平成21年6月27日調査

伊万里市 野々頭

 

調査者  吉田梨奈

 

調査に協力してくれた皆さん  貞方喜延さん 昭和15年生

               永尾章さん  昭和24年生

               九重路純二さん昭和24年生

 

 

6月27日の朝、うっすらと曇った空のもと、我々の乗るバスは駅前を出発した。しばらくバスに揺られ、現地に近付くと、道路の端に緑が増え始めた。それにつれて、調査に向かう仲間が一人、二人とバスから降りていく。私がバスを降りたのは、「浦の崎」の公民館だった。バスを降りると、左手には海が広がり、右手には山が横たわっていた。ぼんやりと景色を眺めていると、「さぁさぁ、あがってあがって」と浦の崎近郊にお住まいの方々が笑顔で迎えてくださった。せかせかとせかされて公民館の玄関をくぐりながら、自身の地元を思い出しなんとなく懐かしい気持ちになった。

 

野々頭(ノントウ)

 

野々頭は「ノノトウ」と読むが、通常地域の方々は「ノントウ」と呼んでいる。

昭和13年5月13日、今から約70年前に野々頭と東分(ヒガシブン)が分離する。これは今とは逆に世帯数増加のため、野々頭と東分が満場一致で決定したそうだ。そのため、大字東分、小字野々頭とされている。

地域分離の話が出たため、地域区分について興味をもった。そこで詳しく聞いてみることにした。

「橋の手前までやけん、これまでやろ?」「上はどこまでやろ?」「県道とこまでやろ」「ほいじゃなかー?」「こっちじゃなか?」三人とも考え込んで地図を見ていた。山の区分は「奥まで入っていくから」難しいそうだ。はっきりと分かれていると認識していらっしゃったのは「川が堺」であることだった。川を境界線として、「橋んもと(橋本)たい」「渡ったらいかんとばい」と橋の「向こう側」と「こちら側」で仕切っているそうだ。あとは「県道」や、田で使う「堤」を境にしているようだった。

山と違い、はっきりと自分たちの「目で見て区切れる」部分が、地域の方々の境界線になっているのか、と考えた。しかし、それだけではなかった。公民館での聞き取り調査ののち、現地を案内してくださったときに改めて知ったことがある。道の隅に草に覆われた、一本の木片があった。これはなんだろうと聞いてみたら「それは村と村の仕切りだ」と話してくださった。現地の「目で見て区切れる」場所には「サカイギ」という木の棒がたてられていた。これは、五月に行われる「村祈祷(ムラキトウ)」という無病息災を願う祭りのときに、寺の住職の立ち会いの下、七か所の村境にたてるそうだ。実際に、東分と野々頭の境となる佐代川上流の橋本橋(ハシモトバシ)においては、野々頭側には、野々頭の住人がたてたサカイギが、東分側には東分の住人がたてたサカイギがたっていた。そのほか、堤のある場所にも立てられていた。

 

 

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<しこ名一覧>

●地名   

カキンダ(柿田)

モウレイゴウ(馬洗川)

ツツンハラ(筒ノ原)

ハンノマエ(原前)

ハンノウシロ(原後)

ウシロコバ(後古場)

ノントンスミ(野々頭隅)――野々頭の端っこ

ヤマンテラサン(山ノ寺さん)

ウウヒラ(大平)――この地域では「オオ」を「ウウ」という

           「大酒飲み」は「ウウザケノミ」

ナナマガリ(七曲)――くねくねと曲がっているためにつけられた道の名前

「おおかた」七回曲がっているそうだ

 ジゾウサン(地蔵さん)――地蔵があるため、それを目印にその周辺を呼ぶ

 

●田    

カブタ

トクボ(徳房)

カミヒガシ(上東)

ホキ(保木)

キワダ(木和田)

ハシンモト(橋ノ本)

ナカノ

ハンノマエ(原前)

ノントンスミ(野々頭隅)

カクゼマチ

フカタ(深田)

 

●堤

この地域では「ため池」のことを「ツツミ(堤)」という

カンボキンツツミ(上保木堤)--ここが野々頭の住民が使用する堤

ナガタンツツミ(長田堤)--東分の堤

 

