文型コア科目 歴史と認識 「歩き、み、きく歴史学」
服部英雄教授
平成21年7月9日(木)
伊万里市東山代町里(さと)区
調査レポート
―――――――――目次―――――――――
1.はじめに……1
2.一日の行動記録と逐語記録……1
3.お話のまとめ……17
4.最後に……19
1.はじめに
調査日:平成21年6月27日(土)
調査地区:佐賀県伊万里市東山代町里(さと)区
お話をうかがった方:眞弓貫也さん(昭和7年生まれ)
調査者:1TE09634R 春田望
1TE09647M 松原圭介
1TE09663M 横大路穂香
2.一日の行動記録と逐語記録
(1)眞弓さんのお宅
午前10時半、眞弓さんのお宅に伺うと早速里区についてのお話を聞かせていただいた。地図を広げた眞弓さんは、まず眞弓さんのお宅がある地域について話してくださった。
「ここがタチ[舘]っちゅうてね、ミナモトノヒトナオがここに館とお宮ば作らせてこの山代全体を治めたからここはタチ[舘]っち言う。そしてその本尊を祭ったのがこの近くにある青幡神社。そこはね、この山代郷の宗社。20ぐらいのお宮が(山代郷に)ずっとあって、青幡神社がその元締め、親分たい。ここにお屋敷作って、お宮作って、このあたりを全部治めとったと。だからタチ[舘]は本拠地、昔の政朝たい。そのあとで田尻家がこのへんば治めた。田尻家の親分が親種(ちかたね)っていうとばってが、親種の家来の家はそこだけ石垣がついて残っとる。それがこのあたりでは一番旧家に入るわけ。このあたりは昔、明治9年頃まではアオハタムラ[青幡村]っちいいよったばいね。工業団地のほうが、シロハタムラ[白幡村]。青と白で兄弟神社じゃ。白幡神社っていうとも青幡神社の分社」
そして眞弓さんはタチ[舘]の西に位置する田の広がった地域と、タチ[舘]の南東の地域を順に指して続けられた。
「ここがジンノウチ[陣内]。このへんは青幡村って言いよったっちゃんね、昔は。ここは兵士が集まる場所やったとって。それからね、ここはマサデ[正手]、ショウデ[正手]」
眞弓さんが二通りの読み方をされたので‘両方読むのですか’と尋ねると、眞弓さんは郷土史の本を開いておっしゃった。
「この本にはね、ショウデ[正手]って書いてある。古代の荘園の跡」
現地の人が使う呼び名と正式な読み方が異なるのかもしれない。お話はジンノウチ[陣内]の北の地域に移る。
「オオツボ[大坪]は古代の条里制の名残。クスクツ[楠久津]って昔の港。海鮮問屋の多かったところ。シチロウミネ[七郎峯]の山はこのあたりの士族の山。私たちの山もここにあるわけ。明治改革で家来が殿様からこの山を均等割りでもらって。でも今は手入れせんもん。竹に占領されとる」
眞弓さんはさらにジンノウチ[陣内]の南にある地域のことを説明してくださった。
「ゴタンマ[五反間]っていう地名は田んぼに関係があるっちゃろうね。ここがサト[里]。有名な侍屋敷の跡。田尻家の親分の親種(ちかたね)さんが柳川からここに流されてきたときに6人の家来が付いてきてここに侍屋敷を作った。(サト[里]を通る大きな道を指して)ここはクウジ。本当は小路(こうじ)っていうっちゃろうばってんが私たちは昔から通称クウジって言いよると。クウジの笹は矢竹っていって、普通の竹と違って中の芯が詰まっとう。ものすご固い。だから戦争中にこれで矢ば作っとったと。サト[里]にある丸山公園っていうとは昔の役場跡。ここには変わった名字がいろいろあって、壇(だん)って言う名字は殿様の城ばいね。まあ出て行った人も入ってきた人もいるからサト[里]もみんなが元からいるわけじゃなかとばってん、サト[里]は本当に名字が一軒一軒違う。ナガハマ[長浜]のほうなんかは海岸の瀬戸というところに塩田をつくっとるわけよ、今は田んぼになっとるけど。だからガタとかいろんな(港に関係のある)名字がある。それで、その塩田を作る時にナリトモシゲヤス(成富茂安か)がここに連れてきたのがムトウっちいう有名な人。そやけんが、ナガハマ[長浜]にはムトウさんという人が多い。」
大昔の歴史の違いが今そこに住む人の名字にまで影響しているというのは興味深い。
「私たちも大体はサト[里]で生まれ育ったとばってんが、私が幼少のころ米が売れんやったけんうちの親父が腹かいて、田んぼでも家でもたたき売ってよそへ出た。で、あちこち回り歩いたけど(働いていた)銅山からも出て行けと言われて、本籍に帰ってきた。だから私は保育園時代まではサト[里]に住んどった」
眞弓さんは語りながら、懐かしそうな、誇らしそうな表情をされていた。そこには生まれ育った場所への愛着が感じられ、聴く者のサト[里]だけでなく里区全体への興味をかきたてた。お話はいったんサト[里]を離れ、最初に説明してくださったタチ[舘]に戻る。
「この工業団地は後から作っとるもんね。ここは昔は海やった。そんで昔の海岸沿いがね、ナヤって言うと。昔このへんに小さな港があったらしい。今は工業団地になってしまって跡形もなかとばってん、納めるに屋って書いて納屋。(ナヤ[納屋]の南の地域を指して)このへんがフルマチっていうとばいね。今は道が広うなったけんが、(ここにあった家が)無くなったわけよ。昔はね、この道(タチ[舘]を通る最も大きな道)は全然なかったと。この道は昭和30年にできて、それまでは家があった。道ができて、ここにあった家が全部なくなった。40軒くらい。ナヤ[納屋]とフルマチ[古町]はこの地図には載っとらん。もう今無くなっとるけん」
道ができて家がなくなった、そう話される眞弓さんは残念そうだった。道ができれば生活が便利になると思いがちだが、利便性や損得だけでは語れない思いが変わっていく里区にどこか寂しさを感じさせる。里区の南には武家が集まる地域に特有と考えられる地名があった。
