佐賀県唐津市相賀
工学部地球環境工学科 田處拓史
工学部電気情報工学科 川村勇気
僕たちは7月12日に佐賀県唐津市相賀に行った。そこで僕たちは駐在員である原哲夫さんに話を伺った。
まず僕たちは地名の由来等を伺った。原さんのご厚意により資料を用意してくださっていたので、各地に存在する昔の地名を知ることができた。
拡大した地図↓
地元の方々の言葉では『今新開』のことを『いんにゃしんが(ぎゃ)』、『オオタ』を『ウウタ』、『マツクチ』を『マックチ』、『ハリガタ』を『ハリ(ル)ガタ』、『サキ』を『オサキ』、『黒岩』を『クレイワ』と言われるそうだ。今ではどのような漢字をあてるかもわからなくなってしまったそうだ。現在、地元の方々が呼ばれるのは『ニシ』、『山中』、『中通り』、『ヒガシ』で運動会等をされるときは『ニシ組』、『山中組』、『中通り組』、『ヒガシ組』、『マックチ組』で対抗して行われるそうだ。昔の説では『中通り』が海だった、そして地図中で右側の部分は島だったのではないかという説がある。それゆえ『オッカタ』という地名が出てきて、その『オッカタ』というのは沖方ということではないのかという説だそうだ。
今の子供たちも山とかで遊んだりしているのか尋ねてみた。昔の子供たちは山で遊んでいたが最近の子供たちは遊んでいないらしい。海には少し遊びに行っているようだ。山は耕作放棄で荒らしてしまったそうだ。山の中や海の中に何かあったのかを聞いてみたところ、何かあったらしいが今となってはただの平地だそうだ。
『カナクシ』周辺は昔、棚田だったそうだ。しかし、今は耕作放棄をされたそうだ。地図中の田んぼの周辺はきれいな畑だったそうだが、今は耕作放棄をされていて、田んぼが残っているだけである。
相賀に向かう途中、きれいな海があったので今漁業などをしているのか尋ねてみた。来る途中の海は唐房漁協の管轄区域であった。相賀にも唐津市漁協の中に漁協がある。何人かの方が漁業組合に関与している。そして、漁業をされているのだが漁業だけでは生活できないそうだ。
昔からあるお祭りについて尋ねてみた。原さんは用意してくださっていた資料を使って詳しく説明してくださった。
まずは『相賀ぐんち』について。昔は旧暦11月9日にお客さんを呼んでご馳走をするということをやっていた。今は新暦で行っているが、ご馳走をしたりはしていない。『くんち』は神様のお祭りなので、今では神様をきれいにしてお参りをしているだけである。
次は『獅子舞』について。これは『獅子カブ』とも言う。この行事は無病息災を祈念して1月15日に厄年の人が獅子をかぶって村中を回る。これは今でも行われている。
ここで原さんのお宅に訪ねる途中で見つけた御堂のようなものについて尋ねてみた。このように答えてくださった。ここには昔キシダケ城というものがあってそこにお殿様がいた。その人が朝鮮征伐の後に豊臣秀吉に滅ぼされた。その時の落ち武者が秀吉に追われてあちこちで殺された。その人を祭ったお堂ではないかと言われているそうだ。そのお堂というのはあちこちに存在する。落ち武者はあちこちで殺されたのでいたるところに骨が埋まっているという話があるそうだ。原さんの敷地内にもあるという話があるそうだが、信じていらっしゃらないとのこと。昔はお堂の周辺に幽霊が出たという噂もあったらしいが、今ではないそうだ。
もう一度行事の話に戻った。次は『若衆組(朋友会)』について。朋友組というのは全国にあるそうだ。相賀の場合は青年たちが話し合って『宿親』というものを決めていたそうだ。今は入る人がおらずそのような取り組みをする人がいないので、朋友会という名前だけ残っている。原さんのお宅にも『原朋友会』という名前が残っているそうだ。その当時の若い人とは今でも時にはよって話し合いをしたり冠婚葬祭をしたりしているそうだ。この朋友会というものは始まりは江戸時代で、昭和30年ごろまではあったそうだ。
次は『盆踊り』について話してくださった。今でも行っているそうだが昔は青年団を中心に村中総出で行っていたとのこと。今では相賀にある法撞寺と隣松院の2か所のお寺で原さんが他役員の方々と子供たちを集めて踊るだけになってしまったそうだ。昔は墓地があったので派手に行っていたそうだ。原さん方は法幢寺を『東寺』、隣松院を『西寺』と呼んでいらっしゃる。昔は仮装し、やぐらを組んで盛大に行っていたそうだ。『盆口説き』と呼ばれる口説き文句がある。この口説き文句は今でも残っている。ただ、この口説き文句をすべて覚えていらっしゃる方はもうほとんどいらっしゃらないそうだ。この盆口説きは偉いお坊さんが若い人に説教するような物語になっているとのこと。この盆口説きは港のものとは違い、相賀だけのものである。