このほか「東分のため池はおおか」とおっしゃっていた。野々頭の堤はカンボキのひとつである。

<小集落>

3班に分かれている。

1班 タジモ 「田下」と書く。(1班はシモグミ・シモグンとも呼ぶ)

2班 ナカンクミ

3班 クルベシ 

クルベシはおそらく「栗林」と書く。「昔栗林があったんじゃなか?」と教えてくださった永尾さん、貞方さんや久重路さんもはっきりとは知らないそうだ。

 

 

<炭焼き>

野々頭の住民のほとんどは、冬の間の農閑期に炭焼きをして生計を立てていた。

谷ではなく山の中で炭焼きを行っていた。総括してゾウキヤマ(雑木山)と呼ばれる山から木を切り出し焼いていた。ナナマガリ(七曲)、カミヒガシ(上東)、チョウタロウ(長太郎)というのが細かい山の分け方だが、詳細な区分はわからなかった。営林省が払い下げた国有林を使用していた。これは土地ではなく、雑木のみを払い下げてもらっていたそうだ。雑木が炭の原木となり、スギ・ヒノキを植える際は、雑木を切って植えていたそうだ。切り出した原木は牛にクラをつけて、ドウビキ(道引き)させ、はこんだ。カマは山の中に作られていた。人の背丈よりも少し小さいぐらいに割った木を窯の中に隙間なく並べ、手前から火をつけて炭を焼いたそうだ。そうして、カヤという草を編んで、かごをつくり、できた炭をいれた。人がそのかごを「かろうたり」「いのうたり」(背負ったり)して運んでいたそうだ。

 

<稲作>

 

●米の保存

 米は、ブリキの缶を用いて保存していた。五俵以上入るくらい大きかったそうだ。にんにくをいれて抗菌していた。今では、袋に入れて倉庫で保存をしている。

●牛

 牛は沢山いたのかと質問をすると、「牛は今で言うトラクターの変わりやけん」と答えてくださった。野々頭では、馬よりも牛を農耕に使用していたそうだ。牛は野々頭のどの辺りで飼っていたのかを問うと、「牛は、もう、一戸に一頭はおったたい」とのこと。一家に一戸牛小屋があったそうだ。肥料も、牛フンを使用していた。牛は野々頭で、重宝されていたようだ。

 牛のえさについて伺うと、「田んぼのケイハン切ってた。」と教えてくださった。「毎朝切ってた」「わらとかね」「麦のふすまを混ぜたりしとった」ここまで聞いて、調査者の吉田は「ケイハン」がなんだかわからなかった。そこで聞いてみると「ケイハンは田んぼの畦道のことったい」と笑われてしまった。畦道に生えた雑草を切って牛に与えていたそうである。

 牛を引く時の掛け声はあったかと聞くと、「あぁ、ハイ、とかコショとかね。」とはなしてくださった。掛け声は以下のとおりである。

・ハイ――出発の掛け声

・コショ――「こっちに来い」引き寄せるときの掛け声

・トウ――左に曲がれ

・ケシ――右に曲がれ

ちなみに「ケシはいつ使うんやったかな?」「・・・トウが左さやけん、ほいケシが右じゃろかにゃ」というように、明るく笑いながらケシは思い出してくださった。牛にははなぐりをつけて、一本の綱で操っていたそう。

 牛の掛け声と連動して、田植うたについて尋ねたところ、田植うたは歌っていなかったが、タチエ(立ち会)の時は歌を歌うと教えてくださった。タチエとは、棟上げの時のことである。家の基礎となる柱の立つところに、石をおいて、土台を作る作業イシカチの時に歌うそうだ。

 

●雨乞い

 雨乞いについて聞いてみた。しばらく雨が降らないと、「市長さん」が黒髪神社に行ってお祈りをするそうだ。雨乞いの時は黒髪神社と決まっているらしい。「雨が降らんで、しばらくして市長さんがお祈りするけん、そりゃしばらくすりゃあ、雨も降るわな。」「そうして、『雨が降った』っち喜びよったったい。」と笑っていらっしゃった。

 

<祭り>

 

野々頭には、四つの祭りがある。

 

●村祈祷祭

 五月お寺の住職が村にやってきて行う祭り。野々頭の檀家は真言宗天福寺である。初めに紹介したように、このときに野々頭の村境に「サカイギ」をたてる。サカイギを立てるのは当番になった人であるが、家族全員、老若男女が集まって一家の無病息災を願う。

