伊万里市 下分 調査報告

調査日  H21 627日(土)

調査地域 伊万里市下分

調査者  冨田英輔

     古川総一

 

話者   福田義晴さん(69)

 

しこ名  デンシロダニ

     カンバンダニ

     オンツウザン

     ダイツウザン

     ムカエ

     ウーダニ

     フッタノタニ

     カネキチヤシキ

     エボシチャヤマ

     リュウオウザン

     オシビ川

 

1日の行動記録〉

 古川                 冨田

  5時半  起床             6時半  起床

  起きてすぐに朝食            起きてすぐに朝食

  6時半  家を出る           750分 家を出る

  7時過ぎ 福岡(天神)着         自転車で学研都市駅へ

  8時   九大学研都市駅着       8時    駅到着

                  ↓

                 駅で合流

  820分 九大学研都市駅出発(バスで)

  930分 途中休憩

  11時   下分到着

   周りは田んぼが広がっていた。さらに、牛小屋が多数あり、牛の独特のにおいがあたりにたちこめていた。

   区長さんである福田義晴さんが、不在ということなので、帰ってこられるまで、近くの家を訪ねてみることにした。

 

   まず、福田喜市さんのお宅を訪ねた。そこでは、若奥さんが出迎えてくれた。しかし、この土地に嫁いできたばかりだそうで、調査することができなかったが、久保田さんというこの土地に詳しい方がおられるという情報を手に入れた。そこで、早速その家に向かった。

   2軒目に行く途中に区長さんのお孫さんに出会った。やはり、区長さんはまだ帰ってこられてないらしい。乗せていただいたバスの運転手さんがいい笑顔で接していた。

   2軒目は、急な斜面の一番上にあった。家に近づくと、34匹の犬にいっせいにほえられた。出迎えてくれたのはこの家のご主人である久保田さんの奥さんだった。久保田さんの方が、この土地に古くから住んでいて、非常に詳しいそうだが、あいにく所用で福岡に出かけており不在。奥さんから話を聞いた。奥さんもこの土地に嫁いできたそうで、昔のことはあまりわからないということだったが、ともかく話を伺ってみることにした。そしてここで、デンシロダニという地名を教えてもらった。デンシロダニは、久保田さんのお宅から西北西の山の方角に向かう一帯のことを言った。

また、分校についても教えていただいた。分校は、区長さんの家の近くにあったらしい。実際に、「下分分校跡」の石碑が建っていた。奥さんが嫁いできた昭和31年ごろに分校の落成式が行われ、前の区長さんがなくなるくらい前まであったそうだ。分校には先生が2人いて、1年生から4年生までが通い、5年生からは本校に通っていた。奥さんの娘さん(52)や息子さん(48)も分校に通っていたそうだ。

 このあと、近くの小川で昼食を取った。

 昼食後、区長さんの家に向かう。しかし、まだ帰ってこられていないということだった。お嫁さんによると、雨が降ってきそうだったので仕事を終わらせてからでないと帰れないので、それまでほかの場所を回ってほしいということだった。

 先ほど、久保田さんの家で、屋敷野について尋ねてみたところ、屋敷野には1人女性が住んでいるそうだが、子供が別の場所に住んでいるので、不在のことが多いということだった。区長さんの家でも同じようなことを教えてもらったが、もしかしたらおられるかもしれないので、訪ねてみることにした。

 区長さんの家から屋敷野へと向かう道には、まず牛小屋がいくつかあり、そのさきにいくと田んぼが広がっていた。田んぼには柵がめぐらしてあり、電気が流れる仕組みになっていた。おそらくイノシシ対策ではないかと思われる。その後、林を通って行った先には、険しい山の斜面に沿って、棚田が広がっていた。しっかりと稲が植えてある田んぼと、遊ばせている田があった。

 屋敷野の頂上に来たところで、一軒の家があった。おそらく先ほどの女性の家だと思われる。玄関に猫の姿が見えたため、御在宅かと思われたが、それ以外に人の気配がなく、チャイムを鳴らしても誰も出てこなかった。

 そこから戻っていく途中に、もう一軒家を発見した。久保田さんの家と区長さんの家で聞いたところによると、その家にはだれも住んでいないということだった。チャイムを押してもやはり誰も出なかったが、住んでいた頃に使っていただろう小屋や道具がそのまま置いてあった。おそらく林業をしていたのではないかと思われる。

