歴史の認識 地名調査レポート
場所 佐賀県呼子町大友地区
調査日 平成21年7月12日
安部将史 大久保諭生
7月12日、私達は佐賀県呼子の地名調査のため大友地区へ向かった。呼子は佐賀県唐津市の北西部、海に面した地域と山に囲まれた地域とを併せ持つ自然豊かな地域である。呼子といえば良質の烏賊の水揚げや、活気にあふれる朝市で全国的には有名である。我々がバスに乗って大学から呼子へ向かう際にも、幾つか漁港らしきものを目にしたし、烏賊の料理を提供している店を何度も見た。
前もって手に入れた地図では我々が調査する大友地区は海からそう遠くないように思えたので、てっきり海沿いを走っていくと思っていたが、徐々にバスは山の中へ。最終的に、我々がバスを降りたとき、あたりは山で囲まれており、海の気配は全くしなかった。少々がっかりしつつも、今回の調査で大友地区の地名、歴史などについて話を聞くべく、大友地区駐在員である小島さん宅を目指し歩き始めた。
しばらく歩くと、少しあたりの開けた場所があり、新しくきれいな家が建っていた。地図によると、そこが小島さんのお宅らしい。「大友地区駐在員」の札もかかっていたので間違いないと思い、「ごめんください」と中に声をかけてみた。すると家の方が出てこられたので、自分たちがこの地区の調査をしていることを伝えた。事前に送っていた調査に関する依頼書の返事がなかったので、届いてないのではと不安だったが、ちゃんと届いていたこともわかり一安心だった。その時、駐在員である小島さんはちょうど出かけておられたので外で暫く待つことに、すると、車で帰ってこられたのは、自分たちが予想していたよりもかなり若い方だったので驚いた。
家にお邪魔して、さっそくこの地域のことについてお話をうかがい始めた。はじめ小島さんはしきりに「大したことは知らんがねぇ」と仰っておられたが、話し行くうちに大友に関することが次々に出てくるようになった。
はじめにこの地域の歴史について尋ねてみた。すると、以前にこのあたりで遺跡が発見されたことがあったらしい。場所は大友地区から少し東の山間、その時は鹿児島大学から調査隊が来て地域の方たちと一緒に発掘調査を行ったらしい。遺跡はかなり古いものだったらしいが、現在は残ってないそうだ。詳しくは市役所に行けば調べられると言われたが、今回の調査の対象は遺跡だけではないので、次に大友地区の主な産業について尋ねてみた。
大友地区はかつて塩の生産が盛んだったそうだ。海に近いことから海水引き上げ、それを煮詰めて塩を作っていたという。昔はその施設が海沿いにあったそうで、レンガ造りの60〜70mにもなる高い煙突が2本立っていたそうだ。現在はし尿処理施設(写真1)がそこに建設されたため、跡形もなくなっていた。この塩を生産する施設が取り壊されたのはかなり昔のことらしく、いつごろだったかは小島さんにも分らないとのことだった。
また、海岸沿いには、太平洋戦争時に軍の施設であったと思われる、通信施設もあったそうだ。小島さんはそこを「海底電線」と呼んでいらっしゃった。そこには、太いケーブルが海岸から海に向かって伸びており、噂では朝鮮半島まで通じていたといわれていたらしい。調べてみると、大友から朝鮮半島まで直線距離で180kmほどあった。
(写真1) かつてはここに塩を作る煮詰め場があったらしい
これほどの距離を本当に通信用のケーブルが通っていたかは定かではないが、そこには通信基地があったそうだ。かなり大規模な建物で地下室もあったそうだ。小島さんは何度も広かった、大きかったと言っておられたので、当時ではかなり重要な施設だったと考えられる。また海岸にあったケーブルもかなりの太さのものだったとのこと。小島さんは子供のころ、よくそこで遊んだそうで、中の機材類は運び出され、ガランとした状態であったが、トイレや寝室があったそうだ。こちらも、現在は養殖場として建て替えられた後、養殖場も跡地となっていた。
塩の生産以外には多くの方が農業に従事されていたとのことだった。その多くは米を中心に生産しておりそれは商品として売られるものだったそうだ。そのほかには葉タバコが多く、そのほかキャベツ、芋、スイカ、梅、ビワなどが個人的に小規模で生産されていたそうだ(写真2)。現在も、若干の方が農業をされているそうだが、その経営状況は厳しく、ほとんどが兼業農家で働きに出ているようになっているそうだ。中には、作物を作らないと地力が衰えてしまうために仕方なく畑で作物を作っている家もあるほどだそうだ。地区内に畑は結構な数あったが、平坦な地形が少ないため、点々と地形の隙間に田畑が広がっているような印象を受けた(写真3)。ただ海沿いには開けた地形もあったので、そこにはある程度の広さのある田畑もあった。
