浦ノ崎の歴史と現在
調査人 環境設計学科一年 筒井伸一
環境設計学科一年 河野昴太郎
調査日2009年6月27日
調査に協力してくれた方々
原田 忠昭さん 昭和5年
多久島 繁さん 伊万里市議会委員
岡部 洋次さん
はじめに
九大学研都市駅からバスに乗って2時間弱、山道に入り、下っていくこと約10分、海が見渡せるように開けた場所に着いた。歩いて海まで5分というところに浦ノ崎公民館が位置していた。各グループごと(2人〜3人)に分かれて調査をする予定だったが、浦ノ崎周辺の方々がこの公民館に集まり、そこで各グループがそれぞれ話を聞くという形になった。私たちは、3人の方々に話を伺った。最初は原田さんと岡部さんのお二人である。
調査開始
原田さんは現在79歳の方で、まさに第二次世界大戦を体験してきた方であった。それゆえ、戦時中の話など様々なことを伺った。まず、その会話を中心に以下に報告していく。
「今ね、この辺にはですね遺跡があっとですよ。サヨカラミ(佐代搦)…イヨカラミ…カラミ(搦)ってのは草の生えてる川があったでしょ。それを言うんですよ。クロモ(黒藻)、これがカシイガワ(香椎川)、これはわからんな。テンジンなんかはわからんわ。テンジンはあれですかね。神社があるとこですかね。あのほら水をためるところがあるでしょ。その向こう側に神社があるでしょ。小さいころはそこでよく遊びよったけどそこの名前が確かテンジンさんですよ。今でもある。そこがありましたね。だれも参りにいっているものはおらんかね。」
福岡市内にある地名と同様の地名である、天神(テンジン)が浦ノ崎にもある。そこには神社があり、近所の子供たちの遊び場となっていたが、今では参拝客はほとんどいないということである。
「タチイワ、だいたい昔はですね、ここあたりはずっとタテイワの地域だったんですよ。いまでもここの番地はタチイワ。市でもここあたり浦ノ崎っていう地名は出てこないですよ。浦ノ崎っていうのは小字なんですよ。タチイワとわかれたわけ。現在地がね、ちょうどこの辺になるわけ。今いるとこですね。」
話によると、もともとは立岩(タテイワ)という大字があり、その中に浦ノ崎という小字があった。だが昭和17年に分離し、現在の浦ノ崎区が生まれたらしい。
「ここに福島っていうのがある。長崎の島なんですけどね。ここから定期船がでているんですよ。この福島、県境に今いるわけね。(私たちが話を伺った公民館は県境に位置していた。)定期船は1日6往復くらいかな。これは灯台、ここから先は長崎。ナベノバエ、我々はこれは言いにくいからナベバエ、ナベバエってよんでいるの。これは長崎の地域になっている。すぐ近くが長崎ですからね。私たちは佐賀と長崎の両方に住んでいる。」
滑栄(ナベノバエ)は現在も漁港として残っている。かつては様々な種類の魚が獲れる最高の漁港であり、巾着網などによる漁が行われていた。だが現在は海が汚れてしまったため(詳細は後述する)、漁業はほとんど行われていないとのことである。
「この辺にサヨガワ(佐代川)っていうのがあるでしょ。これがね、伊万里市のずっとこっちから。この川がね、一番大きな川。カシイガワって書いてあるでしょ、これがここです。だからね、浦の崎っていうのはここまで。この辺までかな。」
浦ノ崎区は北は小松堀(コマツホリ)、南は香椎川(カシイガワ)まで広がっている。
「ノバヤシっていうのかな。ふだん読んだことはないね。こんな名があったんだね。こんなに名は分からんね…。海岸通りはハゼ(波瀬)って呼んでいた。ムロザキっていうのは、このあたりはハゼっていうもんね。このあたりでは魚も獲ったね。トンネルは…あ、ここがトンネルになっているんだ。」