「ウマタテバ[馬立場]はね、馬の訓練場。田尻の。大野に親種禅寺(しんしゅぜんじ)って親種(ちかたね)さんの名をとったお寺があって、その裏に田尻家の墓がいっぱいあるし、私たちもね、そこの一族。で、その一族が集まったのが侍屋敷」
地名の説明は一通りしていただいたので、次は里区の水事情について伺った。
「ロクザン[鹿山]って場所があるだろう。田んぼの水はここ(にある堤)から引いてくる。これはね、私たちの部落の持ちもの。サンタンマ[三反間]の堤もある。里川があるから川もある。里(区)っていうとは大きな堤を2つ持っとるけんが、水には不足せん。川の近くはなるべくなら堤の水は使わんで里川の水を使うごとしてる。里川だけでも結構間に合うと。ワキノ[脇野]ってあるばってんが、ワキノ[脇野]なんかは堤持たんで湧水でしよるけん水飢饉が起きる。里(区)にはね、ちゃんと水役(みずやく)さんっていって、田んぼの水の係がおらすと。その人が船の舵のごとしてタンクの中で(水の流れの)方向ば変えて。今日はこっち今日はあっちって平等に流す。勝手に(水を)下ろされんと。そして下ろす時には、今日は何時から水を下ろしますよって放送する。それで、今日から水を下ろしていいですって許可は私が与えないかん。区長の裁量でやる。適当にはやられん。それからね、もう一つ親種(しんしゅ)禅寺の横にもこまーか堤があるばって、みんなほとんど使いよらん」
眞弓さんがサンタンマ[三反間]の堤と説明された場所は地図上では三反池と記されていた。おそらくサンタンマ[三反間]の堤というのが通称なのだろう。里区の広さについて伺うと、眞弓さんはペンで地図に線を引いて教えてくださった。
「川沿いまでが里(区)。川が境になっとる。案外広かとよ。それでね、部落の伝達ばすっ時にこれだけ広かけんが、マイクば6か所つけとっとばい。公民館につけて、学校につけて」
さらに眞弓さんは昔はなかったという里区の北の里工業団地と住宅地についてお話くださった。
「工場団地は昭和30年くらい(にできた)。この工業団地のね、ここ((株)浅井九州工場)は潰れた。浅井商店ってあの有名だった三笠フーズの工場。それが倒産。こっち((株)ファイトヨーワ伊万里工場)も本社が潰れて倒産。一番新しかとがピラフ工場。ここだけは今も元気に動いとる。ほら、明治乳業を通して大学生協にタカナピラフとかエビピラフってなか?そげんはここで作りようとよ。大学食堂やら生協なんかに行きようとばい。この住宅地は昔の炭鉱住宅とセキスイ団地。セキスイハウスが作ったからセキスイ団地」
話をここで止めた眞弓さんはしばらく地図を眺めていらっしゃったが、やがて熱のこもった声で話された。
「このへんもずいぶん変わっとるもんね。元々の里(区)っていうのは百軒くらいだった。この旧道(クウジとタチ(舘)の旧県道)沿いの家だけ。だから昔からの里(区)の人間っていうとはこれだけ。そこに炭鉱ができて新興住宅地ができてどんどん人が増えた。今400(軒)ぐらいだからね。本当に、このへん(今旧家以外の家があるあたり)は全部田んぼだったの。こんなところ(埋め立て地)もなかったし。新しく来た者が多いとよ」
これが後世に伝えたい里区の姿なのだろう、眞弓さんの声には一層の熱がこもる。
「本当に、この旧道沿いの、これだけやったとばい、家は。昭和になってから開けた土地やけんさ。昔の航空写真が公民館にあるばってんが、家が本当に少ないんよね。後からの家が多かっちゃん」
この後も眞弓さんは話の中で繰り返し、元々の里区には家が少なかったということを強調されていた。旧道・旧家だけだった土地に道ができ埋め立て地ができ、それに伴って住宅地ができる。それは発展の証ではあるものの、やはりフルマチ[古町]と同様に変わっていく寂しさは拭いきれない。眞弓さんはお寺のことについても話してくださった。
「禅宗のお寺ってのは檀家が少ないわけよ。昔は大名とか大庄屋とかがみんな禅宗で、大地主から米がいっぱい上がりよったけんが、禅宗のお寺は檀家が少なくても裕福な生活ができよった。やけど身分制度がなくなって、大地主が山は残ったばってん、田なんかは農地改革で全部とられたろうが。そんで親種(しんしゅ)禅寺の檀家も大地主とか多かったばってんが、田んぼを取り上げられたもんやけん米の寄進ができんごとなってね。今の禅寺は昔と比べて(生活が)厳しくなった」
眞弓さんのお話は農地改革に関連して徐々に今と昔の里区の財政事情に移っていった。
「田尻家っていうとが里(区)に2軒くらいある。ドライブインと、このへん(タチ[舘])と。ドライブインのところも昔の田尻家に当たるんで、山とか何とかいっぱい持っとるらしいとよ。昔は田尻さんは田なんかもいっぱい持っとったっちゃけど、農地改革で人にやらないけんかった。ただ、山は取り上げられんかったから。けど、田尻さんとか、大地主はみんな農地改革で田んぼば全部取り上げられた。だけんほら、小作農っちゅうのは今ほとんどおらんくなった。例えば部落解放運動の時に出てくるばってんが、庄屋さんから田んぼば借りて4:6とか5:5とかでとれた米を納めよった水吞百姓。10俵作ったら5俵くらいやりよったとかな。もう大地主は何もせんだって米はがっぽがっぽ入ってくるわけだ。それが途絶えて、お寺なんかは(困った)。今はもう米が余る時代やけん作ってもらうっていうのはかえってお金がかかるのよ。1反作って10俵とれて、5俵もらう、よかほうよ。人手不足で作りきらんと。だから里(区)でもね、4町とか5町とか作りよる人がおるんかな。よその田んぼまで請け負って。里は生産組合は50人くらいおるとばってんが、自分たちで田んぼば作りよるとは10人くらいしかおらんとやないかねえ。もう土地を売ったり貸したりしてね。