文系コア「歴史の認識」レポート
〜浦潟〜
工学部地球環境工学科 2年 高橋佑希
工学部地球環境工学科 2年 橋野将茂
村の歴史 〜「浦潟」の生い立ち〜
私たちが調査に訪れた浦潟は昔は「大字福田字浦潟」と戸籍上表記されていたが、昭和20年頃の行政改革によって「浦潟」と「福田」がそれぞれ独立した。
現在は郵便を送るときは浦潟の表記のみで届くが、昔のような表記でも問題なく届くらしい。
ここで、「大字」とは市町村内の行政区画である字の一種で、明治以降の市町村合併のときに以前の村名(町名)を残したものである。この大字と区別して、近世からの村の下にあった区画単位である字を「小字」と言う。この小字は単に「字」ともいう。
浦潟という場所は昔は海であったそうだ。それが明治と昭和初期の2回の干拓によって村ができたのである。このような立地のため浦潟では農業と漁業の両方で生計を立ててきた。しかし、20年ぐらい前に、海上に工業団地ができ漁業権を放棄したため現在は漁業はしていないそうだ。
村の生活
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@ 漁業
浦潟では昔は漁業を行っていた。漁は船からえさをまいて魚をおびき寄せて釣るという方法で行っていたらしい。定置網はしていなかったそうだ。船は現在とは違い木船であった。木船は船大工に作ってもらい買っていたそうだ。夏場はボラを中心に、12月にはナマコを捕っていた。その間にはえびも捕っていたそうだ。えびは4、5月から一年中捕れたそうで、えび漁は夜行っていた。捕れた魚は築港という近くの市場に売りにいっていた。
漁を行うときは「山あて」と呼ばれる方法で船の位置を確かめていたそうだ。山あて(山見)とは山や島などを目印にして、それらを結んで、目標物のない海上で現在地を知るための方法である。漁師は皆この山あてを行っていたらしい。何を目印にするのかは自分で決めていたそうだ。釣り場は山あてによって決めるので、魚が捕れるかどうかは山あての腕次第だった。
後に、海に工業団地ができて漁業権放棄をした際には、補償金の額を決めるために水揚げ量の計算をするときにも、この山あては使われたらしい。
漁を行うときには、山あて以外にも風や潮の流れも考慮しなければならなかった。風にはハエカゼと呼んでいた南風と北風があったそうだ。
A農業
浦潟の人々は半農半漁で生活していたので、漁業だけでなく、稲作や畑作、果樹栽培も行っていた。
田んぼにも昔からの言い伝えのしこ名はあった。「オザキノハナ」「キリビ」「イワトヤ」「カミ」などのしこ名は2代も3代も前から使われていたらしく、由来はわからないそうだ。
田は昔、牛で耕していた。そのため、家ごとに牛は飼っていたらしい。しかし、戦後の区画整理でひとつひとつの田んぼが広くなり作業も機会化されたので牛は飼わなくなった。そのため、田の枚数は減ってきたが、一枚あたりの面積は大きくなった。ただ、現在は「百姓はすればするしこ借金ば増える。今は大きか農家ほど生活は苦しいばい」と訪問先の方が言われていたように、税金のために現在の稲作は苦しくなっているそうだ。
また、田の水は「水番」と呼ばれる人が番をしていたらしい。水不足になると「タカヤマ」という山で雨乞いも行っていたそうだ。雨乞いのときは神主が来てお参りをしていた。
畑では麦と大豆を作っていた。一時はたばこを作っていたこともあるそうだ。
果樹栽培は漁業権を放棄した後から行うようになり、みかんを作っていた。みかんは市の共同出荷に出していて、個人で販売は行っていなかったそうだ。
B浦潟での生活
「浦潟は生活のしやすかとこだい」―――訪問先の方がこう言われるように、浦潟は暮らしていくにはとてもいい場所である。農業も漁業もするので海からも山からも収入があるので他の地域と比べると経済的には恵まれていた。そのため、食べ物に困ることもなかったそうだ。「浦潟で生活できなければ、ほかの村に行っても生活していくことはできない」と言われるほどで、実際、訪問先の方はいつも村の中で生活をしていて、村から出て行くことはなかったそうだ。
村には毎日行商人が魚や野菜を売っていたそうだ。だが、その行商人の人たちも町内の人たちで、村の外から来ることはあまりなかったそうだ。村の外からわざわざ行商人が来るときは、生活必需品を売りにきていた。主には着物を売っていたそうだ。
村では戦前は米と麦を混ぜて炊いて食べていた。戦後は白ご飯を食べるようになったらしい。昔は肉を食べることはなかったそうで、漁で捕れた魚を食べていた。また、わらびなどの野草を採りに山に行くこともあった。山には共有林もあり、杉とヒノキを植えていた。これはどうしてもお金が必要なときに切って売るためにとっておいたそうだ。また、山では炭焼きも行っていた。山の中に炭焼き用の窯を作り、そこで炭を作っていた。
また、浦潟には氏神様を祭ったお祭りが毎年8月16日にある。この日は御参りをするそうだ。昔は踊りもしていたそうだが、今は、各人が自分の家で作った食べ物を持ち寄ってみんなで食べたり飲んだりしているらしい。
漁業権放棄
現地の長老の方々のお話によると、昔は農業と漁業を両立して、ここで生活できなければどこへ行ってもやっていけないといわれるほど豊かに生活していたが、漁業が漁獲量の減少や後継ぎなどが問題で低迷してきたこともあって港に工業が進出してくることになった。
賛否両論あったが結局、漁業権放棄というかたちで港を工業に譲った。
その時それぞれの場所の漁獲量に合わせて漁業に携わっている方々に補償金が支払われた。
確かに工業が進出してきたことによって働き口が増加し市民の生活は豊かになったが、埋め立てが行われたり産業廃棄物など、放棄される前からささやかれていた港の環境が問題になっている。
実際に赤潮の発生なども確認されておりさまざまな環境保護活動もおこなわれてはいるが事態は深刻である。
僕たちが訪問させていただいたときも海にはタンカーをたまに見かけたぐらいで漁船などを見かけなかったので本当に静かでなんとなく寂しいという印象をうけた。
昔の漁業のお話をしていただいたとき長老の方々がとても得意げにそして懐かしそうに話している様子から漁業が生活のどれほど重要な部分を占めていたか見て取ることができた。
地名 ()内は漢字
字名 シコ名 備考
コウゲツ(光月) オザキノハナ (尾崎の鼻) 田
カミ (上) 田
コナシマ 島
ウラガタ(浦潟) キリビ 田
イワトヤ (岩戸屋) 田
ナガセ (長瀬) 瀬
ヒラセ (平瀬) 瀬
ヒデゼ 瀬
ビョウガウラ 瀬
ヨシガウラ 瀬
コンゴウジマ 島
カヤシマ 島
コメジマ カナエ 瀬
トンボガハナ (トンボヶ鼻) 鼻
協力いただいた浦潟の方々
吉田敬一郎さん(昭和14年生まれ)
坂口松夫さん(昭和2年生まれ)
松本信五さん(昭和8年生まれ)
ご協力ありがとうございました。