歴史と社会レポート 於 三瀬村
1EC06080K 藤俊史
1EC06092P 永沼望海
1EC06094Y 成枝康平
12月3日に三瀬村へと、昔の地名や、その場所にまつわるエピソードを調べにその土地に住んでいらっしゃる人にインタビューをしに行きました。今回は雪が降るような寒さでしたが、インタビューを受けてくださった吉田さんのお宅はとても暖かく、インタビューも円滑に進みました。以下にインタビューの内容を報告したいと思います。
谷に特別な名前はあったのか?− ニシノタニという地名はあった。
炭焼きを行うような特定の場所はあったのか?− 炭焼きが行える場所であれば、どこでも行われていた。雑木林から木を昔は切り出していたが、杉やヒノキを使うようになったのは大正末期からである。
炭は焼いたのか?焼いたとすれば、自家生産ですか?ヤキコでしたか?− 炭はほとんどの百姓がやっていた。炭焼きをやらない人達は素材を他の百姓の人に売って焼いてもらっていた。カナダ産輸入材との競争に負けて、徐々に炭焼きをする農家は減っていった(収入は減った)。昔は国が補助金を出していたため、杉やヒノキを植える事を奨励していた。木炭を売るときは森林組合を通して、木炭の必要とする人に売っていた。木炭を作ることは農家の冬の副業であった。
炭焼きなどの仕事で失敗することはあったのか?焼きすぎたりする事は無かったのか?−炭焼きの失敗は無かった。火事さえ起こさない限り失敗は無い。隙間無く詰めて焼くことで炭を作る事ができた。
炭焼きがまの火はどうやってつけたのか?− 吉田さんの時代ではマッチは特に貴重な物資では無かった。
木を運び出す道はありましたか?− 自分たちで作っていた。炭焼きの場所はそのいろいろ変わるので、その都度作っていた。先に林の中に炭窯を作り、伐採すると同時に炭にしていた。
谷には特別な草や木はあったのか?− 林に行けば、そこに自生しているどくだみや柿の葉、せんぶりを煎じて薬にしていた。医者に行くにも丸一日かかるため、薬草をよく飲んでいた。そういう林は子供時代の遊び場はその林でもあった。ガキ大将や友達と一緒に行っていた。
川にはどんな魚がいましたか?川の毒流しはありましたか?− 鯉・鮠(はや)・鮒・ウグイがいた。たくさんいた。川の毒流しは青年が少しやっていた。取ってもバケツ一杯程度。
牛を歩かせたり、鋤をひかせたりする時の掛け声は?− 右が「へせへせ」で左が「どうどう」であった。
どうやって手綱は操作しましたか?− 一本の手綱で操作していた。
ごって牛をおとなしくする為にどうしましたか?−飼い主には従順だった。オス牛のほとんどは去勢していた。オス牛は気性が荒く、闘牛の牛とあまり変わらない印象であった。牛は頭がよく、しっかりと教え込めばちゃんと働く。
雑記@
牛について…牛は病気になったり死んだりしたら村のみんなで食べたり、村の人が助け合い肉を売りに行ったりして、その資金で新しい牛を買う資金の足しにしていた。しかし、牛肉は仏教では食べることは本来禁止されえていたため、本格的に食べていたのは終戦後であった。ただ、村の人は牛肉が栄養豊富である事を知っていたため、内々では食べていた。
川流しはありましたか?− 道の無いところでは川流しをしていた。大水のときは出来なかった。
路引きはありましたか?− あったが、トラックまでであった。オス牛に引かせていた。
旱魃の時の思い出は?雨乞いの経験は?どんなことをしましたか?− 旱魃は無かったが、4・5年に一度雨が少ない年があるので、佐賀平野の北端にある神社(名前不明)に半日がかりでお参りしていた。
むかし米は何当何俵でしたか?そばは?ヒエやアワを作った事は?− 米は一反あたり7〜8俵で、一等田の場所は現在のダムの下である。悪い田は5〜6俵程度の収穫だった。ヒエ、アワは自家用で少し作っていた。ソバは結構取れていた。
雑記A
収穫量について…昔は現在ほど三瀬村の米の収穫量は多くなかった。当時は長野県が日本でも有数の米の産地であった。又、三瀬村と長野県は気候が似ていたため(高原)、吉田さんが中心となって、長野県に三年間にわたり視察に赴き、その結果三瀬村の米の収穫量が一反あたり2俵ほど上昇した。