私たちのほうも親種(ちかたね)さんの土地を農協の米乾燥に貸しとるわけ。その代わり士族の組合が山の山払いもせんないかん、墓掃除もせんないかんけど。その土地代、貸し賃で我々の組合の組費を賄っていた。そうやけど、米の値段が下がりよろうが。田舎はね、だいたい貸し賃っていうのは米の値段で決まる。例えば1畝(30坪)米1俵とか。我々の農協との契約は米の単位でしとるわけ。だから米の値段が上がれば借地料が上がるし、下がればさ。そんで、昔は1年で70万土地代が来よったとが、今50万よ。おまけにはこれが乾燥機ばっかり作っとっけんが、(土地利用が)宅地になっとるわけ。雑種地やなくて。それで固定資産税が30万。5分の3が税金。またその、減反政策で米が(作りにくくなっている)。それで、山を九電の鉄塔に貸すと年間何万かの土地代が入ってくる。それなりのメリットがあるわけ。だから山でも売ろうかって言っても山も売れんごとなった。それで困っとる。まあ今はみんな新興団地なんかもほとんど借地やもんね。売らんで、貸すだけ。あるパチンコ屋なんかは年間800万っち言いよったかな、土地代が。パチンコ屋と駐車場で年間800万。黙っとって800万入ってくるわけ。そうやけんあのへんは売らんで貸すと。昔は1坪1000円やったとにね。新興団地は1坪30万すっとかな、今。そんでね、土地を100持ってたとすると、40を国と県に寄付する。そうすると60をきれいに区画整理してくれるわけ、貸せるように。しかしね、1000円の土地が30万にもなれば40くらい寄付してもよかもんね。そげんなことで、土地をきれいに整備してもらって、人に貸して、土地成金。僕の同級生なんかは80坪(貸している)よ。全然売らん。貸すと。さあ、まずはお宮に行ってみようかね」
眞弓さんはそう言ってソファーから立ち上がると、棚から小刀を取り出された。サト[里]にある侍屋敷の笹を切るのに使うのだそうだ。眞弓さんに案内していただいて、私たちは青幡神社へと向かった。
(2)青幡神社
午前11時過ぎ、青幡神社に着くと、初めにロープで囲まれた太く大きな木が目についた。
「このクヌギはね、(植えて)何千年も経つと思うとばってんね、雷さんの落ちてきて真中が空洞になっとる。それでね、この折れた木を2000万かけてウレタンとかで補修修理したと。県が700万、国が700万、地元が700万。その地元っていうとが、里(区)が負担するとか山代郷全部が負担するとかわからん。そんで困っとうとたい。ここらへんは雷の多いとばい。うちにも一編雷さんの落ちて、テレビでもなんでもパーになって。こういう大きな木があるところは(雷が落ちやすい)」
眞弓さんのおっしゃるように、ロープで囲まれているクヌギには大きな穴が空いていた。歴史を感じさせる太く丈夫そうな幹に空いた穴は、このクヌギが青幡神社とともに過ごしてきた長い年月を想像させた。
「このへんは年に2回大きな祭りがある。7月24日が夏祭り。10月9日が秋の大祭。風流(ふりゅう)って、笛吹いたり鐘突いたりするやつ。10月9日にはこの東山代町の5地区が交代で(風流をやる)。その練習が長いっちゃ。それから今ね、小学生が昔風の横笛吹きがおらんわけよ。学校で習うとは縦笛ばっかりじゃろうが。そやけんが練習しようとするばってんね、今の若手は練習したがらんっちゃんもう。笛の吹き手がおらんわけ。太鼓や鐘なんかはわりと(やる人が)出る。笛だけは練習せんといかん。そんで困るわけ。」
困るという言葉に反し、眞弓さんは楽しそうな表情をされていた。確かに祭りの度に笛の吹き手を探すのは大変なことだろうが、地域に根差した行事を自分たちの手で守り伝える喜びと誇りがその表情から見てとれた。
「この青幡神社は山代郷のお宮の親分たい。20くらいの神社の総まとめ。そやけん神主はここだけに1人しかおらん。あとはここの神主が今日はあっち、今日はこっちって言って出て回る」
あたりを見回すと、青幡神社には2つの石碑があった。そこで眞弓さんにこれら2つの石碑についてお尋ねした。
「ああ、あれはね、1つがこの神社の先々々代の神主さんの記念碑。ものすごく偉かった人。このお宮の最大功労者。それで、むこうが駐屯碑。戦没者の碑。戦争で明治時代から戦死した人の碑。」
なるほど、神主さんの記念碑(左)のほうは『武田鶴吉翁功労記念碑』と書かれているのを読むことができたが、駐屯碑(右下)のほうは飾り縄に隠されて何が書かれているかは読めなかった。眞弓さんは青幡神社のお宮の横を指差しながら話を続けられた。
「ここにね、ケヤキがあったったい。平成3年の19号の台風でさ、こっちのお宮に倒れかかったと。このお宮の修理に4000万ばかしかかったとよ。もうね、うんと金ば集めて」
あまりに大きな額だったのでそれも地元の負担だったのですかと尋ねると、眞弓さんはうん、と大きくうなずかれた。
「お宮だけで集めたと。例えば我々は里(区)じゃけんね。だいたいここの祭りは全部我々がしようと。我々がね、10万円以上集めて割り当てて。お宮はお金が入らんったい、お寺と違って。御祓いに行ったって1万円ばかしもらうくらいのもんでね。お寺はいいよ、金ががっぽがぽ入るけん。1人死ねばもう20万も30万もとりござるけん。お寺によっては、我々は違うったい、けどね、うちの娘婿の家はお寺に金ば納めたら、『これはお金の少なかですよ』ってお布施ばとりに来た。神社もね、氏子(うじこ)っていってここの掃除とか管理をする(割り当てが家々にある)わけ。あの碑のひ孫が今神主をしよると。1つ前の神主は死んだけど、ろくなやつじゃなかった。酒飲んで、50くらいで肝硬変で死んだ。酒の飲みすぎじゃ」
最後に青幡神社を後にするとき、鳥居の近くにあった建物についてもお伺いした。
