伊万里市 波多津町 浦

            九州大学 理学部 地球惑星科学科1年 江藤洋香

                               角田 絢

お話を伺った方

浦区長 井手武明さん(70) 

漁場長 篠崎喜久男さん(76)

    西谷 新さん(84)

    大塚一男さん(82)

 塩釜 津田幸男さん(72)

 

 

一日の行動記録 

8:40 集合、バス乗車

10:50 浦着、井手さん宅訪問、場所移動

10:55 津田さんの塩のお話(1)

11:10 西谷さん、大塚さん、篠崎さん、井手さんのお話

12:24 昼食

13:10 再集合、乗船

   (船に乗ってイロハ島めぐり)

14:00 大塚さんとの話

15:30 お墓をみる

15:45 津田さんのお話(2)

16:03 話の聞き終わり

16:40 バス乗車

 

 

調査結果

 

波多津の地名

伊万里市唯一の漁港で、室町時代には貿易にも使われていました。「ハタツ」の地名は、この地を治めていた松浦党のかしらであった「ハタミカワノカミ」の名前か、彼が所有した「ハタツノハマの港」の名前が由来ではないかということでした。ハタミカワノカミは漢字でどのように書くのでしょうか。

 

 

大博打の伝説

波多津湾はちょうど佐賀と長崎の県境が通っており、船で県境をまたぐことができるようなところにあります。(漁のできる範囲はきちんと決まっているそうですが)ここには、佐賀の殿様と平戸の殿様が博打をして、勝った平戸の殿様が福島をもらったので、福島が長崎県になってしまったという伝説が残されています。現在も福島の伊万里湾側の海岸に、松浦公の家老のお屋敷があって、船に乗せていただいた時に見ることができました。このお屋敷の中には、兜や鎧などが見つかっており、家主は見張りをしていたと考えられています。お屋敷の中もぜひ見てみたいと思いました。

 

 

キシタケ末孫のたたり

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際のお話です。波多津を治めていたハタミカワノカミには、きれいな奥さんがいらっしゃいました。女好きの秀吉からの要求を拒否して、奥さんをわたさなかったので、いさかいが起き、知行を没収されたのでした。これは後世の人々が事実をおもしろおかしくするためにこしらえた作り話です。実際には、ハタミカワノカミが自分の領地に名護屋城を建てたくなかったので、領地内にはよい場所を持っていましたが、秀吉が城の位置を決める時に、『場所はない』と申し上げたところ、唐津のミズサワジマノカミ(テラサワ9が、『あそこにはよい場所があるはず』と言いつけたことから、謀反の疑いやら、いろいろと難癖を付けられて領地を取り上げられてしまったということだそうです。つまり城を造るのに、彼らがなかなか領地を明け渡そうとしなかったので、つぶされたのです。ハタミカワノカミの臣下たちもまた、秀吉の理不尽なやり方に素直に応じず反発して討伐を受けました。逃げてきた残党たちは、波多津のちょうどこの辺りで自害したり、捕まったりして、地元の方々がその亡骸を埋めてあげられたそうです。鎧などが腐らないで残ったりして、出てくることもあります。キシタケバッソン(岸岳末孫)をはじめこの残党たちは、恨みを持ったまま亡くなったので、そのたたりが、何の関係もない地元の方々に意味不明の痛みや病気を煩わせたりして、大変恐れられています。そこで、お墓をつくって、あちこちでお祈りをしていらっしゃいました。お墓をあつめてまつっているかたも。このようなたたりには、やはり現地に住んでいないとわからない恐ろしさがあることを痛感しました。

 

 

よか温泉

この辺りは、雲仙火山帯に属しており、昔はユノウラ(湯のうら)というところの温泉から、竹どいで湯を引いていたそうです。この温泉は、40℃ほどの冷泉ですが、高津からのお客さんも来られるくらいで、霜焼けや風邪やその他いろいろな病気に効く、とてもよい温泉として有名でした。現在ないのが残念ですが、タカクシというところから引いていて、イロハ島国民宿舎のあたりでも温泉に入れるようです。ですからこの辺りの地名には、お湯や温泉に関係のあるものが多いのでしょう。面白い地名がたくさんありました。

 

 

元寇の大被害

元軍が日本にやってきた時、この辺りの島々は大変な被害を受けたそうです。対馬は全滅、鷹島も蹂躙されたことがわかっており、福島も全滅していたのではなかろうかというお話でした。あたりは戦いで血の海になり、チザキと呼ばれるようになったところもあります。元軍は、島陰に隠れて戦っていましたが、その時ちょうど台風が来て、全部沈んでゆきました。そして日本には神風が吹くといわれ始めたのでした。元寇の際にはいろいろな水軍が活躍しました。松浦党は、もとは源氏の流れで、倭冦であったこともあり、貿易を盛んに行って、松浦水軍と呼ばれていましたこのあたりでは平氏系の瀬戸内水軍も活発で、壱岐対馬を本拠地としており、長崎に島々が多く属するのは、水軍の行動範囲で地域が分けられたからだろうということでした。元寇で島が占領されていたことは、初めて知り、とても驚きましたし、恐ろしく思いました。水軍の活躍がなければ、台風が来る前に上陸されていたかもしれません。

 

 