「タチイワ…これは昭和17年に分かれた。今、すべて手紙とか住所の申告とかはすべてタチイワ。タチイワで何の何番地っていうことで通っている。いちおう浦の崎は有名よ。あの駅は浦の崎の名をとっているしね。昔はタチイワってのはねあそこ山の上がタチイワでね、で下が浦の崎だと思っていたの。そしたら違ったんだね。」
すでに述べたように、タテイワと浦ノ崎は分離したのだ。
「ここら辺はずっと繁華街だったと。このあたりは埋め立て地だったから。ここも埋め立て。ムカイヤマ(向山)ってのがあるでしょ。昔ここに炭鉱があったわけよ。だからね、この炭鉱の社宅がね。それで、ここからでたボタね。ほら石炭から出るやつをここら辺に埋め立てているの。結局ね海の上に立てていたんですよ。そういうのは県に許可を取ってやっていいと。ところがね、戦争に負けちゃった。そしたらね、これだけ残っちゃったわけ。まあ、こうあるのが問題になったいるわけ。現在この炭鉱はもうないね。昭和31年ごろから閉山かな…。」
佐代川を上流へ向かうと第二佐代川橋と呼ばれる橋がある。そこの東にムカイヤマはある。向山鉱山で取れたボタ(石炭でも鉱物でない、ただの石)を砂浜に広げていき、現在の埋め立て地が完成された。
「向山炭鉱っていう大きなものがあったから、石炭をこの佐代川の横にね線路をかけてね。わたしはね、昔ねここを通るでしょ。帰りがけにね、線路で遊ぶわけですよ。そしたら、後ろから(汽車が)やってきたりね、危なかったですよ。」
そう言って岡部さんは笑った。現在では考えられない遊びも、昔では大した危険ではなかったのだ。
「カワナミ(川南)造船所、カワミナミって書いてあるけど、実際はカワナミってよぶの。ここの社長がね、警察に捕まったの。軍人の人に反乱のクーデター。でも皆その人を悪いとは思っていない。」
戦時中作動していた川南造船所。そこで起きた事件が三無(サンユウ)事件である。当時、社長の豊作氏が『戦争無し』『税金無し』『失業無し』を掲げ、軍部にクーデターを起こしたのだ。軍に反抗したため逮捕されたが、民衆を思っての行動だったため周囲の人は彼を悪人とはみなさなかったそうだ。『三無』とかいて『サンユウ』と読むのは、『無は有に転じる』という中国の故事によるものらしい。
「カワナミ造船所の社宅があったあたりをね、今カワナミ区って呼んでいる。だから、まとまっていなくて、とびとびにあるわけよ。ここでね、中学3年のころにね、ここの寮があったんやけどね、ここに呼び出されてね、泊ってね、ずっとね、ここに通ってね、造船所を作ったんです。そこでね、学生時代だったけどね、それでもやらせられたんですよ。残骸がいっぱい残っているんですよ。」
図1.川南造船所跡
図1は海に面した防波堤側からの写真であり、普通は見ることはできない。川南造船所は図1のように現在は骨組みだけが残っており、倒壊の危険が非常に大きい。そのため取り壊しを行い、公園を建設しようという話もあったのだが、取り壊しに8000万円近くの費用がかかるため実際には行われていない。だが戦争の悲惨さを現代に伝える重要な建造物としての価値もある。
話は以下に続く。
「アメリカの空襲があってですね、向こうからやってきたんですよ。そしたらね、いっぺん通り過ぎたんですよ。そしたらね、急に引き返してからね、造船所に落ちた。山の方からやってきてね、海の方へいったんですよ。わたしの記憶ではね…この辺に爆弾が落っこちたんですよ。この辺に事務所があってですね、死んだ人はいなかったね。」
そうおっしゃって岡部さんは爆弾の落下地点として地図のある一点を指した。そこは住宅が広がっている場所だった。死者が出なかったのは本当に不幸中の幸いである。
図2.浦ノ崎にある防空壕跡
そして戦争の話題はさらに続く。