「これは神輿殿(みこしでん)。この神輿もね、50年くらい修理してなかったけんが、去年修理したけど200万。250万くらいかかったげな。金箔から何から全部塗りなおしてね。これも全部金ば集めた」
神社の維持にはお金も手間もずいぶんかかる。青幡神社は木も記念碑もお宮も全てがよく手入れをされていたが、それは地域の方々の大変な努力の結果だった。壊れたり痛んだりした場所は修理をし、行事も絶やさぬよう後の世代に伝えていく。眞弓さん達の努力と情熱で成り立つ青幡神社は、これかれもその荘厳さを保ったままで里区の人々に愛されていくだろう。
(3)ナヤ[納屋]とその周辺
眞弓さんの車に乗せていただいて旧県道を行く。道はかなり狭い。
「ここも県道よ、昔の。バスが通りよったとよ、私たちが子供のころは」
ふと、眞弓さんが車を止められた。目の前には水路のようなもの(右)があって、かすかではあるが海の匂いがした。水路の向こうにはかなり多くの家や建物が見えた。おそらく工場なのだろう。
「ここが昔の、おそらく昔の小さな港の跡と思うばってんが、祭りのときにはね、ここから海水を汲んでバケツに入れておいて、お宮の人にその水ばひっかけるったい。笹の葉で、パッパと水を振っていくたいね。そやけん、ナヤ[納屋]っていうと。埋め立てる前はここが海岸やったっちゃけん、海水やもんね、この水は」
今は海どころか家まで立っているので、かつて埋め立て地ができる前はここから広がる景色が海であったとは想像ができなかった。しかし眞弓さんが再び車を走らせると、車の左手にはいつの間にか青い海が広がっていた。その景色をみると、この海が埋め立てられる前のナヤ[納屋]を見てみたいという欲求にかられた。よくは見えなかったが、海の向こうには島影があった。
「あそこに見える島はね、コシキ島っていって蝮(まむし)の名所。蝮がおるっちゅうことは水が出るっちゅうことやんね。このへんは昔ため池やったが、今は埋め立てて運動公園やら弓の練習場になっとる」
しばらく行くとまた視界から海が消え、代わりに記念碑のようなものが現れた。その横には何本かの松が植えられ、文字が記された木の板が立てられていた。松はまだ細く小さいように感じられた。
「あれはね、脇野川っていって溢れよった川の、竣工記念碑。その竣工が30年か40年前くらいにあったもんね。昔ね、六本松っちゅうて太か松の6本あったとばってん、もう枯れてなくなったけんね。我々の2級後輩が記念にこの松を植えた」
車はどんどん進んでいき、田んぼが広がるところに来た。田んぼの奥には工場が見える。
「ここが昔の長浜塩田。今は干拓地になってしもうとるけど。そんでね、今ここに鶴ば呼ぼうと思って一生懸命しよんなっとうったい。結局、(鶴が集まる場所を)固めておくと絶滅してしまうけんが、鶴の分散化をしようっていうことで呼ぼうとしようばってんが、近くに工場のあっけんが来んとたい。サムコって半導体の工場。3交代で年中休みなしじゃ、うらめしいっちゃん」
確かにあたりには鶴どころか鳥1羽も見られなかった。水を張った田の上を鶴が舞う光景を思い浮かべながら、いつかその光景が実際に里区の景色の1つになってほしいと思った。
(4)テンジン[天神]・ワキノ[脇野]
車はナヤ[納屋]の旧県道よりもはるかに狭い道を走る。車がやっと1台通れるくらいの広さだ。
「この地区がテンジンっちゅうと。天の神様で天神。そやけん、なんか由来があるっちゃろうばってん、本になんも載っとらんっちゃんね。ここも昔の旧道やけんね、天神地区。ここも旧家が多い、『森』が多かね。ここも1つの集落。あんまり世帯数はないばってん」
眞弓さんがそうおっしゃった瞬間に『森』と書かれた表札が見えた。気付かなかっただけで、他にも『森』さんのお宅がたくさんあったのだろう。しばらくすると広い道に出る。車を走らせながら、眞弓さんは今走っている地域のことを話してくださった。
「ワキノ。脇に野って書いて。ここは歴史のあると。和田城とかね。ここを上っていったところには古墳もあって、歴史の町。そこの寺は宝石寺(ほうしゃくじ)。和田城と関わりのあるお寺」
(5)ウラガワチの明星桜
「このへんの集落をウラガワチっていってね、このへんに天然記念物の明星桜ってあって。佐賀の人間は知っとるばってん、あんたたちは知らんやろう、明星桜」
眞弓さんの声は弾んでいて、特に天然記念物と言う時には誇らしそうな笑顔をされていた。眞弓さんはその明星桜のところに連れて行ってくださった。車を降りて明星桜に近づいてみる。
「これ、この木が明星桜。なんかね、京都の壬生寺(みぶでら)から持ってきて、900年くらいになるとかな。一応天然記念物やけんが」
そこで眞弓さんが突然お話を止めて目を見開かれた。
「ああ、枝が切られとう!」
それは明星桜の元の姿を知らない者から見ても明らかだった。太い枝の何本かが切り落とされ、遠くからでも切られた枝の切り口がわかった。看板があったので近づいて読んでみた。看板には、大体次のようなことが書かれていた。
『明星桜の由来は、久安年間に東山代町脇野地区を開拓した際、望郷の念から京都の壬生寺より桜を持ち帰りこの地に植えたという伝承があります。名前の由来として、この木の下で火を焚いて眺めると花弁が火に映えて明星の趣があることからこの名がつけられたといわれています。佐賀県天然記念物』
眞弓さんは半ばため息をつきながら枝の切られた桜を眺めておられた。
「もう今調子悪かっちゃなかろうかな。あっ!!あそこに枝ば切っとう。やっぱりなんか修繕されようとばい。元は切ってなかったとばってんが、木が衰えよるっちゅうけんが太かとば2本も切っとるっちゃね」