水害と埋め立て

今から何十年か前の夏に、国民宿舎の先でがけ崩れが起きて、三十何名も亡くなった水害があったそうです。田植えから戻ってきたら・・・という方もいらっしゃったようです。がけ崩れが起きたのはウリがとれる坂で、「ウリが坂」がなまってウリガサコと呼ばれており、逃げたそこの地名はヌゲグチ(ニゲグチ)と呼ばれていました。昔から、水害などの際には逃げる場所として使われていたのかも知れません。昔、このあたりでは大潮のときに潮干狩りをしていたそうですが、海を掘り、水を抜いて埋め立てて、田や畑を作ってきました。江戸時代には、水の神といわれ、各地で水害や水不足にあっている村を助けたと有名な成富兵庫が、波多津島の埋め立てにかかわって、馬蛤潟新田ができたそうです。埋め立てを繰り返して、現在は埋め立てて高くなった分、水害が増えてきており、昔の人たちは計算して水害にならない程度に掘っていたそうで、「やっぱり昔の人はすごか」とおっしゃっていました。

 

 

戦争のときの話

 高い山の上に、太平洋戦争のころ使われていた敵機監視所が今も残っています。穴が掘ってあって、音を聞いて、敵機の接近を知るのだそうです。この監視所を、昔の通りに再現しようという試みが行われており、本年中には完成する予定です。戦争のころは、そこに交代で何人か詰めていて、電話や警報で敵機の接近を知らせることも行われていたそうです。太平洋戦争の傷跡は、ここにも残されていました。空襲警報 敵機の来襲などを双眼鏡で見て警報を発令しろとか?軍艦を作りに行った人も。

 

●塩の話

塩づくり(行政区活性)

直接海水を熱して濃度を高める

500リットル3パーセントなので頑張っても1日20キロくらいしか作れない。 排熱を利用(エコ)、蒸発量をまわす。水位を一定に。にがり分が最初に結晶になる。それを除去して、塩を作る。昔はずっと塩をたいていた。今、村おこしでやっているのはここのみ。この塩をなめてもすぐ水が欲しいという感じがしない。ピラミット型の四角すいがこのまま放っといたら出来る。薪は廃材を建築業者が持ってきている。ただで処分出来ることになる!

●島の話(船にて) 

漁をする時には島や瀬を避けて通らなければならないので、島や瀬にはみんな名前があるそうです。

 ツルクギ 

 ボウガサキ

 マエシマ 

 ウシジマ(クジラジマ)

 シジュウガシマ

 サコンタロ(キョウダイジマ)

 タケノコジマ

 マツシマ

 ニシガクレ

その他すべてを総称してイロハ島というそうです。昔は全部で四十八くらいあったんじゃなかろうか、とおっしゃっていました。また、タケノコジマでは、昔流行病で亡くなった人の亡骸を窯で焼いていて、今でも黒く焦げた跡が見られました。タケノコジマには福島の殿様が役場を建てていたというお話もあり、昔からなぜかこの島には、ウサギがいっぱい育っていて、糞だらけだそうです。船で行った時には見られませんでしたが、今でも住んでいるということでした。

このこまかい島々…ネズミジマ

焼き場跡(たけのこじま)でなくなられた人を焼いていた、火葬場がある。 事故かなんかで死んだひとを焼いていた。

たけのこじま付近は地元の人でも知った人でなければまっすぐはいれない。

ヒラセ〈棒が差してある〉 オオラノハマまたはオオウラのハマ コジマは、すぎのうらのくちのことをいう オオウラは地図なし。鼻(つのくしばな)イカとりかごをつるして印をして毎日揚げる。セノアキ(なにもはえていない)

いろは島…48というが48はないだろう。

しじがしま うしじま のじま。 伝七島とはいわない(?)。

●漁—今昔—

 漁師といっても捕る場所がいろいろある。この辺(浦付近の海)で取る人、大した魚はいない。玄海まで出て行く人。

 魚の値段は決まっている。安い魚から高い魚まで区別されている。店で売るときはどれも同じ値段にされる。

(昔ととれる魚は変わったりしているか?)昔はこの辺はイワシ。昭和3年(?)頃までは取れた。カタクチイワシはまだ獲れる。マイワシはもう獲れない。養殖はたまにしている。昔からはしていない。とれなくなったから。36年ぐらいから遠洋漁業が獲れなくなってきて…。ウミウ(養殖を狙って顔突っ込ませて獲物を獲る。団体で来て養殖の人は困っている。

 長崎県内に入ってはいけない 昔は長崎の方に漁師がすくなかったから、1年に何回か入らして下さいと相談して入っていた。漁師が増えてきて締め出しのようになってしまった。

●その他

トーキベンでは辻(手紙、地籍)行政区は浦、町内部落同士では普通ハマという。

あおめ(足の多いごきぶりのようにみえる)今の時期では珍しかったらしい。4匹くらい見かけた。

トンビがとんでいる。

何か飛び跳ねた(ボラ?メモし忘れていた)…オコゼが意地悪して俺はいやって飛び跳ねている〈笑〉。獲ったら逃げだされることもある。飛んだら2,3回くらいおんなじところで飛ぶ。

この辺は全部土葬、火葬はなかった。

魚釣りでは、キス釣りがある

●個人的に質問

(海と川の境は?)水門ぐらいが境じゃないだろうか。 

(お米とかを食べられているのは?)この辺は全部お米。昭和20年頃までは配給も。漁師は365日出るわけではなく、農業もしていた。時期が重なった場合はものすごく忙しい。

(地図上にある果樹園マーク)不明。この辺はみんな畑だった。今はもう全部山になってしまった。

(地図中、山に囲まれた田)水をためてある。ひと山越えて合体つながっている。

 

 

冷たいメロンソーダ、お茶500、ゆで卵とお塩、波浦の塩、ありがたくいただきました。鳶や海鵜に初めてあいました。ボラが飛び跳ねていたのを見て感動しました。

 


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