昔はどんな肥料を使いましたか?今は?− 牛糞、たい肥を使っていた。今はやはり科学肥料が主流である。
稲の病気はどんなものが?害虫駆除の方法は?− 稲の病気にはイモチ病があり、収穫直前に流行るので、みんな困っていた。害虫駆除の方法は、田んぼに油を引いて、稲を竹笹で揺らして虫を落とし、虫が油の中に落ち、殺すことで駆除していた。
共同作業はありましたか?− 無かった。
馬洗いをする場所は決まっていましたか?− 決まって無かった。川があればどこでも。
蹄鉄はしていましたか?− 蹄鉄は馬が歩くとき弱るので、していた。村には蹄鉄を付ける職人さんが一人はいた。
バクロウは来ましたか?− 三瀬村に2〜3人は来ていた。
山の中に田んぼはありましたか?草切山はありましたか?−山の中に田んぼはたくさんあった。特に名前は無かった。草切山は集落に一箇所あった。
薪はどうやって入手しましたか?− 自給自足であった。枯れ枝を集めたり間伐を利用して使っていたりした。他の村は都会にもって行き売っていたそうだが、三瀬村はあまりやっていなかった。
入り会い山はありましたか?− 集落ごとで違いはあるが、存在した。皆で共同で植林していた。現在の田ノ宇曽のあたりに存在していた。
山を焼く事はありましたか?何年荒らしましたか?− 造林の都度焼いていた。林を焼けば、土の栄養が豊富になる。畑を作る場合は主に里芋を作っていた。2〜3年荒らしていた。
ソバは何当何俵でしたか?− 具体的な数字はわからないが、かなりとれていた。
雑記B
ソバについて…吉田さんに教えてもらい、三瀬名物である、三瀬蕎麦を私たちは食べに行ったが、これが非常に美味であった。蕎麦の芳醇な香りがするとても美味しい蕎麦であった。ちなみにこのお店は吉田さんの息子さんが営んでいるそうだ。
草山を焼く事は?− 春先に共同採草地を焼いていた。
かごは取りましたか?− 昔は(吉田さんの子供時代)とれていた。今は取っていない。需要も少ないのでは?
山栗は?カンネは?山の木の実にはどんなものが?− 山栗は道でとれていた。村有林に栗がたくさんあった。カンネは集落によっては冬の収入源になっていた。山の深い集落ではカンネ堀りがあった。
樫の実は?椎の実は?どんぐりは?− 樫や椎の実は炒って食べるが、どんぐりは食べていなかった。
古賀の名前は?− 現在は残っておらず、名前は不明である。
おかしは?干し柿の作りかた、勝ち栗の作り方は?− お菓子はその辺にある果物や庭にある物を食べていた。干し柿の作り方は、まず皮をむいて一ヶ月干します。次に硫黄を下に置いて、燃やして燻す。硫黄を使うのは質を良くする事が目的である。
食べられない野草やキノコは?− 毒菜葉とよばれている。つまり毒キノコは食べられない。
米はどういう風に保存していたのか?− 米蔵があってその中にもみのまま保存していた。
ねずみ対策は?− 昔はねずみ取りを使用していたが、今は殺鼠剤を使っている。
農業、林業の楽しみは?− 収穫、祭り、お正月が楽しみ。苦しみは無い。重労働であるが、作物を育てて収穫する事は楽しい。
雑記C
祭りについて…私たちがインタビューに行った時ちょうど村で祭りが行われており。村の人は皆楽しそうに集まって歓談していた。また、吉田さんもその祭りに参加されており、午後からは少し酔っていらっしゃっていたが、とても楽しそうでした。私たちの住む地域では失われつつある風景であると思った。三瀬村は昔ながらの風習を残している大切な地域である。
昔の暖房は?− 昔は囲炉裏で暖を取っていた。今はコタツが主に使われている。
車社会になる前は?− 馬車がメインで、人力車もあった。
村にはどのような物資が入り、外からはどんな人が来ていたか?行商人、魚売りはどこから?カマドのお経をあげる目の見えないお坊さん(座頭さん)は?− 物資は生活資材、肥料、たい肥、草。外からは農業者や年雇いの男。魚売りは唐津から自転車で来ていた。座頭さんはいない。
薬売りは?− 置き薬を売りに来ていた。
