後川内の歴史

 

調査員 

江上雄大

岩見康平

 

後川内の人

松本静夫

松本祐三

橋本正則

松本博文

橋本澄寛

 

行動記録

 

10:15   後川内に到着

 

10:20 松本博文さん宅到着

 

10:30 公民館に移動

 

10:40 松本博文さん、松本静夫さん、松本祐三さんの話を聞く

 

12:30 昼食

 

13:00 橋本澄寛さん、橋本正則さんが加わり5人の話を聞く

 

14:30 聞き取り調査終了

 

14:40 周辺散策

 

15:30 後川内ダムに到着

 

16:00 公民館に戻る

 

16:30 後川内を出発

 

話の内容

〜序章〜

 私たちが後川内公民館に到着し今回の訪問の目的を告げると、まず、私たちはどの道を通ってこの後川内まで来たのか尋ねられました。私たちが大きな国道を通って後川内まで来たと答えると、おじいさん方はその国道のことについて話し出しました。話によると女性の商は毎日かついで歩いて唐津方面へ行って来られたそうです。どうしても早く唐津方面へ行く道を造らねばいけないと村人全員賛同され、一致団結して数年かかって完成したそうです。その後唐津の代議士さんの知人の方が村に居られて、その方にたのんで区長さん他数名にて、県道編入のお願いに行かれ、その後県道になり曲部改良等してもらい、バス、トラック等通れる道になり村中まで肥料も来るし、農産物を出荷出来るようになり、大変便利になり、現在のように後川内は栄えたそうです。

 

〜地名について〜

 そして、話は本題へ入ります。私たちさっそく、今はつかわれていない地名や呼び方が変わってしまった地名はあるのか尋ねました。すると、実際にあるらしく地図をつかいながら丁寧に教えてくれました。話によると、現在の後川内の集落と後川内ダムのちょうど間に位置するところの南側が昔から「城遠」と呼ばれており、北側が「御庭下」の東側が「辺城」と呼ばれており、集落の東側に位置する納骨堂付近を「あんのもと(漢字不詳)」と呼んでいることがわかりました。そのほかには特別変わった地名はないそうです。

 

〜後川内の範囲〜

 さらに、後川内の土地のことについて聞いていくと、なんと、後川内は今でこそ結構な広い範囲を占めているが、昔はかなり狭い地域だったそうです。そのことについて、おじいさん達はとてもおもしろい物語を聞かせてくれました。その物語というのは、

 昔々、後川内と隣の地域である佐志との境界がまだ曖昧だった頃、二つの地域の、人々も境界がはっきりすぃていないと何かと不便だと思っていたので、二つの地域の境界をはっきりと決めようということになりました。その境界を決める方法というのは、「早朝、鶏が鳴き朝を告げたら各村人が境界となる線を引いていく」というものでした。一見とても面白いアイデアに見えます。しかし、これには大きな落とし穴があったのです

 決戦の日の朝、なんと佐志の鶏が後川内の鶏よりかなり早くないたにです。そして、佐志の人が境界を引き始めました。しばらくしてようやく後川内の鶏が鳴き、後川内の人々もそこからがんばったのですが時既におそし、後川内の土地は現在の1/3になってしまいました。後々の噂では、なんでも佐志の人々は鶏に通常よりかなり早く鳴くような細工をしていたそうです。正々堂々勝負しようとしていた後川内の人々は馬鹿を見る羽目になってしまったという物語です。その後、昭和初期に後川内の人々は、ほかの地域から土地を買い、現在の後川内となったそうです。

 

〜後川内の農業〜

 おもしろい話を聞いた後は結構まじめな感じの話が続きました。後川内の農業についての話です。後川内の農業は農地改革前は地主:小作人=2:1の割合で取り分がありました。水も近くに湧き水があるということもあり、昔は、そこから農業用の水を引いていましたが、その湧き出る水の量は十分な量ではなく、毎日、水不足に悩まされていたそうです。水不足であったということで、水をめぐっての争いがあったのではないか、と思い聞いてみると、ほかの村では争いがあったようだが、この村ではなかったとのことでした。その理由の一つには、後川内の村人は団結力が強いので、争いなどせずに、みんなでどうにかして水不足を乗り切ろうとする協力し合う姿勢があったのだと思います。その後、後川内ダムが公営事業で造られ水不足問題は解消されたそうです。ちなみに。水不足問題の対策もとられていました。その対策とは「雨乞い」です。毎日一回6月の第一日曜に行っていたそうです。

