唐房レポート
井上健太 門司直也 大楠茂幸
話者 唐房区長:脇山文雄
唐房長老(大正13年生まれ)
<当日の行動記録>
8:30 バス出発
10:30 バス下車
12:45 唐房到着
13:00 脇山さん宅訪問
15:20 脇山さん宅出発
15:30 城を案内してもらう
16:00 バス乗車
17:55 九大伊都キャンパスにバス到着・解散
<唐房での呼び名>
唐房一丁目・・・幸手組(こうでぐみ)
唐房二丁目・・・秋葉組(あきばぐみ)
唐房三丁目・・・八郎組(はちろうぐみ)
唐房四丁目・・・蛭子組(えびすぐみ)
唐房五丁目・・・高札組(ちゅうぐみ)
唐房六丁目・・・原組(はらぐみ)
唐房七丁目・・・昭和組・浦(しょうわぐみ・うら)
黒崎山・・・権現山(ごんげんやま)
ほとんどの由来は分からないとのことですが、昭和組の由来については昭和にできたからだそうです。ちなみに唐房は昔、佐志村唐房と言われていたそうです。
<海について>
―この唐房は漁業がとても盛んな町だと聞きますが、どのような魚を主に捕っていたのでしょうか?―
主に昔はイワシがよく捕れましたわ。もう、余って肥料にするぐらいに捕れましたわ。複数の船が山見さんの指示で動いてイワシの大軍を囲んで、きんちゃく網という網で捕まえてましたわ。今はイワシが少なくなって、もう沖とかまで行かな捕れんようなったけどな。
―その山見さんというのは?―
山見っていうのは、文字通り山から海を見て船に指示を出す人のことです。昔はイワシがぎょうさんいたから、イワシがいるところは群れが集まるとそこの海面が黒くなるんですよ。だから、唐房の北の方に黒崎山、唐房から海を挟んで東側に大山というのがあるでしょう?どちらも100メートルそこらの高さの山ですけど、その上に登って山の上から手に神社の神主とかが持つ法手を持って、それと声で合図を送って船を指示するんですわ。今はイワシが沖まで行かな捕れんようなったこともあって山見はいらんようになって、センサーとかで探しとりますわ。
―イワシを捕るそのきんちゃく網に何か名前とかはあるのでしょうか?―
きんちゃく網にはありませんが、きんちゃく網を持っている団体にはそれぞれ名前がありました。1番目にできたのは「村議網」(むらぎあみ)、2番目にできたのは「蛭子網」(えびすあみ)、3番目は「新網」(しんあみ)、4番目は「四号網」(しごうあみ)、最後に「友蔵網」(ともぞうあみ)といいますね。これだけ、多くの団体ができたってことは多分イワシがエライ捕れてたのでしょう。このきんちゃく網の団体同士で第二漁港(唐房漁港)の中、手で漕ぐ和船競争をありましたな。
―その名前に由来はありますか?―
いやあ、わからんね。
―ところで、この辺りの特別な瀬や潮流、浜の名前はありますか?―
唐房の佐志小学校の南の浜はもう埋め立てられたんですが、そこは「佐志浜(さしはま)」と呼ばれとりました。あと、この第二漁港の南の浜を「小釜(こがま)」、黒崎山の北東の浜を「満船浜(まんせんはま)」、東側の瀬を「皇后瀬(こうごうぜ)」というのがあります。
―それぞれの名前の由来は何なのでしょう?―
「満船浜」はイワシを大量に捕った満杯の船が必ず通る所からついたそうですね。それ以外では特に知りませんね。
―昔、唐房では、漁に行く時に特別なことはしなかったのですか?―
漁に行く時と漁から帰ってくる時に「満船浜」の所で船の上から黒崎山の方を見て荒下様に手を合わせてお祈りするんですわ。特に帰りは捕れたイワシの一部を荒下様の方に投げてお供えするんですわ。
―荒下様とは?―
豊漁の神様のようなものですかね。黒崎山の北東の麓に祠があるんですよ。「満船浜」近くにありますから、いつも船が近くを通りますからそうなったんでしょう。
―唐房では他に何が捕れるのでしょうか?―
昔はイワシ漁の他にたまにですがイルカも捕っちょりました。でも、やっぱりイワシばかりですな。
―昔、唐房には海女の方はいるのでしょうか?―
いや、昔から居ませんね。
―今は何を捕っているんでしょうか?―
最近では、カキの養殖が主ですね。あとは、タイやエビも捕っちょりますね。
<山・農業について>
―唐房は漁業で有名ですが、稲作や畑作はされているのでしょうか?―
今は無いけど、唐房三丁目に田中という名字の人が居るから、昔、田んぼはありましたな。明治初期にもお米を国に出していたそうです。
―唐房は海と面しているのと同時に山にも囲まれていますが、林業とかはされているのでしょうか?―
いや、何もしとりませんな。
<その他について>
―この唐房に何かお祭りとかはありますか?―
唐房祇園祭と千越し祭りがありますな。
―唐房祇園祭は何のお祭りなのでしょうか?―
江戸や明治時代あたりから流行った流行り病を治めるために開いたお祭りですね。明治初期にお伊勢参りを終えた地区の世話役人が京都の八坂神社に参ったわけですね。分身を受けて、黒崎神社に帰ってきて山笠を作ったのが始まりだそうです。昔は、組ごとに一つ山笠がありましたけど、今は一つしかありません。
―もう一つの千越し祭りはどんなお祭りなのですか?―
これは私が30年ぶりにおこした祭りで、新聞にも載りましたよ。これは、1年のイワシの漁獲高が千両を越えたことを祝うお祭りですね。漁獲高が千両を越えたことと安全に操業できたことを感謝するために黒崎神社にお礼参りをするために大きな紅白の大漁旗を持ち、勇壮な若い漁師がはっぴ姿で漁港近くにある「稲荷様」、次に黒崎神社の近くにある「金比羅神社」、最後に「荒下様」に「千越し祝い唄」を奉納しに行くお祭りですね。多い時は100人ぐらいいたのですが、今では20人ぐらいしかいませんね。
―ところで話は変わりますが、青年クラブとかはありましたか?―
青年クラブっていうもんじゃなかけど、青年宿っていうのはあったよ。そりゃ、もう満員でしたよ。各組ごとに青年宿が1組か2組あって、場所によってですが、1度に10〜30人ぐらいで寝てましたよ。
―電気とかはいつ頃から通りましたか?―
大正のころには電気が流れとりましたな。
―戦争による唐房への影響はどのようなものでしたか?―
各丁目ごとに、配給がありましたな。軍隊に徴兵された時に生活必需品の配給がありましたね。配給品は石鹸や砂糖、あとは焼酎なんかを配給されました。あとは、戦争が始まりますと、国が国債を発行して資金を徴収してましたね。昭和の17〜18年の間はずっと国債を買わされとりましたね。
―ありがとうございました―
まとめ
唐房は昔から漁業が盛んであり、今はないけど、昔は稲作もしていたようです。祭りについては二つほど大きな祭りがあり、興味深くどちらも歴史的背景でできた由緒正しいお祭りなので一度は参加してみたいものでした。また、どちらもその祭りで歌う歌があり、そのうちの一つである「ちゅうちゅとんぼ」は唐房の方でも分からないそうなので、九大の方で研究していただくよう依頼されました。(地元の方は朝鮮や中国の言葉も混ざっているのでは、とおっしゃってました。)
こんなにも歴史的に面白い唐房ですが、少し寂れているようなので、どうにか現唐房区長さんが復活させた千越し祭りで活気づいて欲しいと切に願っています。