歴史の認識 レポート
向山
話し手 平石 嘉人 昭和8年 生まれ
山本 春男 88歳4ヵ月
調査担当 角谷 友梨香
加留部 紘子
木下 加奈子
もくじ
1、炭鉱
2、暮らし
3、土地
1、炭鉱
○向山炭鉱の沿革
金桝宮次郎の経営する西分炭鉱は明治42年頃まで、坑夫23人で750屯の出炭をし、明治43年には坑夫15人で298屯と減産した。明治44年の大阪の石炭商社、村井吉兵衛が住ノ谷と八幡山炭鉱(現在の松浦市、今福町)と西分炭鉱を買収し八幡炭鉱を本部として経営に入った。大正元年(1912年)西分に向山炭鉱の名称で新鉱を開坑、約182メートルで着炭月産800屯の計画で100人の坑夫を採用した。この時、15棟の坑夫居住社宅も建設した。大正2年(1913年)に伊万里湾内にある福島炭鉱を市村政太郎から村井吉兵衛が譲り受け、経営に入った。向山炭鉱とは同社系統になった。昭和12年(1937年)川南工業株式会社向山炭鉱を村井吉兵衛より譲り受け、昭和14年(1939年)より本格的な炭坑開発に着手した。昭和21年(1946年)11月15日向山炭鉱労働組合が結成された。この頃の坑内平均賃金は日給50円で坑外平均賃金は日給35円であった。また、この年には国内で婦人、青少年の坑内労働が禁止された。昭和26年(1951年)向山鉱山株式会社、浦ノ崎駅より石炭鉄道輸送を始めた。昭和28年(1953年)向山鉱山株式会社は、立岩、追崎第五場開発に着手した。昭和29年(1954年)向山鉱山株式会社は閉山した。昭和30年(1955年)に樋口工業株式会社が新向山炭坑に着手した。昭和32年(1957年)には新西坑開発を行い、昭和35年(1960年)には一枚坑開発を行った。そして、昭和38年(1963年)、現在2009年から46年前に向山炭坑は閉山した。
○炭坑の人々
炭坑ではお風呂・電気代・家賃はただであった。それに比べ現在はお金がかかる。炭坑では誰でも働くことができた。前科者でも他の炭坑で借金を抱えている人でも働くことができた。終戦後は、戦争引きあげ者が多かった。その人たちはやはりつらい経験をしたために、もらったお金をその日のうちに使わず貯めるようにした。その人たちに影響されて、他の人たちもお金を貯めるようになった。それまでは「今日儲けたお金は今日使う」という考え方であった。
また、炭坑の人々は非常に縁起をかつぐ人が多かった。ある年の12月1日に落盤事故が発生して3人が亡くなった。翌年の同じ12月1日には事故で5人が負傷した。それ以来、12月1日は休みになった。
○石炭の運搬
石炭を坑口まで持っていくのには、往復4kmもかかり、人々はそれを一日に7往復もしていた。坑口からはエンドレスによって海岸まで運んでいた。エンドレスは、ワイヤーが動くもので、石炭を300kg入れることのできるかごを運んでいた。曲番(まがりばん)と呼ばれるところには番人が居り、トロッコのネジが緩んでいるのを締めていた。
2、暮らし
○住居
麦わら屋根の家に住んでいた。小2までは平石さんも麦わら屋根に住んでいた。何年かにいっぺん、屋根の麦を変えていたそうだ。麦わら屋根の家では、ボテッっていう音がすることがあった。横を見たら、上から大きなムカデが落ちてきていた。ムカデというのは麦わら屋根が好きらしい。昔と今の暮らしの違いということでいえば、麦わら屋根が瓦屋根に変わったということがある。また、平坦な地域に田んぼの集落があればそこを田原と言っていた。そしてその真ん中に道を一つ造って、四軒長屋と二軒長屋にはっきり分けた。四軒長屋のほうは下田原、二軒長屋のほうは上田原と呼ぶ。
○田ん中納屋
田の中の納屋と書くのが本当だろうが、そこの人たちが発音していたのは田ん中納屋。小さいときは田ん中はだんだんになっていた。子どもたちはぴゅんぴゅんぴゅんぴゅん飛んでいっていたそうだ。元気な1年生はゴクーッって高いところを飛んで、「やったー」って喜んでいた。高いところを飛ぶということ、つまり上から下の田ん中に飛び降りるということで、自分の勇気を誇示し、ぴゅんぴゅん田ん中を飛んでよく遊びまわった。当時は田ん中納屋の前は全部田ん中で、春になればれんげ草がいっぱい咲いていた。そういう風景だった。
納屋についてはこのようなお話もされた。
「偉いのよ私たち。キリスト教と同じだから。キリストは馬小屋か牛小屋やったやろう、生まれたのは。私たちはね、馬小屋、牛小屋じゃない納屋で生まれたんだから。キリストより偉い!キリストは馬小屋の納屋とかで生まれたとか言うやん。そいけんね、よくおいちゃんたちえばりよった。『もうなんのかんの言うな』って。『おいはキリストより偉いぞ。キリストは馬小屋かなんかやったろうが。おいたちはね、納屋であったばってんね、ちゃんとした納屋ぞ。』って。昔はそういう住宅とか社宅は納屋って言いよった。」
