歩き、み、きく歴史学

佐賀県・伊万里市・東山代町・長浜

 

 

○調査者 

松崎篤史 森田成人

 

 

○話者

金子恵子 加藤智巳 石丸巽 古賀又次 武藤秀隆

 

 

<長浜>

長浜は塩田により発達した地域である。

武藤九朗兵衛(むとうくろべえ)というひとが姪浜からやってきて、塩田の技術を伝えた。姪浜から長浜という地名ができたそうだ。

650戸数 東山代町が最大。よそから来たものは3分の2。地の人は3分の1。

昔は浜頭まで入り江だった。浜頭から堤防を作って塩田を作った。

最後の塩田は昭和40年。

 

 

<地名など>

おすねこすり

湾ドウ 海の浸食により穴ができる。

裏の谷

一番エゴ、二番エゴ。

干拓地のところに流れていた水路の名称。水害の時はこの流れに乗って六本松辺りに死体が上がっていたそうだ。

割山(わいやま)→塩を作った。黒松や赤松が取れた→水門や燃料の材料。

                                  

龍神宮→各水門や堤防の側に建てられているもの。龍は水をつかさどることから、水害を防ぐ意味を込めて建てられた。

白はたが一番古い龍神宮

 

六本松→六本の松が植えられたからこの名がついた。現在残っているものは一本だけ。赤松。長浜塩田開墾碑がある。

 

伊万里湾→砂地で今でもハマグリ、しゃっぱ、赤貝、巻貝などが取れる。

近くに炭鉱ができて、汚泥のため水が汚れたり、海底にヘドロがたまったりした。

 

干拓地の場所には、有田川が運んできた砂がたまっていた。そこにハマグリなどが住み着いており、ハマグリをとりすぎて重くなり、おぼれ死ぬ人もいたそうだ。

 

干拓のところではナゴヤ(ひじきの親戚)を取って儲けていた→なごや城を作った。

黒川では船の船大工がおり、平底(底が浅い)船を造っていたそうだ。

 

 

<言葉>

ばあさん→うんぼー(んぼー むんぼー)

えんち→自分の家のこと

塩屋→クゥー屋        

返事をするとき「なーい」という。(「はーい」の意味)

宇窟る(うげる)→ほげる

 

 

<姓>

大正時代には、姓を商売の名前で呼んでいた。

例 多久島→塩屋 古賀→こんにゃく屋 など

多久島は長浜独自の名前らしい。

中尾という姓がこの地域で一番古い名前らしい。

 

 

<塩田>

海が後退していくため、以前塩田だったところは田んぼになる。田んぼになったところは別の地名が付き、新しい塩田を新搦(しんがらみ)と呼ぶ。搦とは佐賀県で干拓地のこと。

 

塩は高級。米や魚などと物々交換していた。馬車で運ぶ。

 

水害が多発していたので、長浜川の隣に脇野川を作った。脇野川は海に直接通じているが、長浜川は堤防がある。堤防には名前が付いている。

 

堤防には牛を埋めて固定していたこともあるらしい。

 

塩遊び→雨が降ったときに水をためる。塩に水は厳禁だから。

 

長浜の田んぼのところを掘ると、砂や貝殻が出てくる→昔、海だった。

 

 

<塩の作り方>

塩田に塩水を引き、砂と混ぜてからからになるまで干す。また塩水を混ぜて干す。これの繰り返しで濃度を上げていく。堀で塩水を入れる。塩田の真ん中が一番高くて端に行くに従って低くなる。濃度が上がったものが端のほうに溜まる。最後に、塩釜と呼ばれる窯で炊いて、精製する。燃料は赤松。

 

塩釜は赤く変色して、今でも土を掘り返すと出てくる。現在塩釜があったところは畑になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塩を作るときはにがりが一緒に出てくる。それを焼き物のうわぐすりに使ったり、豆腐に使ったりする。

 

戦後は塩が手に入らなかったから、にがりを吸って塩分をとっていたそうだ。一つのにがりが、ほかの人の手に渡っていくことはしょっちゅうだった。

 

 

<水門>

井樋→水門のこと。松でできている。鋸で厚く切った板を重ねる。潮位によって、開閉する仕組み。満潮の時は水門が閉じるが、干潮の時は開いて水が流れ出る仕組み。海抜0メートルなので、満潮になると水が入ってくる。大塩や高潮になればすぐに水につかってしまう。長浜は水害の常習地帯。干拓地ができるまでは床下浸水がよくあった。水門三つ、ポンプを作った。

 

水門を作る人をおがさん(大鋸さん)と呼んでいたらしい。

水門を作るには木が必要だが、藩(佐賀藩)にお願いして木を手に入れていた。山は藩が所有。水門を作るときは黒松、燃料は赤松だった。風で倒れたものでも藩にお願いしなければならなかった。赤松には松茸ができる。取り合いになるので、松茸組合ができて、監視していたそうだ。

 

<海、川>

海苔

炭山の竹を早めに切って葉を落とし、それで海苔を作っていた。網が無いから。山グミの枝は良く海苔がつくらしい。

 

しば→束にして川または海に入れ、ウナギをとる。竹筒で取る方法もある。節を抜いて、エゴにつける。竹とっぽ

 

釣り針にミミズをつけて石垣の間にいれるとウナギが取れる。今はコンクリートでできない。

 

堀の中には魚やウナギがいて、勝手に取るのは禁止されていた。堀には一つ一つ値段が付けられ入札で所有権を得る。有効なのは一年間で、また入札が行われる。

 

昔は堀が深くて泳げた。

 

 

<祭り>

79日 窟島神社で祭り。

窟島神社(耳の神様)→岩で囲まれ、昔長浜の一部が海であった頃にその岩が波よって打ち付けられ、岩が耳の形のように穴があいた。火吹き竹耳に空気をふきかけると耳がよくなるといわれていた。伊能忠敬が測量のとき休憩したところといわれている。