眞弓さんの視線の先には、打ち捨てられた明星桜の切り枝の残骸があった。切った枝が長すぎたのだろう、一定の長さに刻まれている。この切られた枝もこの地の移り変わりを見てきたのだろうと思うと、仕方のないこととはいえなんとも言えない切ない思いが湧き上がってきた。いたたまれなくなって、咲いたらきれいでしょうね、と言うと、眞弓さんはああ、と大きくうなずかれた。
「咲いたらきれいかと。他の桜とは違ってね。夏にはこのへんは桜祭りがある。施設なんかも階段作って。でも、枝ば切ってしもうとるけん来年は咲かん。ほとんど切ってしまっとるっちゃね、太か所の枝は」
枝を切れば来年は無理でもまたいつか咲きますか、という問いに、眞弓さんは寂しそうに「そうゆうこっちゃろうね」とおっしゃった。車に戻るとき、もう一度明星桜を見上げた。900年間の長きにわたって人々を魅了しつづけてきたこの桜は、衰え、枝を切られてなおも不思議な気品を放っている。まだ残る枝を誇らしげに伸ばして威風堂々と佐賀の地を見下ろす明星桜を見ていると、この木はまたいつの日か花をつけるに違いないという気持ちにさせられるとともに、一輪の花も付けていない今の姿が美しく思えた。
(6)ロクザン[鹿山]の堤とウマタテバ[馬立場]
明星桜のあったところから車でしばらく行くと、眞弓さんは車を止めてロクザン[鹿山]の堤について説明してくださった。
「ここがロクザン[鹿山]の堤。それでね、さっき水がわくっち言ったろう?ここの取っ手(右)、あれで水を右にやったり左にやったりするわけよ。直接流しっぱなしじゃなしにね。今日は左のほうに余計にやろう、今日は真中にやろうっていうふうに、堤の水の行き先を変更さすと。駅のレールのチェンジと同じこったい。これの担当が里区に2人おらすと。これが水役(みずやく)さん。この取っ手は水役さんしかひねられんと。16年前かな、大工事があって、堤作っとるけんが、このあたりは水にいっちょん不足せんとたい」
眞弓さんのおっしゃった取っ手は金網で囲まれており、なるほど金網の鍵を持っている人しか操作ができそうにない。円形のハンドルを回転させて‘船の舵を取るように’水の流れを調節する仕組みのようだった。ロクザン[鹿山]の堤から少し進んだところで眞弓さんが、ここがウマタテバ[馬立場]、馬の訓練場、とおっしゃったが、辺りには特に変わった特徴はなく田んぼが広がっていた。里区の田んぼは広い。この広い田の全てに米を作っているのかを尋ねると、眞弓さんは首を横に振って答えてくださった。
「あのね、減反政策でね、大豆作らすったい。田んぼを畑にして。ほったらかしの田んぼもあるよ。でも大豆作ればさ、奨励金が出るわけ。大豆は米のごとは儲かりゃせんとばってん、(田を)空かしとったっちゃ何も金は来んわけじゃけん」
(7)親種(しんしゅ)禅寺
里区を治めていたという田尻家とその主人の親種(ちかたね)家の墓がある親種(しんしゅ)禅寺。しかしそんな格式ばった歴史的背景とは裏腹に、寺ではまず赤やピンクに色付けされた可愛らしい遊具が目についた。この寺は保育園を経営しており、これらは園児たちのためのものだった。まだ新しいのか、鎖も錆びておらずペンキも剥げていない。
「保育園は(寺の)下に移っとる。下ばきれいに作って、そんでたまにしか上ってこん。ここの和尚はね、僕たちと同い年」
しかしゆるめの坂道を上るとそこには数多くの石碑や墓標が立ち並び、雰囲気はその歴史にふさわしく神秘的なものになった。
「毎年夏は墓参りにここに来るとよ。親種(ちかたね)ってほら、田尻、親種(ちかたね)さん一行のくさ(末裔が墓参りをする)」
木に周りを囲まれた親種(しんしゅ)禅寺は涼しい。石碑が語る無言の歴史も相まってか、そこではまるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。眞弓さんはそばの低い垣の上に腰かけていらっしゃった。
「(石塔の)形が変わっとるじゃろうが。そこ(さらに奥の高いところ)に行くと全部親種(ちかたね)さん一家の墓。2段目のところが親種(ちかたね)さん夫婦の墓ばいね。背の高い石碑が並んどろう?それが大殿様の墓。掃除に行くとばい、この上」
眞弓さんはそうおっしゃると、困ったように笑っていらした。墓に当たる部分は下から見るだけでも果てしなく広いのに、急な坂を上っていけばまだまだ石碑も墓もあるようだった。これを全て見るだけでも大変なのに、まして掃除となればずいぶん手間がかかるだろう。さて、お話を聞いていると親種(ちかたね)およびその家来は明らかに士族である。士族の家は禅宗を信仰していることが多く、親種寺も禅寺だ。そこで、士族が多く住んでいたであろうこのあたりの神社は全て禅宗の寺なのかと伺った。しかし眞弓さんのお答えは意外にもNOだった。
「下の2つのお寺は真宗。200M下りたところからちょっと上ったところにまたお寺があるけど、そこも真宗。ここ(親種寺)は禅宗。ワキノ[脇野]の宝石寺(ほうしゃくじ)っていうとは真言宗。だいたい士族のほうは真宗でうちは真宗の尊光寺。だいたいはね、侍は禅宗が多か。このへんもね。けど、我々の親種(ちかたね)の組合は尊光寺とこのお寺と半々くらい」
本堂が見当たらなかったので場所を尋ねると、眞弓さんは生い茂る木に隠された方角を指された。
「本堂は15,16年前にね、雷の直撃して一瞬のうちに全焼して。それでじいちゃん、ばあちゃんが亡くなりんしゃったと、火事で。今のは建てなおしとる。うちの同級生も1カ月ばかし入院しとったとよ。2,3日して病院に行ったら、咳すったんびに真っ黒か痰の出る。(煙などを)吸いこんどるとばいね、じいちゃんばあちゃん助けようとして。一瞬で燃えとるっちゃけん。夜中に雷の落ちて。それから、どこでもお寺は高い電柱みたいな避雷針ば付けらっしゃった。まあお寺はいくら作ったっちゃ金は檀家からとればいい。ああ、毎年8月には掃除に来るとばい。その辺の石塔も、九州の玄海沖地震かね、あんとき4つ5つ倒れたとばい。そやけん、修理したとよ。ほら、昔の侍さんの墓やけんちょっと変わっとるもんね」