 

〜後川内の田の生き物〜

 昔、後川内の田にはたくさんの生き物がいたそうですが、土地の整備により、蛍、トンボ、フナなどの生き物が減少したそうです。生き物の減少については、年に一回村の子供クラブが調査しているそうですが、近年、昔いた大きな魚までみられなくなったということです。後川内にいる生き物はよいものばかりではありません。害虫だっているはずです。そう思い、聞いてみると、やはりいました。ウンカという黄砂にのって日本に飛来し、葉の養分を吸い取ってしまう害虫がいるそうです。おじいさんはその駆除方法まで身振りを交えて教えてくれました。その駆除の方法というのは、まず、田にクジラの油をひきそこへ稲の茎にとまっているウンカを落とします。こうすることでウンカは油まみれになりとべなくなってしまうそうです。

 

〜ゆいについて〜

 ゆいにつては村の団結が強かったこともあり共同精米所もあるほどだそうです。また、農作業は家族や親戚で作業をやるので早乙女はいなかったそうです。

 

〜牛、馬について〜

 牛や馬はあたりには見当たりませんでしたが、農業の村ということで尋ねてみると実際に牛をつかっていたそうです。ただし、耕地面積が広いところは馬をつかっていたそうです。オス牛は去勢しているためおとなしくいうことを聞くそうです。エサは各家自分の田んぼの草を食べさせるため自給自足の形になります。牛は体を洗わないが馬は毎日洗わなければいけなかったため手間がかかるので人気がなかったそうです。牛は馬は病気をあまりしなかったが、もしかかったら獣医が佐志に一年に一度きていたのでそこで見てもらっていたそうです。ひづめの手入れは鎮西町に行くそうです。馬の扱い方は手綱は2本で

      はい=すすむ

   どう=とまる

   きせ=みぎ

   さし=ひだり

〜米(保有米)について〜

主食である米についてみると米は個人で保存しており米びつを使用していて、ネズミ対策として内側にトタンをはったそうです。しかし、梅雨明けには米虫が玄米したらでてくることがあるので、もし米虫が発生したら残念だが諦めていたようです。

 

〜後川内の動物〜

後川内には昔からタヌキ、野ウサギ、イタチがたくさん生息していました。しかし、現在は後川内の環境も変わり生息している動物の種類も変化したそうです。現在はイノシシ、サル、穴熊が生息しています。その中でもイノシシは数を増やしており、田んぼを荒らすなどの被害が出ています。イノシシ対策としては田んぼの周りに電気線や金網フェンスなどを張り巡らすことが行われています。しかし、イノシシはなかなか頭がいいらしく村の人たちを悩ませています。

 

〜昔の後川内の生活〜

 後川内では人が病気にならないように浮立の舞をしていたみたいです。それでも、もし病気になったら佐志の医者のところへ診てもらいに行ったそうです。しかし、これがとても大変だったみたいです(松本静夫さん談)富山というところから薬売りもきていたそうです。今と違って病気になったときは大変だなと思いました。後川内は山の中にあるので主に自分たちで作ったものを食べていましたが魚売りが玄海町のかりや(地名)というところから来るので魚を食べることもできました。このときはお金の代わりに米と交換していた(物々交換)クジラ売りや豆腐売りも来ていましたが、豆腐、みそ、醤油、は主に自給自足していました。団炭で土地を保有すると国が没収するので個人に分けた。

 

戦後の食糧難

 麦、芋、米のごはんを食べていました。貯めていたもみは貯蔵タンクをはかられて、家族の人数によって量を指定され、それを超える分は出荷するように言われたそうです。時には犬を食べることもあったそうです。これには驚きました。


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