた。菜種油や油の搾りかすで髪を洗っていたが、髪をそうやって洗うのは月に一度程度だったそうだ。先に記したように地区の人々は農林業に従事していたが、持っている田の多さや質で財産の多い少ないという違いが出た。

 公民館の壁に7枚ほど白黒写真が掛けてあった。どれも軍服を着て凛々しく写っている青年のものである。予想はしたが、伺ってみるとやはり大戦時に徴兵されて戦地で帰らぬ人となった方たちの遺影だった。この地区からも多くの人が徴兵されて、多くが生還したが、犠牲になった方もいた。戦争の話になると誰もが「あんなことしちゃいけないよ」と訴える。実際に経験した方から直に聞くと反戦意識が身にしみる。満州で終戦を迎えたお婆さん(田中商店で会った方)は、「埋葬の行列の中に偶然、連絡の付かなくなっていた従兄が遺骨となって運ばれているのを見つけた」「中国人の中にも引き上げ時にいなくなって寂しいと言ってきてくれた人がいた」、といった話をしてくださった上で「絶対に戦争はいけないよ」と何度も私たちに言った。

 この地区の人の名前まで載った地図を見ると気が付くのだが、昔からの人が多い地区の割りに皆さんの苗字が違うのだ。私の田舎などは墓地に行くと「宮脇家の墓」と言う奴がほとんどで、屋号を使わないと区別が付かないのだが…。伺ってみると、特に理由はないそうだが、皆苗字は異なるし、地区が親戚縁者の集団と言うわけではないのだそうだ。北九州出身の方や、東京生まれで戦時中は満州へ移って終戦時に背振に来たという方にもお会いした。こういうことも調べてみると興味深いかもしれない。

 

以上で「地名の歴史学」現地調査レポート(レポートの形式になってないが…)を終了

します。地区の皆さんがとても暖かく親切に対応してくださったおかげで楽しく興味深い貴重な体験をさせていただきました。また、「せっかく背振全体を調べるのなら町役場などで地誌を調べて全体的な基礎となる知識を得たほうが現地調査のときに色々なことが結びついて良いと思うよ。」といったアドバイスもいただきました。

 

連絡をして主にお話を伺った方:納富照海さん