歴史の認識レポート

押川 蓮斗

荻本 涼介

劉 志龍

訪問日時 7月12日

訪問先 佐賀県唐津市呼子町小友

お話してくださった方 林 与寿(S2) 川並 静夫(S18

 

行動記録

 1030 小友入り口バス停到着、地図を見てもわからなかったため、とりあえず徒歩にて海方向をめざし歩く。道路脇の溝を流れる水の先が海だと信じた。途中の分岐にて、原チャリに乗った老人をとめ、小友への道程を仰ぐ。30分間歩くうちに海が見え、港に入る。道路脇の休憩所で、多数の男性陣に出会いあいさつをする。その中に、「九州大学の学生さんか?」と問われ、応じるとその方が川並さんだったようで、どうやら私たちの訪問をわかりやすいところで、待っていただいていたようだ。その後、川並さんの案内で、小友の歴史に詳しいという林さんのお宅へとお邪魔した。林さんは、我々との質疑応答の場に、海に面した涼しい民家に案内してくれた。ちなみに、この場所はお仲間の自宅一階だったようだが、このように他人の家を平気で行き来し合うところも、漁師町ならではのコミュニティの結びつきが近い証拠だと感じ、我々は密かに驚いた。お話は午前と午後に分けて昼ご飯を挟んでしていただいた。1200まで午前のお話をしていただき、その後川並さんのお車で呼子方面に送ってもらい、3人でイカ料理の食事を食べた。ありがたいことに、お迎えにまできていただいたため午後の約束1330からの待ち合わせに間に合うことができた。お話は1530程ですべて終了し、バスの時間まで、我々は浜と海の辺りを散歩した。漁港の先には展望台が整備されていてそこで、海を眺めジュースを飲んだ。その後バスの時間に合わせ小友を出発し、来た道を帰り、1630 小友入り口バス停に時間通りに到着した。

 

 以下、林さん方のお話をまとめたレポートである。海の呼び名や地名の呼称などもお伺いしたが、そちらは地図の方に記す。なお、たいへん貴重なお話を数多くしてくださったのだが、我々の知識不足、準備不足のためにすべて完璧に記すことはできなく申し訳なく思う。よってここに記す以外の内容は、音声ファイルの方を参照していただきたい。

 

1.          漁について

始めに、呼子のいかについてのお話をしていただいた。この地方では主にヤリイカ(剣先イカ)の漁がさかんとのことであった。このイカの特徴は、本体の部分が槍の先のような形状をしていて北海道地方などでとれるカサがあって本体が長方形のスルメイカとの相違について聞いた。なお、呼子にある施設に地元の子供が描いたイカの絵は、ヤリイカではなくスルメイカを模したものであったため、その点について少しご立腹だったようだ。小友の暮らしについてのお話に入った。小友の人々は半農半漁で暮らしいる。漁業をされる人々にも「先方」(元々の住民)、「裏方」(地方からきて住み着いた人々)がいて、イカ漁においても先方は主に夜中明かりを使っての漁を得意とし、裏方は主に日中一本つりでの漁を得意とするらしい。これは、イカの昼間海中の斜面に多く集まり、夜間は、光に反応して集まってくるという習性をうまく利用しているのだと言う。かつての漁の話を聞くと、昔は漁業権が今よりも広く、地図中の境の松(漁場の境に松があり、このように呼ばれる)から七ツ釜の先までだったが、現在では漁業権の再編があり、狭くなった。小友漁港の先には、明神うちの潮という一日のうちに数十分しか現れない海流があり、その瞬間を見極めて漁をされていた。山見の経験者は、現在はいらっしゃらなかった。その時の話では、地図中の後ろ方付近の岸で海の中にゴミなどが堆積し海面の色が変わること(これを『たくろ』という)から、海流や海中の地形を推測し利用する漁が行われていた。その他にも、地引き網漁がかつては行われていて、小友の子供達は学校を早退して岸から網を引く作業にこぞって参加していた。この際に、お小遣いのようなものももらっていたという。学校の先生に、早退をする理由を聞かれ困ったこともあったという。漁場では、その地形や海流、風、獲れる魚などから漁師の間で、様々な呼び方をされている。

以下地図中参照.•••磯の名前、いそのまた/おきのまた/赤曽根/丸曽根

•••海域の名前、後ろ方/前/むかえ/藻先/やなおば/境の松

•••潮の名前、いり潮/出潮/明神うちの潮/ワンゼ

•••風の名前、あなぜ(北西の風)/きたこち(北東の風)

 

付近で獲れる魚

ヤリイカ/メバル/石鯛(クロク)/たつく/かなぎ/ひらす

 

