伊万里市波多津煤屋しこ名調査結果
鶴田 丈士
佐伯 健太朗
<一日の行動記録>
10:00 唐津を出発
10:45
煤屋に到着
10:45〜 散策
11:15 田中さんと会う
11:30 買い物 、昼食
12:15 聞き取り開始
14:20 終了
<お世話になった方>
田中 恒範さん
田中 静男さん(大正15年生まれ)
田中 勝利さん
7月11日土曜日、曇り空の中、目的地である波多津煤屋に到着した。一時間ほど前に着いてしまい、手持無沙汰だったので、周辺を散策した。集落から100mほど歩いたところにある海の写真を撮り、集落のほうに戻っていると、原動機付き自転車に乗った、田中恒範さんに偶然出会った。
公民館に案内され、予定のより早い時間だったということもあり、他の古老の方々が来られるまでしばらく待つことになった。公民館にはすでにたくさんの資料が用意されており、いい成果が得られそうだと期待した。ふと、「お昼ごはんは食べたとね?」と恒範さんに聞かれたので、まだ食べてないという旨を伝えると、「じゃあ、コンビニまで行こうか」と、近くの(といっても車で10分ほどあったが)Aコープまで乗せてもらった。弁当を買った帰りの車の中で、少しお話を聞くことができた。
(田中恒範さん、以下田中恒さん)「江戸時代はここは唐津藩の領で、この辺ばちょっと行ったらもう佐賀藩やったったいね。やっぱい、藩の違うとるだけでも方言の結構変わるけん、方言の違いでよそ者ば判断しよったよ。そいと、この辺は昔全部海やったったい。干拓してから田んぼにしたと。そいけん、陸でんが『浦』とか『潟』っちゅう名前のついとるったいね。」
実際、馬蛤潟(マテガタ)や殿浦などが近くに多くある。
(鶴田)「では、この辺りの山は昔島だったんですか?」
(田中恒さん)「そうそう。半島とかもね。」
近くの山の山肌には海で見られるような岩が露出しているものもあり、名残が感じられた。
公民館に戻ってきて、お昼ごはんのため一時休憩をとった。恒範さんもお昼ご飯を食べに一旦家に戻られた。私たちが昼ごはんを食べ終わって、用意してもらった資料を見ていると、田中勝利さんが車でやってきて、煤屋の歴史についてお話を聞くことができた。
(田中勝利さん 以下田中勝さん)「仕事のあるけんが、今のうちに話しとくね。戦国時代に豊臣の朝鮮征伐っちゅうとかな、そんときに反発した豪族のハタミカワ氏が豊臣方から逃れる途中のこの村に住んだちゅう話のあるよ。その逃れよる途中に追っ手から討たれた武士の墓が昔はそこらじゅうにあったと。山全体が墓。ゴリンドウちゅうてね。
そういえば昔の絵地図の家にあったけんが…」
そう言い残し、勝利さんは家へ絵地図をとりに向かわれた。しばらく待って、新聞に包まれた絵地図のコピーを持ってきてもらった。(新聞は昭和28年の西日本新聞のコピーで、見出しは極東裁判の処刑執行についてだった。)
絵地図を置いて、田中勝利さんは仕事に戻られた。再び、用意してもらった資料に目を通しながら待った。
しばらくすると田中恒範さんがもどってこられた。少しして田中静男さんも到着し、聞き取り調査を開始した。
<農業について>
(鶴田)「この辺りは海の近くですが、農業と漁業どちらを主にやっていたんですか?」
(田中静男さん 以下田中静さん)「それはもう農業ばっかり。漁業はまったくやっとらんやった」
(鶴田)「農業用水はどこから引いていたんですか?」
(田中静さん)「昔の人がため池ば3つ作ってくれちょらすけんな。主に干拓地は。」
(田中恒さん)「川のなかけんね、ここらへんは。ため池作りよっところの写真もあったばい、改修やったばってん。」
(鶴田)「水争いとかはあったんですか?」
(田中静さん)「大きい争いはなかったばってんが、まったくなかったとはいえんでしょうな。水そのものがなかったけん。」
(鶴田)「田植えはいつごろですか。」
(田中静さん)「田植えは6月頃。昔は早稲は二毛作で菜種と麦をつくっとったけんできんやった。」
(鶴田)「田植え歌とかはあったんですか?」