○娯楽
麦わら屋根とは別に、クラブという炭鉱従業員の娯楽所、舞台があった。そこでは無声映画もあっていたし、芝居、田舎芝居もあっていた。当時はトーキー時代ではなく無声映画時代。そこではチャンチャンバラが始まって、飛んだり跳ねたりしていた。
無声映画時代には、そこに弁士が来ていた。「東山三十六法静かに眠る・・・」とか「突如として起こる剣戟の響き・・・」とか聞こえてくる。特に新撰組と鞍馬天狗がチャンバラしているという映画の影響で、子どもたちはタオルを頭からかぶり、箸を一本通し、箸を頭の上にのせて、天狗のずきんみたいにピッてとがらせてまねた。全員が鞍馬天狗になりたがっていたらしい。悪役の新撰組に誰もなりたがらず、しまいにはじゃんけんで負けたもんが新撰組、勝ったもんが鞍馬天狗になった。そういう遊びごとをしていたため、クラブ、いわゆる集会所って書いてあるところには思い出があると平石さんは語る。その後、映画がトーキーになってくると、田舎芝居も田舎まわりの人気劇団が来るようになっていった。
○お風呂
炭鉱にはお風呂がついており、24時間いつでも入れる状態だった。子どもと大人と一緒になって入っていた。お風呂が汚くなったとき、2段に分かれているお風呂のどっちかに子どもたちを入れて片方を掃除し、石炭で体中真っ黒になって仕事から帰ってくる人たちのためには最終的に両方入れるようにしていた。下の浴場で体を洗い流し、上の浴場を上がり湯として使用した。お風呂にはいることはタダで、家賃もいらず、電気代もタダだった。長崎放送が取材に来たとき当時を振り返って「炭鉱は良かったですよ。家賃はタダ、電気代はタダ、燃料がいらん。炭鉱やから燃料いっぱいあるからね。あと風呂もタダ。」と話した人がいたそうだ。今の暮らしとの違うのは、電気代を払わないといけなくなったこと、風呂も自分で沸かして入らないといけなくなったこと。つまり、現在はお金がかかる暮らしになったということである。
○電気
電気は平石さんが生まれたころからあった。記憶にある昭和12,13年頃には裸電球がついていた。蛍光灯なんてない。
○ガス
炭鉱が閉鎖される前年ぐらいから、個人商店により西の谷各部落へプロパンガスの販売が始まった。昭和37年6月に供給を開始したのだが、それまでの燃料は木材と石炭だった。都市ガスは伊万里ガスが1964年に販売を開始。また、お風呂は蒸気で沸かしていた。幅が40センチ、深さが1メートル80センチ、ボイラーそのものの長さが6メートルもあるボイラーがあったのだが、その1メートル80センチの中に石炭をどんどん入れて燃やし、蒸気を発生させていた。その蒸気を風呂場に送った。
○家庭での過ごし方
家にも学校にも、炭暖房とか冷房とか一切ない時代。炭鉱の場合は、家庭にトタンで作った七輪があった。(今の七輪は泥でつくった七輪。)炭鉱は石炭が出るから、石炭を燃やすことができた。すると燃やしたあとにガラというものができる。通常の家庭で燃やす場合は、これをたくものを下に置いて石炭を上にのせると、ボンボンボンボン燃えていく。しかし煙がものすごく、家庭内ではなかなか使いにくい。だから外で、燃えているものの上に鍋とかを置き、煮炊きなどで使っていた。まして当時は麦わら屋根だから、麦わらゆえにむきだしになっている。ムカデが落ちてくるぐらい、天井板はない。だから、石炭を燃やしたあとの燃料であるガラを燃やして暖をとる。その熱でお茶を沸かす。この暖かさは数時間もつ。また、大きいガラばかりではなくて小さいガラを上の方に被せれば、かなりの時間もつことができる。大きいガラばかりなら、スゥって燃えあがってスゥって消えてしまうらしい。小さいガラをのせたものもいよいよ消える頃には、「七輪も消えよっけんが寝るぞ」って声をかけ、テレビもない時代だから8時9時に寝ていた。暖をとるときは七輪を真ん中に置いて輪になって、昔の囲炉裏みたいにして手をぬくめる。それこそ親子、兄弟との団欒だった。
○通学路にて