「最終的にはですね、船はですね、上陸用舟艇を造っていたんですよ。こんなに負けているのに何処に上陸するのかってねえ。土の中にですね、アメリカ軍の打ってきた爆弾が埋まっていたんですがね、本当に熱があってですね、とても大きいものでしたね、本当これがあたったら人間の一人二人死んでいたかもしれないですよね。爆弾、空襲はね…二回ほど受けましたかね、しかしね迎え撃って戦う余力はなかったですよ。海軍がね、監視してて、憲兵みたいな人達がね、堕落したらいかんってね、ずっと監視していたんですよ。そしたらね、終戦になったらね、もうすぐ行方くらましてね、もうね、やっぱね、恨み持っている人がいましたからね。」
終戦後、海軍が逃げたのは軍に対して恨みを持っている人たちからの仕返しを恐れたから、ということらしい。
「いまはね、もう全然魚はとれないからね、もう漁業はしていない。今ね、このあたりの魚をとる権利というものを皆なくなってしまったんですね。いい漁港だったんだけどね…。大きな船がね、行き来するわけですよ。もう海が汚くなったんですよ。前はね、どんな魚も取れていたんですよ。底引き網はね、この辺でやっていたね。主にね、エビがね、あとは、カレイとか、…普通エビ網って呼んでたね。ハシラセってのがこの辺にあるんですよ。海底で頭が出ていないやつね。ここら辺では船はぎりぎりで進んでいくわけね。」
近辺の海の埋め立てが進み、また多くの工場やコンテナ基地が建設されたため、汚水によって海が汚れてしまったのだ。海底にはヘドロが溜まり、漁業もできなくなってしまった。そのため漁業を営んでいる方々はすぐに漁獲権を放棄したらしい。現在も漁獲権を持っている人はたった一人ということだ。
「だいたい七つ島って言ってね、本当きれいだったんですよ。ここら辺は、本当に、子供達とか連れて本当遊び場だったんですよ。いつ頃かね…。」
「大阪にもあるんですけどね、それが当たってね、最初そうなるかと思ったけどね。こんなに立派になってね。」
「でも、やっぱり七つ島がなくなってしまうってことで本当に反対の人達はボロボロ泣いてね…。このへんも埋め立て、埋め立て。これは土砂なんですよね。この辺は砂浜だったんですよ。ボタですよ。山にしないで海を埋め立ててね。」
これは伊万里市の名村造船所伊万里工場についての話である。もともとは七ツ島(ナナツジマ)と呼ばれる七つの美しい島の集まりだったのだが、そこに大阪に本社を持つ企業が30年ほど前に埋め立てをし、工場を作ってしまった。これは前述の海の汚れの原因につながる。住民の人々の多数は反対したそうだ。建設が決定し、「泣くほど悔しかった」と岡部さんはうつむいて静かに言った。
「山代団地って言ってですね、本当立派でね、こちら側もそのようにしていこうとしているんですけどね。浦の崎もそのようになってほしいという気持ちがあってるんですけどね。実際は、公園にしたりね、皆が散歩したりするような感じでね、自然に触れて遊ぶというようなことが決まっているらしいですね。」
山城工業団地は浦ノ崎より少し南に位置する団地である。素晴らしい団地であるらしく、浦ノ崎にも同様の建築を望む声が多々あるそうだ。
ここで話は浦ノ崎に残る伝説へと移る。
「佐代姫(サヨヒメ)神社ってのが伝説で名高いわけ。だからね、ずっとこの辺にサヨガラミってのもあるでしょ。クロモってのもあるでしょ。佐代姫様がね、武士の船でね、流れ着いて、ここの岸でね、波打ち際でその佐代姫様が、流れ着いたわけでね、ほら、昔の人はほら髪を長くしとったでしょうが。それがれ、黒い藻にみえたから。(黒藻(クロモ)という地名の由来である)で、浦ノ崎病院の中庭に塚があるわけですよ。本当の。今、病院で年2回お祭りがあるわけですよ。ご主人がですね、戦争にでるわけですよね、ほら、武士だからね。それでね、寂しくてね、自分もついていきたいからってね、船で追っかけて行ったわけですよ。結局どうにもならなくてね、亡くなられたまま、また戻ってきたっていう伝説がね。でね、かわいそうにってね、昔の人達が造ったっていう伝説がね。佐代川も佐代姫から来ている。まあ真っ赤な嘘っていうわけではないと思うけどね。ここちゃんとね、ふるい鳥居があってね、ここはタチイワとしてね、氏神様です。」