自然の脅威。青幡神社といい、この寺といい、里区は雷の被害が多いように思える。そんな自然災害にも負けずに神社や寺を維持させようとする眞弓さんたちの強いが、里区の歴史を支えている。
(8)サンタンマ[三反間]の堤(ヒラヤマ[平山]の堤)
親種(しんしゅ)禅寺を後にし、次は里川・ロクザン[鹿山]の堤とともに里区を潤すサンタンマ[三反間]の堤を見せていただいた。サンタンマ[三反間]の堤は浮草が水面をびっしりと覆い、大きな池のようだった。豊かな水量のように感じたが、それでもこの日はだいぶ水かさが減っているという。
「ここの堤がサンタンマ[三反間]。この下のほうを潤すと。この堤よか上はね、そやけんが里川から(水が)来よっと。でもだいぶん水が減っとう。だいぶん落としとうとばい下に。ロクザン[鹿山]の堤はもっときれいかばってさ。ここで遊ぶなって立て札ばしとうったい。けどここはバスのものすご釣れるわけ。そいで釣りに来てうらめしかと。危ないけんって言ってさ、柵ばして有刺鉄線ば張ったり、『ここで遊んではいけません』ってPTAから立て札したりしよるばってが、いっちょん言うこときかん。バスっちゅうのは食べられんばってが引きが強いけんね。ここは通称我々はヒラヤマ[平山]の堤っちゅうばってんね。このへんがヒラヤマ、ヒラヤマっていうけん」
(9)丸山公園とその周辺
そろそろサト[里]が近くなろうかというころ、車から見える送電線が多くなったのに気づいた。送電のための高い鉄塔が山々にそびえているのが遠目にもわかる。眞弓さんに、この鉄塔を建てるのにも山を貸しているのですかとたずねた。
「そうそう、正面の山が親種(ちかたね)さんの山っていって我々の山じゃんね。山の真中に高圧線の太かとの建っとろうが。あの土地代が1年間に5万円。そして電線ば引くじゃろう?電線(を張るときには)は木ば切るもんね。この切り賃が高かと。そうして入ってくる収入が組合のもの。正面の建物がキョウカン設備。あの土地代が70万、今50万になっとるけど。米の値段が下がったけん。で、それこそ自由販売になるけんまた米が安うなる。」
米の値下がりは米農家の方の生活ばかりか地域の財政まで圧迫する。車はいくつもの鉄塔と送電線に見送られて丸山公園へと向かって行った。
「ここが丸山公園。昔の役場跡。この桜の木は我々が年次計画で植えたと。ソメイヨシノを100本植えた。もう来年は花見してよかたい」
眞弓さんは丸山公園の前を通りながらうれしそうだった。佐賀天然記念物の明星桜のように、この昔の役場の跡地に植えられた桜もまた、春には里区の人々に愛される美しい花を咲かせるのだろう。
(10)サト[里]
サト[里]の風景は独特だった。両脇を笹垣で仕切られた道がまっすぐに続いている。これが眞弓さんのお話にあったクウジだろう。きちんと手入れされた笹垣の奥には一目で立派と分かる大きな屋敷があるのだが、笹垣にしきられて屋敷の様子ははっきりとは分からない。
「ここからがクウジの侍屋敷。佐賀県百景にも選ばれとるとよ。この笹垣の笹はみんな同じ種類。そしてね、笹垣の高かっちゃんね。というのは、大名行列を見られないように、また、殿様がこの武家の屋敷の生活を見られないようにするため。殿様から見えないようにっていう意味でこの笹垣を作ったらしい。このへんの人たちはみんな自分でこの笹垣を世話するもんね。その代わりにね、年に4,5回くらい切らないかんと。笹が上にピンピン伸びるじゃろう?低いところは自分で手入れしてもいいばってんが(高いところは難しい)」
車は、見るからに由緒ある旧家というような屋敷の前で止まった。眞弓さんはその家の前の笹垣を持参されていた小刀で切って見せてくださった。
「ここもミカジリっていって、旧家じゃもんね。この笹竹は太くならんと。細いまんま。ちょうど矢くらい。中のほうも固かと。ほら、中の詰まっとう。矢竹っていってね、昔は黒曜石の矢じりをつけて弓矢にしたったいね。この通りは時々NHKとかが取材に来るよ」
矢竹は簡単には折れそうにないが決して太くはないというほどの太さで、よくしなり釣竿を連想させた。竹というと真中に穴の空いたものを想像しがちだが、この矢竹は中が詰まっていて穴は空いていない。侍屋敷のクウジは思ったより長く、この矢竹の笹垣で作られた道がどこまでも続いていて壮観だった。まっすぐな一本道を車で走りぬけるとき、まだ旧家・旧道しかない時代のサト[里]に来ているような気分になった。
(11)ジンノウチ[陣内]
広い田が広がる中にも家や線路の見える場所、それがジンノウチ[陣内]だった。線路のすぐそばに田んぼがあるため、一見すると電車が田んぼの中を走っているような奇妙な光景さえ見られそうだ。
「この辺がジンノウチ[陣内]。ここはなーんもなかったと。田んぼだけ。いうなれば昭和30年くらいから(開けてきた)。これ(線路)はね、第三セクター。松浦線って昔はね、佐世保まで行く。今はもう赤字よ。それでも動いとる」
(12)炭鉱長屋と新興住宅地
ジンノウチ[陣内]を過ぎて田んぼが少なくなってくると、車の窓から古い家が何軒も並んでいるのが見えた。みな同じ形と色をしたその家々はひどく痛んで家によっては半壊していた。
「ここが炭鉱長屋。八軒長屋とか言ってね、昔はね、長屋の八軒あってね、便所が両脇にしかなかったと。各家庭にはなかったと。やから1年生のころなんかはもう、家の中からパンツ脱いで行きよったもん。今はもう2,3人しか住んでない」
しかし車が進んでいくといつの間にか朽ちかけた長屋は姿を消し、代わりにずいぶんと新しい住宅がたくさん現れた。『宅地分譲中』と書かれた旗もあがっている。