昔病気になった時、どこで見てもらっていましたか?− 藤町馬場野の医者の所で見てもらっていた。
米を麦と混ぜる事はありましたか?− 4:6か3:7で混ぜていた。
自給できる食材と、できる食材は?− 自給できるのは魚で、できないのが、肉であった。
青年宿はあったか?− 青年宿は中谷にあった。男だけで、規律が厳しく。
上級生からの制裁があった。青年宿で寝るときの布団の使い方は下の図のような感じである。
力石は?− お宮に一つはある。力のある人は肩の位置くらいまでは持てた。
干し柿やスイカを盗む事は?− よく盗んでいた。学校帰りに盗んでいておなか一杯食べていたそうだ。
若者や消防団が犬を捕まえてすきやきや、鍋にした事は?− 若者や消防団で捕まえる事は無かったが他の機会に食べる事はあった。
犬がおねしょの薬にだと聞いた事がありますか?− おねしょの薬だと聞いた事は無いが、体があったまるという事はよく言われていた。
「よばい」はさかんでしたか?− 若い頃は知り合いがよく行っていたが成功例は聞かなかった。コンドームを耳に挟んで「よばい」に向かっていた。
もやい風呂(共同風呂)はありましたか?− どこでもあったが三瀬村には無い。
盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつ?− 楽しみだった。祭りは12月中旬、盆踊りはあまり無い。
恋愛は普通でしたか?− 普通だった。妊娠もたまにあった。その子供は夜這いの子として少し差別の対象となっていたようだ。
農地改革前の小作制度はどのようなものであったか?− 生産量の半分を地主に納めなければならず、かなり厳しかったようだ。
昔の神社や祭りの参加・運営は平等でしたか?− 平等であったようだ。
この地区にガスや電気が来たのはいつごろですか?− ガスが来た時は記憶にあまり無いが、比較的最近である。プロパンガスのみである。電気は昭和6年に引かれた。この時はみんな電気に驚いたようだ。
戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?− 戦争の影響はかなりあった。村の小作農家が自作農家になったのが一番の大きな変化であった。靖国の母については、差別自体がこの村では少なかったため、差別は無かった。
村は変わってきましたか?これからはどうなって行くのでしょうか?− 小作農家から自作農家への変化がやはり一番大きかったようだ。これからは農業生産が増えないであろうという意見であった。若い人は都会嗜好であるため、若い人が少なくなり。活気が少なくなってきている。跡継ぎがいないという所まではきてないようだ。子供を一人残して、後は都会へ出て行くようだ。
雑記D
戦争の思い出について…吉田さんの兄が、昭和17年にシンガポールの付近で戦死されたため、吉田さんは、それからパイロットを志されました。八幡製鉄所で、「無法松の一生」の作者で有名な岩下俊作先生にもっと良いとこにいけと激励されたため、製鉄所で猛勉強をし、クラスの100人中1位になって諫早のパイロット訓練学校に行き単独飛行の練習していたのだが、胸の持病が悪化してしまい、練習することもできなくなったため、パイロットの道を諦められました。それでも、諦められなかったため、海軍飛行整備兵として入隊されました。そして、そこで頑張られたため、幹部候補生になられました。その後、下仕官になられました。昭和20年7月に元山海軍航空隊に入隊されました。そして、シベリアに拘留されました。そこで、1冬を越されました。その間に材木などの伐採などをさせられていました。そこで吉田さんは、多くの仲間の死などを経験されたそうです。翌年5月の暮れに病人をつれて北朝鮮の収容所へ、その後、航空隊に復員されました。そして、終戦を迎えられました。終戦後、先生に汽車の中で説得させられたため、地元に帰られ、地元の教育委員会の教育委員長になられました。
最後に、今回のレポート作成の際にお世話になった吉田さん、ゆずりはさんをはじめとして、多くの三瀬村のみなさんに大きな感謝をいたしております。