 

●川祭り

 田植えが終わった後の祭り。サナモリもこの時に行う。川の真ん中に「水神さん」を置く。この水神さんは、当番の人が拾ってきた石に水神をほっているものだそうだ。顔や形はほっていないそうだから、おそらく文字を掘っているのではないかと推測するが、詳しいことは聞き逃した。

 

●夏祭り

 家ごとに、「灯篭あかし」といって、灯篭を飾る。紙でできた灯篭ではなく、灯篭は立派なもので、値が張るそうだ。壊れたら修理にだす。

 

●秋祭り

 神主がやってきて行う祭り。鳥居にかけるしめ縄を、当番で当たった人が作る。「しめ縄は、わらをやおうして、上くびって、三つの束に分けてグルんグルん回していくったい。」このときは左回り。そして、しめ縄を太くするために用いるのが、縄をくびってつくった「ニンギョ」だ。はじめ「人形」のことかと思い、「人形の形をしているんですか?」と尋ねたところ、「しとらんしとらん。」と笑いながら教えてくださった。

 

祭りの当番は班ごとに一年間周期で交代で行うそうだ。この班とは、小集落の三つの班、タジモ、ナカンクミ、クルベシである。祭りの当番に当たらなかった他の二班は、区の事業を行う。村で平等に仕事を分担しているそうだ。祭りの準備をしないときには、草刈りをしたり、土手の整備をしたりするそうだ。

 

 

<行商>

 

山に囲まれた野々頭には、行商がやってきていた。

 

●魚売り

 自分たちで魚は取りに行ったのかと質問すると、海までは「よういかんかった」そうだ。浦の崎から、魚は売りに来ていたそう。

 

●菓子売り

 「キャンデー屋さん」「ポトン菓子屋さん」が来ていたと、嬉しそうに話してくださった。「ポトン菓子」とは米で作った「ポン菓子」のこと。

 

●家庭薬

 「家庭薬の人もよう来よった。」と話してくださった。自転車で山道を登ってくる苦労を、想像しているような話しぶりだった。

 

 

<お菓子>

昔よく食べていたお菓子について伺った。

 

・石垣だご(だんご)――サツマイモをサイコロ状に切り、砂糖と一緒に

小麦粉に混ぜて蒸した団子。

・イモネリ――サツマイモともちをねって作ったもち。

・きなこもち

・ぼたもち

・かりんとう

・かまねり(湯ねり)――渋柿を熱湯でゆでて渋を抜いたもの。

 

「昔はよう、もち食いよったー。やけん、あん頃はふとっとったもんね。」と微笑みながら話してくださった。

 

<山の幸>

 

山ではいろいろなものが取れた。川では「ツガニに、ドンコ、ウナギやろ」そして、「カンボキんところに、コイとかウナギもおった」そうだ。ほかに、山菜や栗、タケノコが採れていた。シイタケなどキノコ類はあまり栽培していなかったそうだ。また、ヨモギのことを「フツ」と呼んでいるそうだ。フツはもちや団子にして食べた。七草は「ズウシ」にして食べた。「ズウシ」とは、粥のこと。

 

<動物>

 

●山で生きるものたち

 ネズミ対策はしているか、と伺ったところ、「ネズミの対策ちゃあ、別にしとらんっちゃのう」と答えてくださったので、イノシシの被害について聞いてみた。調査者の吉田の地元では、イノシシの被害が多くあり、春になるとイノシシ狩りがおこなわれるためだ。「今はでよるけぇど、昔は出よらんかった。」

「今はおおかー」と答えてくださった。畑に電流線を張り、対策をとっているそうだ。「そやけど、かんがえてみるとなぁ、全国見れば、クマとか、シカ、サル、イノシシ、こうからすると、イノシシが一番よか。サルはいくらしたって退治しきらんって、シカもね索、作っても、高うしとかってん飛び越えるさね。クマはほら、ねぇ、どうしようもないったい。それからしたら、イノシシのほうがまし」と笑って語ってくださった。「昨日のあすこの総会じゃあ、アライグマがまぁだひどかった。ハウスの中入ってイチゴとったり、サワガニとったりしよる」とさらに話してくださった。また、近頃では、タヌキやウサギは減ったそうだ。「イノシシは雑食やけん、イノシシが食べよるんじゃなか?」と腕組みをしながら三人とも考えていらっしゃった。