 

11月23日 おひ(日)祭り。アマテラスに関する祭り。班が15くらいあり、毎年担当が決まっておりその班に行って、餅や魚などをこしらえて祝う。日峯(にっぽう)神社に行く。

 

日峯神社→別名志賀神社。住吉三神、鍋島直茂などが祭られている。

鍋島直茂→領内に食塩の乏しきを憂えて、その自給を企て塩田開発を命じた人。

 

9月1日 ニッポウ神社の祭り→かんなみ祭

 

9月15日 龍神宮の祭り

 

8月14日 観音様の祭り。長浜の庄屋の徳を偲ぶ。

 

祭りをすることで部落の伝統や言い伝えを子孫に継承する。

 

<雨乞い>

浮立→ 行列を作り、笛、太鼓や鐘を鳴らしながら行進する。各グループの当番制。音を鳴らす→雷

 

長浜はやらなかった→塩田だから、雨はいらない。塩を作らなくなったのは明治くらいだけど、頑固にしなかった。

 

せんばたき→わらを持って山で煙をあげて雲を呼ぶ

 

 

<田んぼ、畑など>

牛ひき男→山からの材木を牛にひかせる。小さな道を作り丸太を敷いて。切る人のことをオガさんと呼ぶ。コッテ牛(オス)

 

田んぼ→昭和30年ころまで牛でやっていた。馬でやっていたところもある。馬だと泥に足を取られ、足の骨が折れるから長浜では牛を使っていた。

 

長浜の人は隣まで掃除する→きれい

 

小学校6年のときには牛を使っていた。

牛を動かす時の掛け声

左 トー

右 ケシ

前 ハイ

後 アト(手綱をひきつつ)

止 ワ

 

牛のえさは一日三回。米のとぎ汁、大根、いも、米ぬか、わら、道草などを桶に入れて食わせる。好物はサツマイモのつる。えさを作るのは子供。わらは細かく切る。遊びたいから、わらを長く切って親に怒られた。生き物に食わせなければ自分は食べさせてもらえなかったそうだ。

 

年老いた牛は売る。肉などになる。正月ぐらいにしか食べない。牛を使用するのは5,6年。去勢してあるからおとなしい。牛の子供をベベコという。ベベコを買って躾る。今は長浜に一頭しかいない。

 

草刈は大人。朝、飯を食う前。露のあるうちに刈ってしまう。

 

 

<その他>

乗船系の人は酒造りにたけていたらしい。酒かすを、豚に食べさせ育てていたらしい。酔っぱらってふらふらな豚をよく見たそうだ。

 

昔はよく狐や狸に化かされた。風呂と思って肥溜めに入るなど。

狐の花嫁行列→昔、提灯の行列が夜に山の中を歩いているのを見たそうだ。昔は土葬だった。火の玉(人魂)もよく見かけたそうだ。

 

登校する時は道が水につかってしまっていることがあり、学用品が濡れないように頭にのっけて通っていたそうだ。

干拓ができる前はちょっと雨降ればすぐにつかっていたらしい。

 

青年団

学校を卒業して就職してもその土地にいれば、男女問わず結婚するまで入らなければならなかった。祭りのときに演劇などをしていたそうだ。出会いの場として異性と知り合うきっかけになっていたそうだ。

 

10月7日 長浜街道に市場ができる。七日市

108日 有田に市場ができる 八日市

10月9日 山城おくんち↑ 材料を仕入れるため。各地の親戚や知り合いを招いた。

 

 兵隊に入って青森まで二日がかりで行った。東京まで一日かかる。

堤石を運ぶのがきつかった

 

小学校の時は田んぼの手伝いをさせられた。

 

自分の土地の歴史を知りたければ氏神様に参って、墓に行くといいと教わったらしい。墓にはいろいろ書いてあるから。

 

御山方(役人)

大山留

山留

長浜の庄屋

江戸中期からこのような図式が成り立っていた。

 

六本松にはイルカに襲われた、さんまが来ていたそうだ。

 

内山産婦人科は西洋風で、村唯一の洋風建築。「西洋館」と呼んでいた。

 

石突き歌

家を建てる時、柱を立てるところの基礎を石でたたいて基礎を固める。石を釣り上げて落とす動作の繰り返し。そのときに即興で(見たものなどを)歌う。色事に関しても含まれていておもしろかったそうだ。古い時代では田植えのときもやっていた。

 

小学校時代、将来どの道に進むかは軍人しかなかった。

 

2班(10軒または20軒)に1つは共同浴場があった。きれいな水が出るところで、混浴。木風呂、五右衛門風呂、鉄砲風呂。当番を決めて管理していた。

鉄砲風呂→鉄パイプの風呂。下に燃えるものを入れてその上から石炭をいれる。

炭鉱から買ってくる。耕運機でリアカーを引いて運ぶ。

 

伊万里湾全体を開拓する計画があったが、海軍基地や漁業関係でだめになった。

 

 

<調査を終えて>

 

現地を訪れる前に用意していた質問の数が少なかったため、話が途切れるのではないかと心配していたが、こちらが質問する暇もないほど、喋ってくれた。方言があったので多少聞き取りづらく、間違っているところが多々あると思われる。最初は、相手先の方がどんな方かわからず、不安でいっぱいだったが、話してくれた人たちが非常に好意的だったので、良かった。実際にその土地を案内してもらったので、デジカメがあればよかったと思った(持っていなかったからしょうがないが)。ボイスレコーダーも必要だなと思った。今回の調査に当たって、とても有意義な時間をすごすことができ、人生において貴重な経験となった。

 

森田、松崎


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