つづいて、船の寿命、値段について聞いた。船の寿命は10数年でS30年代の時期で、25万円前後(当時)、S40年代になると80万円(当時)で、漁師にとって船を卸すのは金銭的にも大きなことだった。また、船の廃棄にも1tあたり10万円ほどかかっていた。港には、漁師以外にも船の建造にかかわる船大工がいた。

2.          青年宿について

続いて青年宿についてのお話である。若者達が集まる宿、青年クラブはありましたか?と訪ねたところ、宿という宿はないが、いろんな個人の家が寄り合いの場になっていて、男の若者のみ皆であつまっていた。そこでは、厳しいきまりがあり年齢による上下関係があったそうだ。体罰については、林さんの話には叩いたりする程度はあったが、川並さんは特にはなかったそうだ。土曜日の晩に集会があり、集会所に皆で泊まって日曜の朝に総出で神社の掃除をしていた。嵐の前などで、大人が船を岸にあげていたりすると子供は走っていってそれを手伝うようにと教育されていた。青年宿では漁師としての教育というよりも、大人の男としてどう振る舞うべきかについての教えが強調されていたようだ。罰の中には、神社のほこら?の中になにかを置いてそれを取りにいかせるという肝試しのようなものがあったそうだ。当時は、街灯などもなく、ろうそく等の明かりも使ってはいけなかったので、たいへん怖かったそうだ。

3.          共同風呂について

共同風呂は、村にかつて存在していて4つあった。これらは、もあい風呂と呼ばれ中では、老若男女関係なく村人が入れ替わり立ち替わり集まり、主に情報交換の場となっていた。これは、お湯をわかす燃油代などを個人でまかなうと大変だったかららしい。村に初めて個人風呂を作った家庭の方は、共同風呂に行かないとみんなに会わないので、村の情報が全くといっていいほど入らなくなったと言っていたらしい。

4.          食糧難(戦後の話)

小友の人間で、戦後の食料難で困る者はいなかった。どちらかといえば、都市部で困っている親戚友人に、食料を分けたりしていた。ただ、国の年貢のようなもの(他に呼び名があったが失念)に食料を多く取り立てられるなどして困ったことはあった。犬をつかまえて食べるという経験もないが、赤犬は体がぬくもるや、おねしょ予防になるという話はご存知だった。実際に行ったという話は身近になかったが、唐津町の方では赤犬を食べたということがあったらしい。

5.          神社について

近くに、遣隋使が使っていた登望(とうぼう)駅があった。鞆神社は、小友の海に面していて昔は漁師にとって海の安全を司る風の神としてたてまつられていたが、後に転じて風邪の神となった。当時でも、インフルエンザのような伝染病、疫病がはやったらしい。そのため、子供を連れてお参りにくる親子なども小友を多く訪れていて、林さんが当時まだ小学校低学年だったころ、お参りにきた親子がお供えしたお菓子などをこっそりといただいたりしていた。当時お菓子などは、呼子にでかけた人が帰りに土産に買って帰ってくるのをもらうくらいで、子供にとって、大変珍しいものだったらしい。その他、事実関係がわかりにくく詳細を記述できなかった件に関してのキーワードを挙げておく。

級長彦津ミコト(しなつひめのみこと)、戸辺ミコト(とべのみこと)、**鞆神社の命名エピソード(ここを訪れた人物の落とし物からついた?)

6.          小友で行われた祭りについて

夏は、赤痢や疫病が流行り祇園祭が執り行われた。また、盆踊りは戦後36年間続いたが10年前になくなった。

その他の祭り日時

やまがさ、八坂神社 旧暦の614日/ 地頭神社 旧暦915日  的射り 旧暦1

17日(秋祭りと言われる)/ 金比羅神社 ごんげん様 旧暦310日、1010日/ 鞆神社 315日、915

7.          まとめ

協力してくださった、林さんと川並さんは私たちの質問に、ご自分のエピソードを交えながらとても丁寧にこたえてくださった。わたしたちの熱意に対してしっかりと対応していただき我々としてもとてもやりがいのある調査となった。昔の歴史を伝えていきたいという思いをもってお話をしてくださったので、わたしたちもこの調査を通して、文字の歴史も去ることながら、年長の方から直接歴史を体験として聞くことのおもしろさ、大切さを再認識するに至った。私たちのグループの中に、鹿児島出身の人間や中国からの留学生もいたために、それぞれの故郷についての話題で盛り上がり世代を超えたコミュニケーションが取れた。失礼ながら、小友は呼子町のように観光客が多く訪れるような土地ではないため、漁師町ということもありある意味閉鎖的な場所ではないかという思いを持って調査に臨んだ我々ではあったが、実際にはたいへんあたたかく迎えられ、とても嬉しかった。町並みも古き良き漁師町の風情を残しつつも、海岸は砂浜や遊歩道、お洒落なオブジェ、公園などが整備されとてもよい場所だと感じた。機会があれば、また小友に伺うことができればという思いをもっている。

 


戻る