「ここが新興住宅地。今10区画ぐらいかな。まだ増えるよ。うらめしかと。ここの地主がさ、建築の人やけんどちょっとヤクザかかっとる。ここは30年前くらいにできた新しい住宅。セキスイ団地。これね、宅地ば買うて家ば建てらっしゃる。建売じゃなくて、宅地ば買うて自分たちで自由に作った家。やけん家の一軒一軒違うじゃろう?」
真新しい、それぞれに形の違う家が並ぶ新興住宅地と、古くて形の統一された炭鉱長屋。その対照的な二つの住宅地がこんなにも近くにあるのはおもしろい。今は新興と名のつく住宅も、何十年かの後には‘昔の住宅地’になる日がくるのだと思うと、年月というものの大きな力を感じた。真新しい家々を眺めていると、今度はさっきとはまた別の古い住宅が見えてきた。先ほどの長屋ほどは古くないが、それでも建てられてからかなりの年数が経っているだろう。ここの住宅は長屋とは違い、人が住んでいる様子が確認できた。
「あそこの炭鉱住宅はね、もう2軒くらいしかおらん。ほとんどよそに移ってしまっとる。フクワの炭住跡。同じ家がずっと並んどろうが。ここが60軒くらいあるよ。昔のフクワ炭鉱の社宅。今はだいたいその炭鉱の人の子供たちが住んでるのが多かとばってんね。もう年取ってしもうとると」
ここの炭鉱住宅にに今住んでいる人は、もう長い間この地に住んでいるだろう。古い古い家にはその年月の分だけ手放したくない大切な思い出がたくさん詰まっているに違いない。
(13)里工業団地
里工業団地は工場が集まる広い土地だったが、調査日が土曜日のためか静かだった。眞弓さんが一軒一軒工場の説明をしてくださった。
「ここが浅井。汚染米で、今潰れとる。ここが職業訓練校。今はね、あんまり(従業員が)おらんったい。塗装とかをしよるくらいかな。トウワニットウというのはビニールハウスのパイプ工場。ここがピラフ工場、よかとこよ。タカナピラフとかエビ。作って袋詰めして、レンジでチンするだけでよかったい。フライパンでいためたりしてね。この工場は太かとこよ。このへんはJAの埋め立て地じゃ。ここが一番儲かりよっと。ここはさ、ヨウワ産業ってさ、縫製工場のあったとよ。もう何百年とあったばってんが潰れた。せやけんが、もう工業団地っち言っても浅井もだめ、浅井なんかはそうとう広か土地持っとったとよ。汚染米で潰れる前は動きよったと。ここはほら、三笠フーズの中継地のようなところやったったい」
里工業団地の工場は動いていないものが多い。ピラフ工場も土曜日は休みだったらしく、実質どこも営業していない日に訪れたようだ。平日にはピラフ工場が元気に動き、九大生協に届ける食品を作っているのかもしれない。
(14)元気バス・国道
新しく建設中の国道を通っていると、反対側の車線を一台のバスが走っていくのが見えた。
「あれがね、元気バスって書いてあるじゃろう?バス会社のバス路線がなくなったわけよ。そいで、我々区長会でね、山代町全体でバスを貸し切って動かしようと。こっから山のほうに行くバスが日に8回行きよったばってん、採算が採れんでなくなった。それで今度は自分たちの村だけで区長会主催でバスを貸し切って、1日4往復運行しよるわけ。そんで、市から補助をもらったりして。1日に50人乗ればよかったい」
眞弓さんによると、この付近には元気バス以外のバスはないのだという。このバスのおかげで付近住民が遠くに出かけやすくなり、生活に活気が出ることが期待できる、まさに元気バスである。国道はまだ完全には工事が済んでおらず、所々で『工事中』の札を目にした。
「この道がようやく片付きようと。ここはね、地主が30人くらいおったわけ。それで共同の田んぼやったけんね、はんこの取れんやったったい」
フルマチ[フルマチ]もそうだったが、道ができる時にはそこに元あったものは家であれ田んぼであれ残してはおけない。道ができて便利なのもよい、田んぼの広がるどこか懐かしい風景もよい。どちらも採ることはできないのがひどく残念に思えた。
(15)神社
最後に、神社を2つ見せていただいた。2つの神社は非常に近い場所にあり、2つ見終わるのにさほど時間はかからなかった。どちらの神社も木々のために奥の様子を見ることができず、それが一層神秘を感じさせた。初めに見たほうの神社は鳥居に刻まれている文字からその名を知ることができた。
「日峯(にっぽう)神社。ここはナベシマナオシゲが作った神社。お宮は塩田の開拓ごろに建てらしたもんね。ここの宗社も青幡神社。そやけんここのお宮には宮司がおらんわけよ。」
しかし次の神社は鳥居に刻まれた名前が読めないほどに古かった。‘窟島神社’と書かれているように見えたが定かではないし、この字であっているとしても読みには自信がない。
「ここは何っていうとやったかなあ。あんまり聞かんもんね」
たくさんの神社があれば、それをすべて把握するのは難しい。歴史あるこれら二つの神社を外からにせよ見たことで、20を超える神社の宗社たる青幡神社の存在の大きさを感じた。
この後眞弓さんは親切にも私たち調査員を国道沿いまで送ってくださった。
午後12時30分、現地調査終了。
3.お話のまとめ
(1)地名とその由来など
●ウマタテバ[馬立場]……かつて馬の訓練場であったことからこの名がついた。
●オオツボ[大坪]……古代条里制の名残が残る。
●クスクツ[楠久津]……昔の港町。海鮮問屋が多くあった。
●ゴタンマ[五反間]……名の由来は田んぼに関係があるのだろうが、詳細は不明。
●サト[里]……行政区と同名の小字を持つ。親種(ちかたね)の家来が暮らしたために侍屋敷が残っており、中央を旧道が通る。この旧道は通称クウジと呼ばれているようだ。武家にゆかりのある名字が多く存在し、例えば『壇』は殿様の城を表す名字だという。オオツボ[大坪]と同様、古代条里制の名残がある。
