佐賀県呼子川端町

 1TE09283S 幸田 和也

                                               1TE09650R 三星 智

 

 

・はじめに

7月12日、私たちは佐賀県呼子町の現地調査を行った。

朝8時45分に九大学研都市駅を出発し、バスに揺られることおよそ1時間半、ようやく現地に到着した。

そこで、事前に連絡していた橋本 昭久さんが車で迎えにきてくれ、そこから走ることさらに10分弱、橋本さん宅に到着した。

そこでお話を伺うこととなり、現地調査を開始した。

 

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   ↑現在の呼子町             ↓呼子湾上空より

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・第一部 呼子の成立基盤

 

古代より呼子は朝鮮や大陸への海路上に位置し、海上交通の優れた要衝であったとされる。行基菩薩の作と伝える「第日本国正統図」には「呼戸」とあり、呼子の地名が早くから存在していた可能性がある。

平安時代末には松浦党と呼ばれる土豪集団が九州北部の海域を中心に勢力を拡大し、呼子は松浦党石志氏の所領となっていた。

  その後、呼子の支配は松浦党の石志氏、佐志氏、呼子氏からなった。

松浦党は14世紀中頃から15世紀前半まで史上を賑わせた前期倭冦の

主要構成員であるとされている。呼子氏は通交において呼子殿と称し、

この名を以って、殿ノ浦の地名の由来とする説もある。殿ノ浦の傾斜地の多い地理的状況から館の周囲に町地が開かれることはなかったと思われる。また呼子とも湾を挟み距離があるため、この呼子殿館が呼子の町の成立に関係したとは考えにくい。

 

第二部 しこ名調査

 

しこ名とは、昔から伝わる地名の呼び名のことである。 

呼子周辺にもあまり聞きなれないしこ名などがあったため、調べてみた。

 

尾ノ上…おのうえ    長沙子…ながさこ   子友…こども

打上…うちあげ     友田…ともだ     新村…しんむら

殿ノ浦…とののうら   松尾田…まつおだ   津伊田…ついた

松尾田…まつおだ    出口…でぐち     平竹…ひらたけ

家ノ上…いえのうえ   鬼ノ口…おにのくち  畑田…はたけだ

上ノ松…うえのまつ   反田…たんだ     丸田…まるだ

山神宮…やまんかみ   念畑…ねんばた    子部田…おたべ

大田代…おおたしろ   畑ヶ田…はたけだ   野中…のなか

屋敷谷…やしきだに   辰坂…たつぬき    柳元…やなぎのもと

後口田…うしろだ    北田…きただ     神脇…かみわき

在原田…はらだ     立山…たちやま    村前…むらまえ

笹ノ元…ささのもと   田頭…たのかしら   加久保…かくぼ

吹上…ふきあげ      竹尻…たけじり     申浦…さるうら

蟹切…かねきり      十大(六)石…じゅうろっこく          

石ノ間渕…いしのまぶち  お宮ん山…おみやんやま   

大石ノ元…おおいしのもと

 

・第三部 呼子の由来

 

呼子町は、2005年に唐津市・東松浦郡(玄海町・七山村は除く)の

8市町村が合併し、唐津市となった。

合併する以前は呼子と呼ばれていたが、なぜ呼子というのか。

疑問に思い、尋ねてみることにした。

すると、現在呼子の由来については多数の説があり、はっきりとした説はないそうだ。

  そこで、今回話を聞くことができた二つの説を紹介する。

 

其の壱

  呼子町は昔から、周囲の海上を対馬海流が流れ、比較的漁業が盛んな地域であった。それを聞きつけ、呼子以外の地域から人々が集まり各地で村を形成していった。その時に、現在の呼子周辺を支配していたのが、呼子氏という人物である。そこから、その地域を呼子と呼び始めた、という説がある。

 

 

其の弐

呼子町の由来の、もう一つの説として、『佐用姫伝説』というものがある。

これは日本三大悲恋物語とされている。(ちなみに、残りの二つは浦島伝説と、羽衣物語である。)

 

