歴史と認識 現地調査報告書

 

調査者

堀越 顕

松田 大樹

 

調査目的

当時から、現代までにおける変化に際し、失われたもの、また既に失われてしまったものを記録し、後世へと伝える。また、その土地の歴史、暮らし、しこ名について触れ、理解を深める。

 

 

調査対象

佐賀県 伊万里市 東山代町滝川内

 

 

調査協力者

前田 武太さん(佐屋出身) 昭和7年生まれ

前田 満野さん(讃岐出身) 昭和7年生まれ

 

 

行動記録

6月27日、ほぼ予定時刻の8時15分に一行は九大学研都市駅から、佐賀県伊万里市へと出発した。途中、10時頃トイレ休憩を済ませたのち、再び伊万里市へと向かい出発する。海沿いに進み、徐々に調査者達がバスを降りていき、山の方へと入っていく。山道をだいぶ走った後、11時頃、最後の2組となったところで、ようやく目的地の滝川内へと

到着する。10分程度降りた所で早めの昼食をとり、調査へと向かう。前田さん宅はすぐに見つかり、調査の旨を伝えると早速その土地のことについて話していただいた。13時30分頃になり話も終わり、その日のお礼を告げ前田さん宅を後にする。バスの出発時間までしばらく時間があったので、滝川内一帯を散策することにし、神社等を訪問した。散策した後、出発時間までその日の調査について情報をまとめた。16時15分頃バスに乗車し、18時50分頃に九大学研都市駅に到着する。貴重な現地調査を終えた有意義な1日となった。

 

 

 

・しこ名について

しこ名(あざな・通称)についていくつか話していただいたので、以下にそれを記録する。

 

小字 佐屋・・・カシヤマ(カサヤマ)

小字 山中・・・ヤマナカシモ(ヌゲ)、ヤマナカカミ(カミ)

 

また、鬼石という小字について逸話を聞くことができた。

昔から川の真ん中に大きな赤い石があり、その石は鬼が山の向こうから投げ込んだものだ、という言い伝えがあったため、そこの小字は鬼石と呼ばれるようになったという。ちなみにその石は、護岸工事の際に取り除かれて今はもうないそうだ。また、その石を業者が取り除く際、石を割ってしまい、謂れのある石だから、ということでわざわざそこにお酒をかけたという。

 

 

 

・戦時中について

戦時中についても話をしていただいた。当時について思い出す満野さんの表情は真剣そのもので、当時の様子が在り在りと見ることができた。当時の苦労、生活の様子等を以下記録する。

 

>戦時中の食事等について教えてください。

「米等は全部政府に集められていましたので、常にひもじい思いをしていましたねぇ。食べるものはほとんどイモばかりでした。給食もなくて、弁当も、イモご飯といったようなものでした。おやつは時間がもったいないから、調理する時間も無くて、生のイモをかじっていました。とにかくひもじかったです。また、仏壇にある金箔、銅などはすべて贅沢品として各家庭から没収されていました。」

 

>戦時中の学校の生活について教えてください。

「学校では、ばれいしょ、かぼちゃをつくっていて、それを出荷していました。それほど食糧難でした。また、私は中学2年で学校を卒業し農協に勤めました。でも週3回校長先生が自費で授業を開いてくれたので、それにも参加していました。そして、戦後1年間学校に通って、中学校を卒業しました。」

 

>徴兵について教えてください。

「はい、徴兵はここでもあって、私の父も徴兵されました。青年たちは青年学校で軍隊の訓練をさせられていました。幸い、私の父は内地の勤務でしたから、戦後帰ってきました。」

 

>戦後について教えてください。また食糧難は戦後でもありましたか?ガス、電気等についても教えてください。

「戦後の食糧難は特になかったです。でも、多くの人が都市部に職を求めて村を出て行って今ではすっかり過疎化が進んでいます。農業だけでは生活はきついです。ここの地域の人は、ほとんどが兼業農家です。ガス、電気は戦争中は止まっていましたが、私たちが生まれる昭和7年以前から通っていたみたいです。後は、そういえば昭和34年ごろにバスが通りましたね。それまでは海の方までは歩いて2、3時間かけていっていましたからね。」

 

>とても苦労なさったんですね。貴重な体験をお話ししていただいてありがとうございまいた。

 

 

・滝川内について

滝川内の農業、暮らし、について以下に記録する。

 