(田中静さん)「そりゃあ、とにかく疲れて手一杯泥まみれになってやったろうじゃけん、歌どころじゃなかったってすよね。ただ、祭りごとのときくらいは、歌いよった。昔は加勢しながら助け合って皆で田植えした。終わった時は、さなぶりばして、盛り上がりよった、ばってん今は機械になってしまって、そういう風習ものうなってしもうたたい。」
(佐伯)「米はどうやって保存していたんですか?」
(田中静さん)「共同で倉庫に保存しよったよ。できた米の俵ば数えてよろこんだりしよった。できの悪かくず米は自分たちで食べて、できの良か米は売りにだしよった。」
(鶴田)「田植えのために、牛や馬をかっていましたか?」
(田中静さん)「ほとんど、もう牛馬耕。昔は馬も一、二頭使いよったろうばってんが、ほとんど牛やった。」
(田中恒さん)「その牛が死んだのば捨てよったのが、この手捨て場たい。」
(鶴田)「牛のえさとかは草切場とかあったんですか?」
(田中静さん)「原野ば野焼きして、夏場に朝暗いうちから朝草一荷ってゆうて、一荷草をとってきよった。そいから、餌だけじゃなくて、堆肥とるのにも野焼きばしよった。ちゅうのも、あんまり金肥は高かったけんが使いよらんやったったい。炭坑から、下肥をもらってきて使いよった。ほかにも、野焼きでとった藁は夜なべしてわらじを編んでは二足、一把は縄にしよったよ。」
(鶴田)「牛とか馬の洗い場とかは特定の場所があったんですか?」
(田中静さん)「んにゃあ、別に牛は洗ったりまではせんですけど、自分の家で働いた後は背中をながしてやったりはしたよ。足も体も洗ってやらんと、病気とかしてしまうけんね。農耕以外に使うひとは牛よりも馬を使いよったですけどね。でも馬は蹄の病気にかかったりして手入れがたいへんやったよ。」
(鶴田)「隠し田とかはあったんですか?」
(田中静さん)「隠し田はなかったみたい。行政から助成金をもらってぎりぎりで田を作っていた。でも干拓地の田んぼは塩害で作物ができんかったりもしたから、年貢を納めれんで、ただで馬蛤潟の入植者に押し付け気味に田んぼを譲ったりしとった。」
(鶴田)「干拓地に名前はついていますか」
(田中恒さん)「(地図を見つつ)下灰浦(シモハイウラ)と上灰浦(カミハイウラ)、通称がうめや新田。」
(下灰浦の写真)
また、話の途中で、5000/1の地図に記載されている潮遊びは無く、他の場所にあるということを田中恒範さん指摘していただいた。
(鶴田)「先ほどの話に出た、ため池の名前を教えてください。」
(田中恒さん)1/5000地図を指しながら「駄路、ひろがり、土河内の3つ。あと個人でもこまかとば持っとらしたごたるね。」
(鶴田)「あ、それと、炭焼きはされていましたか?」
(田中静さん)「おぉ、どこでんがやりよったよ。それぞれの家でね。作ったとば炭坑に持って行って売ったりしよったね。野菜も売りよった。」
<その他の質問>
(佐伯)「生活用水とかはどこから引いているんですか?」
(田中静さん)「水道はなかったけん全部井戸!桶で汲み上げて、だいたい高いところには溜まらんけん下のほう(低いところ)で掘った。しかも地形的に海の近くで近くで地下水も非常に少なかもんじゃけん水には大分苦労して、風呂なんかは一週間に一回とかじゃなかったとかなぁ。」
その名残からか、井戸台帳に記録されている井戸の数は、個人のものも入れて2000を超えるらしい。
また、青年宿についても自ら話してくださった。
(田中静さん)「公民館は昔ゃ青年宿でね、年に一回寺の住職さんの講演とかばしてもろうて子供たちに道徳教育ばしよったったいね。」
(鶴田)「箕を直したり売ったりしている人を見たことはありますか。」
(田中静さん)「え!?あぁ、箕笠売りね。笠売りは見たことなかばってん、行商人は来よったよ。化粧品ば売ったい、鍋とか釜の修繕ばしよった。こうもり傘とか下駄も。昔はものば大切にしよったけん、ものば修繕する仕事でも、ごく少数の人は成り立っとったとですよ。」