537年(宣化2年)、武将・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、朝廷の命により、任那・百済の救援のため朝鮮に行くよう命を受けた。

その準備のため、狭手彦は松浦の地でしばらく生活することになった。

その時出会ったのが、その地の長者の娘・佐用姫である。

若い彼らは、すぐに恋に落ちました。

 

しかし、ある日突然出帆の日は訪れる。

 

佐用姫は、狭手彦との別れを惜しみ、彼の乗る軍船を追いかけていく。

そうしてついに、佐用姫は加部島にある小高い丘(現在でいう天童岳)

まで追いかけていく。

 

しかし、船には追い付くこともできず、佐用姫はその場で泣き崩れる。

その後、悲しみのあまり佐用姫は石になってしまった。

 

以上が、佐用姫伝説の概要である。

「佐用姫神社記」別記には、佐用姫が狭手彦との別れを惜しむとき、「狭手彦の名を呼び慕はれしに依り、今の呼子を呼名の浦と云うなり。」と言ったそうである。ここから、呼ぶ名→呼名→呼子と変化していったというのが、もう一つの由来である。そして、石になってしまった佐用姫は現在、加部島の田島神社内に佐用姫神社をつくり、そこに祀られているそうだ。

ちなみに、こちらの説のほうが、有力である。

 

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  ↑田島神社入口             ↓佐用姫神社

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第三部 呼子とクジラ

 

 呼子のクジラ漁

 

現在、呼子といえばイカで有名であるが、昔は鯨漁で栄えていた。海上という困難な条件下で、人々が巨大な鯨に挑み捕獲するというのは、想像を絶するものである。人々は様々な工夫を凝らし、この困難な漁業に取り組んできた。ここでは、その過程で開発されてきた日本独自の捕獲方法、あるいは欧米で開発され、日本各地に導入され普及した捕獲方法について、主なものを紹介する。

 

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 突取捕鯨

返しの付いた手投げの銛で鯨をつき、さらに槍状のものでとどめを刺して鯨を捕獲する方法。銛は鯨を殺傷するためのものではなく、綱をつけて鯨体をつなぎ止めるためのものである。船や丸太を曵かせ疲弊したところを剣など槍状のもので突いて致命傷を与え捕獲する。呼子にもこの漁を行う際の拠点があった。

銛や剣を投げたり鯨体を確保する作業を行う「ハザシ」(羽指、羽差、刃刺、波座士)は鯨組の花形で有能な人しかできない仕事であったが、時には命も失う危険があった。

 

 網掛突取捕鯨

双海船が張った網の中に

鯨を追い込んで網に掛け、鯨の遊泳を抑えたあとに、銛や剣によって突き取る方法。網を使用することによって鯨の自由を奪い、

突取による捕獲を容易にする方法である。

 

船団構成と道具

 

早銛は鯨に最初に投げ打つ銛で、網の前で躊躇する鯨打って驚

かす際などに使われた。萬銛は鯨と船・丸太などとを繋ぎとめる

ために用いられた主要な銛である。剣は鯨体を確保する前後に、

鯨の腹部を刺してとどめを刺すためのものである。ハザシ庖丁は、鯨に泳ぎ着いたハザシが綱を通すための穴を鼻孔付近に開ける

(鼻切り、手形切り)ための庖丁で、手形庖丁などとも呼ばれる。

 

    

 

 

 

 

 

 

 

船種

勢子船

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大双海船

小双海船

持双船

網附船

縄網船

納屋船

二番納屋船

替勢子船

替持子船

加木船

魚切天満船

双海天満船

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http://tmap.chizumaru.com/chizumaru_shim.gifhttp://tmap.chizumaru.com/chizumaru_shim.gif 砲殺捕鯨(ノルウェー式捕鯨)

 

船に固定された捕鯨砲から火薬の力で銛を発射し、鯨を捕獲する方法である。ノルウェー式捕鯨砲がその代表例であるが、それ以外にも無炸裂銛を発射するタイプの関沢式捕鯨砲・グリーナー砲・前田式連続砲・炸裂銛を発射するタイプの米国式砲などが日本で採用されている。銛の炸裂と銛綱・ウィンチにより、鯨の殺傷と鯨体確保を同時に行うことができる画期的なシステムである。これにより、基本的には一隻の船単独での操業が可能となり、捕獲率も飛躍的に向上したが、一方ではそのことが世界的な乱獲を招く要因ともなった。