大規模な漁は地区内に湾が無く、船をつないでおけない為、ほとんど行われることはなく、個人的に行われる素潜り程度の漁がおこなわれている程度だったらしい。そのほかには、磯が近いことからヒジキやワカメをとったりすることもあったそうだ。現在でも素潜りを行う方はいらっしゃるそうで、ウニやサザエといったものがとれる、豊かな海であることは変わりないようだ。
(写真2) これは梅の木 (写真3)
小島さんがおっしゃるには、大友地区周辺の雰囲気も近年かなり変化してきたそうだ。
上にも書いたように塩の生成場や通信施設は取り壊され、開けた原っぱだったところはきれいに整備され、し尿処理施設になったり、駐車場になったりと、昔の面影も残っていないところも多く、道に関しても、昔は道と言えるようなものはなく、移動手段は徒歩か耕運機にのっていたそうだ。
「大友」地区の隣には、「小友」地区がある。大友と小友は昔から仲が良いそうだ。スポーツ(運動会)などでは、大友、小友は人数的な問題もあり、一括りのチームで参加することが多かったそうだ。それは単純に名前からということらしいが、もしかしたら仲がよかった地域同士だったからこそ、そのような名前になったのかもしれないと、私は思った。また、小友地区はほかの地区から「友」と呼ばれているらしい。だが、大友は「大友」と呼ばれているという。小友は湾をもつため、大友よりも漁業が盛んであった。昔は半農半漁といった状態であったそうだ。小友は呼子では祇園山笠で有名で、毎年、旧暦の8月に祭りがおこなわれている。
大友地区でも、小さなお祭りのようなものは行われていたというが、費用などの面から、現在では行われていないものも多いとのこと。現在も行われているものとしては「おこもり」と呼ばれているもので、地域内の各家庭がそれぞれ料理など、酒の肴になるようなものを持ち寄り、宴会を行うというもの。本来は、厳かに行われるものらしいが、時間が経つにつれ、徐々に「地域で楽しもうか」という雰囲気になっていったらしい。現在は、年に2回ほど行われており、それぞれに「○○のおこもり」と名前が付いている。そして、「まといご」と呼ばれる、的を作り、海にその的を立てて、弓矢で射るという行事、それと、岡組と浜組の二つに分かれて綱引きを行い、丘が勝てばその年は豊作、浜が勝てば大漁となるという「大綱引き」が行われているくらいになってしまっているそうだ。それぞれはかなり昔から続いているものらしく、その由来は定かではない、しかし、「意味はよう分らんばってん、続けとるけんね。廃止してもよかばってん、なんか続けとるったい」という言葉を聞き、お祭りや行事というのは、受け継がれていくだけでも十分に意味があるのかもしれないと思った。
水に関して、大友地区はあまり恵まれておらず、田畑に利用する水というのは、ほとんど雨水のみで、神頼みのような状態だったということだ。川もパッと見ても見つけきれないような、小さな川が1本流れているくらい(写真4)で、とても利用することはできなかったという。ため池などがあったという話もなく、農家はかなり厳しい環境で農業を行っていたとみられる。しかし、雨乞いなど行ったことは行われていたという話は聞かなかったそうだ。
(写真4)この川が地区の境にもなっている (写真5)
海と違い、山にははっきり名前が付いていないので、会話内ではその周辺の屋号を用いて表現していたそうだ(地図に記す)。海岸の方(大友の北部)は下口、反対に、山側(南部)は「上口」とかいてカングチと呼んでいたそうだ。他にも「イワンウエ(岩上)」や「大辻」「藤の辻」など大友地区内の様々な場所を表現するために屋号が用いられていた。藤の辻はバス停の名前にもなっていた(写真5)。このように屋号で呼ぶのは、自分たちの地区内のみで、他の地区の呼び方はわからないそうだ。さらに、大友の方々の中にはお互いを名前以外に屋号で呼びあっている方もいらっしゃるとのことだった。これは、おそらく、地域内に同じ苗字の方が多い(その地区内で分家していくため)ことが影響しているのだろう。この屋号もかなり昔から呼んでいるものなので、由来があるのかもしれないが、今回の調査でそこまで調べることはできなかった。
大友は、呼子の中でも人口が少ない地区だった。話によると、はじめは9、10の世帯から始まったらしい。そのことは、大友地区のかつての土地割りの書類に「大友の地、代表1 他9」とあったことからわかったそうだ。そこから分家していき、現在は14の家で構成されている。