>佐屋にある道祖大明神(神社)について教えてください。

「年に一回太鼓、笛等の風流を使い、お祭りを部落ぜんたいでやっていました。11月4日になると班単位でお祓いをしていました。ちなみに、私は讃岐の出身で私の満野という名前は讃岐にある天満宮の満という文字から来ているそうです。」

 

                             

 

                       

 

 

 

 

 

 

 

          

讃岐にある天満宮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

 

 

佐屋にある道祖神社

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          道祖神社の御神木

 

 

>炭焼きについて教えてください。

「炭焼きは、班単位で希望者を募って、国有林を特売してもらっていました。値段は木の質によって決められていましたね。木を見ればいい炭になるかどうかは分かるので、不平等になららいように、くじびきで場所をきめていました。運の悪いひとは、安いところにあたって、金銭的にも、労力的にも損をしていましたねぇ。炭焼き釜は個人単位で自分が購入した場所にこしらえていました。焼いたすみは白炭で普通の炭より高く売れていました。今では、炭を焼いている農家はこの辺りで、3軒ほどしかありませんね。」

 

>この辺りの田んぼについて教えてください。

「まず、田んぼの用水路のところに石垣をつくっていました。でも全部人の手で積み上げていたから、雨が降って水があふれると石垣が崩れて大変だったね。いまではちゃんと積んだ後固めているから大丈夫だけど。用水路にはうなぎ、ふな、なまずとか沢山魚がいたんだけど、最近はすっかり見なくなったねぇ。鵜や鷺も昔はよくみかけたよ。あと、昔はこの辺り一帯は棚田でしたねぇ。谷も全部田んぼに使っていました。」

 

>田植えについて教えてください。

「田植えの時期は5月初めから5月終盤にかけて行っています。山頂の方ほど田植えの時期が早いですね。そうすることで、収穫する時期が同じになるんですよ。また、すべての農家が個人単位で行っています。あと、今ではコンバインがない農家はないねぇ。」

 

>田植えの後、祭り等は行っていましたか?

「今では、もうやっていませんねぇ。昔はよく班で集まってお酒を一緒に飲んだりしたもんですがねぇ。」

 

>農業による収入はどうですか?

「収入はほとんど米ばかりですね。転作でそばや、大豆もつくっていますが、ほとんど収入にはなりません。でも、収入といっても米ばかりでも厳しいので、ほとんどの家が今では兼業農家です。」

 

>反当何俵くらいでしょうか。また、悪いところと一等田とではどのくらいの差がありましたか?

「私たちは一等田でしたから、だいたい7、8俵くらいでしたね。悪いところでも5俵くらいはとれていました。ちなみに、ユメシズクという種をつくっています。」

 

>米の保存方法について教えてください。

「米は俵にいれて、2階に保存していました。今は米の貯蔵庫があるからそこに入れています。あと、鼠よけに猫を飼っていましたねぇ。」

 

 

 

:現地調査 写真:010.JPG:現地調査 写真:004.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             滝川内の田んぼ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             滝川内の川

 

>家畜について教えてください。

「どの農家も牛は一頭は持っていました。馬を持っている農家はあまりいませんでしたね。牛は主に田植えに使っていました。戦時中この作業はほとんど女がやっていました。私(前田武太)の父はとても動物が好きで、川で牛を丁寧に洗ってましたよ。」

 

>山について教えてください。

「今は、金にならないから山は使っていませんね。昔は木を切って、切り出したものを雇ったドウビキ(牛を使って運ぶ人らしい)に運ばせていました。山は昔雑木林だったんですが、今は県の推奨で植林した杉、檜ばかりですねぇ。」

 

>毒流しはやっていましたか?

「はい、やっていました。今は絶対そんなことはやっていません。」

:現地調査 写真:001.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           滝川内の民家

調査を終えて

はじめは村と聞いて近所、村全体としての繋がりが強いものだと思っていたが、実際に現地調査を行っていくと、田植えは農家単位でやるなどと周囲との繋がりが薄いことが分かった。時代につれて人との繋がりが希薄になっていく様子がうかがえた。また、農業従事者も減りつつあり、この滝川内の風景もだいぶ変わりつつあるという。日本にまだこのような風景が残っていたことに感動しつつ、このすばらしい風景が失われつつあることを遺憾に思う。今回の現地調査で地域のしこ名、暮らしなどにふれることができ非常に貴重な体験となった。この場を借りて調査に協力していただいた前田さんに厚く感謝の意を申し上げたい。


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