 

 

 

 

 

呼子では・・・

 漁場内の網代(網を張る場所)は限られているため、1つの漁場で複数の組が操業するのは困難であるため、鯨組は次第に有力な組へと淘汰されていった。呼子では中尾甚六を長とする中尾組が力を持っていた。以下、中尾組の操業プロセスを紹介する。

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@ 前作事(前細工)

 

冬から春の出漁に向けた事前準備で、夏頃から行われた。船や網・綱の作製には、備前の田島・室積の水夫などが漁の前に雇用されて従事した。この作業は呼子の松浦町にあった、中尾組の「新屋舗」と称される場所で行われた。

 

A 組出し

12月になると、いよいよ漁が始まる。漁に出ることを組出しといった。組出しの際には、組主である中尾甚六の屋敷で組主・支配人・ハザシなどが集まって祝宴が開かれて、それが終わると屋敷前に待機していた船に乗り込み、屋敷前で右回りに3回まわって(「マイマイ」)からこぎ出していった。途中、一部の船は田島神社や弁天社に立ち寄って豊漁祈願を行った。

 

B−1 探鯨

鯨を捕獲するためには、最初に鯨を発見する必要がある。中尾組の小川島漁場では山見や見張りの船を配置し、鯨を発見すると、情報は小川島地の山の本部に集約された。さらにその情報は島に待機している船団に筵旗や狼煙で伝えられた。

 

B−2 追い込み、網張り

 鯨を見つけると、勢子船が、リーダーであるハザシ親父の指示のもと、状況に応じて適切な網代へと鯨を追い込んでいく。網代では網親父の指示により、時機をみて双海船が2艘1組となって弓形に網を張り廻す。網代としては、淀網代(加唐島の東側)や水ノ浦網代(小川島の東側)が最もよく使われていたそうである。

 

B−3 網掛け、銛突き、持双掛け、曳航

網代への追い込みが成功して鯨が網にひっかかると、各勢子船から次々と萬銛が投げ込まれる。網を被り、銛綱に繋がった船や丸太を曵くことで鯨が疲弊して動きが鈍くなると、いよいよハザシの出番である。鯨の背に泳ぎ着き、ハザシ庖丁で鼻孔付近に穴をあけ、綱を通す。これによって鯨体を確保して、剣を突いて鯨にとどめを刺し、2艘の持双船で挟んで鯨を胴綱で固定(持双掛け)する。その後持双船が勢子船に曵航されて鯨を小川島の納屋場へと運んでいく。

 

B−4 解体

納屋場では、鯨は頭から浜につけられカグラサン(ロクロ、人力のウィンチ)と長い柄の大切庖丁などを使い解体される。解体は定められた順番に効率的に行われた。切り分けられた部位は、大納屋・骨納屋・筋納屋など決められた場所に運ばれた。

 

 

B−5 加工、販売

納屋場では、鯨の各部位の保管、販売が行われた。赤身の切り分け、皮や骨を煎じて鯨油を作るなど。髭や筋も加工され、余すことなくすべての部位が有効利用された。

C 組上がり、鯨鯢供養

春の4月頃になると通り鯨も減少し、漁期は終了となる。漁を終えることを組上がりといった。組上がりになると、売上金を船に積み込んで、船団が小川島から呼子に戻ってくる。その後、呼子の龍昌院で捕獲した鯨の供養が行われ、読経の後、鯨ごとの卒塔婆が海に流される。供養には組主や支配人、ハザシなど鯨組関係者のほか、近隣寺社の僧徒も臨席した。

 

・その他漁について

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参考文献

 「港町呼子 唐津市呼子伝統的町並調査報告」 呼子文化連盟

「くじらといきる 〜西海捕鯨の歴史と文化〜」 佐賀県名護屋城博物館


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