この伝説によって作られたのが、図3の佐代姫神社である。実際は、佐代姫はここには祀られておらず、図4の浦ノ崎病院の中庭に塚がある。
図3.佐代姫神社 図4.浦ノ崎病院中庭 佐代姫の塚
「昔はね、トンネルの中を通ってたりしていたけどね、途中で汽車が来たりし
てね。昔はね、SLだったからね。真黒い煙を出してね。しかし、この地図を見てね、ここ何処やろうかって思うね。細かいとこはね…。ごわー、いろいろあるね…。ハル(原)っていうのはここから長崎県やけんね…原って書いてあるけどハルって読むんですよ。」
県境にまたがるトンネルを指して岡部さんはおっしゃった。もともとこのトンネルは短く歩いて行ける距離であったらしい。そのため岡部さんは子供の頃普通に歩いて汽車に引かれそうになるという経験をしたそうだ。だが数年前、地滑りが起きてトンネルが埋まってしまった。そのため新たなトンネルを開通させることになり、現在のように以前に比べるととても長いトンネルができた。
「水がたまる減るときはへる、それをカラミっていっていた。埋め立てだったけどね、カラミっていう名は残っているね…。サヨノカミ…あ、これは山代の上のことか。この辺では、ノはンって発音するわけ。ウランサキってよぶね、サヨノカミもね、サヨンカミ。しかし、これは、分からんぜおれは…」
「うーん…。でもよくこんなに書いてありますよね、これは分からんですね。」
カラミ(搦)とは原田さんの説明の通り、海が満ち引きする干潟のような場所を示す。現在は、埋め立て地となってしまったが、昔カラミだった場所がその名残としてカラミという地名になったのだ。
「こけ、書いてある定置網っていうのはですね…火を焚かなくていい。あらかじめ網を固定させておいてね……巾着網、魚ばね取り囲んでね…ここに魚がいるって分かったらね、山の上から見るわけ。で、船が暗くなったら光でおびき寄せるわけ。」
ここで昔行われていた漁の方法について教えていただいた。
「で、…ここはね、昭和初期の村の姿はね、炭鉱があってねものすごい発展してたわけよ。商店街がこの炭鉱のおかげでものすごい栄えたわけよ。でね、駅のまわりに桜を埋めてるわけ。で、今そこはトンネルみたいになっててね。本当咲くときれいなもんですよ。70年ぐらい前に商家っていう団体の人がこれを埋めたんですって。商友会っていう集まり。桜のトンネル。」
今年の3月28日、29日に浦ノ崎駅(図5)にて『第一回桜の駅まつり』が開催された。私たちは、そのとき記念として作られた桜の木メダルをいただいた。(図6)現在はすでに桜の花も散り、葉が青々と茂っていた。そのため桜のトンネルを実際に見ることはできなかったが、木々が茂る様子から、桜の美しさを容易に想像することができた。だが、桜まつりについて熱く語る原田さんと多久島さんの話を聞いていると、ぜひ私たちも実際に桜の咲きほこった様子を見てみたいものだ、と痛感した。
図5.浦ノ崎駅 図6.桜の木メダル
調査を終えて
資料で調べるのと実際に現地に赴いて現地の方々の話を聞くのでは大きな違いがあり、後者の方が非常に多くの情報を得ることができた。本当に体験してきた方の話には現実味があり、私たちのような戦争を経験していない者にとっても実感をわかせてくれるものであった。次は私たちがこれらのことを後世に伝えていかなければならない。それと同時に環境や伝統を守っていくため、多くの人々が調査にあたった各地のことを知り、生活や開発を行っていくことが重要である。