 その家から出ようとしたとき、頭上で「ホーホケッキョッ」という声が聞こえた。姿は見えなかったが、鶯がいたようだ。その声にこたえるようにあちらこちらから鶯が鳴き始めた。そんな鶯たちのさえずりを聞きながら屋敷野を後にした。

 区長さんの家を訪ねると、まだ不在だったので、屋敷野と反対方向に進むことにした。道なりに進んでいくと、農作業されていた方がおられたので、話を聞いてみることにした。

 この方は、福田貞市さんの息子さんの一敏さんという方だった。普段は有田に住んでいて、農作業をするために下分のほうまで来られるそうで、あまり詳しくはないとのことだったが、親切に対応していただいた。一敏さんが作業していた田んぼがある一帯は、正式には長尾谷という。それを土地の人達は別の名前で呼んでいたそうだ。なかなか思い出せなかったが、家を出てから思い出したようで、わざわざ自分たちのところまでやってきて教えてくれた。カンバンダニという名前だったそうだ。そして、区長さん以外にこの土地について詳しい人を教えてもらった。

 福田俊男さんという方が詳しいそうで、さっそく行ってみることにした。しかし、あいにく病気で寝ているということだったので、残念ながら話を聞くことができなかった。

 また区長さんの家に戻る途中、久保田さんの奥さんに会った。だんなさんは昔、炭を焼いていたらしく、その話を伺った。下分の林は国有林で、炭を焼くときは入札をしていたらしい。雑木林だったらしく、クヌギ・シイ・タブ・カシなどが生えていたそうだ。その年によって焼く場所が決まっていて、そこを全部焼いていた。この作業は男衆が冬に行っていたらしいが、やはり木炭より米のほうが主な収入源だったそうだ。下分の田は、山の水を利用して作っていて、二毛作などはしていない。雪が降ったり降らなかったりして、予想がつかないからだそうだ。麦は減反で田んぼに作ったことはあるそうだが、ほとんどは麦専用の畑に作っていたらしい。

 ここまで話を聞いていたら、軽トラックがやってきて、中に区長さんが乗っていた。これから話をしてくださるそうなので、公民館でお話を伺うことになった。そして、3時から4時までの間、区長さんから下分についてのお話を伺った。

4時過ぎ  下分出発

5時半頃  途中休憩

6時過ぎ  九大学研都市駅到着

      解散

 

  〈区長さんのお話〉

   ウーダニ

 ウーダニは長尾谷と、古田の谷の間にある谷で、だいたい145枚の田んぼがあったらしい。

 下分は湧き水が強いため、ダムが少なく、ため池もたいしたことがないらしい。また、7月後半から8月にかけて水を抜くこともあるそうだが、雨が降らないと抜かないそうだ。

 

フッタノタニ

 古田にある谷のことを、地元の人はこのように呼んでいたらしい。

 

カネキチヤシキ

 古田の谷にある1枚の田んぼのことをこのように呼んでいたらしい。そこに屋敷があったからではないかということだ。ほかにも「~ヤシキ」と呼んだ田んぼはあったらしいが、思い出せなかった。

 

リュウオウザン

下分から国見峠に行ける道の途中に、リュウオウザンというところがある。そこは昔から雨乞いをしていたところで、今でも48か所のひとつだそうだ。雨乞いをするときは、みんなでその場所に行き、塩水をそこにかける。すると、神様のど渇くので雨を降らせる、ということであるらしい。特に服装に制限はなく、昔は歩いて、今は車で行っているらしい。

エボシチャヤマ

 烏帽子の北西一帯を、チャヤマ、あるいはエボシチャヤマと呼んでいたらしい。お茶を栽培していたが、今は荒れているそうだ。

 烏帽子の近くに、降リ道という地名がある。そこには降リ道の峠と呼ばれていた峠がある。昔道路がなかったころは、牛馬で降リ道の峠を通って木炭を売りにいったらしい。

 炭焼きについては、久保田さんの奥さんからも教えていただいたが、改めて区長さんのお話を伺うことにした。下分では、国有林を広さに応じて安く払い下げてもらったらしい。炭はだいたい1俵が300500円ほどだった。「りんぱん」といってくじで細かく割り当てられ、割り当てられたところに滝川内の人たちと2人一組で釜をつけて炭を焼いていた。何十個もの窯が作られるのだが、その窯は毎年作り直していたらしい。窯作りに適した土と適さない土があり、窯の甲〈天井〉が崩れたりして使い物にならなくなるなどの失敗も多くあったそうだ。

