【東松浦郡呼子町】

〜まちの形成と捕鯨の歴史〜現地調査レポート

1TE09229 池田達也

1TE09258 越智直哉

 

話者:橋本さん

 

 部地域からの人の流入である。九州の他地域をはじめ、山口方面、四国方面、近畿方面などの人が集まった。というのも呼子沖合の海は寒流の日本海流と暖流の対馬海流とがぶつかるため、漁場に適した場所である。その優れた漁場が、様々な地域の漁場を探し求めて旅をしていた漁師達を呼子に引き寄せた。このようにして呼子は形成され、その後は港や交易の要所、悪天候の際の避難港として栄え、それに伴い宿泊所が海岸沿いに立ち並ぶようになった。

 

<クジラ漁の始まり>

今では呼子といえばイカを特産品としており、全国的にも呼子はイカの町で知られているが、イカ漁の歴史以前には捕鯨が盛んに行われていた。そのはじまりは太閤豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代十六世紀末期にまで遡る。この出兵の中継地の一部になったこの地方にはその際に様々な地域のひとが集まったのだが、その中にいた紀州の人が捕鯨を呼子にもたらした。それ以来、呼子では捕鯨が禁止される昭和三十年代までクジラ漁が行われ続けた。

 

<クジラの加工>

 橋本さん曰く、クジラは捨てる部分が全くなくあらゆるものへと加工されていたという。食肉用としてはもちろん、農薬、行灯としての油、またクジラの油は凍りにくいことから日本北部で使用された機械の潤滑油としても加工されていた。加工品は九州内陸部や船による運搬で大阪方面やさらに東方に出荷された。

 

<クジラ漁の方法>

橋本さんは10メートルもありそうな長い古めかしい絵巻物を奥の方から取り出してきて、それと共に当時のクジラ漁や呼子のどこでどんな作業が行われていたか等について話してくださった。クジラ漁には多くの船と道具と人間を必要とした。だいたい五百人ほどが一組となって様々な役割を担った船に各々が乗り込んで漁へと出る。と呼ばれる見張り台 (呼子では小川島にあった)でクジラの群れを見つけるとザマミと呼ばれた見張りが合図を出し、待機していた船員たちが一斉に船を出す。まずはクジラたちを数隻で浅瀬へと追い込む。そこでは既にほかの船が網を配置して待機しており、そこに追い込まれたクジラを船の上から何本もの銛で攻撃する。最後に“ハザジ”と呼ばれる現場長がクジラの弱点部位に銛でとどめを刺す、という流れで行う。捕獲したクジラは港に運ばれそこで解体される。当時は「クジラ一匹とることができると六つの浦が潤う]と言われたほど経済効果をその漁団にもたらしたのだという。ちなみに、以前に捕獲した体長30メートルほどのクジラは最終的に30,000,000¥の利益をもたらしたこともあったという。捕えた鯨は小川島(写真1)に運ばれて解体作業が行われた。当時はこの解体場を納屋場と呼んでいた。

 

(絵図アリ・省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)

資料1(大地捕鯨絵図)クジラ漁の模様が描かれている

(絵図アリ・省略)

資料2(『肥前国産物図考』小川島納屋場、木崎盛軒著、1773年)クジラの引き上げ作業が描かれている

 

<中尾家について〉

呼子の町と、この地域でのクジラ漁の発展に大きな影響をもたらしたのは中尾家であった。中尾家は文禄3年中尾村で中尾の姓を名乗ったのが始まりで、呼子には元和8年に移ってきた。この当時は先にも示したように、太閤秀吉による朝鮮出兵に伴い呼子地域にクジラ漁が伝わってきていた。しばらくして初代中尾甚六により1690年に中尾家のクジラ漁の操業が始まった。その後八代中尾甚六まで続き、それがもたらす経済効果により呼子は発展をしていったという。中尾家は呼子ではかなりの地位を確立していたようで、今でも中尾家の屋敷跡が残っている。しかし、自分たちの目で直接屋敷跡を見ることはできなかった。というのも、この時はちょうど中尾家の修復工事が行われており、工事用の幕で四方を覆われていたためである。また、現在朝市通りと呼ばれている地域はその昔、中尾家のクジラ解体場であった(資料3)。

(絵図アリ・省略)

資料3(「小川島鯨観合戦」図)

(写真1:現在の小川島/写真2:中尾家屋敷跡)

写真1

(写真アリ・省略)

写真2

(写真アリ・省略)

 

午前は前述のような内容を語っていただき、昼ご飯をすませた後、午後からは午前中の話で出てきたいくつかの地に実際に行ってみることになった

昼ご飯には呼子ならではということで、橋本さんの奥さんにイカや魚をごちそうになり、その後再び橋本さんのパソコンでクジラ漁についての話を聞く。

クジラ漁のうたや最近ではクジラをみることはできないのかということ、また下の写真は過去最大級のクジラの写真である。

(写真アリ・省略)

橋本さん曰く、「今はもうクジラは見れんようになってしまった。」らしいがやはり地球温暖化のせいなのかもしれない。

しかし、一番最近とれたクジラは体長5mのシロナガスクジラで、当時500万円近くにもなったという。呼子の人々にとってクジラ漁がどれほど大きいものであるかを知らされた。

クジラの話を聞いた後、実際に呼子の土地を見て回ることになり橋本さんの車で出発する。

 神社や風車などほとんど観光名所巡りのような形になっていたが、例えば、神社にしてみても所々に中尾家と書かれたものがあり、当時の財力の大きさを思い知らされる。

またその中尾家であるが、中に入ることはできなかったが家の正面まで行くことができた。もちろん大きいことは当然ながら、その立地もまた当時の海岸線でいうと海に非常に近い場所にあり、過去のクジラヘの携わりの深さを感じることができた。

 橋を渡り、クジラ漁をしていた時そこからクジラを発見し狼煙を上げていたという島を見に行った。島の裏側は牧場になっており、海を一望できるその景観とともに観光地となっていた。

 

 今回の調査は、橋本さんは呼子の歴史の中でもクジラ漁に精通しているということだったのでこのようなレポートになり、地名を聞くことはできなかったが、イカとして知られている呼子の歴史的な姿を知ることができたのは非常によい経験になったと思う。