●ショウデ[正手]……古代荘園の跡。歴史書にはショウデと記されているが、眞弓さんはマサデとも読んでいた。正確にはショウデだか、マサデという読み方も存在するのかもしれない。
●ジンノウチ[陣内]……かつて兵士が集まる場所であったことがこの名の由来。昔はアオハタムラ[青幡村]と呼ばれていたようだ。近くにある青幡神社がその由来と考えられる。
●タチ[舘]……ミナモトノヒトナオという人物があたりを治めるためにこの地に館と神社を作らせたのが名前の由来。かつての政朝にあたり、里区でも一番の旧家が集まる。石垣がある家は旧家で、親種(チカタネ)の家来。
●テンジン[天神]……由来は不明。旧道沿いにあるので旧家、とくに『森』という名字の家が多い。世帯数は少ない。
●ナガハマ[長浜]……昔、海岸にある瀬戸という土地に塩田を作った時、ナリトモシゲヤスが連れてきたムトウという人物の影響で『ムトウ』という名字が多い。今は塩田は田んぼになっている。かつてはシロハタムラ[白幡村]と呼ばれていたようだ。
●ナヤ[納屋]……かつて海岸が埋め立てられる前に存在した小さな港町。現在は海岸が埋め立てられて港はなく、タチ[舘]の一部となっているため地図上にもこの名はない。現在は使われない地名のひとつ。
●フルマチ[古町]……かつてナヤ[納屋]の南に存在した町。昭和16年、当時フルマチ[古町]が存在した場所に幅の広い道路ができたことで家が全てなくなり、ナヤ[納屋]と同様タチ[舘]の一部となっている。この地名も地図からは消え、現在は使われていない。
●ヒラヤマ[平山]……サンタンマ[三反間]の堤がある辺り一帯の通称で、地図には記載されていない。その影響から、サンタンマ[三反間]の堤もヒラヤマ[平山]の堤と呼ばれている。
●ロクザン[鹿山]……大きな堤がある地域。一部が里区にあたる。
(2)青幡神社について
青幡神社は山代郷の20を超える神社の宗社。二つの記念碑はこの神社の最大功労者である先々代の神主の功労碑と、戦没者をまつる駐屯碑。雷に打たれて大きな穴が空いたクヌギがある。この青幡神社では7月と10月に大きな祭りがあり、10月には東山代町の5地区が交代で鐘や笛でお囃子を奏でる風流(ふりゅう)を披露する。
(3)明星桜について
佐賀県天然記念物。その昔京都の壬生寺からこの地にもたらされてから、長きにわたってその美しい姿で人々の心をとらえてきた。調査に行った時には衰えからか枝が切り落とされていたが、またいづれ咲き誇る日がくるだろう。
(4)親種(しんしゅ)禅寺・その他の寺について
親種(しんしゅ)禅寺はタチ[舘]を中心に辺り一帯を治めていた田尻家の主人、親種(ちかたね)の名前をとった寺。親種(ちかたね)及びその家来と一族の墓がある。昔落雷にあって焼け焦げているので、今のものは再建と考えられる。親種(しんしゅ)禅寺の落雷・火災を受け、この後辺りの寺ではどこも避雷針をつけるようになった。
里区の寺は宗派に富み、付近には禅宗、真言宗、真宗の3つの宗派の寺が存在した。武家の多い地域でも、宗派は禅宗だけとは限らないようだ。
(5)炭鉱住宅と新興住宅について
里区には昔の炭鉱の社宅、長屋が今も残っている。今は住んでいる人は少なく、住人はたいてい昔の炭鉱の社員とその家族である。すぐ近くにある新興住宅地は建売ではなく宅地だけを売るタイプなので、家のデザインは一軒一軒違う。2009年6月現在宅地分譲中なので、さらなる拡大が予想される。
(6)侍屋敷
旧家の立派な屋敷と丁寧に手入れをされた笹垣がある。笹垣が家々とクウジと呼ばれる長い道とを仕切っており、一本の道が真っ直ぐに伸びている様子は壮観だ。佐賀県百景に指定されていて、テレビ局が取材に来ることもある。笹垣はその昔殿様に屋敷の中の生活を見られないように作ったとされ、その丈夫さから矢にも使わていたようだ。
(7)里区の水事情
里区にはロクザン[鹿山]の堤、サンタンマ[三反間]の堤という2つの大きな堤があるうえ、里川の水も利用できるので水に不自由はないようだ。ただ、田によってどの堤または川を利用するのかということは決まっており、堤の水を操作する水役(みずやく)が存在するなど、水の管理はきちんとなされている。
(8)変わりゆく里区
昔の里には現在のタチ[舘]の旧県道とサト[里]のクウジに当たる道しか道がなかったという。それがだんだんと開けて新しい道ができるにつれ、家の数はどんどん増えていった。その後道の拡張でなくなってしまう家もあるにはあったが、炭鉱や埋め立ての影響でまた人が増え、100軒ほどだった住宅が今や400軒にまでなった。このような変化の中で、昔あったはずの地域の様子や、時には地名さえも変わったりなくなったりしている。昔の道に沿って存在する旧家だけが里区の住居だった時代、誰にも今の里区の姿を想像できなかっただろう。
4.最後に
今回の調査で歴史あるものの美しさを強く感じた。年月を経たものには神秘的で荘厳な中にも、どこか懐かしくて温かい雰囲気がある。それはその地に住む人々がそれらを温かな気持ちで大切に扱ってきたからではないだろうか。里区の神社や寺、侍屋敷や明星桜からは、里区の人々の歴史や伝統を尊び自分たちの先祖からの宝を愛する心がひしひしと伝わってきた。
変わっていくことは大切なことだ。変わることで不便が解消されそこに住む人々の生活が豊かになるのなら、変化は歓迎されるべきことである。しかしそれと同じくらいに、歴史ある宝を後世に残すことは大切だ。あの心に湧き上がるなんとも言えない感動を未来に伝えることは今を生きる私たちの使命である。この調査で目にした美しい宝たちの姿が、変わりゆく里区にいつまでも変わらず存在し続けることを願ってやまない。