 

●家畜

 

 戦後の食糧難時、赤犬は食べていたかという質問をしたところ、「食べよった食べよった」と答えてくださった。赤犬は子犬のころから家で飼い、育てて食べたそうだ。野良犬を捕まえて食べることもあったらしい。橋に犬をつるして殺したそうだ。そのほかにも、ニワトリは家ごとに飼っており、ブタも数件、ヒツジは一件ほど飼育していたそうだ。ヒツジは食用というよりも、毛を刈って使用していたそう。

 

<村の青年団>

村に青年団はあったか尋ねたところ、「あったあった、あん頃はたのしかったー」「あぁ、たのしかったー、なぁ、じゅんちゃん?」「うん」と三人とも懐かしそうに、微笑んでいた。野々頭の青年団は男性のみで構成されていて、公民館に集まって寝泊りしていたそうだ。もちろん、飲んで、食べて、話に花を咲かせる。

 また、このようにお酒を沢山飲むため、自分たちでお酒をつくっていたそうだ。税務署の目を盗んで、山の中でどぶろくを作ったそうだ。カメを土の中に埋め、その中でどぶろくをつくり、外から見えないようにした。また、わらを積んで作った「とっこづみ」のなかでも、どぶろくをつくったそうだ。「味見に行く」と称して、山によく登ったそう。山に登る時は、税務署の人などに見つからないように、こっそり登っていくのだけれど、「味見」をして山から下りてくるときには、酔いが回っていて、友人と肩を組んで歌いながら、山道を下っていたそうだ。そうして、花見のときには、もうすっかりお酒は少なくなっていたらしい。

野々頭の花見は一週間ばかり続き、青年団は男性のみで構成されていたけれども、この花見のときには、女性も一緒になって楽しんだそうだ。

<現地調査>

 

 公民館での話もひと段落すると、現地を案内してくださった。貞方さん、永尾さん、久重路さん、アドバイザーの神谷さん、そして調査員の吉田の五人が一つの車に収まって、浦の崎の公民館を出発した。野々頭へ向かう山道はよく整備されてあった。田の畔には、あじさいがしっとりと濡れていた。田には青々とした若い稲が並び、田水は曇り空の下、微かな光を反射していた。圃場整備されていない田と圃場整備された田があることを教えてもらい、よく二つの田を観察した。圃場整備されていない田の描くくねくねとした図も美しかった。圃場整備された田もまた、美しいと思った。携帯を取り出し、シャッターを切った。

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「ここから野々頭がよく見える」といって、案内してくださった。なるほど、野々頭は谷に丸く囲まれている。ニシンタニ(西の谷)とハシンモト(橋本)と谷の左右には名前が付いている。

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ノントンツツミである、カンボキにも案内してくださった。このときに、サカイギを見つけた。

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ここから水が田に送られる。青いプラスティックの栓で水量を調節している。昔は木の栓を用いていたらしいが、事故を防ぐために、このプラスティックの栓が採用されたそうだ。

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このサカイギは、栓のある場所の目印となる場所にたてられている。

 

 

 

最後に案内してくださったのが、ヒナタゴ(日南郷)だった。ヒナタゴは戦後、開拓地として、山を切り開いて作られた集落だ。茶が名産で、ここで作る大根もおいしいそうだ。右の写真は滝野の分校跡。

 

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昔は家でお茶を窯でいぶしてつくっていたそう。ネフコというござの上で、お茶をもむそうだ。

 

 

<研修を終えて>

 

 私は人の話を聞くのが好きである。佐賀県伊万里の現地に赴き、その土地の人の話が聞けると思うと、わくわくした。どんな話が聞けるのかと楽しみにしていた。実際にお話を伺うと、素朴ながらも、自分の全く知らないことを教えていただいた。しこ名はもちろん、サカイギという風習もはじめて見た。そしてなにより、人と実際に話すことで、出会える表情がある。どんなふうに思い、語っているのかを感じることができる。今回の調査で、本当にうれしかったことは、話を聞けたことはもちろん、たくさんの笑顔とともに話していただけたことだった。


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