大友内に学校はなく、呼子に住む子供の多くが呼子小、呼子中に通っている。大友からは歩いて30分近くかかる道のりを毎日徒歩で通っていたそうだ。さまざまな地区から人が集まってくるため、そのつながりは、卒業後も呼子の町を支える基盤となっており、町全体が知り合いのようになっているそうだ。
大友地区から少し離れた所に、島があり、そこにある神社の話が上がった。そこ田島神社といい、このあたりでは一番高位な神社だという。この神社の宝刀が現在唐津城に奉納されており、一度盗まれてしまったことがあったそうだ。大友で神社を建て替えた際にお祓いをしてもらったそうだが、その時も田島神社からお払いに来てもらったそうだ。
畜産に関しては、大友は割と盛んだったらしく、昔は各家に牛がいたらしい。その牛は食肉としてのものではなく、子供を産ませ、その子供を売るための牛だったそうだ。大友は、呼子内でもなかなか良質の子牛の産地だったらしく、品評会で1位を取ることもあったそうだ。小島さん宅のそばには現在でも牛小屋があり、結構な頭数の牛が飼われていた。(写真6)
(写真6)
大友での生活において、買い物をするためには、呼子の朝市まで行かなければならなかった。なので、徒歩で呼子の朝市まで行き、買い物をして、帰ってくるということを毎日のようにしなければならなかったらしい。昔は、そのようにして多くの人が集まっていたので、規模も大きかったが、現在は規模が縮小してきており、近くの人たちが集まってくるくらいになってしまったという。かつては、生産した作物などを売る場でもあったので、ほぼ毎日通っていたとか。
ここ近年で一番変化があったのは、海岸沿いで、昔は全く舗装などがされていなかったという、現在は、きれいに舗装された道がたくさんあり、海岸もしっかりと整備されたところが多くなっている。しかし、海の綺麗さは昔から全く変わっておらず、小島さん曰く「この辺りの海では大友の海が一番奇麗かと自負しとるけどねぇ」と豪語されていた。そんな海にも少しずつ、環境の変化は現れているようだ。砂を利用するために、沖合から吸い上げるようになってきているらしいのだが、その影響で、海流が変化してきたような気がするという。このことには、地形の変化だけでなく、地球温暖化による海水温の上昇も関係しているのではないかと小島さんは仰っていた。近年では、沖縄にいるような熱帯魚が見られることもあるそうだ。このような要因のせいか、貝なども量が減ってきていると小島さんは友人の漁師の方から聞いたことがあるらしい。何と、全国的に有名な「呼子の烏賊」あまりとれなくなってきているそうだ。もちろん、技術の進歩によって、一度に大量に捕獲できるために、全体量が減っていることも関わっているだろう。とはいえ、現在も多くの方が烏賊漁によって生計を立てているらしい。烏賊漁が盛んなのは小友地区の北側にある鷹島のさらに北の海域で「小川」と呼ばれるところだそうだ。漁が盛んな時期になると、大友の海岸からでもたくさんの漁火を見ることができるという。しかし、ここでショッキングな事実を耳にした。最近は烏賊が足りなくなっているので、山口や大分の烏賊をもってくることがあるらしい。「呼子の烏賊」というブランドであるがゆえに、そのようなことがあるのかもしれない。
大友地区は、市町村の分割では呼子町の飛び地という扱いになっている。これは、もともと海岸にそって人々のつながりがあったためで、公道が整備されてから、公道中心に分割されるようになった際、呼子の飛び地という扱いになった。
話を聞き終わってから、我々は話の中にあったこのあたりで一番奇麗な海(小島さん談)へ行ってみることにした。
途中何か所も防火水槽を見た(写真7)。これは話のように、この地域に大きな川など、水を引ける場所がないことと関係しているのかもしれないと思いながら見ていた。
小島さん宅から、徒歩で10分程度。曲がりくねった道を下っていくと、し尿処理場が見えた。その奥に、開けた砂浜が広がり(写真8)、その日は天気が良かったこともあり、海水浴に来ている人が結構いた。話を聞いてみると、その浜は「大友の浜」というらしかった。小島さんの仰っていた通り、大変きれいな砂浜で、海水浴にはもってこいの場所だった。この砂浜は、きっと昔も今も変わらずに、この地域に住む人々の生きる場所になっているのだろうと思うと、なぜだか分らないが大友地区に住む方々がうらやましく思えた。
(写真7) (写真8)
時間が経つにつれ、変わっていくものもあれば変わらずに残っていくものもある。それが意図的に残されるのではなく、ただ伝えられるがままに残っているものというのは、本当にそこに生きる人たちに大切にされているからなのだろう。大友にはそういったものがたくさんあったような気がした。