唐津市屋形石の調査

 

石田 遊大

井上 陽平

 

お世話になった方

原  又三さん(昭和7年生れ)

坂本 正斗さん(昭和19年生れ)

 

 

7月12日、私たちは唐津市屋形石を訪れた。現在地がわからず坂本正斗さんに電話をし、長興寺に向かった。そこの住職さん?にあずき色の屋根の家が原又三さんの家だと教えてもらった。その家の前で、原さんに出会い、坂本さんの家に案内してもらいましたが、大きいテーブルがあり、さらにクーラーもあるということで屋形石公民館にて話を伺った。

 

◎屋形石の地名の由来

屋根の形をした大きな石があった。

 

 

○屋形石の地名一覧

シロイワ ウシロダニ(ウシロダン) マエダニ(マエダン) ムカイダニ(ムカイダン) オンノイワ カシシン アゼダンシ アカダ カギダ マルオ ヒラトコ トリゴエ 

マルオノシタ ムカイノシタ ムカエノ ウエガタ キンコウ ツヅミ モセミチ 

シエリ ハルキ ヤマガナ ポリキリ ウイゾノ ツンノシタ カミノマエ ノエン

マルダ ツジノワダ テラウエ ウエマツ カワンハダ ウーガ シンヤ 

・新しく教えていただいた地名

カミヤシキ シャーリンゴ(水源)ギオンサンガミズ(水源) ゴゼノウシロ 

ハチノクボ(草切場)                      (別紙地図参照)

 

 

○稲作について

昔は、干ばつで米がとれないことがあった。そのときには、「じゅうじんさま」(地蔵)がいる松尾溜であまごいをした。そのあまごいでは、主に神様の前でにぎやかに飲み食いしていた。しかし、昭和30〜40年ころから早期栽培のできるコシヒカリが導入され、干ばつによる米の不作が改善された。米は6〜7俵取れている。田植えが終わると早苗掘りをしていた。今は早苗掘り展示会で農機具を展示したり、旅行にいったりしている。

この地域では、明治頃からたばこを栽培しているたばこの産地である。他にもいちごなども栽培しており、栽培時期の違いでお互いに協力しあうユイが今も行われている。

 

 

○牛について

黒牛を飼っていた。雌は「うの」と呼び、雄は「こって牛」と呼んでいた。基本的には雌を飼い、生れた子供は売ってお金にしていた。エサは田んぼや畑のあぜ草をあげていた。「はちのくぼ」が入り合い山で、草切場であった。そこで放牧をしていた。なかには急な傾斜でこけて、死んでしまう牛もいた。

他人の田んぼに馬の子が入ってもお互い様にしようという近所付き合い「うまのこいわい」が行われていた。

 

 

○生活について

おかしはキャラメルのような形をした芋だんきりや芋の糖分で作った芋あめなどがあった。

野草や山菜は食べなかった。海が近かったので魚も食べていた。

青年宿は屋形石にはなかったが近くの港にあった。そこで社会勉強会があり、いいこともわるいことも学ぶ場であった。

夜這いも行われていて「わっかもん(青年)ばい!」と言えば、夜間警察に見つかっても何も言われなかった。夜這いした相手と結婚することもあった。

八月末には、農作業に関係して祇園さん祭り(夏祭り)が行われている。

ガスはプロパンガスが昭和34、5年頃に来た。電気は昭和初期からあったが8〜17時の間は消えていた。動力線が来てから24時間使えるようになった。

冷暖房はなかったが、屋根瓦が泥でできていたので夏は涼しかった。部屋の作りは家を田の字型に区切ることで風通しをよくしていた。

 

 

○戦後

「あしなか」というかかとの部分のない、ぞうりを履いていた。

農村なので米や野菜などの食べ物に困ることはあまりなかった。しかし、バナナが珍しいもので、子だくさんだったため、ひとり一本食べることはなかった。

 

○村の変化

一番の変化は、家畜を使った農業から機械を使ってやるようになったこと。

自動車の普及。坂本さんは自動車を5台持っている。しかし、運転手は4人しかいない…()

 

 

坂本さん、原さんと話をしているときに、何?と思うことがたまにありました。それは2人が方言で話していたからです。そのいくつかを紹介したいと思います。

「とらんですか」(お茶をだされて)→飲まないんですか

「しいか」→すいか 

「こんごりもの」→最近

「ばってん」→〜けれども

「がらる」→怒られる

 

 

実際に現地に行き、屋形石の自然に触れ、坂本さん、原さんと話をすることによって屋形石について少しではあるが、学べたと思う。話している途中に2人が盛り上がり、楽しく話しているのを聞くとこっちも良い気分になりました。やはりこのような課外授業では大学内では味わえないいろいろな良さがありました。50数年後に、私たちもお2人のように自分の村について若い人に伝えていきたいです。


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