次は『モグラ叩き』について。1月14日の早朝に行われ、お年寄りの方が子供たちにモグラ叩きを作ってあげて、子供たちが叩いていた。今ではなくなってしまったそうだ。
次は『的射り』について。これは1月15日に行われ、今でも行っているとのこと。ご自身で的を作られて、弓や矢は山などから切ってきた竹や木で作る。鳥居の前で行われ、一日中お酒を飲んだりして楽しまれるとのこと。
次は『ごんぞう』について話してくださった。昔は石炭で動く船だったので、石炭を積み込む妊婦・ながしのことを『ごんぞう』と言うのだそうだ。相賀の人は裕福ではなかったのでここに出稼ぎに行く人が大半だったのだそうだ。これは行事と言うよりも生活の糧を得るために働きに行くものだそうだ。相賀の人々は西唐津港で行っていた。相賀は耕地面積が少ないので農業だけでは生活ができなかったそうだ。イノシシなどを狩っていなかったどうかを尋ねてみたところ、イノシシが現れたのはここ10年のことだそうだ。昔はきれいな田畑で人の出入りがあり、イノシシなどは出なかったが、今は荒らしてしまったので出てくるようになったとのこと。民家の近くのビニールハウスにまで現れることがあるそうだ。イノシシが現れるようになったので、いも・ジャガイモ・里芋などは二度と作れないようになってしまった。みかんや桃も食べられてしまうそうだ。今はほとんどビニールハウスの中で農業を行っているそうだ。田んぼでは自分達が食べるだけ、ビニールハウスの中では花を作っていらっしゃる。今では花卉園芸が相賀の主な農業である。
次は『芝居興行』について。昔はエンサキにまわり舞台があって、旅役者が来て行っていたそうだ。そのまわり舞台が壊れてからは昭和30年代ぐらいまでは公民館で行っていたそうだ。今では行っていないそうだ。
次は『巡回映画』について。芝居が下火になったら公民館で映画を上映していたが、今ではなくなってしまったとのこと。
原さんは現在の相賀の区域について説明してくださった。『神田』は神様の田んぼという意味だったらしいがそこは田んぼではなく畑だった。今は荒らしているとのこと。『ミズタニ』周辺は規模が大きくきれいな海水浴場。山のほうに住んでいる方はいらっしゃらないとのこと。『今新開』というのは新しく開いた田んぼという意味だ。この『新開』という地名は他のところにもあるそうだ。話の中で『小原』を『ウウバリ』、『長部田(ナガヘタ)』を『ナガシタ』と呼んでいると教えてくださった。
地図を見ているとため池が各所にあったので昔からあるものなのか尋ねてみた。『朝月溜』―『アサヅケ』とおっしゃっていたそうだ―は港のほうに流れていく。『上葉溜』の上と下は相賀のものだとのこと。その周辺は昔田んぼだったのでそこを潤していたそうだ。『松原』には地下からわき出るところがある。その水がふもとの田んぼを潤していたとのこと。昔はため池の近くまで歩いて行って、山の幸などを採っていたそうだ。今はイノシシが出ることがあるのでほとんど行かない。クマはいないのか尋ねてみたところ、クマはおらずイノシシ・キツネ・タヌキ・アナグマ・イタチがいるそうだ。モグラもいるそうだ。地上に顔を出さないのでめったに見ないが、畑で盛り上がっているところがあるのでいることが分かるそうだ。最近は昔ほどいないそうだ。昔はモグラによる被害が多かったからモグラ叩きということをしていたのだそうだ。
『ごんぞう』写真↓
(上記の写真は頂いた資料より引用)
この『ごんぞう』は明治時代から昭和34、5年まで続いていたそうだ。原さんのお母様、おじい様、おばあ様も行かれていたそうだ。農業をしている方も含めて多くの方が行っていたそうだ。最近花を作るようになって、農業だけで生活ができるようになったとのこと。大島というところに鉄橋を渡って行き、そこで船の積み下ろしを行っていたそうだ。
最後に僕たちはお宮以外にも見ておいたほうがいいところ尋ねてみた。原さんは国分寺と隣松院と法幢寺を教えてくださった。
現在の地図↓
昔の地図↓
(頂いた資料より引用)
相賀の写真
法幢寺↓
栽培漁業の様子↓
相賀の田んぼ↓
今回のレポートは原哲夫さんのご厚意により完成させることができました。