靴なんていうのは当時なかった。学校に行くときはわら草履。運動靴なんてものもなかった。4年生のとき修学旅行で佐世保に行ったそうだが、その時もわら草履だった。わら草履だと冬はとても冷たい。上級生の時、後ろからついてきていた1年生の子が泣いていた。「さっさ歩かんかこのっ!」って言いながら、1里ぐらい、4キロちょっとの距離を山から下りて学校につれていった。それでも後ろの1年生は泣きやまない。「なんで泣きよっとか!?」と聞いてみたら、「足の冷たか」という返事。それでその子の足を見てみる。雪道を歩いているせいで草履がぬれて冷たくなっているのがわかる。平石さんは「おいのはぬれとらんけん、おいのとば履け」と1年生に言い、自分のわら草履を貸したそうだ。しかし、自分は1年生の小さい草履を履くことはできない。だから今度は自分の足が涙が出るほど冷たかったという。「忘れきらんよ、こういうこともあったなって。」そのように語ってくれた。
○向山地域の昔からの歌
向山には、向山にある地名や炭鉱とともに生きてきた人々の様子などをうたったリズミカルな音頭があるらしい。その向山音頭を紹介する。
<向山音頭>
1.花が咲いた咲いた石倉山によ ハアーソヤソヤ
坑内を出てきた肩に散る
腕と度胸の石炭掘りさんによ
男伊達さに ヤレソレ 花がふりかかる
ヤーレヤッコラサノ ドドンガドンドン 向山
2.主は降炭竿取さんでよ ハアーソヤソヤ
妾しゃ選炭場で硬を撰る
ドット降した高桟橋でよ
高ピンきる手の ヤレソレ 腕の粋なこと
ヤーレヤッコラサノ ドドンガドンドン 向山
3.好きで通よた残念坂でよ ハアーソヤソヤ
忍び逢う夜の肩と肩
妬いた蛍がその身を焦がしゃ
川じゃ睦みの ヤレソレ 鮎がチョイト照れる
ヤーレヤッコラサノ ドドンガドンドン 向山
4.船が出て行く石炭船がよ ハアーソヤソヤ
可愛いあの娘の想いを乗せて
貯炭積む手に別れを惜しみゃ
灯台あたりは ヤレソレ 船は雨の中
ヤーレヤッコラサノ ドドンガドンドン 向山
3、土地
○川
周辺の川としては佐代川があり、上佐代川、下佐代川と分かれていて、かなりの急流である。またこの川の周辺には6つの水車があった。
○橋
佐代川にかかる橋は二つある。一つ目は二又橋といって上流のほうにあり、二つ目は第二佐代川橋といって、二又橋より下流にある。また、第二佐代川橋は別名「松本橋」という。
○町名
以前、野中は山の手、田原(たばる)は上佐代川町・下佐代川町、前田は上田原・下田原と言われていたが、現在でもその呼び名は通じる。また上田原には四軒長屋が、下田原には二軒長屋があった。田原とは「田んぼの集落」という意味である。
○道
昭和23年まで県道はあったが国道はなかった。
それから改良工事の付け変え道路であるホリキリという道があり、現在は私道となっている。ホリキリという名前は山を切り開いていったことからつけられている。
○災害(台風・大雨)
台風や大雨などは少ないが50年、100年単位で大きな被害を受けている。
○地すべり
石倉山では大きな地すべりがあった。これにより下町が埋まり、死人が出るなど大きな被害を受けた。また、この地すべりによる土石流が西小学校近くまで攻めてきた。次の写真は地すべりがあった山の写真と地すべり後の復旧の記念碑である。
この地すべりのあとは段々になって蓮華畑となっている。
それから、いつ雪崩れてもおかしくない場所のことを「浮島」という。
○「立岩」の由来
立岩の名前は、周辺に10メートルくらいの柱状の岩が密集していたことからつけられている。しかし、現在はその柱状の岩は木々に埋もれているためはっきりと見ることはできない。
○生物
タヌキ、イタチ、キツネ、テン(小さいイタチ)、イノシシ(イノブタ)、山猿がいる。この地域のイノシシは人を襲うことはなく、温厚である。
○農産業
昔はみかん栽培が盛んだったが、現在は花の栽培などを行っている。主なものとしては、ひまわり、スイセン、菜の花、コスモスがある。また、玉ねぎがおいしいと評判である。田んぼや用水路はない。
○佐代姫伝説
〈伝説〉
佐代姫伝説には2つの説がある。
@佐代姫は夫が軍船で朝鮮に渡るとき鍵山から見送っていたが、船が遠のくのを見て山を馳せ降り、船を追いかけた。しかし追いつくことはできず、鬼山で泣き伏して石になった。
A佐代姫は朝鮮に渡った夫を追いかけるために出帆したが、嵐で難破してしまった。難破船は伊万里湾の奥へと流されていき、漁師たちに発見された。そこで漁師たちは佐代姫が黒髪を乱して打ち伏しているのを見つける。佐代姫の死に顔には神々しい威容が漂っていたという。
〈地名〉
佐代姫が流れ着いた伝説から、周辺には「佐代」と名のつく地名が多い。上佐代町、下佐代町、佐代川などがそうである。また姫の黒髪にちなんで黒藻がらみという場所もある。
〈神社〉
佐代姫伝説から佐代姫神社というものもつくられている。現在は病院の中庭に位置している。