 

オシビ川

 下分地区を流れる川に志佐川という川があるが、古田のところで、川に深みのあるところがある。そこをオシビ川と呼んでいたそうで、子供が泳いでいた。男の子も女の子もパンツ1枚で泳いでいたそうだ。しかし、今はもう浅くなっているとのことだった。

 

山の幸は自由に取れていたらしい。キノコはあまりなかったそうで、シイタケなどがあった。栗は少しあり、原野のほうが多く野栗があった。区長さんもとったりしていたらしい。そのほかウベ(アケビ)やイチゴなどをよくたべていたらしい。

川の幸もあった。魚はそんなに釣れないそうだが、ツガニがよくいたそうだ。また毒流しなどもあり、よその人がアブラメや、ハヤなどを流していたそうだ。

これらは自由にとれ、自分たちで食べる分だけとっていたらしい。

牛や馬については、やはり牛のほうが多かったらしい。馬はずっと昔はそこそこ多かったらしいが、今はいないようだ。区長さんが子供のころ、トビキといって山の木を切り出すときに牛に引かせているのを見たことがあるそうだ。その牛は由の人が林業用に所有しており、地元の人が作業していたらしい。

昔の公民館には男だけの青年宿があった。みんなで集まって、酒を飲みながら会話を楽しんでいたらしい。ずっと昔はお盆に男も女もちょうちんを持ったりしていたこともあったそうだ。また、区長さんたちのころはなかったらしいが、先輩が夜這いの自慢話をしていたそうだ。しかし、夜這いといってもそんなにひどいものではなかったらしい。

電気は子供のころにはなかったそうだ。終戦になっても一時なかったそうで、それまではランプを使っていた。昭和225月に始めて電気がついた。小さい電球だったが、区長さんたちはその明るさに驚いたらしい。

ガスも新しいもので、それまでは薪だったそうだ。子供のころは毎日とってきていたらしい。

分教場は始め山小屋だったものを分校に変えたものだったらしい。滝川内の本校までは徒歩で1時間かかったそうだ。しかし、帰りは遊んだり、食べ物をとって食べたりしながら帰っていたそうなので、そんなに長い道のりとは思わなかったらしい。ちなみに現在は区長さんの家にしか子供がおらず、車で送迎してもらっているらしい。

 

下分は比較的高地にある。それなのになぜ「下」分なのかを尋ねてみた。すると、下分はもともと西有田に住んでいた人たちが開墾してできた場所であるらしい。それで、その人たちが国見峠から下のほう(古田のほうへ)切り分けていったから下分と名付けられたという説があるそうだ。

   

   〈今回の調査の反省〉

 今回の調査をするにあたって、先方の都合が合わなかったために、わずかな時間しかお話をうかがうことができなかった。今後のために反省点を挙げておくことにする。

 まず、手紙を送ったのが、2週間前であったというのは少し遅い。当初74日に行く予定だったのだが、その日に先方に用事があったために急遽日付を変更せざるを得なくなった。このようなトラブルを避けるためにも、少なくとも3週間前くらいに手紙を出しておいたほうがよいと思われる。

 また、手紙を送ったあとも確認の電話を入れていなかった。いくら先生が確認の電話を強制しておらず、封筒の中に返信用のはがきを入れていたとしても、届いていないなどのアクシデントが発生する恐れもあるので、手紙を送って45日後には必ず確認の電話をいれたほうがよい。

 

〈調査の感想〉

今回の調査では、先方の都合が合わず、約1時間程度しかお話をうかがうことができなかった。しかし、下分地区をあちこち歩き回ったおかげで、普段身近でない自然の美しさを目や耳、肌で感じることができた。特に鶯の鳴き声が聞けたのはうれしかった。

 さらに、下分では人が少なくなってきているせいで、年上の人たちから若い人たちに、しこ名や村の歴史などが受け継がれていないという現実を見た。下分だけでなく多くの過疎化が進んでいる地域では、歴史が次世代に伝わっていないことがあると思う。自分たちの今回の調査はそのような歴史が忘れ去られないためにも非常に重要なものであったということを改めて認識させられた。

 

 最後に、今回の調査に協力していただいた区長さんの福田義晴さんをはじめとする下分地区の皆様に、感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。


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