(鶴田)「戦後の食糧難についてですが、野良犬を捕まえて食べていましたか?」
(田中静さん)「やっぱり農家ですから、都会の人よりひもじい思いをしたことはなかったですね。ただ、面積に応じて税の割り当てがありよったけんですね、不作とかで米ができんやった時にないものばだせっちゅわれても困るけん、検見ばして割り当てば決めよったっですたい。そいば調査員ちゅうて私も昭和23年じゃったかな、村の役割で回ってきてやったですよ。」
(佐伯)「電気が来たのっていつ頃ですか?」
(田中静さん)「私が生まれたときにはもう来とったけんが、そうねぇ、大正10年ごろだと思いますけどねぇ。」
(鶴田)「川とかで、魚を取ったりしましたか?」
(田中静さん)「遊びで使ったぐらいで漁ができるほどじゃなかったけんね。そのかわり海では釣りなんかをよくしよったよ。潮干狩りなんかもしよったし、夜はたこが手づかみで捕まえられるほどやったもんねぇ。今じゃ値段の高いなまこも両手いっぱいに取れたぐらいやったよ。」
(佐伯)「海の近くに鳥居や神社があったのを見たんですがですが、あれはなにを祭った神社なのですか?」
(田中静さん)「あれは<氏神さま>っていうてね、縁結びと、海の守りのために祭られちょるんよ。氏神さまは最初違う場所に祭られとったんやけど、一回目で海沿いに移動させて、二回目の移動で私の家の近くに来たんやけど、村で災害が起きたけん、場所を戻そうってことになって、今はまた海沿いに祭られとるんよ。」
黒男神社
(一度目の移動で移された神社、今はここに祭られているそうです。)
(佐伯)「はたつには畑の畑津と波が多い方の波多津があるみたいなのですが」
(田中静)「波多家の影響やと思うよ。北波多も南波多も。うちは海に近かけんが津のついたと思う。あくまで私の予想ばってんですね。」
<しこ名について>
しこ名、地名については、田中恒範さん自ら5000/1の地図に記入をしていただいた。
地図上の名前 |
正しいしこ名 |
読み |
後津 |
後津 |
ウシロツ |
前澤 |
前潟 * |
マエガタ |
伊勢ノ光 |
伊勢ノ元 |
イセノモト |
薬師学 |
薬師堂 |
ヤクシドウ |
*潟は、さんずいへんに写だった。
他に、たけ島は竹生島、崎や鼻の名前は、煤屋崎、渡崎(*)、赤崎鼻があった。
(*)福島炭坑に渡る際に、福島に一番近い崎がここでそこから渡っていたためそのような名前が付いた。読みは、トシャキ。
<岸嶽伐孫について>
お話で出てきた、岸嶽伐孫についてまとめた。田中勝利さんのお話から、このいわれは豊臣秀吉の文禄・慶長の役に関係するものである。豊臣秀吉は、朝鮮出兵に際し、鎮西町名護屋に拠点となる城を建てた。そのときに反発した波多三河守を、豊臣の腹臣寺沢志摩守(のちに唐津藩主となる)に交渉させた後、改易(岸嶽城、所領没収)をした。行き場がなくなり散り散りになった波多家は追っ手から逃れ、その途中で討たれた人の墓がある。公民館の裏にも二つあった。(かつて煤屋には無名塔や五輪塔が山いっぱいにあったのだが、ある気の触れた女性がそれらを荒らし回ったという言い伝えがある。近くに鎮魂のための臼杵磨崖仏のような石仏があるらしい。)
こういうこともあり、波多一族は寺沢志摩守を恨み死んでいったという。煤屋の人は、この墓の前を通るときは必ず礼をしなければならないとつたえられてきたという。実は、この岸嶽伐孫の言い伝えは佐賀県北部一帯に広まっているもので、私の母も話をするのが嫌だというくらい恐れられている。
<感想>
最初は初対面の方々に聞き取りをするということで、かなり不安があった。しかし、とても親切丁寧に説明をしてくださり、期待していたものを超える情報を得ることができて大変安堵した。
自分でアポを取り、自らの足で現地に赴き取材するというのは、理系である私たちにとっても将来的にとても貴重な経験となった。また、お話の中でも、私たちが今どれだけ幸せかを痛感させられるものもあり、今後の人生で忘れないようにしたいもののひとつとなった。ありがとうございました。